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物の怪お兄さん

さらば梔子、のみこめ輝血

作者: 狗山黒

あれは、いつのことでしたでしょうか。

 私には妹がおりました。私と全く同じ顔をし、まるで同じ体型をし、まさに瓜二つの妹で御座いました。

 妹に限らず下の子というのは大変に可愛がられるものです。私のような長子は、唯其れを妬ましく眺めるしかできません。そういう点で私は、産まれた時には既に敗北を喫していたのでしょう。

 ですが、私は妹を妬ましいと思った事は唯の一度もありません。私は非常に狭い世界で育ちましたので、自分の境遇を――愚かな事に――当然と考えておりました。しかし、其れが間違いでした。

 知らぬという事は華であり、仏です。しかし誰もが知る事実を一部の人間にひた隠す等、いつまでも続く訳が無いのです。

 十四の時分と覚えております、私の嫁入りが決まりました。私は良き妻賢き母になる為、多くを学びました。そうして世間の様子を知り、漸く初めて自分の不遇を思い知らされたのです。

 思えば可笑しな事ばかりでした。私はずうっと妹と同じ名で呼ばれ、同じ物を食べ、同じ格好をし、同じように生活し、同じにものを考えねばなりませんでした。妹と同一の何か、そう、例えば影武者のような者になる為の存在でした。

 だというのに、妹と同じには扱ってはもらえませんでした。私は隠され、妹は私を知らず、望みも願いも何一つ叶えてはもらえませんでした。母屋には月に一度も行けませんでした。庭を見る事でさえ叶わぬのです。

 名前、というのは強大な力を持つものです。初めて自らの名を知った時――確か母の日記を盗み見したのです――私の中には、自分の与り知らぬ感情が渦巻いていました。おそらく人は、此れを怒りや憎しみと呼ぶでしょう。嗚呼、確かに此れは怒りであり、憎しみでした。しかし同時に、悲しみであり、底知れぬ絶望でもありました。

 そうは言うものの、私に成す術はありません。当たり前です、産まれた時から鳥籠にいた私が、飛び方を知っているはずが無いのです。私にできるのは、妹を、家族を、恨む事だけでした。

 嫁入りも「私」ではなく、「妹」が嫁ぐというものでした。家同士の繋がりを造る為、所謂政略結婚でした。きっと、私達が産まれる前に決まった事なのでしょう。しかし、妹を大層愛していた両親は、私を生贄に差し出そうと決めたのです。私を「妹」として差し出せば、あちらも此方も望みが叶いますから。

 「妹」の旦那になる方も「妹」を愛するでしょう。ですから、私は決めました。

 彼の其れまでの人生は、瓦解するでしょう。愛した女性が別人と知らされた彼の精神が、正常でいられるはずは御座いません。

 彼が其れを事実と捉えようと虚実と信じようと、どうでもいいのです。真実と思うのなら彼の過去は亡き物に、虚構と考えるのなら永遠に疑心暗鬼していればよいのです。

 気の狂った彼を見た義理の父母は、私の実家を疑うでしょう。そして事実を知るのです。どちらの家庭も、崩壊は免れません。

 私にできるのは、ほんの僅かな、小さな事です。私の実の名を、「鞠子」の名を、今際の際に告げるだけの、単純で複雑な呪い。




 十五の時分に、私は嫁ぎました。春の事でした。暖かな日差しの下、菜の花に見送られ、旦那様の御家の門には桃が咲き揃い、石楠花が私を出迎えました。花水木と藤に見守られ、桜から零れる木漏れ日の中、石畳を歩んだのを覚えております。柔らかな風が吹き、玄関口には梅が植えられ、廊下には牡丹と椿が落とされ、御部屋は沈丁花の薫に溢れていました。もう二度と受けられぬ歓待を、心の底から味わいました。四季を味わう事等、私の籠の中では許されぬのです。

 ええ、勿論、私は「珠姫」として嫁ぎました。それからも、ずっと「珠姫」でした。戻れるのは日記の中だけ。其の日記も決して人の目には触れぬよう、鍵をつけ、日記を仕舞う抽斗にも鍵をかけ、其の鍵を仕舞う小箱には南京錠をかけ、南京錠の鍵は持ち歩き、厳重に隠しました。日記を記すのは無論、旦那様の不在時だけ。夜中、旦那様が就寝なさっている隣で記す等、以ての外。私が「鞠子」だという事は、死ぬまで悟られてはならないのです。

 嫁の務めは、決まっています。義理の父母に可愛がられる事でも、旦那様に尽くし支える事でもありません。私の仕事は唯一つ、子供、男の子を産む事だけです。娘しか産めなかった母親は、きっと疎まれた事でしょう。

 しかし、残念ながら我が子の御顔を見られる者は誰一人として存在しません。私ですら、拝めないのです。

 彼は恐ろしい程、優しく接してくれました。きっと育ちがよいのでしょう。其処が家の外であれ、布団の中であれ、彼は大事に扱ってくれました。

 彼は華を好みました。庭先には常に何か咲いていたものです。使用人に任すことなく、彼自身が土いじりをしているのを、よく縁側で眺めていました。咲いた華を切っては、御部屋に活けておりました。御部屋の中は、絶えず華の薫が漂っていました。

 外へ出掛ければ、必ず御土産を持って帰ってきて下さいました。遠出から帰った日には、沢山御話を聞かせて下さいました。多くを教えて下さいました。私の拙い手料理をいつでも褒めて下さいました。いつも笑顔で御座いました。私に寄り添って下さいました。何度も、抱き締めて下さいました。

 嗚呼、それでも、貴方が愛したのは「私」ではないのです。彼が愛したのは「珠姫」なのです。

 それなりに長く寄り添えば、情は移って当たり前です。此れを愛と呼ぶのか私には分かりませぬが、何度彼の為に復讐を止めようと思った事でしょう。私一人、いえ私の家族の為に彼を犠牲に晒すのは、可哀相でなりませんでした。哀れで、憐れで、ならなかったのです。

 けれど、私の恨みは深く、桜の根よりも地中深く、湖の底よりも深いものでした。たった一人の為に諦められる程、私は出来た人間にはなれませんでした。




 十七の秋でしたでしょうか。御庭の紅葉は赤く色付き、銀杏は小金色に、はらりと落ちる葉で御庭は埋まりました。秋桜が風に揺れ、厚走りの菊が縁側に立ち並んでいました。御庭の所々に小菊が咲き、風車が大輪の華を咲かせました。金木犀の薫と共に、家族は喜びに包まれました。私の、懐妊です。

 男でも女でもよいのです、妊娠したという事実が大事なのです。義理の父母も、旦那様も大いに喜んでくれました。私もとても嬉しかったのです。

 全てが美しく見えました。灰色の曇り空も、落ちてくる雨垂れも、御部屋の片隅の蜘蛛の巣も、全てが輝いていました。日差しは柔らかく、木漏れ日は優しく、何もかもに祝福されたような心持でした。仮令見えている世界が、鳥籠の格子に囲まれた狭い世界だとしても、私には何よりも愛おしく思えたのです。

 子を授かる事がこんなにも喜ばしい事だとは思いませんでした。仮令、此の世に生を享けることがなくても。

 こんなに愛おしい我が子を産む事が何故忌まれるのか、私にはまるで理解できませぬが、私は出産の為里帰りをしました。

 里帰りに持って帰ったのは、元々持参した物だけにしました。旦那様から頂いた物は、持って行きたくなかったのです。きっと実家での生活に耐えられなくなってしまうから。旦那様は、彼岸花を持たせて下さいました。

 嗚呼、此の窮屈さが懐かしくも疎ましいと思うも束の間、私は再び「珠姫」として扱われるようになりました。向こうも不可思議な気分がしたでしょうか。いいえ、私の事等知りもしないのですから、そんな事は。

 今までの待遇とは違いました。暮す処は相も変わらず離れでしたが、此の家で此れ程に大切に扱われた事があるでしょうか。何をするにも、人が手を貸してくれるのです。我が家の御庭を見る事ができるのです。私が、御金の為の道具だとしても。

 大切なのは私ではなく此の腹の子でしょうが、それでも私であることには変わりなく、放っておかれる事はやはり多かったのです。其の間、私は御庭を眺め書物を読み、文を認める事しかできませんでした。自室と御庭以外に居ることは許されませんでした。

 一つ歳をとり、十八の冬を迎えました。葉は枯れ落ち、木々には白銀の華が咲きました。御庭の池には氷が張り、地には霜が降り、遠い空は冷たく、息は真白く凍りました。山茶花だけが寂しそうに咲いています。

 此の頃、私は既に起き上がる事もやっとのほど、弱っていました。元々体が弱かった訳でも妊娠の影響でもありません。おそらく毒を盛られたのでしょう。十五年間、此の家で食事をしてきたのです、味の違いくらいは私にも分かりました。

 親がどういう考えなのかは分かりませぬが、私は甘んじてこの所業を受けました。

 重い体を引きずり、私はお庭へ出ては鬼灯の根をとっていました。此のままでは私が亡くなった後も我が子だけが生き延びるということが起こりうるのです。「死母の子」等という汚名を着せるつもりはありませんし、私の家族に私の子供をさらしたくはなかったのです。

 起き上がることもできぬ私にも食事は与えられ、腹はふくらみ、春がきました。毒を喰らいつつ、お庭を眺めるだけの生活。返事のない文をしたためることは、もうできませんでした。

 もう天道さまは私にほほえんではくれません。風は野分と姿をかえました。世界は色を失い、灰色の桜がまう中、変色したつばきが落ち、沈丁花は薫を失くしました。

 どん天からしずくが落ちる初夏のころ、私はようやく我が子と出会うことができました。死をかくごするくらいのたえられぬふくつうと共に、おびただしいりょうの血を流しました。はらがいたんだときには、なんとなく分かっていました。

 赤子とはとうてい分からぬまっ赤な子を白いはこに入れ、桜の木の下にほうむりました。その赤さは、ひがん花にも見えました。

 かぞくは私を見放し、まんぞくな食事は与えられなくなりました。当然でしょう、子をうめぬ女に価ちはありませんから。さんごのけいかはもちろん悪く、私は死を待つだけとなりました。

 かなしくてかなしくて気が狂いそうでした。毎日、泣きました。私以外の女性の下にうまれたのなら、あの子もきっと生きることができたのに。あの子ははるのうららかさもなつのにぎやかさもあきのさびしさも、冬のつめたさでさえ知らぬのです。あの子が知っているのは、母の恨みだけ。

 ただ、こうかいだけがそばにいました。ころしたのは、私だというのに。

 雨の中、あじさいが咲いています。あお、ももいろ、むらさき、とてもきれいです。もし次があるのなら、私は花に。

 あさがおが咲いています。明日も見ることができるでしょうか。

 いろとりどりのゆりが咲いています。らいねんのなつはもう見られないでしょうか。

 むくげも咲いています。私のようにみじかい花ですね。

 ほおずきも咲きました。もういちど、あの実をたべれたら。

 きれいなたちあおいです。あたなのせたけをこえたでしょうか。

 なでしこが咲きました。あの子をなでてあげたかった。

ざくろがこちらを向いています。おいしい実がなるでしょう。

 くちなしのかおりがする気がします。そちらのおにわのようすはどうでしょうか。

 ひまわりがてんとうさまを向いています。とわにてんとうにとどかぬのに。

 かがやくみどりの下でせみがないています。なくしかできぬのは私といっしょですね。

 ねえ、善一郎さま、ごめんなさいね。




 もしこの文があなたの目にふれたら珠姫にわたすか、もやしてほしいのです。けっしてりょうしんには見せないでください。あなたにはめいわくをかけますが、これだけは、これだけは叶えてください。さいごまで手のかかる主人で、ごめんなさい。




 珠姫、あなたがこれを目にするころには私はもういないのでしょう。あるいは、これを目にすることもないのでしょうね。私が死にぎわにかいたことばも、あなたにはとどかないのでしょうか。

 おかしな人生でした。私はだれかの代わりになるためにうまれ、子をなすためにとつぎ、人をあいすることも名をのこすこともなく、きえていくのです。

 あなたはどう思いますか。私とおなじようにかんがえるはずのあなたは、どうかんがえるのでしょう。いいえ、あなたは何も思わないでしょう。私のことは、いちぶにかくされていましたから。

 私を知るのはりょうしんといずれころされる女中、そしてわが子のみ。

 ぜんいちろうさまは、私が死んだと知るでしょうか。知るにしても知らぬにしても、ぜひあなたがとついでくださいな。私と同一のあなたですもの、きっとあいされますし、あなたもかれをすきになりますわ。そしたら、子をうんでくださいね。我が子の分までしあわせにしてやってください。

 人生とはかくもふじょうりでりふじんなものなのですね。それでも、私がにくみ、うらみ、ねたむのを、あなたはとうぜんだと思ってくれますか。名もおぼえてもらえぬまま死んでいく、私の人生をおかしいと思ってくれますか。

 せめて、小さなふくしゅうすらはたせぬ、私のねがいをきいてください。今までわがまま一ついわず、だまってしたがってきた、けなげであわれなとりかごのむすめの、さいしょでさいごののぞみなのです。自分のはかばくらいは、えらばせてほしいのです。

 死体をうめるのは桜の木のねもと。これからはわが子のそばにいてやりたいのです。

 まるでそこになくせみのように、羽化をまつのです。土の下で、くちなしのかおりの中で、羽化を。




 どうしてこんなふうになってしまったのでしょうか。ああ、きっといっしょにうまれてこなければよかったのです。だからこそ、わたしはあなたとどういつにならなければいけなかった。それならばあつかいもどういつにしてほしかった。ふたりのあいだにちがいをつくらないでほしかった。そうはおもいませぬか、たまき。わたしだけ、でしょうか。



 わたしたち、ふたごなのにね























 さようなら、たまき

 わたしのいもうと

――『妹へ宛てた手記より』より一部抜粋、加筆修正

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