後編
後編になります。
6 消えた物と残された物
周囲に明かりが無い山の中。闇の中には雨音だけ。
卯月は自分の部屋へ。俺と牛沢も客間に戻った。
早速筋トレを始める牛沢に対し、俺は暇を玩んでいた。元より日帰りするつもりだったのだ。余分な荷物なんてある筈も無い。
いっそ俺も何か本でも借りようかと思ったところで、ドアがノックされた。
「どうした、添い寝でもして欲しいのか?」
「本気で言ってるの?」
ジト目で卯月が睨む。
「……まあ冗談だが。って言うか、顔が怖いぞ。何かあったのか?」
「ねえ、レコーダーあんたが持ってったの?」
「は? そんなわけないだろ。あれはお前が責任もって管理するんだろうが」
「……私の荷物漁ってないわよね?」
「なーんーでー、そんな事しなきゃならないんですか?」
思わぬ疑いに声が変に裏返る。
「……着替えた事知ってるから」
「そんなに俺を性犯罪者にしたいのかおまえは」
「覗きは性犯罪じゃない」
「あれは偶然だっての!」
「お互い既成事実を作ろうとしていると言う線は無いのか?」
「「無いから」」
牛沢に対して俺たちの声がハモる。
「……俺に遠慮する必要はないんだが……」
呟きを無視して卯月に確認する。
「どこかに置き忘れたんじゃないのか?」
「置き忘れるなんて……ある訳ないじゃない。学校から借りた物なのに」
「でも、確認してそのままどこかに置いたとか、そんな事は無いのか?」
「ありません」
「そうなると、答えは絞られるぞ。俺も牛沢もレコーダーには手を触れてないだろ」
「ああ。使い方も分からんからな」
「だとすれば、伏木先生しかないだろ」
「……先生が私の荷物漁ったって言うの?」
嫌な想像をしたのだろう。不安な表情がより影を帯びる。
「そう考えるしかないだろ。シャワー浴びてる時とか、チャンスはあるんだ」
「……でも、なんで?」
「知るか。聞いてみればいいだろ。ところで……」
「何よ?」
「……下着は無事だったか?」
「……変態」
ちょっとだけ表情に赤みが差した。
とは言え、学校の備品を失くしたという事は大問題だ。
三人揃って俺たちは先生に尋ねる事にした。荷物が無くなった、なんてはっきりさせないと気持ち悪くてしょうがない。
「……二階に電気が付いてないぞ。一階に居るのか?」
「書斎の方かも」
「……おい。何か聴こえないか?」
牛沢がきょろきょろと首を動かす。
「何って、何がだよ」
「……風の音だ。どこかから風が入って来る」
「聴こえねえよ、隙間風じゃないのか」
「…耳に自信はあるんだがな」
「へえ。どれくらいだよ」
「静かならカーブとストレートの音くらいは聞き分けられる」
「凄いけど、野球応援の最中じゃ使い難そうだな」
「まあな。試合じゃ役に立った覚えが無い」
書庫の隣。書斎には明かりが着いていたが誰も居なかった。
「……レコーダーがある」
机の上に、学校から借りたそれが置かれていた。備品シールも貼ってあるので間違いない。
「こりゃあれだな。お前が落としたんで、先生が拾っておいてくれたんだよきっとそうだ」
「……そうかな」
「……再生してみたらどうだ? 仮に意図してレコーダーを持ち出したとすれば、何かに使う為だろう。そしてレコーダーの用途は一つだ」
「……そうね。それに……うん、やっぱり私が録音したのとは違うデータがある。録音したのは……夕食の少し前だわ」
聴くしかない。
ここに置いてある理由は、俺たちに聴かせる為に決まっているからだ。
再生させると、そこからは紛れも無く伏木先生の声が流れて来た。
*
……プッ
もし、これを君たちが聴いているとしたら、それは非常にまずい状態だと言う可能性がある。
私が何らかの理由でこの別荘に戻ってこれなかったと言う事に他ならないからだ。
万が一の為、君たちにメッセージを残すべく、これを借りさせて貰った。
不快な思いをさせてしまったかもしれないが許してほしい。
実は、私は研究に協力してくれた友人を君たちに紹介するつもりだった。
その友人は命を狙われている。
私は彼を救うために様々な手段を用意していた。しかし、私一人では上手くいかないかもしれない。本来はもっと入念な準備と人手を確保したかったが、事態は急変してしまった。
もはや、君たちに協力を仰がなければならなくなってしまったのだ。
そして、この声を再生している時点で、事態は最悪の状況になったと言ってもいい。
今から言う事を覚えて、実行してもらいたい。
書庫にある黒い背表紙のファイルの中に有る『黄の印の支配からの解放』と言う呪文を覚え、あのおぞましい犬の怪物に使って欲しい。おそらく、君たち三人分の力を籠めれば成功できる筈だ。
最後に一つだけ、忠告しておく。
もし君たちが生き伸びる事ができたとしても、この別荘にあるいかなる物も持ち出してはならない。
ここで逢った事を他言せず、静かに生活に戻る事を願う。
プッ……
*
「……なにこれ?」
「……もしかして肝試しでもするつもりなのか? リアル脱出ゲームみたいなやつかもな」
サービス精神旺盛にも程がある。
……なんて、カラ元気を振り撒くにも限度がある。
「書庫の黒いファイル……うん、確かにあった」
書庫は隣だ。確認するのに手間は無い。
それに、卯月はその場所を覚えていたので手間もかからない。
それは黒革で装丁されたファイルだった。
中にはメモ用紙のような紙切れが幾つかファイリングされていた。英文や仏文のような一見では読めない文章もあったが、幸いそれは簡単に見つかった。
中身にさっと目を通し、目的の部分を探す。
「『ユゴスよりのモノとの接触』『黄の印の支配からの解放』……これか」
「……何よこれ。英語でも中国語でもない。どこの言葉? 無意味なカタカナの羅列にしか見えないわ!」
「何か解説が書いてあるみたいだ。なになに?」
『黄の印の支配からの解放』
・黄の印によって名状し難きものの僕となった生物を支配から解き放つ呪文。
・呪文を唱えるのに必要な道具は無い。暗記の必要も無い。ただし精神力が必要であり、録音などで実行する事は不可能である。また、通常の人間一人では賄いきれない。呪文を唱える者の横で以下の印を結び、精神を集中させよ。
・また、対象との距離は重要である。効果を発揮する為には五メートル以内が望ましい。
「やれやれ。それじゃあこいつごと持っていこうぜ」
声が震える。
まだ、俺はこの展開を伏木先生の仕掛けたドッキリだと思いたかった。
否定する証拠は無い。
だが、卯月も牛沢も、何かに怯えるようなそぶりを見せていた。
「……どこに行けばイベント発生だろうな」
「……玄関だな。たぶん、扉が開いてる」
「へえ。分かるのかよ」
「向こうから風が入っているからな。こんな時間に開けるとしたら玄関が一番可能性が高い。そして、雨が降っているのに開けっ放しにはしないだろ。常識的に考えて。そこで何か起きている。たぶんな」
「待って。外を見るなら懐中電灯あった方がいいでしょ。そこの避難袋の中にあるから借りましょう」
確かに、周囲は闇の中だ。ライトはあった方が良い。
避難袋からライトを取り出し、点灯する事を確認する。幸い電池は十分のようで、夜道を歩くには心許ないが別荘の周囲を照らすくらいなら大丈夫だろう。
果たして、牛沢の予想通り玄関が半開きになっていた。
誰が開けたのか。そんな事、分かり切っている。
「……外に出たまま戻って来ていないって事?」
「まさか。そういう演出だって」
玄関先から懐中電灯で外を照らした牛沢の手が止まった。
「……二人とも、中に戻れ」
「……は? 何言ってんだ。変な物でも見えたのか?」
「……マズイ。あんなもの、見ていい筈がない」
「ね、ねえ。なにがあったの! 教えてよ!」
押し返されるように牛沢に玄関に戻された俺と卯月は震える声で文句を言った。
だが、牛沢の顔色が蒼白な事に、こいつが見てはいけない物を見てしまったという事が強く伝わった。
「……警察に連絡を入れよう。もう洒落じゃ済まない。携帯でもここの置き電話でもいいから、早く警察に連絡しないと」
「待てよ! いいから説明しろ! 何があったんだよ!」
「……ああ。……たぶん、あれは先生の死体だ。……もっとも、身体の半分が無かったが……」
「……は?」「……え?」
「右の肩口からケツの辺りまで、冗談みたいに無くなってやがった。むしろよく部品が繋がったままって言うか」
「……冗談、でしょ? ねえ冗談って言ってよねえってば」
半分パニックになったような卯月は牛沢に何度も同じ言葉を繰り返している。
「造りもんじゃない。分かるんだ。あれは造りもんなんかじゃ絶対ない」
「二人ともしっかりしろ! それが本当だとして、なんでそんな事になってるんだ。そんな死に方なんて普通有り得ないだろ」
「……わからん。いや、もしかして、伏木先生が言っていた犬の怪物か……?」
犬の怪物と言う言葉を残し、喰われたような偽死体を置く。
単純なトリックなんじゃないか、そんな事、幾らでも考え着く。
俺たちがさんざんパニックになったところで、クラッカーを鳴らしてサプライズ。
「……嘘。携帯に電波が立たない?」
卯月が小さな悲鳴を上げた。
「昼は入っていたよな?」
全員の物が使い物にならなかった。
「この家の電話を借りるしかないよ」
「……電話は……居間か?」
「先生は携帯使ってるよな。こんな場所に家電を置いているか? ネット回線専用になってたりしないよな」
「逆だよ。こんな場所なんだ。緊急連絡の手段は置いてある筈だ」
「……そうか、確かにそうだよな」
もっとも、緊急連絡の相手が近場に居ない事は確実だ。
ここの周辺に人家がある事すら怪しい。
集落には駐在さんくらいは居ると思うんだが。
居間に戻ろうとしたところで、牛沢が玄関で何かを漁っていた。
取り出したのは傘だ。傘立てから大き目の傘を取り出して、子供が良くやるように剣みたいに持っている。
「……何やってるんだ?」
「一応、護身用にな」
「バットみたいに振れないだろ」
「無いよりましだ」
玄関の戸締りを確認して、俺たちは居間に戻ろうとした。
だが。
明かりが落とされていた部屋に、気配を感じて思わず足を止める。
何となくシルエットだけがわかる。
「……伏木先生……?」
そんな筈はないと思いながら呟く。
その影は明らかに百八十近い高さに頭が有り、しかもその頭は人間と呼ぶには妙に大きい。
そのくせ、身体のラインは病的なほど細い。
ハロウィンのジャックオーランタンのようなシルエット。
やめろ、と言う言葉よりも早く、牛沢は懐中電灯をそれに向けて照らしてしまった。
「……ひ、ひッ!」
俺たち全員が正しく呼吸ができない状況に陥った。
闇に浮かんだそいつのシルエットは確かに人型だった。
だが、そいつは、光の中に浮かび上がったその姿は人間とは絶望的なほど掛け違っていた。
頭部は球ではなく、まるで何かが捻じれ渦巻いて形を象ったかのように歪で瘤状の突起が幾つもはみ出している。
顔と思われる物は確認できず、目鼻口耳と言う器官もあるようには思えない。しかしどう言う仕組みなのか頭部の色がよく変化する。
その頭部からぶら下がった呆れるほど細い胴体は、もっともイメージが近いのは蝦蛄だろうか。
濁った桃色をした、芋虫とも海老とも言えるその胴からは手のような巨大な一対の鋏爪と細く長い多関節の脚が複数付いている。
海老か昆虫を肥大したかのような、しかしはっきりとした肉質感を持っている。
その背には鰭のような翅状の物が生えており、微かに振動しているようだった。
身長が百八十のように見えたのは、このおぞましい姿の怪生物が宙に浮いていたからに相違ない。
造り物ではないし、着ぐるみでもない。
その証拠に、この怪生物は手足をカシャカシャ動かし、宙を移動していた。
「……あ……あ」
ゆっくりと、棒立ちの俺たちにそいつは向かってくる。
直感。こいつは獣ではない。明確な意思を持っている。
そんな有り得ない答えを天啓のように受けてしまう。
人の常識をひっくり返すような冒涜的な生物の存在が、俺たちの脳を作動不良に突き落した。
その直後だった。
別荘の居間に張られたガラス窓を突き破って、そいつが飛び込んできたのは。
7 妖犬
犬。
大型の犬。
四本足で立つそいつは、目の前の怪生物に比べれば、まだ生き物と言う形をしていた。
ただし、その大きさはどう考えても異常だった。
世界最大の犬は諸説あるが、グレートデンと言う犬種は全高一メートル。体長二メートルまで大きくなった個体が存在したと言う。だいたい仔馬並の大きさだ。絶滅した世界最大のイヌ科ダイアウルフも平均的にそれくらいだったらしい。
ところが、そいつの大きさは確実に人と同じ目線の高さまである。
頭から尻尾の先まで三メートル以上。
虎と見紛う程巨大な体躯の犬。
しかし、その筋肉は病的にまで引き絞られ、体毛はほとんど抜け落ちてしまっている。
手先の爪も、元が分からないほど異常発達してイヌ科の動物の面影を残していない。
最大の違和感は顔だ。
捕食に特化したかのような大きく裂けた口と、その中に並ぶ刃物同然の牙。だらりと異様に長く垂れ下がった舌。
そして、顔面左側にめり込んだ、巨大な球体。
脳や頭蓋骨の存在を無視して、それは犬の顔面の半分以上を覆っていた。
ハンドボール並みの大きさのそれは、明らかに無機質の物質であり、黒地に金色の線が模様のように入っている。
金の模様は、淡い光を零していた。三本の曲線が束ねられた紋章にも見えるそれは、あまりにも禍々しい気配を放っている。
それが、まるで眼球のように動いて獲物を捉える。
そいつが獲物として認識したのが俺たちでは無かった事は幸いだった。
一切の躊躇なく飛びかかった先に居たのは、怪生物だった。
人の頭すら一瞬で噛み砕きそうなほど開かれた顎は怪生物の首を一発で食い千切り、床に叩き落とした。
それから前脚で手馴れたように痙攣する獲物を叩き潰し、顔面全てで餌を食い漁り始めた。
唸り声も出さない。
本能に準じる狩りですらない。
その犬は、飢えていたのである。
いや、もうこの犬にとって、喰って喰って喰い続ける以外の意志は存在しない。
単に俺たちが襲われなかったのは、栄養価の違いだけだったのではないだろうか。
「早く逃げろッ!」
凄惨な光景を目前に動けなかった俺たちだが、誰かの声でそこから逃走した。
逃げると言ってもどこに?
この狭い家の中に安全な場所なんてあるのか。
外なんて論外だ。闇の中、あんな怪物に追われて生き延びれる筈がない。
「書庫!」
俺たちは書庫に駆け込んでロックをかけた。
伏木先生が特別に作ったと言うその書庫は、火災になっても耐えられると言う強固なシェルターなのだと言う。
その事を覚えていた誰かが叫び、三人揃って飛び込む事ができた。
卯月も牛沢も、憔悴した表情で視線を虚ろにしている。
言葉も漏らす事ができないほど追い詰められていた。
俺もきっと似たような物だ。
……でも。
これで終わりな筈がない。
だって、あの犬は飢えているのだ。
一番美味そうなものから喰っているだけで、俺たちを見逃す事なんて有り得るのだろうか。
ガンッ! ガンガンガンッ!
「ひッ!」
寸分違わず、書庫の分厚い扉が殴られる音がする。
「……やだヤダヤダやだヤダ」
幼児退行したように泣きながら俺の腰にしがみつく卯月。
本棚にその巨躯を隠そうとする牛沢。
俺だって何もかも忘れてしまいたい。
こんな事は夢だと思ってしまいたい。
ガンガンガンガン!
犬は諦めてない。ここに餌があると知っている。たとえその足が砕けようとも扉を壊し、その顎で俺たちを喰う為に入って来る。
扉がギシギシと音を立て始めた。
人間ですらまともに壊す事なんてできそうにない重い扉を、歪み外す勢いで身体をぶつけているのだ。
俺の手が何かを掴んだ。
床に転がっていた一冊のファイル。
伏木先生が遺した物だ。卯月がずっと持っていたが、犬が扉に攻撃を始めた時、俺にしがみ付く為、手から放してしまったのだろう。
先生は犬に対して呪文を使えとレコーダーに言い残した。
もう縋れる物はこれしかない。
俺はその部分を開き、二人に無理矢理印を作らせた。
この状態で果たして効果はあるのか。
しかし、それを疑う機会は完全に失われた。
そして。
壁と扉の間に、遂に隙間が生まれる。
餌を求める漏れる吐息が聴こえる。
その隙間を覗き込むのは、犬の顔面にめり込んだ、あの球体だ。
おぞましい輝きを零すその隙間に向かって、俺は発音も考えずにファイルに記された『黄の印の支配からの解放』の呪文を繰り返した。
どれほどの沈黙が流れただろうか。
十秒だろうか。三十秒だろうか。それとも何分も呆然と扉を見ていたのだろうか。
すでに隙間の先には何も無く。
無限のような沈黙が続く。
扉は、遂に開かれなかった。
俺たちは誰からというわけでもなく意識を失い、折れ重なるように倒れ込んだ。
8 病院にて
俺たちが発見されたのは、翌日の午後だった。
伏木先生に車を返しに来た友人が、庭先に死体が転がったその惨状を発見して通報。
俺たちもその時書庫から発見された。
その後、三人揃って離れた病院に緊急搬送された。
病室はそれぞれ別になり、俺は更に一日入院する。
何とか会話できるまで体力が回復したので二人の様子を聞いてみたが、はっきりした答えは帰って来なかった。
*
「あら、元気そうで何よりね」
見覚えのない女生徒が見舞いにやって来た。
長く黒い髪。黒い制服。黒いタイツ。白い肌に長く細い手足、細身の身体。
知らない女生徒が、俺を見て嗤った。
「お礼代わりに二人の事を教えてあげようと思って」
お礼?
「あの犬を止めてくれたお礼よ」
息が詰まる。
……その事を知っているこいつは、何者だ?
伏木先生の別荘で起きた事件は、熊と野犬による事故だとなっていた。
俺はそれを訂正する気力も無く、また真実を喋っても信用されないと思って黙っていた。
あの場所で起きた事を知っているのは、俺たち三人だけの筈だ。
「あの犬が眷属になってしまっている状態では、私は手を出せなかった。こうして無力化して回収できたの。ほら、見覚え有るでしょう?」
彼女がどこからともなく取り出したのは、ハンドボール程の大きさの丸い石。
覚えがある、なんて話じゃない。
それは確かに、あの犬の顔面に嵌っていた物だ。
「三人の中で、取り敢えず明日には退院できそうなのは貴方だけよ。他の二人、特に女の子の方は精神が不安定で、社会復帰には当分かかるでしょうね。男の子の方も、しばらくかかるでしょう。書庫にあった物はあまり大したものではなかったし、飯綱大学か、関係機関の子たちに残してあげる事にしたの」
感情なんてどこにも無い、人間の姿をしているなにかが、夕暮れの差し込む個室の病室内にできた影の中に立っている。
「とにかく生還おめでとう。また遭いましょう」
まるで幻のように女は消えた。
瞬きしている間に、そこに居たと言う何もかもが霧散した。
女の言った通り、早期退院できたのは俺だけだった。
疲労困憊したものの復帰は割と良好だった。
対して、卯月は面会謝絶。
牛沢も、俺に遅れる事一週間で退院したが、かつての面影が消えるほど痩せてしまった。そのまま野球部も退部届を出してしまった。
学園祭は別の担当が決まり、当然の如く俺たちは外れた。
恙無く無味乾燥な研究発表が行われ、俺はそれを遠目で見ていた。
あの夜。俺たちは知る筈のない世界に足を踏み込んだのだ。
そして、俺たちの存在が如何にはかない柱の上に立っているのかを覗き見てしまった。
もうあんな事は起こらない?
そうじゃない。
あれこそが真実だ。世界中のどこでも起きる、多くの地球人が知る事の無い事実だ。
今なら理解できる。
伏木先生は、俺たち同様に宇宙の真実に足を踏み込み、そして戻ってこれなくなったのだ。
電話が鳴った。
牛沢からだ。
あの日を境に俺たちは顔を合わせる事も話す事も少なくなった。
人が変わったようなあいつは周囲からも孤立した。
『……俺と一緒に、真実を探らないか?』
不敵な声だった。
「……ああ。待ってたぜ」
それだけ確認すれば十分だった。
そう。俺たちも、もう戻れない。
一度、真実の恐怖に直面してしまった者は、破滅を迎えるまで探索の運命からは決して逃れられないのだ。
ミ=ゴVS犬。
作中神話用語解説に続く!