前編
もともとリプレイ風動画台本的な代物でした。
どうしてこうなった?
長すぎたので二つに割ります。
1 研究発表
文化人インタビュー何て一体誰が考えたのやら。
我らが高校の学園祭では、『クラスの出し物は文化的要素の高い物』、と言う明文化されたルールがある。
この枷によって、クラス単位での喫茶店やらたこ焼き屋やらお化け屋敷やら、定番中の定番は不可と言う事になる。
なぜこのような暴論が通ったのかと言うと、実は結構切実な理由があるので誰も文句を言えないのだ。
学園祭の定番とされる喫茶店やお化け屋敷。
更に具体的に申し上げるなら、金銭的やり取りが発生する出し物については、その一切を部活動連が仕切っているのだ。
少しでも部活動費用にしようと言う建前が必要なのである。
考えてもみてほしい。
ただのクラスが出店でいくばくかの売り上げを出したとしよう。
それは打ち上げにでも使われるのが暗黙の了解である。そうでなければ金銭的トラブルが起きてしまうだろう。
真によろしくない。学校行事で金銭トラブルなんて外聞が悪いにもほどがある。
しかも、身も蓋も無い話だが、「打ち上げに使いました」では生産性が無い。
学園祭も今や存続が危ぶまれる昨今である。しっかりと実のある活動をしなければ、授業日を一日二日削る甲斐が無いと言われてしまう。
その点、クラブ活動の部費稼ぎとなれば、その本質は募金か寄付に近い。
商売をしている、なんて頓珍漢な反対意見も薄くなる。
そう言うわけで、クラスの活動は、研究発表なり、合唱なり、演劇なり、無償且つ全員参加を建前とする活動に限られると言うわけだ。
が、しかし。今度は別の問題が浮上する。
ネタ不足である。
参加するのは三年を除いて全部合わせて約二十クラス。
それだけのクラス展示で、内容かぶりが出ないようにするのは大変だ。
好き好んで演劇や合唱に身を乗り出す学生は少数派。意見が分かれれば無難な落としどころに落ち着いてしまうのも止む無しである。
休憩所の開設、とか提出してみろ。後が怖すぎる。
しかも、決定したからと言って、今度はこう言う研究発表は誰もがやりたがらない。
かと言って、一定水準に満たなければ恥さらしの上、来年以降の学園祭の存在意義も問われる。
常に苦行的決断を迫られていると言うわけだ。
もはや何のための学園祭かと言う根源的問題になりかねない。
もちろん苦しみを投げ出しても構わないが、これで地方の普通科高校。OBOGとの繋がりは大きく、後輩も隣近所。
これから何十年も「伝統を壊した」「あの先輩たちが学園祭を潰した」と言われ続ける羽目になりかねない。
永久戦犯の汚名を着て生きられるか?
かくして毎年当たり障りのない、だからと言って興味も持たれないような突飛な内容ではなく、地域に根付いた研究を模索する事になる。
偉人の一人でも居ればネタは困らないかもしれないが、あいにくとここら辺りでそれなりに名を遺した人物は聞いた事がない。
郷土史に触れるにしても、定番過ぎて踏み込み難い。
だから、俺たちはその話に飛びついてしまったのだ。
それがどんな体験を引き起こすかも知らずに。
*
「民俗学の研究者が赤倉山の山小屋に居るって?」
「正確には山小屋じゃなくて別荘だって」
クラス委員の卯月がそんな事を言い出した。それに対して、俺と牛沢は顔を見合わせた。
学園祭実行委員と言う名の生贄。
それが俺たち三人の立場である。
クラス委員の卯月を筆頭に、幼馴染の腐れ縁を持つ俺と、野球部で人員過多の為学園祭の出店に参加できない牛沢の三人で構成されており、クラス発表の研究を主導する役目を背負わされている。
まあ、俺たちが研究成果を纏め、クラス全員で模造紙に書いたり拡大コピーしたりして作業すると言うわけだ。
ネタ探しに頭を悩ませていた時。
正確には俺と牛沢が無難な提案を出しては卯月に却下されると言うループに陥っていた時。
「だったらお前が意見出せよ」と言う俺の文句に対して、卯月がそう答えたのだ。
「別荘って、あんな所に住めるのかよ」
この辺り出身の高校生なら赤倉山を知らない事はまず無い。
大抵の小学校の行事で日帰り登山があるからだ。
小学生には結構厳しい山道だが、景色も良いし赤倉山から縦走できる高崩山にかけて設備も上々で、ハイキング感覚のお手軽な登山として大学生や中高年に人気がある。
「確か、蓮華丘の方だって言ってた」
「あっちなら家は建てれるか」
登山道ではなく少し外れた集落の方だ。地形もなだらかだし道路も通っている筈だ。
別荘を建てられる土地があるかどうかは疑問だが。
「なんでもこの辺りの事を研究する為に、わざわざ千葉の大学から来てるらしいわ。大学でワンダーフォーゲルやってる兄貴がたまたま会ったんだって」
「この辺りって、研究するような事あるのか?」
「さあ。でも地元からじゃなくて外の目から見た地域史って、面白いんじゃない?」
「………面白くないかもしれないけどな」
大体、歴史と言う物は都合良く記している物だ。
地元民の中で美談として残っている物が、外からの研究で醜聞だった、なんて事は世界中でよくある話。
まして地元とは縁も所縁も無い大学の研究者の学説が、地元に受け入れられるとは限らない。
下手な事になれば、不評を買うだけでは済まないかもしれない。
「牛沢はどうだ?」
「登山ならトレーニングになるかもしれないな」
「登山するんじゃねえって」
もともと牛沢は力仕事があった時の為、と言う感じで加えられたので意見に期待はしなかった。
「………まだ余裕はあるし、試してみてもいいか。とにかくアポイントを取らないとダメだろ」
「そっちは私が何とかするから。二人も付き添ってよね」
「レコーダーとか有った方が良いよな。誰か持ってるか?」
「放送部が貸してくれるんじゃない?」
「念のため、今から交渉しておこう」
数日後。どう言う伝手を辿ったかは定かではないが、卯月はダメ元で申し込んだアポイントを快諾され、俺たちは赤倉山蓮華丘にある、その研究者の別荘を週末に訪ねる事になった。
2 野犬の声
そこまでの道のりは自転車では遠出できない場所なので、俺たちはバスを使うしかなかった。
「………マジか。週末だと午前一本午後一本だぞ」
「病院は土日無いもんね」
遠出なら病院くらいしか用が無いのだろう。ギリギリまでバスの運行が減らされている。午前中にこっちに来れるだけでも驚きだ。
ちなみに平日は午前二本。午後二本。倍だ。
「ここからは何キロだ?」
「少し歩くみたいね」
事前に準備した地図を片手に俺たちは歩き始めた。
程無く、俺たちを見た集落のお婆さんが声をかけてきた。
「あんたら山登りかい? こっちには登山口は無いよ」
「いえ、私たち、こちらに住んでいる大学の方を訪ねて来たんです」
「ああ、あの人かいね。良く産直で野菜やらキノコやら買ってくよ。へー、偉い人なんじゃね」
偉いかどうかは知らん。
「住んでるのはどっちなんです?」
親切に、お婆さんは道を教えてくれた。
「んでも、気ィつけなよ。少し遠いし、何より犬がおるからな」
「その人、犬を飼ってるんですか?」
「うんにゃ。野犬じゃよ野犬。群れを作って山奥におるんじゃ。野犬は危ないんじゃ。熊も襲って喰ってしまうからのう」
「熊ッ?」
「おお、今年も一頭喰い殺されたんじゃ。人間じゃ歯が立たんから、何か大きな音を出す物を持っていくんじゃよ。それから、絶対に夕暮れになったら出歩いてはいかん」
お婆さんに礼を言った俺たちは教えられた通りの道を歩いた。
山に入ると車がかろうじて一台通る未舗装の道で、仮に自転車で来てもとても進めない。
「なんでこんな所に住んでいるだろうな」
「分からないわよ」
「ちょうどいい坂道だからトレーニングにはいいかもな」
そんな事を言いながら先に進むと、ふと卯月が足を止めた。
「何だよ、疲れたか?」
「………ねえ、声が聴こえない?」
「声? 山奥だぞ」
「いや、声と言うか、犬の吠え声みたいだ」
牛沢も頭をゆっくり横に振りながら音を拾っているようだ。
「………おいおい。嘘だろ。まだ午前中だぞ」
「………聞こえなくなったな。随分遠いのか。結構響くんだな」
「山の静けさとか、響きやすい地形とか、色々あるのかもね」
俺一人だけ聞こえなかったので、少し面白くない。
「なあ、こんな話知ってるか?」
「何よ」
「野犬って、ほとんどが元ペットなんだってさ。人間に捨てられて、群れを作って、野生に戻ったのが野犬なんだ。捨てられた犬が飼い主の所に戻って来るなんて、実は何パーセントも無いんだ」
「だから美談っぽく言われるのかしら」
「で、当然、群れの中で繁殖して次の世代、その次の世代が生まれてくる。ほら、犬は雑種が強いって言うだろ? そうして、色々な犬種の血が混じっていくその中から『スーパーミックス』が生まれるんだ。強靭な生命力。肉食獣としての戦闘力。そして揺るがぬ野生を兼ね備えた怪物さ。そんな奴らがどんどん増える。連中には人間は餌でしかないんだぜ」
「………止めてよね。こんな所でそんな話」
「はは。もっともそう言う個体が生まれれば、群れはいずれ潰れるんだけどな」
犬に限らず、野良の寿命は短い。飼い犬のように十年も生きられないのだ。仮にスーパーミックスが長寿を得たとしても群れのバランスが崩れて長続きしない。自然とは良くできているのだ。
卯月のふくれっ面を見て、少し気が晴れた。
「おい、見えてきたぞ。あそこに建物がある」
牛沢が指差した先には、木造の外観を持つ割と洒落た建物があった。周囲を木の柵で囲っていて、門替わりの自然石が二つ間を開けて置いてある。
「間違いないみたい」
そばに行くと、表札がかけてあるのが見えた。
それを確認した卯月が、ふうーっと息を吐いた。
「伏木雄吾先生の別荘ね」
3 伏木雄吾
「やあ、遠い所までよく来たね。さあ、上がって上がって」
俺たちを出迎えた研究者、伏木雄吾氏は五十前後の男性だった。
ここには一人暮らしだと言っていた。一人暮らしにしては広い家だが、実際は半分が書庫になっているらしい。
通されたのは大きな窓に面したリビングで、綺麗に掃除してある。
「久し振りの来客なんで、ハウスキーパーさんに無理を言って掃除して貰ってね。いつもはもっと汚いんだよ。さて、お茶はどうしたものかな? コーヒーで良いかな? ジュースも用意してあるんだが」
「あ、いえ。お構いなく」
「自分は野球部なので炭酸でなければなんでも」
「俺はコーヒーでいいです」
「少しは遠慮しなさいよ………」
「ははは。じゃあコーヒーを用意しよう。ただし、ブラックは駄目だぞ」
ほどなく、ドリップされたコーヒーが運び込まれた。
合わせて茶菓子も出てくる。高校生では手が出しにくい結構値段のするプチケーキのセットだ。卯月の顔色が変わるのを俺は見逃さなかった。
「研究者の端くれとして、自分の研究を聞きに来てくれると言うのが嬉しくてね。遠慮しないで食べてくれるかな」
「先生は千葉の大学に勤めていらっしゃるそうですね?」
「うん。夜刀浦市にある飯綱大学と言う所なんだが、知ってるかな?」
「飯綱大学?」
「教育実験都市の総合大学ですよね。聞いた事あります。中高大の一貫教育で、途中入学は東大に入るより難しいって聞いてます」
「まあそうだね。少なくとも普通のセンター試験では入れないね。英会話に論文。それも何本も必要だからね。とても他の大学受験と並列で志願はできないね」
「最先端の学園都市って、民俗学のイメージは無いんだよな」
「ちょっと、失礼でしょ!」
「いや、そう言う疑問に答えるのが大学講師だよ。飯綱大学が目指すのは日本人としての国際的活躍だ。日本を卑下するような人物が国際社会で活躍しても困るだろう? まあだからと言って国連の重要人物が自国贔屓するような公私混同は論外だろうが。自国の歴史文化を学び、外国人に説明できなければならない。幾ら世界遺産を増やそうと、そう言う部分が疎かでは話にならないだろう。民俗学も、大きな分野なんだよ」
卯月はレコーダーを取り出してスイッチを入れる。
*
「ええと、それでは質問させて頂きます。まず先生が研究されているのはどう言う物なんでしょうか?」
「私は各地の天狗伝説を研究しているんだ」
「天狗、ですか?」
「そう。君たちは天狗と聞いてどう言う姿を思い浮かべるかな?」
「そりゃ鼻が長くて顔が赤い感じですよね」
「羽根が生えてて一本歯の下駄を履いてるって言うな」
「後は羽団扇だったか?」
「一番分かり易いパターンの天狗だな。実際、天狗と言う妖怪は何種類も居て、しかもそれらが社会を構成している。日本産の妖怪で社会を持つのは妖狐や化け狸も居るが、天狗はその外見の幅が大きい。しかも信仰と結びついている。他に例は無いと言ってもいいほど、特殊な妖怪だと言えるね。天狗は元々天狐、つまり箒星から来ていると言われている」
「箒星ですか?」
「そう。長く尾を引く姿に狐を重ねたんだろうね。通常空に現れない箒星は凶事とされた。妖狐が国を亡ぼす、と言う伝説もその影響を受けた物だろうね」
「それがやがて天狗になった、と言う事ですか?」
「修験者や山の怪異など、色々と要素を複合したんだね。そう言うキメラ的な妖怪でもあるわけだ」
「先生がこの地に居を構えた、と言う事は、注目する事があったんでしょうか?」
「ははは。静かに研究を纏める場所が欲しかった、と言う事もあるんだが、君たちはこの側に高崩山と言う場所がある事は知ってるかな?」
「それはもう。地元みたいなものですから」
「実はね高崩山には天狗の目撃談がたくさんあるんだよ。それも、昭和の初め頃までだよ」
「ええッ?」
「高崩山だけではなく、ほんの百年前まで目撃されていた場所は結構多いんだよ。しかも、鉱山付近に集中している。高崩山は鉱山ではないけれど、その岩山には鉱物資源が意外と多いらしい。地質学者の知り合いにも確認して貰った。鉱山にできなかったのは地質が脆いから、らしいが」
「例えば、どんな話があったんです?」
「1930年頃、夕暮れ時に高崩山の頂上付近で三匹の天狗が空を飛んでいるのを見た。おおよそで五尺。両手に大団扇を持ち、頭は大きく鼻は高い。脚は細く、一対の翼。そして尾らしきものも見えた。そう言い伝えが残っている」
「天狗に尾、ですか?」
「そう。奇妙な特徴だね。かと言って空を飛ぶ生き物としては妙な描写でもある。まるで翼竜のような感じだ」
「ムササビにも取れますね」
「確かにそうだが、ムササビではさすがに150センチは大き過ぎだよ。衾と言う妖怪も居るが。
それに、高崩山の天狗目撃は江戸時代にもあったらしい。こちらは絵に残っている。周辺の豪農の家に仕舞われていたのを、たまたま取材していた作家が見出した。知っているかな? 近宮居文と言う人なんだが」
「知ってるか?」
「いや、作家の名前なんてあんまり」
「バカ、作品が映画化もされたホラー作家よ」
「ははは。映像化されても主演俳優の名前は憶えても、原作者の名前は意外と覚えられない物だよ。
近宮先生は昭和初期のオカルト文化においても国内屈指の研究家なんだ。フィールドワークみたいな取材もしていて、その過程で意外な大発見をする事も一度や二度ではないね」
「その絵はどう言う感じだったんですか?」
「うん。西暦で1797年頃の作と記されていて、その天狗は蛇に手足が生えたような、見方によっては西洋風の悪魔かドラゴンにも似ている感じだね。一般的な天狗とは明らかに違う。烏天狗のような亜種とも異なる風貌だ。一方で、1930年頃の目撃と一致する部分も多い」
「それは………先生はどう思われますか?」
「この地では遥か以前からこのタイプの天狗が目撃されていた。これは言い伝えで『こう言う天狗が出た』と言う先入観があったからだと思うんだ。元々何らかの事件が言い伝えとして残り、天狗と言う言葉とくっついた、と言う感じだと思うね」
*
「………この音。雨?」
インタビューが終わり、昼少し前だった。
卯月が窓の外に目を向ける。俺たちも釣られて外を見ると、庭先にぽつぽつと、だがすぐに分かる程の激しい雨に変わった。
「いかんな。こんな天気では君たちの帰り道が心配だ」
「歩いては………無理っぽいな。どうする?」
止むまで待つとしても、今度は帰りのバスに問題が出てくる。何しろ一本きりだ。それを逃してしまうと取り返しがつかない。
「まだ分からないけど、最悪タクシー呼べないかしら? 三人で割り勘ならいけるんじゃない?」
「バス停まで行くのにタクシーって来てくれると思うか?」
「だからと言って、駅まではタクシーはきついぞ。いくらかかるか」
「どの道、集落まで降りないとダメだな。ここまでタクシーは来ないんだよ。私の車で送りたいのも山々何だが、生憎と今貸していてね。返しに来るのが数日先になっているんだ」
持って来ていた弁当と先生から振る舞って貰ったお茶で昼食を済ませるが、俺たちの願いむなしく雨は全く止まない。それどころか、雷まで混じり始めた。
「………そろそろ行かないと、バスに間に合わなくなるわ」
「一本道だし、降りていけば道には迷わないか」
雨具の準備も無い。折り畳み傘がどれだけ役に立つのか。
「まあ待ちたまえ。………今調べたんだが、どうにもこの天候は明日まで回復しないらしい。それに、この辺りには犬が出る」
「そう言えば、野犬が出ると聞きました」
「ああ。野犬、などと言うが、その実質は狼だよ。鹿や猪、時には月輪熊も襲って餌にしてしまう。雨なら臭いは追われないが、明度も落ちるし音も聞こえにくくなる。近くに居ても気付かないかもしれない。
そして、これは山での活動に慣れた人物の言葉なんだが、『野犬と人が一対一なら日本刀が必要。群れが相手ならマシンガンが必要』だそうだ。誇張でもなんでもなく、野犬の戦闘力は高い」
マシンガンと言うのは大袈裟な話だが。
「でも、他に方法は無いですし」
「一応私も教育者の端くれだ。危険な状況に君たちを送りたくはない。どうだろう、今日はここで泊まると言うのは? 男女二部屋くらいの客間は用意できるし、食料もある。幸い明日は週末だ。どうしても外せない用事があると言うのなら仕方ないが………」
俺としては願ってもいない提案だ。この雨の中をずぶ濡れで帰るなんてぞっとする。
牛沢もそれでいい、と頷いていた。
一番の問題は卯月だろう。高校生女子がほいほいと外泊と言うのは難しい。しかも、他は男ばかりと言う状況だ。躊躇するのは当然だろう。
「………わかりました。家に連絡を入れたいんですが」
「もちろんだよ。携帯電話はどのキャリアでも繋がる筈だ。なんなら私の方からもご挨拶しよう」
男二人の両親はあっさりと外泊を承諾したが、やはり卯月の方は難航した。
それでも大学講師と言う信用は大きかったらしく、最終的にはOKが出たようだ。
「何かあったらあんたに責任取って貰えって」
「………まあ、そうならないように頑張ろう」
付き合いが長いと変な冗談を言われても受け流す技能が身に付くものだ。
「さて、それじゃあ客間に案内しよう」
4 一冊の本
客間は一階の奥に二間あった。
どちらも洋室で、ベッドが二台ずつ並んでいる。ホテルみたいな完全な個室で、行き来するには廊下に出て扉を通るしかない。自然、男二人と卯月で分ける事になった。
「客間を二つも取るなんて。しかもどちらもベッドルーム。珍しいかもしれませんね」
「はは。種を明かせば、もともとここはペンションだったらしいんだ。脱サラした前のオーナーが山目当てを客を泊めたり、自分の趣味を満喫していたんだよ」
「ああ、道理で。寝室に鍵はかかるみたいだし、別荘にしては駐車スペースやリビングとかキャパシティあるなと思ってました」
「雨が降ってなければ、結構周囲の風景が良いんだけどね。前のオーナーは不慮の事故に遭って、遺族の方がここを手放してね。それを買い取ったんだ。知り合いが泊まりに来る事もあるし、家族も来るからこれだけ確保しているんだよ」
ベッドは最低限すぐ使えるようだった。今の時期なら寝具がそれほど充実していなくとも困らない。
「私の生活スペースは二階にある。と言っても寝るだけだけどね。ほとんどの用事は一階で用が足りるよ。書斎も書庫も一階に置いてあるんだ」
「折角ですし、見学させていただいてもいいですか?」
「構わないけど、散らかっているからなあ」
書庫は千冊近いのでは、と思うほどの蔵書がひしめき合い、床にも本が積まれている。
書斎の方も似たような感じで、机は作業空間を確保しているが、周囲は本や資料の置き場になっている。
「何だが空気がひんやりしてる」
「この部屋は特別リフォームしているんだ。家が火事になっても火が回らないようにしてあるし、本をカビさせないように空調も特別にしてあるよ」
「それは凄いな。そう言えば窓が無い」
「国会図書館だと、消火装置がガスらしいの。本を濡らして傷めないように。その代わり、仮にそこに人が居たら、助かる確率は低くなるんだって」
人命より書籍、と言う事か。
「そうそう、さっき話した江戸時代の天狗画の写真がこれなんだよ」
伏木先生は、そう言うとファイルから大判の写真を取り出して俺たちに見せてくれた。
俺と卯月と牛沢は、それを覗き込むように眺めてみる。
「………うーん、普通の天狗よりも細身っぽいな。………いや、頭でっかちと言うか。ん? 二人ともどうしたんだ?」
「………い、いや、なんか目がおかしい。絵が何だかわかんねえ。って言うかどうなっているんだ、こいつは。字も読めない。歪んでいるような線が並んでいるような」
目の前には確かに大判の写真があるのだが、その中身を認識できない、とでも言えばいいのだろうか。
まるで脳がその画を見る事を拒否しているかのような、そんな感じすら覚える。
「もしかしてゲシュタルト崩壊か? 脳が情報を上手く処理できないんだね。まあ暫くすれば治ると思うよ」
「………なんでいきなり。卯月、おまえはどうなって………おい、どうした?」
俺以上に、卯月の様子は明らかにおかしかった。
瞳は一点から動かず、肩がガタガタと震え、歯もカチカチと音を鳴らしている。
「卯月ッ!」
思わず肩を掴んで強く揺さぶっていた。
瞳の焦点が戻り、表情もいつもの物に戻った。
「あ………ええと、どうしたの?」
「どうしたの、って。様子がおかしかったぞ?」
「私が? もう、変な事言わないでよ」
俺と牛沢は顔を見合わせる。
「二人はどう思ったんだ? 俺はちょっと細身の天狗にしか見えなかったんだが」
「………俺は駄目だ。絵も文字も読み取れない。どうなってるんだ」
「私は………うん、なんて言うか………これ、本当に天狗なのかなって。ごめん、変な事言っちゃって」
「いや、面白い考え方だよ。何事も先入観は良くないからね。何事も疑う事から研究は始まるんだ。さて、ここは空気も良くない。リビングに戻ろうじゃないか」
先生に追い出されるように、俺たちはリビングに戻って来た。
雨は一向に止まない。宿泊が決まったのは良いが、手持無沙汰だ。
伏木先生はキッチンに立って、冷蔵庫や冷凍庫を確認している。夕飯まで世話になる事になろうとは。
卯月は手伝いを申し出たが、やんわり断られていた。
時刻は一時を少し過ぎている。
「私は蔵書庫から本を借りて読もうかしら。先生のインタビューを記事にするにしても、研究に関する書籍には目を通しておきたいし」
「やれやれ。俺は付き合えないな。牛沢はどうする?」
字や絵がまだ変に見える。この状態では本は無意味だ。
「この建物の周囲を歩いてみるかな」
「この雨でか?」
「傘を借りればいいだろ」
「………俺もそうするか」
このままリビングに寝転ぶのも体裁が悪い。
先生に傘を借りたいと言うと、快く貸し出してくれた。ついでに遠くに行かないように注意もされたが。
*
「しっかし、なんで外を見て回るんだよ。こんな天気で」
俺の問いに、牛沢は意外な答えを返した。
「野犬の話は聞いただろ。俺も声を聴いたからな。備えあれば憂い無しだ」
「建物の中に居れば大丈夫だろ?」
「そんな事は無い。熊は平気で家の中に入るそうだ」
「いや、熊と犬は違うだろう」
「同じだ。そこに食料があると知れば、そして飢えた状態だとしたら、人間の論理が通じるものか。まして群れを作っているなら備えていた方が良い」
「パニック映画じゃないって」
「こんな事ならバットくらい持って来れば良かった。できれば武器になりそうな物があればいいけどな」
今持っている傘程度じゃ厳しいか。野球部のフルスイングに耐えられるとは思えん。
まあ心配し過ぎだ。幾ら山の中と言っても人間がいる場所だ。動物がそう簡単に近づくはずもない。
「改めて見てみると、かなり敷地が広いな」
「元々ペンションだったみたいだし、ここに来るには歩くか車しかないだろ。普通は車で来るだろうからな。駐車スペースは確保してたんだろ」
俺たちが世話になっている母屋と、車庫、それに倉庫のような建物もある。
「何だろう、食料庫か?」
「食料庫なら母屋と屋根続きにするんじゃないか? たぶん作業道具なんかをしまう倉庫だろうよ」
「作業道具って、なんだ?」
「そりゃ草刈機とか、そう言う物だよ。こんな場所なんだぞ」
放っておけば草はあっと言う間にここを覆ってしまうかもしれない。
周囲は山の中にある盆地のようで、道路を除けば視界は良くない。更に今は雨のせいで、暗い壁にも見える。
「結構庭先が広く取られているんだな」
「元ペンションなんだから眺めの問題もあるし、あんまり近いと建物にも良くないからだろ」
俺たちはそう言いながら周囲を周った。
「………何か、聴こえないか?」
不意に牛沢がそう呟く。
「いや、雨の音だけだぞ?」
「木々の向こうから何か聴こえるんだが………」
「そりゃこんな密集地帯で雨が降れば音は色々聴こえるだろうけど」
「………そうか?」
牛沢は尚も木々の方を見渡している。
俺は、建物の方を向き、ふと母屋の窓から部屋の中を覗いた。
眼鏡を外した卯月と目が合った。
なぜか、上半身はピンクのブラジャー姿だった。
はっきりと膨らみと分かる部分がパステルピンクの布地に包まれていると言う現実離れした光景に、俺は身動きが取れなかった。
結局ばれた。
*
「………変態覗き魔」
「い、いや、あれは事故だろ。大体なんであんな格好なんだよ」
「埃を被っちゃったからシャワーを借りたのよ。ついでに汗をかいたからシャツを替えてたの」
「着替えを持って来てたのか」
「女子なら歩くと知ってたら着替えくらい持ってくるわよ」
二時過ぎ。
俺たちは一端リビングに集まっていた。
卯月が俺を睨む視線が痛い。視線を外すと、つい胸元に眼が向いてしまう。
「目の方も落ち着いたし、俺も何か読むかな。何か面白そうな物はあったか?」
「あ………。うん、ちょっと気になる、かも」
歯切れが悪く、卯月は話し始める。
「蔵書庫の本のタイトルを斜め読みしてたんだけど、ちょっと奇妙な事があってね」
「奇妙な事?」
研究者の蔵書なんて一般人から見れば奇妙なものだと思うんだが。
「うん。ええと。民俗学を中心に色々な資料の本とかが収められているんだけど、天文学に関する資料とか本が凄く多い。しかもタイトルが冥王星に偏ってるの。中身は見てないけど、もっと多いかも」
冥王星。太陽系第九番惑星と言われていたが、近年準惑星にカテゴリが変わった星だ。
「そりゃまた。でもまあ先生の趣味なんじゃないか?」
「………そう、なのかな。でも」
どこか陰鬱な卯月は一冊の本を俺たちに見せた。
「『ジェイムズ・モリアーティによる冥王星予言の真実』か。面倒くさそうなタイトルだな」
牛沢は興味無い風だったが、俺は一つだけ気になる部分があった。
「………いや、ちょっと待て。ジェイムズ・モリアーティ? それって確かホームズの」
最近は海外ドラマで有名な作品もあった。世界的に有名な探偵小説に登場する人物名だ。
「そう。モリアーティ教授。名探偵シャーロック・ホームズの最強の敵。欧州の犯罪王と呼ばれた男。優れた数学者でもあり、天文学にも精通していた」
「小説のキャラだろ?」
「違うわよ。シャーロック・ホームズは実在の人物で、ジョン・H・ワトスン博士の連載執筆を友人のコナン・ドイルがサポートしたの。ヨーロッパでは犯罪事件記録としても評価されているのよ。もちろん、モリアーティ教授も実在した。論文や著作は今も残っている」
卯月が持っていたその本は、普通に出版されたものではなく、自費出版によるものらしい。
『ジェイムズ・モリアーティによる冥王星予言の真実』の中身を簡潔に纏めると、こんな感じになる。
二十一歳で『小惑星の力学』と言う論文を発表した数学者のモリアーティ教授は、1870年代に太陽系の第九番惑星の位置を算出している。これが『冥王星予言』と言う論文として発表されている。
これは冥王星が実際に発見される半世紀以上前の物であり、探索が始まる時点の十年以上前の物だった。
冥王星の位置は発見される以前から何人かが計算で算出しており、これもそのうちの一つとされた。
しかし、この算出された位置は実際の冥王星とはかけ離れていた為、無価値とされて二十世紀中は忘れ去られていた。
冥王星発見に関わった幾つかの予測が偶然の一致に過ぎないと言う結論も、この論文が忘れ去られた原因だった。
一方、年々発達する観測技術によって冥王星は実は多数の類似天体の一つに過ぎないと結論付けられた。
そして、かつてモリアーティ教授の示した惑星が、実は冥王星ではない別の天体だった事が判明した。教授の死亡は冥王星発見の四十年前であり、否定する者も無く冥王星と混同されたため、論文に価値無しと判断されたのだ。
尚、プルートーと言う名前は発見後に命名された。冥王星と言う言葉は日本では発見後すぐに京都で採用された。『冥王星予言』と言うのは後年付けられた誤訳である。
本来は『ユゴス星の予測』が正しい。
わざわざ自費出版と言う形でこんな本を出す人間が居るのか、と言う疑問を覚える内容だった。
まあ、世の中アマチュア研究家は多いし、自分の研究成果を世に残したいと思うのは当然かもしれないが。
「………それ、外国の論文の訳なのよ」
「………わざわざ論文を日本語に訳して自費出版したってのか?」
執念、と言う言葉が胸に渦巻く。
真実を、何としても真実を残さなければと言う執念が、この本に有るのだろうか。
何かがグラグラと揺れているような錯覚を覚える。
5 宴席
夕方、俺たちはホットプレートを囲んで、焼肉をしていた。
焼肉は正義である。
伏木先生は急な宿泊者である俺たちに、備蓄していた肉類をわざわざ出してくれたのだった。中には山形牛のようなブランドの霜降り肉も入っていて、俺と牛沢の目を輝かせた。
ちなみに野菜は近所の産地直売所で売られている物だそうだ。
焼き肉が嫌いな男子高校生は少ない。女子である卯月も野菜多めで焼肉を楽しんでいるようだった。
色々不安定な表情を見せていたが、それも治ったようでほっとする。
もっとも、それは俺の単純な勘違いだった。
人心地付いたその時、卯月は徐に蔵書庫から借りた本を取り出した。
「この本も先生の研究に関係あるんですか?」
疑問が卯月の中で渦巻いていたのだろう。それを解決しなければならないと言う感情に憑りつかれていた。
「それかい? なかなか貴重な一冊なんだよ。原著はイギリスの221B機関に回収されてしまっているし、モリアーティ教授自身の著作の類もほとんど221Bに回収されてしまっているんだ。
ところが日本では上級学校が明治から大正期に海外の科学論文を輸入して翻訳していてね。この論文も盛岡高等農林学校で翻訳されていたんだ。それを発見した英国人研究家が書いた論文が原著で、日本に逆輸入されて翻訳されたと言うわけだ」
「『221B』ってなんですか?
「イギリスの特務機関で、MI6何かと同じく政府直属機関さ。ホームズの事件簿を読んだ事があるなら、その数字に覚えがあるんじゃないかな?」
「もしかして、ベーカー街221B?」
「その通り。組織の発起人の一人はかの名探偵シャーロック・ホームズだ。もっとも、初代局長になるのを嫌がって、親類の女性に丸投げしたと言われているけどね」
「えーと、先生の研究との関連性は?」
「海外にも天狗が居る。そう言ったら信じるかね?」
「え?」
「服装を替えれば、悪魔のような姿に見えなくも無いと思いますけど」
同じような存在が、別々の地域での衣装を着る事で異なる存在として定着する。
そんな事が起きたとしても不思議は無い。
しかし、今伏木先生が話そうとする事は全く異なる次元ではないか、と思わせる物がある。
「偶然か、それとも意図して選んだのか。その本に記されている『ある事実』は、本来は全く接点の無い民俗学の私と天文学と、そして世界の歴史を結び付けた本なんだよ」
「いや、民俗学と星座は大きな接点がある。農業文化によって星は季節を把握する重要な手掛かりだった。後に暦として広く分布する事で星を見る文化は一部に残るだけとなったが、今でも星に纏わる民話は数多い。しかし、人間が肉眼で確認できる惑星はせいぜい木星だ。見えない星の記録が存在する事など、本来はあってはならない事だと言える。しかしそれは現実に存在した」
「君たちは、ユゴスと言う名前に聞き覚えはあるかな?」
「この本にありました。冥王星の別の呼び名だった。とか」
「それは違う。冥王星が存在を予言されたのは十九世紀半ばだ。発見されたのは1930年。命名されたのは同年。当初は『ゼウス』と言う候補もあったらしいね。結局ローマ神話の冥王『プルート』の名前が与えられた。日本では同年『冥王星』『幽王星』と紹介されたが、戦後は冥王星に統一された。占星術にも取り入れられているものの、比較的新しい名前なんだよ。ユゴスはもっと古い。最低でも千年以上前から、一部の知識者の中でユゴスと言う暗黒星は認知されていた」
「実は冥王星と同じような天体は無数にある。たまたま最初に見つかったのが冥王星で、アメリカの知識者がユゴスと同一の物と定義してしまった。実際は別物だったわけだが、アメリカの研究者は過ちを認める事を嫌がって無駄な時間を詭弁に使う事があってね。未だに訂正されていない。そして、近年、このモリアーティ教授の論文が注目された。教授が計算で出した星は冥王星ではなく別の物だったが、それこそが真なるユゴスだったと主張され始めたんだ」
「私は民俗学の宝庫でもある岩手の古い資料を整理していた事があってね。当時日本でも地学系の最先端だった盛岡高等農林の資料を整理していた時に、その翻訳を見つけたんだ。それを知った海外の研究者が私に接触をして、この本が生まれたんだよ。さっきも言った通り、モリアーティ教授の著作は全て221B機関が回収していてヨーロッパの研究者は手に入れられなかった。貴重な代物だったんだ」
「しかし、ここで問題なのは『肉眼では発見不能の冥王周辺の準惑星を、どうして古代の人間は知っていたか』と言う問題に行き当たる。伝説や妄言ならまだしも、モリアーティ教授は古代の資料からその存在を計算で発見してしまった。真実であると証明してしまった。それに纏わる伝説にも信憑性が生まれてしまった。ユゴスを経由して地球を訪れていた宇宙生物が存在すると言う伝説が!」
「………宇宙生物」
「ヨーロッパの悪魔。日本の天狗。似たような伝承は世界各地にある。その宇宙生物がある程度モデルとなっていたとすれば、話は繋がって来る」
呆気にとられた俺たちを、伏木先生は笑って見回した。
「おっと、呆然とさせてしまったな。これは失敬。まあ、オカルトと言う物は何処にでも貼り付く物でね。囚われると学問としては駄目だが、教養としては必要と言う困った物でもある。さて、そろそろお開きにしようか。片付けは私がやるから、お客様である君たちは部屋でくつろいでくれたまえ。ああ、テレビを観ても構わないよ。あいにくゲームの類は無いけど。お風呂はそのままにしておくけど、沸かし直して入って貰えるかな」
真実と受け止める事もできず、かと言って出鱈目にも聞こえず。
俺たちは顔を見合わせる事すら忘れていた。




