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不完全年初

作者: ざぶろ

 薄暗い中でもわかった。

 人間の死体だ。一瞬戸惑っったが彼はカメラをかまえた。

 頭だと思われるところにはなにやらグチャグチャしたものがあるだけだ。腕や足は形を保ってはいるものの捻じ曲がってしまっているので右左がわからない。一歩足を踏み出すと柔らかいものの感触を感じた。悪寒が走った。踏み出した足を引っ込め、少し離れる。      

 全体像が見えた。

 捻じ曲がった手足はぐにゃりとした塊のようなものから出ていて、つまりそれが胴体だと思うのだが薄暗いのでよくわからない。そして周りには飛び散った血、海のような血。海は広範囲に広がっている。そして体の内容物と思われるものが散乱している。

 血の色が脳の裏側を刺激した。

 この薄暗い中でもそれが真っ赤だとわかるのは、それが彼にとってなじみ深いものだからだ。体の奥底に染みついた感覚を刺激するのだ。血の色だけが、彼の中で確かな色である。それは正確な指針のようなものだ。今までその感覚に何度も救われてきた。

 まさかこの場所で、この感覚を刺すような物に出会うなんて思ってもみなかった。この場所には逃げてきたつもりだったのに。いや、逃げたという言葉を使うと誤解されるか。ほんの少し休憩を取りにきたのだ。

 彼は何枚か写真を撮ると数秒、その死体を見つめた。

 公安局を呼ぶこともしようとせず、ただただ見つめる。ショックで動けない、というのが正しいか。

 甘かった。平穏な場所だと思っていたのだ。永遠に平穏な場所なのだと、勘違いをしていた。今まで吐くことが出来なかった安堵のため息を、この場所で吐き出せると思っていた。とんだ見当違いだ。

 ほんとに、ほんの束の間の休息で良かったんだ。なのにそれすら得ることが出来ない。

 彼の記憶にあるのは完全なる53世紀だ。彼の記憶の中でここは永遠に53世紀をとどめている。閑静な住宅群、豊かな緑、心地のいい風、人々の穏やかな笑顔。夜に空を見上げると一面の星空、人間が入り込む余地のない神秘。公共アーカイブに埋もれて歴史に浸る毎日。混沌とした世界から、そこだけ切り離されているみたいに。

 ここに戻ってくれば、立ち直れるかもしれないと思った。だからなんとかしてやって来た。なのにこの惨状はなんなのだ。一体旧都で何が起きている。こんなものに出くわすような場所ではなかったのに。

 時間の流れを感じた。あれから何年たったと思っている。ここだけがあの平穏を繋ぎ止めたままでいられると思っているほうがおかしいのだ。そんなこと。そんな当然のことわかっていたはずだ。

 ふと、死体が揺れ動いたように見えた。

 まさか。

 錯覚だろう。きっと自分は動揺しているのだ。当然だ。信じていた桃源郷が崩れさったのだ。このまま気絶したっておかしくない。

 しかし死体はまるで棘を出すが出さないか迷っているハゾレイス虫のように怪しげに伸縮を繰り返す。伸縮の幅はだんだんと大きくなる。今まで見た事のないものを見ているような気分になる。瞬きすら出来ず、彼の目は死体に吸い寄せられていく。実際、今まで見たことがなかった。こんな動き方をする死体なんて。

 腕の部分が波打つように動く。皮膚の下に紐状の生物がうごめいているみたいに。波打つような伸縮はやがて胴体の方にも波及した。胴体はやがて、大きく膨張し縮小しを繰り返す。異臭が鼻の奥をついた。それは嗅ぎ慣れた死体の臭いではない。これまで嗅いだ事のない、嗅いだ途端に体が拒絶するような。

彼は鼻を押さえて屈みこんだ。下腹部が痛み心臓が口から出てきそうな感覚に襲われた。力が抜け地面に倒れ込んだ途端、魔法が解けた。

 瞬きをした。彼の止まっていた体が再び活動を始める。浅い呼吸をしながらなんとか立ち上がると、動く死体から離れるために走りだした。

 

 

 53世紀の中ごろ、禁忌に踏み込んだ一人の学者がいた。ジャホ・マクマナンという。ラオ連邦北方の州、コリネッポの小さな町に生まれた。小さいころから一人で過ごすのが好きだった。産みの母親はジャホを産んですぐに姿をくらました。父親はジャホを全寮制の学園に放り込んだ。学園では8歳になると教養の授業を受けなければならないのだがジャホはよく授業をさぼった。紙資料が保存された博物館へ一人で行き、そこで多くの時間を過ごした。そこでジャホは色々なことを知った。社会を動かす人工知能システム、52世紀に完成して以来今も拡大を続けるネットワークシステム、最先端再生医療、広がり続けるクローンビジネス、空白の1万年を経たあとから人類が積み重ねてきた歴史。

 13歳になったジャホは公共アーカイブへと興味をうつした。公共アーカイブには様々な記録、資料が保存されていて町が運営しているカプセル機体からアクセス出来る。公共アーカイブには紙資料のそれとは比べ物にならない、膨大な情報があった。ジャホは夢中になってそれらを読み漁った。17歳になったジャホは学習態度に問題ありで学園を強制退学になった。

 ジャホはコリネッポの南に位置するある工場で正社員の助手として働き始めた。移植のための臓器をつくる工場だ。ルウという中型哺乳類にTUC細胞と移植希望者の遺伝子情報などを植え付け臓器を内部で培養する。ルウの小屋が何十メートルにも渡って並べられている飼育棟、複雑に入り組んだ管理システム、試験官を片手に作業を続ける社員たち。まるで地球じゃないどこか別の星に来たみたいだと同僚に漏らしたという。

 そこで働くうちにジャホは再生医療に関する技術的な知識を身に着けていった。本で読むのと実際にやるのは違う。正社員に頼んで作業の練習をさせてもらうこともあったという。

 数年働いたあとジャホはルシウスの研究所に移った。ルシウスはジャホと同じくコリネッポの工場で正社員として働いていた。ジャホと馬があったのだろうか、自分の研究所をつくると決めるとジャホを誘った。ルシウスは当時はタブーとされていた人間のクローン生産に意欲を燃やしていた。脳の形成を促進する遺伝子が欠損したゲノムをつくる。それを使い胎内を再現した培養漕の中でクローンをつくった。成長を続けるクローンには大脳がない。植物人間として狭いケースの中で成長を続ける。そしてクローンの臓器や各器官は移植希望者に提供された。人間のクローンから取り出された臓器はルウのと比べ働きが良かった。なぜなのかはわからない。しかし希望者の体とうまく調和した。ルシウスの工場はよい移植器官製造工場としてコリネッポにその名をはせた。勿論、人間のクローンであることは隠していた。

 しかしある時情報が漏れてしまった。ルシウスが製造しているのは人間のクローンだとばれてしまったのである。ルシウスとジャホは連邦の刑務所に送られた。

 ルシウスは刑務所で一生を終えた。ルシウスは死ぬ間際に言った。

「俺を刑務所送りにしたことを後悔する日がくる」

 ちょうどそのころルウの体内で培養された臓器の不適合が問題としてあがっていた。移植希望者の遺伝子情報をきちんと盛り込み拒絶反応をおこさないように事を行っているにも関わらず、移植した器官が適合せず死に至ったり再度取り出さなければならなくなったりする。一度うまく協調したと思ってもしばらくたつと機能しなくなってしまう。

 ルシウスが生産した器官は拒絶反応が極端に少ないことで信頼を得ていた。

 ルシウスが死んで数年したのち、ジャホは刑務所から出た。釈放許可が下りたのである。しかし危険思想の持ち主ということで監視がついた。自分の為す事全てを監視される。数年間、常に監視されているストレスを抱えながら生活した。ある時辛抱出来なくなったのか、自分に張り付いていた監視員2人を殺して連邦の外へと逃亡した。

 密航船に乗り込み隣国の共和国に逃げたジャホは二人の捨て子を拾い山奥にこもった。そこに小さな研究所をつくりルシウスがやった事と同じことを始めた。拾った二人の子どもにジャホはあらゆる事を教え込んだ。二人は年齢を重ねジャホの良き助手となる。

 ジャホは培養した脳をもたないクローン人間の各器官を売ることはしなかった。大切に成長させ、少し老いたら捨てる。

 ジャホはある実験をはじめた。近隣の村から死にかけの老人を誘拐してくる。ジャホはクローンにその老人の脳を移植することを始めた。最初はうまくいかず、移植してしばらくたつと老人の脳は死んでしまった。ジャホは研究を重ねクローンと脳をうまく結合し機能させるための神経生成物質の開発に成功した。移植した老人の脳はクローンの体と完全に協調した。最初は新しい体に戸惑っていた老人たちも元気な体で生活するうちに衰えていた脳を再活発化させ、新しい体で新しい人生を歩み始めた。

 しかし新しい体に乗り移ったとしても脳は老化を続ける。新しい若い体からの刺激で一時的に活性化したとしても死滅への道を辿って行くのは同じだ。不老不死になったわけではない。

 ジャホは、人類の寿命の限界を少しだけ伸ばした。それだけ。

 しかしジャホがやりたかったのはそういう事ではなかった。彼が望んだのは一つ、生まれ変わること。今までと違う顔、違う体、違う感覚で生きていくこと。

 5人の生まれ変わりをつくった後、ジャホは二人の助手に言った。

「次は俺の番だ。俺を生まれ変わらせてくれ」


 そして250年あまりが経過した。

 


 

 横瀬(よこせ)(まこと)は社の専用車に乗り込むとモニター画面を操作した。ハンドルは手動にするがナビゲーターはオンにする。

『進路を選択して下さい』

 アンドロイドの人工的な声。横瀬は画面をタッチする。

『了解しました』

 車が静かに動き出した。横瀬はハンドルに手をかける。

「で、どうすればいいわけ?」

 横瀬の隣に座っている男が言った。鎧家(よろいけ)シュンという。

「まあ、まずは様子を見て、それから謝って、説明して、リハビリをきちんとしてもらって、それでなんとかする」

 横瀬が言った。

「契約書にサインしてもらった時にきちんと説明しなかったの? 手術後の状態は人それぞれだって」

「説明したよ。やっぱり手術した後は精神的に落ち着かないのかもしれないな」

「相手が相手だしな」

 鎧家はそう言うとポケットから携帯端末と通信機を取り出した。通信機の画面を見た後すぐにポケットにしまい込む。そして携帯端末をいじりだした。

「そういえば、例の検査もうすぐだ」

 横瀬がハンドルをまわしながら言った。車は上空40メートルに設置された線路に入る。山に囲まれた盆地にある、工場群や住居群がしきつけられた旧都の町並みが見渡せる。

「ああ、あれね。そろそろデータ抽出やり始めたほうがいいんじゃないの?」

「班長に言うか?」

「検査のこと気にするくらいだったら目の前の仕事一生懸命やれって言われそうだ」

「だいたいなんで6班だけいまだに旧式のマシーンなんだ? 新しいコンピューターとアンドロイド、なんで入らないのかな?」

「班長の交渉力が弱いんだろ」

 鎧家は携帯端末をいじりながら言った。

「社交性はある人なのにな」

「それかマシーンのことなんてどうでもいいと思ってるんだ。あの旧式のポンコツのせいで指定されたフォーマットにするのにどれだけ時間がかかることか」

「普段あちこち飛び回ってるから座ってやる作業が苦痛だ」

「しかもあのカルテのコピー紙、あれ指痛くならないか?」

「痛い」

「今度本気で頼みに行かないか? データ管理用にアンドロイド入れましょうって」

「よく考えてみると、一斉検査のための作業なんて実際の仕事とはなんの関係もないんだ。なのにこんなに悩まされる。毎回疑問に思うよ」

「上の連中は、なんで6班がきちんとデータ提出出来ないのかをしっかり考えるべきだな」

「あ、そういえば、知ってるか? サーバーに新しいシステムを導入するらしい」

「それって俺に関係ある?」

「あるんじゃない? よくわかんないけど。あ、そういえば、こないだ鎧家ネットワークからログアウトし忘れてたよ」

「あ、ほんと?」

「たぶん車の使用状況を確認した後だったんだと思うけど。あれじゃあIDを盗まれるかもしれない」

「気をつける」

「本当に気をつけた方がいい」

 車は今まで走ってきた線路から出て下降を始めた。

『並木7番地へと、向かいます』

 アンドロイドの声

「横瀬、そろそろ降ろしてくれていいよ。あとは帝都病院まで歩いていくから」

「悪いな」

「それにしても困るねえ、報酬払ってくれないクライアントっていうのは」

「暴れて病院から会社にクレーム入れさせるクライアントの方が困るよ」

「松本さんって襲いかかってきたりするの?」

「暴力的な人だけど、まだクローンが馴染んでないみたいだから殺されそうになることはないだろうな。それよりも病院に迷惑がかかってないかの方が心配だ」

「しっかりケアしてくるよ」

「頼むよ」

 車が幅の広い道に入ったところで、横瀬は車を端に寄せる。鎧家が車から出た。鎧家が手を振ったので横瀬も手を振りかえした。

 鎧家の病院へ向かって歩いていく後姿を見届けると、横瀬は再び車を発進させた。

 

 横瀬はある小さな家の前に車を止めた。外見は淡い青色をした四角い家で、いかにも女性の一人暮らしといった感じだ。横瀬は車から降りると入口へと向かった。

『どちら様、ですか?』

 入口に備え付けられた人型の認証アンドロイドだ。

伊波(いなみ)医師会会社の横瀬(よこせ)です。今、お時間いただけますかね?」

『だから、払えないっつってんでしょ!』

 突然声がアンドロイドから女性のものに変わった。怒声が横瀬を直撃する。横瀬は頭をかきむしった。

「取りあえず事情を聞かせてもらう事は出来ませんかね?」

『話すことはない!』

 針で刺すような鋭い女性の声。

「まだ料金をお支払い頂いておりません。それにこちらから何度もあなたに連絡をしているのに返信さえ頂けません。これはどういうことでしょうか?」

『払えないのよ!』

「ですから、その事に関しての事情をお聞かせ願いたい。後払いという事で、これでも結構融通をきかせているんです」

『だから払えないの。帰って!』

「せめてお話しだけでも」

『帰って!』

 横瀬は拳で何度か扉を叩いた。ピーという音がした。

『不審者、の、おそれがあります』

 認証アンドロイドのセキュリティシステムが起動しているのだ。

「あの? とにかく中に入れてもらえませんか? 契約書持ってきました。あの時、あなたが同意された文章、もう一度見て下さい」

『だから、払えないの!』

「あの時は払えないなんて言ってませんでしたよね? お付き合いされてる方が大企業の社長さんのご子息なんでしょう? 一体何があったんですか?」

『帰って!』

「ちょっと、いい加減にしてください!」

 横瀬は扉をバンバン叩く。アンドロイドが警告を発するが気にしない。

「こっちはもう随分待っているんです。依頼された通りのクローンを用意した。破格の値段で脳移植もした。社会的立場が不安定なあなたにこれだけの事をした。なのにあなたは報酬をまったく払わない。こっちも商売なんですから」

『無理なものは無理なの!』

「いつまでも逃げられると思ってるんですか? こっちだってあなたを訴えることくらい出来るんですから」

『あたしを、訴える?』

「そうです。うちは優秀な弁護士とつながりを持っています。ここで大人しく僕に事情を話すのと、法機関から膨大な額を請求されるのと、どっちがいいですか?」

『鬼畜!』

「はあ? 鬼畜なのはどっちですか。僕らはボランティアでやってるわけじゃない。仕事なんですよ。あなたみたいなクライアントを掴まされたこっちの身にもなってほしいもんですね」

『とにかく帰って』

「いい加減にしないと、法機関に訴えますよ」

 この一言は効いたようだ。シュー、と音がして扉が開く。

『入って、下さい』

 女性の弱弱しい声がした。

 横瀬が中に入ると、そこには明るい色調の部屋があった。女性らしく小さい小物が飾られている。目の前には小柄の女性が立っていた。口元は引き締まっている。眼元も飢えた小動物のようだ。

「こんにちは、お邪魔しますね」

 横瀬が言った。女性は黙って横瀬に椅子を勧める。

「どうですか、調子は? まだ少し筋肉は弱いみたいですね。きちんと体を動かして下さいね。それにしてもまったくの別人ですよ。お美しい。新しい体、新しい外見を手に入れて、どうですか? 生活は変わりましたか? 引っ越しをするとおっしゃっていましたね。まあ、僕らへの報酬を払えないということは引っ越しの資金もないのでしょうけど」

 女性は黙ったままだ。

「これ、契約書です」

 横瀬はカバンから資料を取り出す。

「16歳ぐらいの少女のクローンを一体、帝都病院での脳移植、入院費、リハビリ代、その他もろもろ含め300万ルード。ほら、あなたしっかりサインしてますよ」

「払えません」

 女性は小さく呟く。

「お付き合いされている方が払ってくれるとおっしゃっていましたね」

「もう無理なの」

「どうして?」

「言わなくてもわかるでしょう!」

 女はそういうと横瀬の頭に銃を突きつけた。

「ほんと、全て間違ってた! 間違ったわ! でもこうなったら仕方ないでしょ。だってお金払えないんだもん」

 横瀬は硬直した。頭に強く突きつけられる銃口、切羽詰った女の様子。

「あ、ちょっと待って下さい。別にお金を奪い取りに来たわけじゃない。事情をお伺いにきたんです。よっぽど大変な事情がおありなら、僕らだって少しは考えますよ」

 声に焦りが出てしまう。これじゃあ逆効果だ。

「だから、無理なの。この先何年たっても300万ルードなんていう大金払えない」

「今からそう決めつけないで。少しずつ考えて行きましょう」

「もう無理なの!」

「落ち着いて、銃を降ろして下さい」

「悪いけどあなたには死んでもらう。あたしはあんたのお金を使って旧都から出る。悪いね」

「ちょっと、待って」

「ほんと、あんたには悪いなとは思う。だけどあたしと関わったのが運のつきだったね。呪うなら運命を呪うことね」

「落ち着いて、大丈夫ですよ! お金なんて、すぐに作れますって」

「せっかく新しい体を得て新しい人生が得られると思ったのに」

 カチ、と音がした。横瀬の心臓の鼓動が速くなる。

「何があったんですか? 僕でよければ相談に乗りますから!」

「もう崖っぷち。だからこれしか方法がないの」

「待って!」

「これしか、ないんだ」

「ちょっと!」


 パン、と音がした。

 

 

 正門を通り入口へと向かう。目の前にはどこかの食品加工工場のような、大きくて白い、四角い建造物がある。正門につけられている表札には旧都伊波(いなみ)医師会会社と書かれている。  

 入口で手を機械にかざす。すると機械が認証をしてくれて扉が開く。

 旧都は日邦国の東に位置する都市だ。開発が進み人口が増え始めたのはここ50年ほどのことで、その前はただの小さな村だった。この伊波医師会会社は30年ほど前につくられた。創立いらい、質の高いクローンや臓器培養で東地域の再生医療、クローンビジネスを支えてきた。

「あ、お疲れ様です」

 横瀬は茶髪の若い男とすれ違った。去年入社したばかりのジュリアン・リーだ。リーは横瀬と同じ課、同じ6班で仕事をしている。

「お疲れ」

「横瀬さん、大丈夫でしたか? 例の女性の」

「殺されかけたけど、大丈夫だった」

「災難でしたね」

「まあ、自分の顔が気に入らないってだけで脳移植するような人だからな。もう何をされても驚かない」

「1日でだいぶやつれましたね」

「ほんと、気性の荒いクライアントは苦手だ」

「結局、どうしました?」

「この先3年のスパンで払い続けると」

「そうなりましたか。お付き合いされていた大きな会社のご子息というのは?」

「だから、ふられたんだよ。察しろ。俺に言わすな」

 ジュリアン・リーは眼元を細めた。面白がっているのだ。

「そういえばさっき鎧家さんが帰ってきましたよ」

「どうなったのかな? 鎧家の方は」

「鎧家さん、松本さんに随分気に入られたみたいですよ」

「なんだそれ。どんな技を使ったんだ?」

「さあ。でもマフィアに気に入られるなんて相当ですよ。実は鎧家さんも元マフィアとか」

「それはないな」

 横瀬はここで働きはじめてちょうど5年目になる。クライアントのケアも病院との打ち合わせも最初は不気味だと思った臓器やクローンの培養室も、もう慣れた。しかしまだ慣れないものもある。班長と一斉検査だ。班長はさておき、一斉検査ではクローンや培養臓器、クライアントなどに関する膨大なデータを幹部が指定した形式にまとめ提出しなければならない。クローンや臓器の培養液、成長度数、温度湿度などに関するデータはコンピューターがまとめてくれるが、クライアントの手術からリハビリ完了までにおけるデータはコンピューターのデータと紙資料は自分たちでまとめなければならない。クライアントに関する情報はセキュリティの問題で紙で保存しているからだ。

「そういえば横瀬さん、このあいだデバイスチャ工業のサーバーがハックされたらしいですよ」

「ハック? 何か盗まれたの?」

「いえ、大した事はされてなかったみたいです。ただふざけたウィルスが入りこんだみたいで」

「へえ、どんなウィルス?」

「端末画面に笑ってる星がたくさん出てくるみたいですよ」

「なんだそれ。くだらない」

「でも面白いですよね」

 ジュリアンはそう言うと腕時計を見る。

「あ、僕もう退勤します」

「へえ、なんか用事でもあんの?」

「友達とご飯します。それじゃ、お先に失礼しますね!」

「あ、待てよ。田村は?」

「今は班長に雑用やらされてると思います」

 田村ナミはつい最近正社員として入社した女性で今はもっぱらパシリか付き添いだ。

「今日は僕、田村と二言会話しました。搬入作業してる時に」

「そりゃあすごい。内容は?」

「好きな食べ物は何」

「なんて答えた?」

「安定剤がたくさん入った中堂屋のケーキだそうです」

「安定剤入りの? あいつ大丈夫か?」

「横瀬さん奢ってあげればいいんじゃないですか? 新人ってそういうの嬉しいですよ」

「今金欠なんだよ」

「僕もです!」

 ジュリアンはそう言うと元気に走り去って行った。横瀬はため息をつく。

 ――早く帰りたい。

 培養室のモニターチェックをしてから帰ろうと考え、横瀬は歩き出した。



 培養室に行くと鎧家がいた。心臓を培養している漕の前に立って、何かを考え込んでいる風だ。

「鎧家、お疲れ。松本さんどうだった?」

「すっかり仲良くなったよ。リハビリ頑張るって」

「さすがだな」

 鎧家は培養液の中で漂う心臓を見つめた。心臓はまるで生き物のように漂っている。鎧家は微かに目を細める。

「どうかしたか?」

 横瀬が言った。

「これさあ、予定より成長が遅いんだよ」

「液の成分は?」

「液の方の状態は悪くない。管理もきちんとされてる。だけど遅いな。移植手術の日に間に合うかどうか」

「細胞植え付ける時に何かとちったかな?」

「さっき作業員に調べてもらったけど特に気になることはないって」

「一応班長に言っとく?」

「あ、俺が報告しとくからいいよ」

 横瀬は漕を指でなぞるようにして触れた。ひんやりとした感触が指に伝わってくる。

「さっきジュリアン、帰ったよ」

「はあ? 早くね?」

「友達とディナーだそうだ」

「いいご身分だな」

「俺もモニターチェックやったら帰るわ。疲れた。鎧家も今日は早めに退勤すれば?」

「でも班長が田村にデータ整理やらせてるんだよ。さすがに一人であの作業はかわいそうだな」

「俺は帰る」

「好きにすれば」

 横瀬は培養漕から指を離した。モニターチェックのため作業室へと向かう。鎧家はその後ろ姿をみて軽くため息をついた。

 ――俺も早く帰りたいわー。



 どんよりした天気の日。横瀬が出勤するとなんだか会社の雰囲気がなんだか慌ただしかった。そうだ、今日は例の日だ。

 嫌な予感に包まれながら廊下を歩いているとジュリアンが向こうからやってくる。

「おはようございます!」

「出勤早くない?」

「そうですか? そういえば、班長が横瀬さんを探してましたよ」

「なんで?」

「さあ。横瀬さんの出勤が遅いって言ってイライラしてました」

「遅いって言われても。出勤時刻ぴったりなんだけどな」

「見事にぴったりですね。でも今日は例の日ですから」

「そういえば例の日だったな。データは整ったのかな?」

「大体はまとめたみたいです」

「大体は? なんだよその不安になる言い方」

 横瀬が第2課6班の班長室に入るとユリアンナが椅子に座っていた。本名は桐生優子というのだが留学時のニックネームがユリアンナだったそうで、同期は皆彼女の事をユリアンナと呼ぶ。ユリアンナは指で机をトントン叩きながら資料のようなものを読んでいた。黒い長めの長髪が乱れている。

 横瀬が部屋に入ってきたのを見るとユリアンナは手の動きを止めた。

「横瀬、君はいつも出勤が遅いね」

 ユリアンナが不機嫌そう言った。横瀬の鼻の奥をいい匂いがつついた。

「班長、コーヒーは何杯飲みましたか?」

「そんな事はどうでもいい。それより田村ナミから今朝連絡があってね。しばらく出勤出来ないそうだ」

「体調でも壊しました?」

「精神がもうダメだそうだ」

「それは、つまり?」

「つまり? じゃないよ」

「何かあったんですかね?」

「質問したいのは私の方だよ。一体どうしたんだ。だいたい今日がなんの日かわかってるのか?」

「一斉検査の提出期限ですね」

「そうだ。今までの商品データとクライアント情報、全部上にあげないといけない。ついでに培養室も環境状態もチェックされる。作業員への聞き取り調査もな。やることがたくさんだ。で、私は田村ナミに部品番号034のデータ資料作成を頼んでおいたんだ。あれがないと困る」

「随分と面倒な部分ですね。そんなの新人に任せたんですか? せめてジュリアンに頼めば良かったのに」

「一番細かくて一番面倒な仕事は新人にやらせるものなんだよ」

「でも結局出勤して来ないわけでしょう? 今回も期限守れなかったらまた評判を落としますよ。あなたはほんとに学ばないですね」

 ユリアンナは拳で机を叩いた。机の端に積み重なっていた資料の山が少しだけずれる。

「そう、そうなんだよ。私たちは一斉検査のたびに評判を落とす。重要なクライアントをまわしてもらえなくなる」

「別にそれでもいいと僕は思いますよ」

「いや、良くない。報酬が下がるばかりだからな」

 ユリアンナは眉間にしわが寄った表情でそう言った。

「で、僕に何をさせたいんですか?」

「言わないとわからないか?」

「田村ナミの家に行って034のデータを取ってくればいいんですか?」

「いや、データだけじゃダメだ。本人も連れてこい」

「でも精神がダメになっているんでしょう?」

「彼女にとって初めての一斉検査だ。上の連中がどれだけいやらしいかを体験してもらわないといけない。それに……」

「別に大したイベントじゃないのに……」

「いや、大事なイベントだ。欠勤なんてありえない」

「僕が行くより班長が直接行った方がいいんじゃないですか?」

「いや、君の方がいい。今朝私が連絡入れた時は無言になってしまった」

「一体何を言ったんですか?」

「私は彼女に威圧感を与えるだけみたいだ」

「ジュリアンは?」

「ジュリアン・リーには培養室の清掃を任せてあるんだ」

鎧家(よろいけ)は?」

「鎧家はさっきからクライアントとの打ち合わせだ。要するに、手が空いてるのが君しかいないんだ。これから田村ナミところに行ってデータと本人を連れて来い。そしてそのあとは」

 ユリアンナは机の引き出しの中からデータが入ったメモリーをいくつか取り出す。

「これらのデータを全部そろっているか確認してから中央サーバーに転送しとけ。これも全部な。上にいちゃもんをつけられないように丁寧にな。転送先間違えるなよ。提出期限まであと3時間だ。急げよ」

 横瀬は軽く目を見開いた後、長い息を吐き出した。

「そんなに終わってない作業があったなんて、信じられない」

「頼んだぞ」

「班長は?」

「私は寝る。ポーカーをしていて徹夜なんだ」

「は?」

「頼んだ!」

 ユリアンナは班長室から出て行った。横瀬はしばらく石のように固まっていたが、やがてユリアンナに続いて班長室から出て行った。


 

 田村ナミの家は会社のある旧都第4地区からは少し離れた場所にある。会社から出てすぐ近くの駅からモノレール乗り第7関所で降りる。そこからは徒歩で御国(みくに)街道を歩く。歩いて数分でナミの家だ。第4地区はモノレールの路線が南淡にも重なり張り巡らされている。横瀬はモノレールを使うたびにその景色に圧倒される。しかし御国街道にいったん入ると、そこには53世紀の残り香が漂っている。空気が澄んでいて閑散としている。古き良き時代の旧都。


 御国街道を数分歩いて目的地に着いた。シルバーのドーム状をした小さな建物。ここがナミの家だ。入口の前に立つと『どちら様ですか』と声がした。割と最新のアンドロイドシステムが採用されている。たぶん前に来たときよりもバージョンアップされている。

「伊波医師会会社の瀬川誠」

 横瀬の顔や声紋、所持品が分析され家の中にいるナミのモニターに情報が提示される。ナミが許可をし、やっと訪問者と会話が出来る。

『あ、横瀬さん?』

 モニターから声だけ聞こえた。

「田村? 元気?」

『何でこんなところに来たんですか? 班長に欠勤の連絡をしたはずです』

 モニターから聞こえてくる田村ナミの声はどこか弱弱しい。

「田村、034のデータ持ってるだろ。それ今日が提出期限だ」

『034……データ』

「今日までに、提出しないといけないんだよ。本当はこう言う事は余裕をもってやるべきなんだけど、まあその事はいいや。とにかくデータ、よこせ」

『それを取りに来てくださったのですね?』

「そうだよ。ついでに田村も連れて来いと言われてるんだけど」

『……すみませんが、今日は精神的に……』 

「精神的にってなんだよ。何かあったの?」

『いえ、ただ、本当に、その、その』

「班長に雑用やらされ続けて疲れた? まあ、新人だから仕方ないよ」

『それは、その』

「とにかく今日は出勤してくれないと困る。頑張って出勤出来ない?」

『今日は、無理です……』

「困ったな」

 どしたらいいだろうか? 取りあえずデータだけ預かって会社に戻ろうか。本人が無理だって言っているんだ。無理強いしてもだめだろう。

「取りあえずデータだけくれ」

『……了解しました』

「まとめ終わってるよな?」

『……はい』

「その間はなんだよ。本当に終わったんだろうな?」

『本当に、終わったんだろうな?』

 おうむ返しにされて瀬川は眉をひそめる。

「おい、大丈夫か?」

『……はい、大丈夫です。データですよね。指定されたフォーマットでの保存も、完了しているので、いま、扉を開けます。開けますので……ますので、中にどうぞ、ぞ、ぞぞ』

「なんか音声途切れてる」

『すす、すみませんが、しかし、しかしその』

 どいうも様子がおかしい。回線の調子が悪いのか? それとも通信アンドロイドがどこか故障したのだろうか?

「田村?」

『はい、はい、今、あけます、デデデ、データを、デ』

「取りあえず中に入れてくれ」

『データは預かっていくよ?』

「そうだ。必要だからな」

『は、ははははい、はい、はいいいいいいいいいいいいいいいいいい!』

 突然聞こえてくる、ノイズ交じりの悲鳴。瀬川の背筋を悪寒が走った。

「おい、どうしたんだ?!」

 扉の取っ手を掴み引っ張るが当然開かない。ポケットから通信機を取り出し登録されている6班の班長室への番号を選択した。

「もしもし」

『横瀬さん? どうしたんですか?』

「ジュリアンか。班長は?」

『寝てます』

 そうだった。

「今田村ナミの家の前にいるんだ。認証アンドロイドを通して会話をしてたんだけどなんだか様子がおかしい。扉も開かないから家の中の様子も確認出来ない。どうしたらいい」

『田村さんは家の中にいるんですよね? 扉を開けてくれないのですか?』

「どうなってるのかよくわからないんだ。それに認証アンドロイドもおかしい。気味が悪いんだ」

『気味が悪いというのは?』

「俺の言った事をおうむ返しにされたりノイズ入りの悲鳴が聞こえてきたりする。認証アンドロイドって故障するとそうなるの?」

『僕も詳しくはないのですが。認証アンドロイドが故障しているとなると中からも操作できなくなっている可能性があるます。取りあえず、そのアンドロイドが登録してあるセキュリティー会社に連絡して暗号解除してもらったほうがいいと思います。そうすれば家の中に入れます』

「公安は呼ばなくていいかな?」

『微妙ですね。でもまずはセキュリティ会社に連絡して家の扉を開けてもらうのが先だと思います』

「なるほど。その、セキュリティ会社? どうやったらわかる?」

『モニターの下の部分に会社名と番号がありませんか?』

 横瀬は数秒視線をさまよわせる。

「あ、これか。わかった」

 そしてリーとの通信を切るとセキュリティ会社へ連絡した。


 

 セキュリティ会社へ連絡してから数分でエンジニアが到着した。係員は認証モニターのカバーをはずすと中に設置されている画面を指でタッチする。なにやら暗号のようなものを打ち込み鍵のようなものを差し込むとアンドロイドが『解除、完了』としゃべった。

「これで中に入ることが出来ます」

 エンジニアが言い終わらないうちに横瀬は扉へ突っ込んだ。データの提出期限まであと1時間45分しかない。

「田村? いるか?」

 中に入り、その小綺麗な部屋を見渡す。置物は少なく、簡素な部屋だ。

「田村?」

 横瀬はそのまま奥へと進んでいく。なぜだかわからないが動悸がした。

 いくつかの小さな部屋を抜け、寝室だと思われるところへ足を踏み入れた。

 その瞬間、横瀬は口を押さえ前のめりに倒れ込んだ。床に手をつき体を支える。後から入ってきたエンジニアも寝室の中を見た途端凍りついた。

 そこには得体の知れないものがあった。色は濃い緑と茶色が入り混じったような色。丸い巨体から触手のような長い物が何本も絡み合って出ている。体液のようなものが海をつくり、ぐにゃぐにゃした間の内容物のようなものも混じっている。

 横瀬は出てきそうな物をなんとかこらえた。

 これはなんだ?

 とても巨大だ。そしておぞましい。なにかの生物の死骸のような。それは横瀬の背丈より高く、部屋の天井に届くか届かないかまでに大きく膨れ上がっている。吐きそうな刺激臭がし横瀬は口を手で押さえた。

「あ、あの、公安、呼びます」

 後ろにいるエンジニアが言う。

「ああ、頼む」

 かすれた声が出た。横瀬は口を押えたままゆっくり立ち上がると壁にもたれかかった。

 何度か指の間から呼吸をした。部屋の窓を次々に開けていく。心地のいい風が入り込んできて刺激臭を少し弱めてくれた。

 横瀬は気持ちの悪い物体に目を向けた。

「これは……?」

 田村が飼っていたペットが突然変異をでも起こしたのか? でも前に横瀬がここに来た時、ペットはいなかった。

 じゃあ何かの実験体か? こんな部屋でする実験なんてたかがしれてる。

 それともこれは何かの人工生物だろうか? 

 こんな生物を生成した研究所はあったか? 

 それより田村ナミは? 田村ナミはどこにいる?

 

 

 

 巨大な生物の死骸のような、謎の物体を見つめていた。そうしているうちに数分が過ぎた。エンジニアは床に座り込んでいる。

 

「あの、旧都公安局です。失礼します」


 入口の方から声がきこえた。公安が来たのだ。数人の局員たちが中に入ってきた。触手が絡みあった濃い泥の色をした物体を見るや目を細める。

「なんだこれは。旧世紀の地球外生物みたいだな。臭いもひどい」

 局員の一人がため息をつくように言った。

「これは生物なのでしょうか?」

 エンジニアが局員に尋ねた。

「さあ。調べてみないと……」

 第4課の槇山(まきやま)ですと名乗ったその局員は周りの部下たちに指示を出していく。触手生物の周りにはテープが引かれ目印が置かれた。部屋の中に新たに局員が数人入ってきて何かの機材を設置していく。

 槇山は横瀬とエンジニアに向き直った。

「詳しい話を局でお聞きします」

「この部屋にいるはずの同僚がいないんです。若い女性なのですが」

 横瀬の言葉に局員がうなずく。

「それについても、お聞きしましょう。そこのエンジニアさんも。あなた、どこの会社?」

「シャルポロンです」

「じゃあ二人とも、ついてきてください」

「……あ、ちょっとまって下さい」

 横瀬の言葉に局員は首をかしげた。

「どうしました?」

「すみません、ちょっと調べてもらいたいことが」

「どうかしましたか?」

「大事なデータを職場に持っていかなければならないのですが。この家にはそのために来たんです」

「データですか?」

「はい」

「今から監査部がスキャニングします。部屋にどんな物があるか解析出来ます。それまで待ってください」

「スキャニングはどれくらいで?」

「そうですね、1時間くらいかな」

 もうだめだ、と思った。この部屋に034データのメモリーがあったとしても提出期限には間に合わない。今から会社に戻り6班のコンピューターから再びデータを取り出すには3時間ほどかかる。いくつもの鍵を解かなくてはいけないし膨大な量のデータから034を抜き出してくるのも骨が折れる作業だ。そしてそれを指定された形にまとめるとなると……。

 だから言っているのだ。もっと高性能なコンピュータを導入するか、もっと早くに準備を始めるようにと。提出期限前になって慌てて作業しようとするからこうなる。だいたい事務員がいないのがおかしい。班員も作業員も皆自分の仕事で忙しいのに。

「あの、上司に連絡していいですか?」

 槇山が軽くうなずいたので横瀬はポケットから通信機を取り出した。



 公安本部のききとり調査をする部屋というのは実に素っ気のないものだ。

 灰色の壁、灰色の床、ポツンと置かれた机と椅子。優しい事務員らしき人がお茶を持ってきてくれたのはいいが冷めている。

「へえ、クローン製造会社ねえ」

 公安に入局してからまだ2年目だというその若い捜査員は軽い口調でそう言った。

「悪名高い、あの」

「悪名が高いってどういう事ですか?」

 横瀬はそう言って冷たいお茶をすすった。

「いい話聞かないですよ。まあ、具体的に言うのは避けますけど」

「法には触れてないし、誰も殺してない。迷惑になるようなことはしてません」

「まあ、クローンビジネスに救われてる人がいるのも事実ですけどね、物事には良い面と悪い面がある」

「良い面の方が大きいのです、クローンビジネスは」

 この業界が盛り上がったことにより臓器移植や脳移植がさかんになった。障害や病気をもっている人は勿論、老人が体を入れ替えることにより死ぬ間際まで健康でいられるようになった。寿命も延びた。それは体を取り替えることにより可能になった様々な犯罪の可能性を考えても、やはり良い面の方が大きいのではないか?

 横瀬がそう言うと捜査員は首を横に振る。

「わかってないなあ。まあ、業界の人がメリットにしか目を向けないのはよくあることだ」

「安易に脳移植した人に、手術した後に恨まれる、なんてことはありますけど。それでも感謝される事の方が多い仕事ですよ」

「まあ、そう思っていれば楽でしょうね。クローンビジネスによって生まれたいろんな負の事柄を忘れる事が出来ますよ、そんな、感謝だとか可能性だとか、そんな言葉ばっかり使っていればね」

 その後も捜査員はクローン業界への悪口を散々言い続けた。捜査員の言葉は横瀬を苛立たせることはなかった。考え方は人それぞれだろう。別に横瀬だって、やりたくてこんな仕事をしている訳ではない。たまたまここしか就職先がなかったのだ。

「で、本題に入りますが」

 横瀬が田村ナミの家の中に入るまでの過程を話した。認証アンドロイドの故障、エンジニアを呼んだこと。そして発見した謎の巨大な物体。

 そのあとは田村ナミの個人的な事について聞かれた。会社での様子は? 性格は? 何か、思い当たるエピソードなどは?

「入社してから数か月ということでしたが」

「はい、2か月前に入社してきたばかりです。なので先輩方の仕事についてまわるというのが彼女の最近の仕事でした」

「見て学べという奴ですね」

「そうですね。あと、培養に使う溶液の材料を製造している工場とか、連携している病院にも顔を出して挨拶したりとかそういう事をしてましたね」

「特に変わった様子は?」

「疲れた様子はありましたけど、特には」

「失踪した可能性は?」

「失踪? 失踪するような人じゃないと思いますよ。でもまだ入社して二か月ですし口数も少ない子なのでわからないです」

「口数が少ない?」

「はい。おとなしいです」

 扉をノックする音が聞こえ、部屋に別の捜査員が入ってきた。

「スキャニング終わりました」

「ご苦労。で?」

「今のところ、特に報告することはないです。詳しい部分やあの巨大生物についてはこれから解析なので」

「了解」

「あの」と横瀬が言った。

「田村ナミの部屋の中にデータが入ったメモリーのようなものはありませんでしたか?」

「メモリーですか?」

 捜査員は横瀬にモニターのようなものを見せる。そこには田村ナミの部屋から検出されたものが一覧になって載っていた。

 しかし横瀬が探しているメモリーが載っていない。

「小型なメモリーなんです。鶴橋工業がつくった非売品で」

「鶴橋工業ですか」

 捜査員は一覧に目を走らせた。

「ありませんね」

「え?」

「ないですよ、そんなメモリー」

「まさか。あるでしょう、きちんと探して下さいよ」

「だからないですよ」

 横瀬はもう一度、一覧を隅々まで見たが目当てのメモリーはない。

「なんで?」

 横瀬の呟きに、二人の捜査員は首をかしげるだけだった。



 会社に戻ると「班長が待っている」と言われた。横瀬は班長室へと急いだ。

 中に入るとユリアンナが椅子に座っていた。

「班長、データのメモリーの件なんですが」

「ああ、今公安から連絡があってね。メモリーがなくなっているというのと、巨大生物の話と、田村ナミが行方不明という話は聞いた」

「田村は行方不明という扱いですか」

「ただ単に田村ナミがいない、という事だったら外出中という可能性もあるが、部屋の中に謎の巨大な物体があった事で事件性が強まった。これから色々捜査するそうだ」

「事件性? まさか」

「でも横瀬も見たんだろ? その、謎の巨大な、死骸のような物体」

 横瀬は頷く。

「田村のこともメモリーの事も気になるが、まあ今のところなんとも言えないね。まあ大したデータじゃないし。とにかく、今日は災難だったな」

 ユリアンナはそう言って立ち上がると机の引き出しから一冊のノートを取り出す。横瀬は嫌な予感を感じた。

「これは私が律儀に記している通称嫌味ノートだ」

 予感は的中した。

「私が上司どもから言われた数々の暴言を記している。例えばだ、これ。6班は別に失くしてもいいんだ、でもそれをしないのはなぜかわかるか? ゴミのようなクライアントを落としておくゴミ箱がなくなるからだ。By会計課長。他にもこんなことも言われた。6班さえいなければ、と何度思った事か。だけど今は6班に感謝している。6班が糞なおかげで他の班が自信を持てるから。By副所長補佐官。それから」

「いや、もういいです。わかりました」

「いや、わかっていない。今、新たに書き記したのがある。これだ。別にもういいんだ、今更6班に期待なんかしていない。心配すらしてない。おまえらみたいな馬鹿は裏社会でもまっさきに抹消されるだろうからな。しかし少しでも申し訳ないと言う気持ちがあるのなら、後でトイレ掃除でもしといてくれ。By情報部部長。どうだ? 私の気持ちがわかるか? 君に? 今回もやっぱり期日には間に合わないと言った時にの、あの情報部長の、あの、顔」

「大変ですね、班長」

 ――部下が行方不明になったのに、この人は。

「大変なんてもんじゃない。胃の中が爆発しそうだ」

「でも培養室の検査とか、クローンたちの管理とか、そっちの方は大丈夫だったでしょう?」

「データがきちんと送信されていないから検証出来ないそうだ」

「それは……」

「6班だけ半月後に再提出だ。これでまた、評判を下げたな。情報を期日までに正確に報告出来ない班は迷惑だと言われた。また仕事が減る」

「もっと早くに準備をしていれば良かったんです」

「その通りだ」

 横瀬は低い椅子に腰かけた。ため息をついてから、ユリアンナを見る。

「部下は行方不明、上からの顰蹙を買う、散々ですね」

「そうだな。金銭面も不安になってきた」

「給料、減るんでしょうか?」

「減るだろうな。仕事が減るわけだから」

「1班が持ってるようなコンピューター、導入しましょう。自動でデータを振り分けてくれるやつ。セキュリティがしっかりしたの」

「金がかかる」

「そんなの、会社全体の売上額から見たら大したことない」

「6班は完全に仲間はずれって事だな。まあ仕方ない」

 横瀬は再度ため息をつく。

「それより横瀬、さっき鎧家が新しいクライアントとの契約終わったんだ。発注はジュリアンにやらせる。横瀬は工場に行ってきてくれ。品が出来たそうだ」

「班長は、仕事は?」

「私はこれからポーカーをする」

「仕事は?」

「私は同期の野郎どもとポーカーをするのが仕事なんだ」

 横瀬は眉をひそめた。この人は、自分が古株なのをいいことにやりたい放題だ。

「なにをぼやっとしてる、仕事行け、仕事」

 横瀬は黙って立ち上がると班長室から早足で出て行った。

 


 鎧家(よろいけ)シュンは目の前の男をみつめた。もう数時間、この顔を見つめっぱなしだ。もうさすがに飽きた。しかしここで目を背けるわけにはいかない。これはビジネスなのだ。

 早くこんな仕事やめたい。日に日にその思いは募るばかりだ。だが今は目の前の事に集中しないと。

「無理です、こんな(がく)じゃ」

 鎧家が言うと男はため息をもらした。

「さっきから言ってるだろうが。この額でやってくれるって聞いたから来たんだぜ」

「誰からきいたんですか? だいたいね、あなたはうちの許容範囲ぎりぎりなんです。他のところだったらマフィアってだけでアウトです。これでも譲歩してるんです」

 男はイライラしたように髪をかきむしった。

「それ以上は出せねえよ」

「つまり、依頼取り消しということで」

「そうじゃねえよ!」

 男は目の前にあるテーブルを蹴とばした。鎧家が身を庇うようにする。

「依頼人はこの俺だぞ。なめた真似しやがったらどんな事になるか、わかるよな?」

「ここで暴力沙汰をおこそうものなら、即刻公安呼びますからね」

「ああ?」

 男は立ち上がり鎧家の方に迫ってくる。

 駄目だこりゃ。

 言葉で話せば話すほど逆上してくる。だからこの手のクライアントは嫌なんだ。

 だいたいマフィアを受け入れてる時点でおかしいのだ。しかし最近この手のクライアントが増えてきている。伊波医師会は成長加速剤を使い早いスピードでクローンを製造出来るからだ。

 今すぐにでも体を入れ替えたいクライアントにぴったりなのだ。

「おまえ」

 男は鎧家の制服の襟をつかむとぐっと引き寄せる。鎧家の体が椅子から浮き上がった。

「こっちはな、今大変なんだよ。今ファザーに死なれちゃ困るんだ。組織存立の危機なんだよ、わかるよな?」

「……ええ」

 むしろ潰れてくれ、と思いながらも鎧家は返事をする。男は鎧家の襟を再びグッと引き寄せた後にぱっと手を放す。解放された鎧家が椅子にどっと座り込んだ。

「よし、わかった。分割払いだ。半分は無事に移植が終わった後に支払おう」

 案外物わかりがいいな、と思って、いけない、と首を振る。違う違う。この前の女性の件で痛い目を見ただろ。しっかりしろ。

「うちは一括前払いが原則なんです」

「ああ?」

「一括前払い出来る人しか受け付けません。そういうルールに変更しました」

「あ?」

「あ、いや……」

 鋭い目つきで睨まれて鎧家はひるんだ。

「この俺が、わざわざ依頼に来てるんんだぞ」

 この男は隣国の忠京連合国のマフィアだ。忠京ではクローンビジネスに関する法がきついので忠京のマフィアたちはよく日邦に依頼に来る。

「わざわざ来たのに、その態度はなんなんだ!」

「ルールはルールです」

 そう言った後で、鎧家はなんだかもういいかな、という気分になった。誓約書にサインでもさせて、もし残り半分が支払われなかったとしても相手が相手だし、上には説明がつく。

 鎧家はすっかり疲労(ひろう)困憊(こんぱい)していた。朝っぱらからずっとこの男の顔を見ているのだ。早く終わりにしたい気持ちの方が強くなってきていた。

「いいでしょう。分割で」

「当然だ」

 マフィアの男はぶすっとした顔で言う。

「書類にサインはしてもらいますけどね」

「は? サイン?」

「はい。クライアントご本人のサインが必要です。あなたのボスのサインをここに」

「なんでそんな面倒なことしなきゃいけねえんだ!? 俺のサインでいいだろ?」

 鎧家はため息をついた。

「わかりましたよ。あなたのサインでもいいです。ここに、お願いします。病院はこちらで手配しますよ」

 男が軽くうなずいたのを見て鎧家はほっと一息ついた。

 この会社に入社した頃が懐かしい。いつからだろうか、なるべく面倒から遠ざかるように、なるべく真実から遠ざかるように。でもこの仕事をしている限りそれは不可能だと知った。

 全てを封印したままにしておくにはどうしたらいいか?

 全てを忘れるにはどうしたらいいか?

 この業界から離れることだ。それしかない。

 男が書類にサインをし終わり、鎧家は書類をざっと眺める。

「大丈夫です、契約成立しました」

 立ち上がった男に向かって鎧家は頭を下げた。客と話したりこうやって頭を下げている間、鎧家はずっと仕事を辞める事を考えている。


 

 

 横瀬は培養室へ入った。真っ先に目に入ってきたのは少年のクローンだ。大きな円柱状の培養漕の中で目をつむっている。端正な顔立ちでまだ13,4歳くらいの体だ。白く透き通るような肌。細い四肢。クローンに脳が移植されたあと、クライアントはリハビリに入る。そこで筋肉をつけ自分が望む体に仕立て上げていく。このクローンは四肢が動かなくなってしまった中年男性のクライアントのためのものだ。軍部出身者で気性が荒く、鎧家は言葉が通じないと嘆いていた。

 横瀬は培養室を見渡す。

 色々な形の培養漕、成長過程もデザインもバラバラなクローンたち。この部屋そのものが多様性という言葉を象徴するかのようだ。1世紀前の人間は思い違いをしていた。遺伝子操作、再生医療の発展、脳移植の実現、人工生物の生産、その先に生まれたのは多様性だ。世界はずっと複雑になった。

「横瀬さん」

 声がきこえた。

 ジュリアン・リーだ。彼は培養室とつながっている作業部屋の窓から顔を出している。

「公安本部から戻ったんですね」

 培養室の奥の方にある扉が開いた。ジュリアンが横瀬の方にやってくる。

「いいのか? 仕事してたんだろ?」

「いや、作業員と談笑してただけです」

「談笑? 今は勤務時間だ」

「大目に見て下さいよ。それより、最近新しい機械導入したんですけど、みんな扱いに困ってるらしいです」

「不良品なのか?」

「いいえ、使いこなせれば便利なんですけど、操作を覚えるまでが大変だそうで」

「それってこのあいだ入れたソニック社のあれ?」

「はい、使いこなせれば受精卵生成が随分楽になるんです。帝都病院の採用マシーンとの相性もいいし」

「来月は鶴橋の新型も入れるらしいしな。今のうちに慣れてもらわないと」

「あ、たぶんそれなくなりましたよ」

「え? 班長、この前鶴橋の新型導入するって」

「撤回になったらしいです。聞いてませんか?」

 ジュリアンは小型の四角い培養漕に指で軽く触れた。まだ赤ちゃん程のクローンがいる。これは臓器移植ように培養しているものだ。

「おまえ、仕事は?」

「この後鎧家さんが契約したクライアントの発注に行ってきます」

「ダラボナの幹部だって?」

「はい、忠京連合国の薬物系マフィアです」

「ほんと、うちはもう少し客を選んだほうがいい」

「この国はこの分野に関して法がゆるい。喜ぶべきです」

「でもクライアントが何かやらかして、それでとばっちりを食らうのは俺たちだ」

「まあ、仕事ですし。それに最近は運が僕たちの方を向いています。江上さんだって訴えるのやめるって言ってたし、コルギアさんも無事退院です。良い事だらけです」

「おまえ前向きだな」

 横瀬はジュリアンに田村ナミの事とデータの事について話した。

「今公安が捜査を始めたところだろう。034データのメモリーが紛失してることも伝えておいた」

「田村さん、どうしたのかな?」

「厄介ごと引き起こすような奴じゃないと思うけどな。公安は行方不明という事で捜査を進めるらしい」

「なんだか心配ですね」

「あと034データの他にも不可解な事があるんだ。田村の家に行った時、家の認証アンドロイドの様子がおかしかったんだ」

「僕に通信してきた時のことですね。あの後は?」

「エンジニアが来てくれた。俺はアンドロイド越しに田村ナミと話したんだ。その時は田村と会話をしていると思った。でもいざ家の中に入ると田村はいなかったんだ」

「認証アンドロイドに声を録音していた? それが横瀬さんと会話をした?」

「いや、それはない。俺の質問にきちんと受け答えをしてた。だからあれは録音じゃない」

「じゃあ認証アンドロイドの言語脳が働いたんですね。ナミがいないから代わりにしゃべった」

「認証アンドロイドは主人の許可なしに本人を騙る(かたる)ことはしないそうだ。だからもし認証アンドロイドの言語脳が働いて俺と会話したんだとしたら、ナミがそうプログラムしたんだ。だとしたら何のために? 」

「もしかしたら田村さんがデータのメモリーをもって逃げた?」

「逃げる? どこに?」

「それは、わかりませんけど」

「だいたいあんなデータ、なんの使い道もないぞ」

「公安は、アンドロイドに関しては?」

「認証アンドロイドを外から強引に解除させたせいで個人的な設定情報が全部きえてしまったらしい。シャルポロンの認証アンドロイドはそういう設計なんだ」

「解析には時間かかかりますか?」

「かかりそうだ」

 ジュリアンは床に培養室の高い天井を見上げた。

 あちらこちらの培養漕からはぼこ、ぼこっと音がする。漕の中の溶液が循環している音だ。それぞれの培養漕からはたくさんの配線が接続されていてクローンの情報を作業室のモニターにうつし出す。作業員はそれを見ながら培養漕の管理、クローン生成を行う。横瀬やジュリアンらは作業員にクライアントの要請を伝え、必要なものを発注し、作業員の管理を行う。

「そういえば、思い出しました」

「何だ?」

「ナミとモニター点検してた時なんですけど、ちょうど1週間くらい前かな。ここを辞めるかもって言ってました」


 ジュリアンとナミが二人で作業をしていた時突然ナミが言った。

『あたしここ辞めるかも』

『どうした、いきなり?』

 これまでにナミがジュリアンに個人的な事を言ってきたことはなかった。

『仕事を続けていく自信がないんだよね』

『入所したばかりなんだから、大変なことがあるのは当然だよ』

『最近あたし変なんだ。夜、仕事を終わって家に帰ると変な気分になる。過去の出来事がフラッシュバックするの』

『疲れが溜まってるんだろ。よっぽど辛いなら数日休みを取れば?』

『過去の場面が走馬灯みたいに流れるんだ。それで、まるで生きてる実感が無くなる。自分の目にうつってるのがなにかの静止画みたいになる。時間が止まった場所に行ったみたいに』

『やっぱり疲れてるんだよ。休んだら?』

『ジュリアン』

『何?』

『あたしは、クローンと話した』

『はあ? クローンがしゃべるわけないだろ。脳のほとんどがないんだ。勿論、言語をつかさどってる部位も。クローンは人間じゃない』

『でも、話したの。あたしと同じ言葉をしゃべった。怖かった』

『ちなみにどのクローンとしゃべったの?』

 ナミはぐるっと培養漕を見渡した。

『忘れた』

『忘れた? 夢でもみてたんじゃないの?』

『でも、誰かとしゃべったの。とても哲学的な内容の会話をした』

『哲学的? どんな?』

『人間が生きる意味や理由について。とても怖かった』

『ナミ、クローンは、人間じゃない』

『でも、人間みたいにしゃべった。あたしもうこの仕事やりたくない』

 その時はナミを早退させた。疲れで妄想がひどくなっているのだと思った。ナミがあんなによくしゃべったのもあの時が最初で最後だ。次の日、ナミは普通に出勤してきた。

『どうだ? 調子は』

『元気よ。それより、あたし昨日ジュリアンに何か変なこと言った?』

『クローンがしゃべっただのなんだの、言ってたけど』

『あたしそんな事言った?』

『覚えてないの?』

『昨日は少しおかしかったかも。なんか、ごめんね』

『相当おかしかったよ』

 今思えばナミのなかで何か異変が起きていたのかもしれないが、その時は気が付かなかった。


「クローンとしゃべった、か。面白いな」

 横瀬が言った。

「クローンと駆け落ちでもしたかな。他の班に消えた培養漕がないか問い合わせてみるか?」

 ジュリアンは横瀬の言葉を無視する。立ち上がって横瀬に向かって手を振った。

「僕、発注行ってきますね」


 

 田村ナミが行方不明になってから数日が経った。田村がいないこと以外は何も変化のない。

 横瀬は談話室に入った。ふかふかのソファがいくつか置かれていてここで休憩を取ることが出来る。

 端の方に目を向けると、鎧家がいた。予想どおりだ。

「ここにいると思ったんだ。これから帝都病院だろ? 班長におまえに付いて行けって言われたんだ」

「別にいいのに」鎧家が言った。

「今日はいつもより量が多いらしい。二人の方がいいって」

 横瀬は鎧家の隣に腰を降ろした。思い切り伸びをする。そしていきなり鎧家の顔をのぞきこんだ。

「なんかやつれたな。朝会った時も思った」

「気のせいじゃないのか?」

「いや、なんかげっそりしてる」

「まあ、ストレスかな」

「ストレスねえ」

「最近周りが落ち着かない気がして」

「確かに。田村の事も気になるしな」

「そういえば知ってるか? 2班の話。作業員で出勤してこない奴がいて、連絡してもつながらないから家に押しかけたら誰もいなかったって。その後も連絡をし続けたけどつながらないから公安に届けを出したそうだ」

「へえ、そんなことあったんだ」

「2班は他にもあって、先月鶴橋工業の幹部が2班の培養した腎臓を移植したんだ。だけど動きが悪くなって取り出したらしい」

「そんなの、また培養しなおせばいい」

「それが、動かなくなった腎臓を取り出したあとに感染症にかかったらしいんだ。感染症の治療の間仕事が出来なくて損失が出たって」

「仕事熱心なじじいだ。で、その感染症がどうかしたの?」

「その鶴橋工業の幹部、感染症の原因が移植した腎臓にあるって言ってる」

「まさか」

「勿論事実無根だ」

「ならなんで問題になってるんだ?」

「相手が相手だからな」

「やっぱりそこか」

 鎧家は飲み物入れてくる、と言って立ち上がった。

 二人は同時期に入社した。初めは鎧家が2班に配属されて横瀬は6班だったので特に接点はなかった。鎧家が当時の2班班長と喧嘩をし6班に降ろされた。二人は割と気が合う。

「ほい」

 鎧家が横瀬にコーヒーの入ったカップを渡す。横瀬はごくりと飲み込む。

「鎧家さ、転職すんの?」

「誰からきいた?」

 鎧家が軽く目を見開いて行った。

「ジュリアンが言ってた」

「はあ? なんでジュリアンが知ってんだ。俺はまだ班長にしか相談してない」

「じゃあ班長がジュリアンに言いふらしたんだな。で、ジュリアンが俺に言いふらした」

「おまえら……」

「ここ辞めてどこに行くんだよ?」

「教師にでもなろうかな」

「教師? 鎧家が?」

「時々学生時代を思い出すんだ」

「なんだそれ」

「充実してたんだよ、学生生活。アンドロイドによる全自動介護システムの開発に反対する活動をしてたんだ。人の手でやるべきだと言って。アンドロイドじゃ細かい部分で限界がある。で、そのうちクローンビジネスが盛り上がってきて、老人は体を取り替えれば良くなったから介護システムの開発も必要なくなった。脳移植を拒否した人や、クローンとうまく適合出来なかった人の介護くらいなら今の少ない介護職人口でも足りる。移植した脳は若い体と協調しながら少しずつ老化していき、ある日突然ぽっくり行く。死ぬ直前まで、自由を得たまま」

「それで?」

「それで、クローンビジネスはすごいと思った」

「今でも思ってるんだろう」

「ああ、今でも思ってる。だけどもう疲れた」

「なんだそれは。まだ疲れるほどこの業界で働いてないだろ」

「たしかにな」

 鎧家は指でカップをトントンと叩いた。横瀬がその様子を眺める。

 しばらくして鎧家は立ち上がった。横瀬も続いて立ち上がろうとしたが鎧家は押しとどめる。

「帝都病院、俺一人で大丈夫だよ。それより横瀬疲れてるだろ? モニターチェックして、もう退勤したらいい」

「でも班長に言われてるんだけどな」

「大丈夫だよ。今日は社の専用車が空いてるしアンドロイドも持ってくから」

「そうか?」

 鎧家の後姿を見ながら横瀬はコーヒーを喉に流しこんだ。

 確かに、今日は疲れた。

 


 鎧家は会社が所有している小型の車に乗り込んだ。物の運搬に使うアンドロイドも車に乗せる。

 車を起動し発進させた。目的地を入力し通路を選択する。あとはモニターに異変がないかの確認をしていれば車が勝手に目的地に連れて行ってくれる。この車が空いていてラッキーだ。

 鎧家は音楽をかけた。

 柔らかい音色が響いた。美しい歌声、ゆったりしたリズム。耳の奥に入りこんできて体の中で反響するような。

 やっぱり横瀬を連れてくれば良かったかな。細胞の保管ゲージが思ったより大きかったらどうしようか。まあ、アンドロイドもあるし。

 車は自動で走行する。便利なものだ。鎧家は目的地に着くまでの間リラックス出来る。

『帝都病院まで、あと10分』

 車のモニター部分から声が聞こえてきた。「了解」と返事をする。別に返事をしなくてもそのまま動き続けのだが。

 窓を見ると電灯をつけた車が次々とすれ違っていく。電灯の色は車によって様々でまるで何かの幻影的なショーを見ているようだ。道路に埋め込まれた反射物質も光をはなっている。音楽の雰囲気もありやけに感傷的な気分になった。まだ仕事は終わっていないというのにとてもリラックスしている。むしろその方がいいのかもしれない。どうせ何時に終わるかわからないんだ。気楽に行こうか。

 モニターをみると車が順調に走行しているのがわかる。今日は道路があまり混んでいない。早く着くかも。

『変更、了解いたしました』

 突然、アンドロイドが声を発した。

「変更?」

 モニターを見てみると予定している道がさっきとは変わっている。

「俺変更してないよ」

 モニターをいじって元に戻そうとするのだが機械が思い通りにならない。指でタッチしている通りにならないのだ。

『並木3番街道に、入ります』

「違うって。そっちじゃねえよ」

 旧都病院とは反対の方向に行ってしまう。

「一回止めようか」

 何がおかしくなったんだ。一回停車させるため道路の脇に寄せようとする。しかしハンドルがきかない。ハンドルを手動に設定しなおそうとするがそれすらも出来ない。鎧家は何度もモニターをタッチする。

「どうなってる?」

 設定画面を開こうとするがそれすらも開かない。

「乗っ取られてる?」

 モニターの端にある赤いボタンを強く推した。車の電源を切ろうと思い何度も押すのだが車は起動したまま走行を続ける。

『草道広場へと、向かいます』

「なんで!」

 ポケットから通信機を取り出した。班長に連絡してこの車のマニュアルを送信してもらおう。班長、出るだろうか。

 通信機にあらかじめ登録されているユリアンナの番号を選択した。数秒、低い音がなったあと高い電子音がした。

『はい』

「あ、班長? すみません、ちょっと緊急事態で。今会社の小型車で病院に向かっていたところなんですがコントロール出来なくなってしまって。マニュアル送信してくれませんかね」

『コントロール、出来ない?』

「はい」

『それが?』

「は?」

『それがどうかしたのか?』

 何を言っている、この人は。そこではっとした。

 これはユリアンナの声ではない!

 その時モニターに小さな画面があらわれた。小さな画面はひとりでに動き、次々と車の設定を変更していく。

『今、おまえは私のコントロール下にある』

 通信機から声がした。

「誰だ?」

『今から指示をする。言う通りにしろ』

「おまえは誰だ!」

『これから私はおまえを利用する。言う通りにしろ』

 通信機を切ろうとするがこれも叶わない。通信機が完全にハックされている。車も変更された設定で走行を続ける。草道広場も過ぎ67号線に来てしまった。このままでは旧都から出ることになる。

『何をしても無駄だ。私の言う通りにしろ』

「おまえは誰だ? 何がしたい?」

『まずはこれを見ろ。これに見覚えがあるか?』

 モニターに何かのネットワークの入り口のような画面が出てくる。パスワードを入力しろと文字が出ている。

「おまえは、誰だ」

『いいから質問に答えろ。答えないと、この車を爆発させる』

「そんなこと出来ない。この車に自爆機能なんてついてない」

『私には何でも出来る。出来ない事なんてない』

「脅して言うことを聞かせようなんて、俺には通用しない」

『いいのか? そんな事言って』

 次の瞬間、モニター画面には長いプログラムの羅列、次々と突破されるセキュリティ、変更されていく何かの設定。そして画面に出てきたのは、カウントダウンの表示。あと19分55秒。

「おまえ……」

『私に出来ない事はない。全世界の全てのシステム、全てのネットワークに私は介入出来る。今、宇宙をさまよう衛星を経由して中華連合のミサイルの標準をここに合わせた。市民を巻き込みたくないのなら言う事をきけ』

「俺だって死にたくねえよ」

『なら言う通りにしろ。質問に答えろ』

 カウントダウン画面の横には再び何かの入り口のような画面が出てきた。

『この画面に、見覚えは?』

「……ない」

『よし。ではこれは?』

 そこには別の画面が出てきた。黄色く縁取りされた薄い茶色の画面。

『この画面に、見覚えは?』

「……これは……」

『この画面に、見覚えは?』

「……伊波医師会会社の、共有情報ネットワークの入り口」

『おまえはこのサイトに入れるか?』

「入れる」

『数字を入力出来るようにしてやる。入れ』

 画面に数字キーボードが出てくる。鎧家はおそるおそる手を伸ばした。

『入れ』

 ゆっくりとパスワードを入力する。するといつもの見慣れた画面が出てきた。社員がみな閲覧できるもので、現在各課各班がどんな仕事をしているのかと過去の仕事のデータを参照出来る。

『では、これは?』

 画面が切り替わった。青い画面が出てくる。

『これは何の入口だ?』

「おまえ、これをどうやって」

『いいから質問に答えろ』

「これは、伊波の幹部だけが閲覧出来るネットワークだ。つ俺はここには入れない」

『なるほど。ではこれは?』

 緑色の画面が出てくる。鎧家は目を見開いた。

「おまえ、何の情報を探している?」

『余計な事を話すな。質問に答えろ。この画面に見覚えは?』

「これは、これは俺も初めて見た。だけどたぶん会社の機密データをいれてるサーバーの管理キー入力画面だ。画面上に出てるコードでわかる」

『管理キーを持ってる人間は?』

「情報部の部長と、副所長」

『他には?』

「その2人だけだ」

『わかった』

「おまえはなんの情報を探している? 今度は所長にでもハックするのか?」

『おまえにはこれからやってもらう事がある』

「今度はなんだ?」

『私にはやりたいことがある。そのために手に入れる必要がある。そのためにおまえを利用する』

「何をしたい? 伊波医師会を潰す気か?」

『おまえは私の言う通りにすればいい』

「具体的に言ってくれないと、協力できねえよ」

『いいのか、そんな事言って?』

 ミサイル発射まで残り12分49秒。

「わかった、わかったよ。言う通りにする」

『この車はもうすぐでジェノイドに着く。そしたら5秒間だけこの車のコントロールを手放そう。車から出て通信機を持ったままジェノイドに入れ』

「俺、逃げるかもよ?」

『逃げたらどうなるか、わからないか?』

「……わかった。言う通りにするから」

 車はジェノイドに向かって走り続ける。ジェノイドは個人が経営してるお店で、そこの機器で公共ネットワークにアクセスすると普通は接続出来ないサイトにアクセス出来る。裏ウェブというやつだ。

「おまえもしかしてうちのクライアントに関係ある人?」

『余計な事は話すなと言った』

「なにか迷惑をこうむっているならこんなことしないで普通に訴えればいい。真正面から理不尽を訴えればいい」

『正攻法じゃダメなときもある』

「そんな事言ったって、おまえがやってるのは犯罪だ。俺がおまえから解放されたあとこの車を持って公安に行ったらどうする? すぐに逆探知だ」

『痕跡は残さない。私にはそれが出来る』

「そんな能力があるならなんで俺を標的にするんだ? 直接目標のサーバーや書庫に仕掛ければいいだろ」

『ものにはやり方がある』

「走行中の車をハックするのがやり方?」

『一つ教えてやろうか?』

「なんだ。話す気になったか」

『私がほしいのはカルナ・沙羅・ドルナリに関する情報だ』

 カルナ・沙羅・ドルナリ。その名前は。

『私はその青年に関する情報が欲しい。そのためにおまえを利用する』

 それは、聞いたことのある少年の名前だった。

 いや、聞いたことがあるなんてもんじゃない。その名前は今でも鎧家の奥深いところに傷を残している。鎧家が早くこの会社から、この業界から離れたいと思っている理由。

「その青年はおまえとどんな関係が?」

『その質問に答える気はない』

「そうかい」

 ある時鎧家は真実を知った。知った時から、鎧家の毎日は地獄になった。なんとかして封印しようとしてきた。実際、6班の忙しさは鎧家からそれを忘れさせてくれた。でも真実はなかったことには出来ない。こうしてふとした瞬間に目の前に姿を現す。

「おまえはその青年と知り合いなのか?」

『ジェノイドに着いたぞ。これから5秒間コントロールを離す。通信機をもって車から出て店の中に入れ』

 コントロールがはずれた。その瞬間、鎧家は車のハンドルを手動に切り替え、車の方向を反対しするとスピードをマックスにした。


 カルナ・沙羅・ドルナリ

 それは、鎧家が殺した少年の名前。


 車は物凄いスピードで道路わきのフェンスに激突する。車はフェンスにぶつかった衝撃で上に跳ね上がり下に落下した。

 爆発音が辺りに鳴り響いた。



 久々にまともなクライアントだ。この青年は1年前に事故に会い足を動かせなくなってしまった。体を動かすのが好きで、今の体には絶望しか感じていない。幸いな事に両親はお金持ちなので費用の面での問題はない。精神的にもクローンに脳移植することに躊躇(ちゅうちょ)はない。このあいだの女のように未払いのあげくに横瀬を殺そうとするような事はないだろう。

 横瀬は説明書を見せながら説明をした。

「まずは病院でもろもろの検査をしますね。それで全部パスしたら細胞を採取します。それをもとにこちらでクローンを培養し、1年後に脳移植になります。まあ、おおまかな流れはこんな感じです」

「あの、顔を完全に同じにしてほしいのです」

「了解しました。同じ顔になるように作りましょう」

「あの、もしもなんですが、もしもうまくクローンと適合しなかったら?」

「あなたは若いので大丈夫です。今は神経生成物質も日々進化していますし。もしもクローンに不具合があった場合はその時々で対処します」

「それは、具体的には?」

「具体的に。そうですね、たとえばクローンとうまく適合できずに寝たきりになってしまったとしましょう。その時は視覚プログラムというリハビリを行います。体を動かす感覚を頭の中で再現しそれを実際の感覚に移し替えるという作業です。これは一見難しそうに思いますが専用の機器と専門家のもとで訓練すれば可能です」

「他には?」

「他には、クローンの一部の臓器が動かないといった事もありますがそういう場合はその動かない部分の臓器を培養しなおします。この場合追加料金はかかりません」

「なるほど」

 青年はほっとしたような表情をした。事故に会う前は病院にすら言った事が無く、まだ医療関連機関に対する不信感があるという。

 クローンに脳移植した人の中にはどう頑張ってもクローン部分と繋がる事が出来ず、仕方なく再び脳を取り出し元の体に戻ってしまった人もいるのだがその事は話さないでおこう。また、クローンが馴染まないので元の体に戻りたいとなった時に元の体が廃棄済みで戻れなかったという例もあるのだがそれは最近減ってきている。帝都病院と連携し元の体の冷凍保存システムを強化したのだ。

「だいたいの説明はしましたが、何かご質問は?」

「いえ、大丈夫です」

 青年は笑った。

「楽しみです、よろしくお願いします」



 横瀬は班長室へと向かった。今日は鎧家が無断欠勤、ユリアンナは寝坊、唯一きちんと出勤してきたのはジュリアンと横瀬だけというありさまだ。

 昨日、田村ナミに事が起こったのに、それでも変わらずに仕事は舞い込んでくる。何も変わらずに毎日が流れ続ける。

 さっき契約が終わったばかりの青年の資料を持って班長室に入ると、そこにはユリアンナがいた。

「おはようございます」

 横瀬が皮肉げに言うとユリアンナはうつむいた。

 ――なんだ?

「班長、今新規のクライアントと契約してきました。これが資料です。誠実そうな青年です」

「そうか、ご苦労」

 ユリアンナの声はどこか寂しげだ。

「これから聖少年病院に行ってきます。それから2号漕のクローンがそろそろいい感じです。病院とクライアントに連絡します」

「了解した」

 やっぱり、ユリアンナは元気がない。

「班長?」

「横瀬、非常に言いづらいのだが」

「どうしたんです?」

「鎧家が死んだ」

 ――死んだ?

「昨日、帝都病院に向かってる途中で事故を起こした。重症で病院に運ばれたが即死だった。脳の取り出しも叶わなかった」

 横瀬は言葉も出せずに立ちすくんだ。

「昨日だ。社の専用車と高性能運搬アンドロイドも一緒にお陀仏だ。まったく、道連れにするには値段が高い」

「……死んだ?」

 ユリアンナの声が水中からの声のように聞こえた。そして突然、世界がモノクロになるのを感じた。



 ショックは一瞬だった。それは風のように過ぎて行った。

 後輩が謎の巨大生物を残して行方不明になったって、気の合う同僚が死んだって、でも毎日は同じように過ぎてゆく。新規のクライアントがどんどんやってきて、移植失敗者からの訴訟はぼちぼちやってきて、そしてそれらに対応し続ける毎日。

 

 公安の捜査員が会社にやってきた。ちょうど顔見知りの捜査員だったので横瀬は話かけた。

「その後、どうなってます?」

「田村ナミさんの家にあった謎の巨大生物ですが、なにかのウィルスに感染した動物ではないかという事で調査を進めています」

「ウィルスですか?」

「はい。今データバンクに問い合わせてるんです」

「田村ナミ本人とメモリーの件は?」

「現在旧都市内の監視網を検索している途中なんです。もう少しまって下さい」

「まだですか」

「もう少しかかりますね」

「そうですか」

「一つきいてもいいですか? 田村ナミさんの行方不明になる前日の話なんですが、こちらにはきちんと出社してたんですよね?」

「はい、普通に仕事してましたよ」

「普通に?」

「はい、普通に。彼女はまだ新人だったので、取りあえず先輩方に付いて歩くようなかんじで。確かあの日は事務的な作業をやっていました」

「様子に何か異変を感じたことは?」

「特にはないです」

「なるほど」

「もともと大人しい人です」

「なるほど」

 公安の捜査員は顎に手をあてて相槌をうつ。

「今日わざわざ会社まで調査に来られたのには何か理由があるんですか?」

「いえ、大したことじゃありません。どんな職場なのか様子を見たかったのと、田村さんの上司への聞き取りです」

「田村はまだ見つかるまでどれくらいかかりそうですか?」

「まだなんとも言えませんね」

 捜査員は眉を寄せてそう言った。



 横瀬はブラシでひたすら床を磨いた。手を動かしているうちに無心になれる。

 前はジュリアンが一人で担当していた培養室の清掃を横瀬もやるようになった。鎧家が死んでからだ。

「実際、なんだか死んだっていう実感がないな」

 ただただ無くなっただけだ。

 ジュリアンは横瀬の言葉を黙って聞いている。

「でも不思議だよ。この仕事やってるとさ、死が遠いものに感じる。だって脳さえ生きてるなら大丈夫なんだ。体はいくらでも替えがきくんだから」

 培養漕の中で漂うクローンたちに見守られ、横瀬はひたすら床を磨く。

「なんだか急に現実に戻された気分だよ。いや、違うかな? 逆かもしれない。今は現実じゃないどこか別のところにいるんだ。きっと」

 あの時、鎧家に付いて行けば良かったのかもしれない。

「でも、鎧家も、事故を起こすくらい疲れてたんなら言ってくれれば良かったんだ。あの日鎧家、俺に妙に気をつかって」

 ごしごしと床をこするが響く。

「横瀬さん」

 ジュリアンは手を止めずに横瀬に話かける。

「鎧家さんは、車をどんな設定にして走ってたんでしょうか?」

「事故を起こしたんだから、手動にしてたんだろ」

「でもあの車には事故を起こしそうになったら緊急停止する機能があったはずです。社の専用のやつですよね? あれには旧都の地図と情報が入ってるしネットワークともつながれるので事故なんて滅多に起きないんですよ」

「でも起きたんだよ」

「公安は事故だと?」

「もちろん」

「フェンスを乗り越えて下の線路に落ちるっていうのもおかしいです。というのは、鎧家さんが事故を起こした現場はフェンスに工夫がされてあるんですよ。車が激突しようものなら形状変化するんです。それでも車がフェンスを越えて下に落下したってことは、車の方もフェンスの方もなんの防御システムも動かなかったという事です」

「それで?」

「なんだが僕たちは公安から必要な情報をもらってない気がするんです」

「そのうち連絡くるだろ」

「そうでしょうか?」

「公安を信じていいんじゃないのか?」

 それに真実がどうであれ死んだ人間が生き返る訳じゃない。松本さんがっかりするかなあ、と、ふと思った。



 横瀬は帰り際、班長室に寄った。

「お先に失礼します」

 興奮剤入りコーヒーをすするユリアンナに言った。

「ちょっと待て」

「なんですか?」

「田村ナミが行方不明になったり鎧家が死んだりと悪いニュース続きだがな、今良いニュースが一つ入ったぞ」

「それは?」

「川野が訴訟を取り下げた」

 川野というのは数年前にクローンに脳移植した男性で、無事にクローンが脳と馴染んだところでやっぱり元の体に戻りたいと言ってきた。川野の元の体は杜撰な保存方法のせいで腐ってしまっていた。新しいクローン培養には追加料金がかかる。川野は伊波医師会会社と6班を訴えた。それが1年前のことだ。

「なんで取り下げたんですか?」

「川野側が勝てる見込みがなくなったんだ」

「なぜ? 優秀な弁護士ついてたでしょう」

「その弁護士が先日死んだんだ。その後いい後任が見つからなかったらしい」

「死んだって、なんで?」

「殺されたらしい。詳しくは知らない。だがきっと私たちへのプレゼントだな。喜べ」

 それは、本当に喜んでいいのだろうか?

「少しは元気が出ただろ? ま、今日は帰ってゆっくり休め」

 ――元気なんて出ない。

 横瀬は班長室から出た。

 

 

 数日が過ぎた。

 日数を経るうちに、横瀬の中にある感情も生まれてきた。納得の出来る真実が知りたい。取りあえず田村ナミの行方と鎧家の事故の詳細な原因くらいは知りたい。そうでないと目の前の仕事すらままならない。なのに公安からはいまだに何の連絡もない。

 横瀬は通信機を取り出した。ある番号にかける。

『はい、公安4課の槇山(まきやま)で』

「田村ナミに関しての捜査の進み具合は?」

『特にお知らせできる事はないですね』

「本当に? 鎧家の事は?」

『ああ、そっちは交通事故なので担当が違います。私は関知していません』

「まだ田村ナミの行方はつかめないのですか? あの巨大生物の正体は?」

『現在、捜査を進めています』

「新しくわかったことはないんですか?」

 槇山はため息をついた。

『正直にいいますと、最近弁護士や旧都議会議員の不審死や行方不明もたてつづけに起きていて、我々は混乱しています。一度にこんなに事件が起こる事、今までになかったんです』

「弁護士の不審死?」

『はい。数名の行方不明者もいて、今捜査を進めているのですが』

「そうですか」

『たいしたご報告が出来なくて、情けないです』

「いや、いいんです。あと鎧家の事故のことなんですが……」

『はい、何か?』

「鎧家が使っていた社の専用車は滅多に事故を起こさない機種らしいんです。だから単なる事故というのに納得出来なくて。車の残骸は解析してもらっているのでしょうか?」

『それはちょっと私にはわかりませんね。担当のものに問い合わせてみますね』

「お願いします」

『他にはなにか?』

「いいえ、他には特に。ただわかった事があったら教えて欲しいです」

『心中お察ししますよ。捜査に進展がありましたら必ずお知らせしましょう』

「よろしくお願いします」

『横瀬さんもお気をつけて。旧都は最近、やたらと物騒ですから』


 

 横瀬は帝都病院に向かった。今日は社の専用車が他の班に使われているのでモノレールで病院まで向かう。

 帝都病院は旧都で2番目に大きな病院だ。伊波医師会会社はクローン関連でこの病院で提携している。他国のマフィアや身元が怪しいクライアントの手術も帝都病院が引き受けてくれる。

 最寄駅で降りて少し歩くと橙色の洗練されたデザインの建物が見えてきた。帝都病院だ。

「お久しぶりですね、横瀬さん」

 端正な顔立ちの女性の事務員が細胞の保存箱の搬出を手伝ってくれる。

「最近、どうですか? お仕事の方は」

 事務員が言った。

「まあ、変わらずですね」

「顔色が少し悪いですね。寝てないんじゃないですか?」

「寝てますよ」

「そういえば松本さん、無事退院しましたよ」

「聞きました。リハビリが短期間で済んだようですね」

「はい、適応が早かったです。暴れた時はどうなるかと思いましたが」

 細胞の保存箱を宅配アンドロイドに任せると入院しているクライアントのもとへ向かった。

 病室に入ると15,6歳ほどに見える少女が寝ていた。横瀬が入ってきたのを見ると上体を起こした。

「体調はどうですか?」

「まだ違和感があります」

 大人びた口調で言った。

「クローンとの年齢差が結構あるので馴染むまでしばらくかかると思います」

「頑張ります」

「身分証明書も更新しておきました。退院したらそのまま仕事に戻れますよ」

「はい、ありがとうございます」

 横瀬は病室をぐるっと見回すと軽くうなずいた。

「大丈夫そうですね。まあ、何かありましたら連絡下さい」

「わかりました」

「リハビリに時間がかかりそうでしたら神経生成剤を追加する方法もありますから。状況に応じてやっていきましょう」

「はい。あと、あの……」

「何ですか?」

「鎧家さんは?」

 この人は鎧家のクライアントだ。鎧家は心と体の性の不一致に悩むこの人の話をひたすら聞き続けた。話を聞きに来ただけだというこの人をクローンへの脳移植へと向かわせた。必要以上に親密な関係になっている事は想像出来る。

「申し訳ないのですか鎧家は別の班に異動になりました。あなたの担当は僕になります」

「そうですか」

「何かご用が?」

「いえ、なんでもないです。少し言いたい事がありましたが」

「言いたい事? 鎧家が何か迷惑をかけましたか?」

「ありがとうございますと、言いたかったんですが」

「……言っておきますよ」

 病室から出た。事務員に案内されて事務室に向かった。係員に資料を手渡す。

「来月あたり、臓器移植が3件ですね」

 係り員が資料をペラペラめくりながら言った。

「はい。あと新規のクライアント2人、ここでお願いしたいです」

「了解しました」

 事務的な仕事を全て終え病院から出ると外は暗くなっていた。

 ――今日も一日が終わる

 通信機でネットにつなぎ宅配アンドロイドが無事会社に着いた事を確認する。横瀬はモノレールに乗るために最寄駅へと向かった。

 


 同じように日々が過ぎて行った。公安からの連絡もなくて、もやもやしたものが無くなる事はない。

 同じようなルーティンをこなして家に帰る。

 横瀬はモノレールに乗った。数回乗り換えをして会社とは反対の方へと向かっていく。モノレールには帰宅する人々が、皆とても疲れた顔で乗っている。モノレールに揺られているあいだ横瀬の頭の中は真っ白だった。何のイメージもなんの感情も湧いてこない。

 無事に最寄駅の第3関所駅に着きモノレールから降りた。冷たい風が頬にあたる。

 繁華街から離れたところにあるこの辺りの地域は緑陵地区といいとても静かな地域だ。この静かさに惹かれ、横瀬はここにある小さなカプセルハウスを借りた。小さいが住み心地はとてもいい。

 真っ白な頭でふと、鎧家の事を思った。

 会社を辞めたいと言っていたのを思い出した。もしかして鎧家は自殺したのか?

 そこまで思い詰めていたのだろうか? いや、あいつに限ってそれはない。ならやっぱり事故か。疲れていて車の操作を誤ったのか?

 そういえば田村ナミも。彼女もこの仕事を辞めたいと言っていたというではないか。

 この共通点は偶然?

 当然、偶然だろう。辞めたいと思いながら仕事をやってる奴が大半なのだ、別に気にすることではない。あの会社で伸び伸びやれるのはユリアンナみたいなろくでなしくらいだ。ジュリアンだってきっと悩み事の一つや二つはあるだろう。

 カプセルハウスの前まで来て、ふと異臭を感じだ。これは、嗅いだ事がある。

 はっとなり、横瀬は臭いのする方へ向かって走りだした。

 ――これは。

 いくつかの家と家の間を通り抜けいくつかの細い道を通り抜けた。そして臭いの発信源と思われる場所に辿りついた。そこには立派な豪邸があった。しかし扉が破壊されている。 

 臭いはそこからきていた。

 それにしてもなんなのだ?

 こんな異臭が漂っているのに人一人いない。誰も気が付いていないのか?

 横瀬は豪邸を見上げた。ここは確か、弁護士の中年女性が住んでいる場所ではなかったか?

 破壊された部分から中に入ろうとして、横瀬は足を止めた。

 入っていいのか?

 何かあったらどうする?

 後から後悔しない?

 でもこの臭いは、これは田村ナミの家で見たあの巨大生物の臭いなんだ。

 横瀬は豪邸の中へと足を踏み入れた。


 中は暗かった。しかし真っ暗闇ではない。窓から微かな光が差し込んでくる。そのわずかな灯りを頼りに臭いがするようへと向かう。豪華な装飾が施されている階段をゆっくりと上がった。

 臭いはどんどん強くなっていく。

 ある部屋を見つけた。その部屋から光が漏れていた。誰かいるのか?

 横瀬はそっとその部屋に足を踏み入れた。


 そこには数人の人影と、例の巨大生物がいた。巨大生物が放つ刺激臭に横瀬は思わず鼻を塞いだ。横瀬は人影にばれないようにしながらゆっくりと近づいていった。人影を数えてみると3人いる。影の動く様子を追った。何か作業をしているようだ。手に電灯と入れ物のような物を持っている。

 横瀬は身を屈めて様子をうかがった。

 影は手に持っている入れ物に何かを入れている。どろっとした何かを。おそらく巨大生物の一部分だ。

 巨大生物の一部分を採取している? なぜ?

 もっとよく見ようと横瀬は身を乗り出した。3人のうち1人が巨大生物から何かをはぎとり入れ物に入れている。もう一人は電灯を持っている。あとの1人は小さく細長い入れ物を持っている。しかしいまいち何をやっているのかわからない。

 もっとよく見ようと静かに足を進めた。

 その時だった。

 金属音がした。横瀬が足元にあった何かを蹴ってしまったのだ。

「誰かいるぞ!」

「探せ!」

 横瀬は慌てて部屋から飛び出した。床に散らばっている物を蹴散らしたので音がした。

「あっちに行った、追え!」

「見られたぞ、逃がすな!」

 横瀬は必死で走った。

 途中、階段を踏み外して転げ落ちた。背中に衝撃が走る。

 ――早く、起き上らないと!

 追手の声が聞こえてきた。息を吸い込んで一気に立ち上がる。

 ――走れ、早く。

「あそこだ」

「撃て」

 すぐ近くで追手の声が聞こえる。

 ――早く!

 出口までもう少しのところで、突然脳内を火花が走った。目の前が真っ暗になり、横瀬は崩れ落ちる。

「当たったか?」

「あたった」

 一人の人影が横瀬のもとへと近づいてきた。頬を叩き意識を失っている事を確認するとかつぎあげる。

「どこで殺す?」

「一応持って帰って身元を確認しよう」

「それにしても何で入ってきたんだ?」

「消臭液きちんと散布したか?」

「した。ここの家主の知り合いとか?」

「まあ、とにかく戻ろう」

 3人の人影は横瀬をかついだまま豪邸から抜け出した。そしてそのまま暗闇のなかへなぎれていった。



 知りたい事があった。もう使われていない、古びた道。前世紀まで使われていた乗り物の線路だという。これを辿ったらどこにたどり着くのか?

 どうしても気になって学校をさぼり一人で出かけた。線路を辿り、丘を登り林を抜け1日中歩き続けた。途中、歩きづらい道があったり転げ落ちそうになったりして大変だったがなんとか線路の末端まで行き着いた。そこには廃墟のようなものがあった。朽ち果てていて何がなんだかよくわからない。だが面白い形をした彫像のようなものがあって、きっと何かの娯楽施設だったのだろうと思った。今にも崩れそうな彫像に登ったりしながら一人で遊んだ。

 気が付いたらあたりは暗くなっていた。早く帰らないと。そう思い急いで線路を辿って戻った。無我夢中だったので暗闇に対する恐怖はなかった。

 ――ただいま

 家に帰ると、まず最初に頬に衝撃がきた。母親に殴られたのだ。

 ――痛い。

 そこで目が覚めた。


 薄暗い部屋の中にいた。煙が目に入ってきたので瞬きをする。

 横瀬は自分が床の上に横たわっているのに気が付いた。全身がだるい。

「起きたな」

 男の声がきこえ、足がこっちに向かってくる。襟を掴まれ持ち上げられた。

「伊波医師会の社員だそうだね。所持品は見せてもらった」

 大男だ。深いしわが掘り込まれている。

 ――ここはどこだ?

「おまえ、伊波医師会の社員だって?」

 ――何で知ってる?

「カバンの中の身分証を見せてもらったよ」

 ――こいつらは?

「さらってきちまってなんだが、おまえにお願いがあるんだ」

「……お願い?」

 絞りかすの様な声が出る。

「そうだ。俺たちはキュナードどいって、クローンビジネスに反対している政治団体なんだ」

 ――キュナード

 聞いたことがある。過激な反体制派組織だ。しかし数年前に公安の手によって活動停止に追い込まれたはず。何人か逮捕者も出ている。

 男は横瀬を放すと椅子に座った。横瀬は力なく崩れ落ちる。なぜだろうか、体に力が入らない。

「キュナードには長い歴史があるんだ。キュナードというのはね、ジャホ・マクマナンの2人いた助手のうちの一人の名前だ。ジャホはクローンテクニックの分野では祖としてあがめられてるね。彼が脳移植を可能にしたんだ。知ってるか? ジャホは最後に助手の手を借り自分自身もクローンに脳移植をしようとしたんだ。だけどこれは叶わなかった。なぜか? キュナードとグロードという二人の助手のうち、グロードはジャホの望みを実行しようとした。しかしキュナードがそれを阻んだ。キュナードは脳移植の手術を実行する前日にジャホに火をつけたんだ。ジャホの脳みそは灰になってしまった。俺たちが自分たちの組織をキュナードと名付けたのは、キュナードが正しかった事を今の世の中が証明しているからだ。キュナードは知っていたんだ。ジャホの技術が行き着く先を。お金さえ出せば体を取り替える事が出来るようになった今、人生が完全に商品になってしまった。これは自然の摂理に反することだ。自然の摂理から外れた行いはいずれ自滅を招く。俺たちはキュナードの意志を受け継ぎ、なるべく早くにクローンビジネスを崩壊させると決意した。そして長年にわたって活動してきた」

 横瀬は唾を何度も飲み込んだ。声らしい声がやっと出る。

「キュナードは、公安に粛清されたはず」

 男はその言葉には答えない。

「知ってるか? 培養した心臓を移植した人間の4人に一人が再び臓器を取り出している。培養した胃を移植した3人に一人が食べたいものを食べられなくなる。クローンに脳移植した3人に1人は死ぬ」

 ――そんな嘘、どこで仕入れてきたんだ

「その情報は、間違ってる」

「真実だ。脳移植による死亡は手術の失敗を除くと二つだ。一つは硬化症といってクローンの部分がどんどん硬くなっていく。石みたいにな。ついには脳までかちんこちんだ。でもまあ、その前に心臓が働かなくなってあの世行きだ」

「もし、そんな症状が出たとしたら、脳を取り出してまた移植しなおせばいいんだ。死ぬなんて、ありえない」

「硬化症は進行が早いんだよ。一回硬くなりはじめたらあっという間さ」

「そんな嘘、信じる人間なんているか? それに俺はあんたの言う通り伊波医師会の社員だんだ。何が嘘で何が本当かくらい知ってるよ」

「嘘じゃないさ。本当のことだよ。硬化症の他に腐敗症というのもある。脳移植した直後から腐っていくんだ。これは脳から腐敗してくから必ず死ぬ。助からない」

「そんな症状、聞いたことない」

「そりゃあ聞いたことないだろうさ。隠されているからだ」

「隠されている?」

 ――俺を騙すための嘘か?

「そうだ。硬化症と腐敗症に関する情報は隠されている。全ては伊波医師会の最重要機密だ。幹部しか知ることが出来ない」

「その情報が欲しいのか? だったら残念だったな、俺は平社員なんだ」

「違う。おまえに手伝って欲しいのは別の事だ」

「俺があんたらを手伝うって?」

「まあ、話を聞いてくれ。ある不可解な行動をしたメンバーがいたんだ。そいつはどうやってか知らないが旧都のアーカイブに忍びこんで旧世紀の病原体を持ち出した。そしてある弁護士にそれを飲ませ、自らもその病原菌を取り込み死んでいった」

「病原体?」

「発症すると体が変異する。おまえも見たはずだ」

 ――俺も見ている?

「弁護士の豪邸で」

 ――まさか。

「あの茶色くてどろどろした巨大な生物の死骸みたいなもの。……あれだ。ああなる」

「……嘘だろ」

「女弁護士の豪邸でその死骸の一部を採取した。それを遺伝子解析したんだ。ついさっき解析結果が出たよ。キュナードのメンバーだとわかった。もう一人誰かわからない遺伝情報があったんだが、たぶん女弁護士だろうな」

 一瞬、頭が真っ白になる。

「人間が、ああなるのか?」

「ジュブリスタ菌と呼ばれる。旧都開発当時に騒ぎを起こした菌だ。当時建物の土台つくりのために小さな丘を掘っていたんだ。その時ある層に突き当たった。それからしばらくして作業していた関係者たちに異変が起きた。体が突然変化をおこし短時間で地球外生物みたいになるんだ。調査してみると、ジュブリスタ菌はある特定の層に埋め込まれていることがわかった。当時の開発局はあわてて層を埋戻し菌を解析してワクチンをつくった。そしてジュブリスタ菌のサンプルや情報は全て旧都議会のアーカイブの奥深くに保存された」

「その情報は、本当なのか?」

「ある協力者からの情報なんだ。たぶん真実だろう」

「協力者? そいつは信用できるのか? 人間があんな姿になるなんて、信じられない」

「俺たちも最初信じる事が出来なかった。だけど遺伝子解析をしてみると見事にメンバーのものと一致した」

「その菌をアーカイブから持ち出した奴は誰なんだ? なんでそんなおぞましい物を持ち出した?」

「それがよくわからない。ただ消えたメンバーを追うと必ずジュブリスタ菌に感染し変わり果てた姿で見つかる」

「それは、他人には感染するのか?」

「たぶん、そう滅多な事で2次感染はおこらない。ジュブリスタ菌をある一定量、直接取り込んだ時、発症する」

「そんなことって……」

 あの巨大生物が人間の成れ果てだなんて。 

 ――いいや、嘘だ。俺を騙すための。驚かして麻痺させようとしている。こいつらは過激派組織なんだ。

「証拠は? さっきから硬化症やら腐敗症やら、どうやって信じればいい?」

「まあ、話を最後まできけ。キュナードの数人のメンバーが突然行方不明になり、探してみるとジュブリスタ菌に感染して死んでいると話しただろ? そして必ず弁護士や旧都議員も道連れにしている。これはキュナードの計画じゃなく、メンバーが勝手にやっていることなんだ。俺は、メンバーが俺じゃない誰かに命令されてやっていることだと考えている」

「誰に?」

「誰かはわからない。だけど予想はしてある。その誰かは伊波医師会に近づきたがっている」

「なんでそう思う」

「これだ」

 そう言って男はポケットから何かを取り出す。小さなカードのような紙だ。

「これは『協力者』と協力してつくったIDだ。『協力者』は伊波医師会のネットワークシステムを分析し、共有情報ネットワークにアクセス出来るIDを作り上げた」

 横瀬はカードを指でなぞる。

「このIDカードを使えば平社員として伊波医師会の共有情報ネットワークに潜れる。俺たちはこれを使ってさらに奥のネットワークへともぐり、さらにそれを解析しまた奥へと潜る、というのを繰り返そうと思ってた。そして行方不明になったメンバーは、行方不明になる前にこのIDカードを持ち出そうとしていた事がわかった。きっとその誰かは、キュナードのメンバーをつかってこのIDを手に入れようとしたんだ。これは普段俺と、あと数人の幹部しか入れない部屋に保管してあるんだが」

「そのIDカードで共有情報ネットワークに接続する? どうやって?」

「やってみるか?」

 男はそう言うと部屋の隅にあった小型のコンピューターへ、そのIDカードを差し込んだ。黒い画面に文字の羅列が流れていく。数秒して一つのコードのようなものが出てきた。

 yuKiu346G

「これだ。こうやってIDを認識させる。これでこのコンピューターは、伊波医師会会社の共有情報ネットワークに入ることが出来る」

「これを、どこで?」

 横瀬の声がわずかに震えていたからだろうか、男が訝しげに覗き込む。

 横瀬はそのID番号に見覚えがあった。普段社員同士でもIDを見せ合うなんて事はない。それは個人がしっかり管理しておくものだ。だけど横瀬はその番号を見たことがあった。それは普段から一緒に仕事をする間柄でないと不可能な事だ。

「だから言っただろ、これは協力者につくってもらったIDなんだ。キュナードは優秀な頭脳を持った協力者がいてな」

「嘘なんだろ?」

「は?」

「俺も殺すか? どうやって殺す? 鎧家みたいに車に乗ってるところを狙うのか?」

 IDには見覚えがあった。それは鎧家シュンのものだ。鎧家が共有情報ネットワークで他の班のタスクを確認しているところにたまたま横瀬もいたのだ。

 横瀬の頭の中で何かが繋がった。こいつら反体制派だ。先輩からきいた、昔話が思い出された。田村も鎧家も、きっとこいつらに殺されたのだ。キュナードは何かをしようとしている。そのための犠牲になった。

 背筋を悪寒が走った。

「おい、どういう事だよ?」

 男の声が体の底まで響いた。まるで警告みたいだ。男が話したことのどこまでが本当でどこからが嘘なのか、横瀬にはわからない。だが確かな事がある。

 このままでは殺されるということだ。

「おい、突然どうした? 殺す? おまえを? 違うよ、協力して欲しいんだ。おまえには、キュナードの協力者になって欲しいんだ」

 ――嘘だ。

 恐怖が全身を駆け上がるのを感じた。

 ――どうする?

 どうするって、何を? このままだと死ぬんだ。どうするも何も。

 ――でも、今いる場所がどんなところなのかさえわからないのに。

「おまえの共有情報ネットワークのIDを売って欲しいんだ。勿論、もう会社にはいられないだろうから旧都から出る羽目になる。その後の生活の保障はきちんとするよ」

「IDを、売るって?」

「そうなんだ、売ってほしい。それが必要なんだ。あ、ちょっと!」

 横瀬は走り出した。扉に向かって体当たりする。

 ――開かない!

 ちょうど扉にはガラス窓がついていたのでそれを思い切り叩き割った。

「おい、待てよ!」

 男が声を荒げた。さっきまでとはまるで別人だ。

 横瀬は割った部分から身を乗りだしそのまま部屋の外へと出る。そこにはは薄暗くて長い廊下とたくさんの部屋の扉が並んでいた。

 走った。

 ――どうしたら、外に出られる?

 その時、頭上から声がした。

『キュナードの全諸君に告ぐ。協力者候補が部屋から脱走した。全力で捕えよ』




 横瀬は長い廊下を走り続けた。

 突き当りのところを右に曲がった。その時だった。頭を衝撃が直撃した。

 そのまま吹っ飛び、壁に体が叩きつけられる。

 ――痛い!

 続けざまに棍棒のような物が襲いかかってくる。

 1発目と2発目は避ける事が出来た。3発目が腹を直撃する。

 そのまま後ろに吹っ飛んだ。

 喘ぎ、体を起こすと反対側に階段のようなものが見える。

 そこへ向かって走った。

 その時人影が現れたかと思うと銃弾の雨が盛大に降り注ぐ。

 急いで端に避ける。

 大半は外れた。しかし1発が肩に入り込んでしまった。

 ――気に、するな!

 一瞬、雨が止んでいる間に向かいの方へと移動する。下の方にフロアがあったのでジャンプをして降りた。

 そのまま入り組んだフロアを飛び越していった。

 階段を見つけたのでそこに入ろうとした時だ。誰かに腕をつかまれた。

「うっ」

 躯体の大きな男が銃弾をくらった肩の腕をひねる。男の腹にもう片方の手でパンチを入れるが効かない。

 股間にもう一発入れるとわずかに力が弱まった。

 掴まれてる方の腕を思い切り引っ張る。男の手を振りほどく事が出来た。

 しかし激痛が走った。

 頭が真っ白になる。

 訳も分からずひたすら足を動かし続けた。敵を巻こうと思い、階段を飛び越して横のフロアへと入る。

 銃弾が降ってきた。

 近くに何かの板のようなものがあったのでそれで身を庇う。

 しかし板を突き抜けた銃弾が脇腹へと入った。

「っ」

 板を捨てて反対側へと走る。

 手すりを飛び越えて下のフロアへと移った。

 膝から落ちて骨に激痛が走った。

 なんとかこらえて廊下を走り突き当りを左に曲がった。

 ――ああ。

 右も左も銃を構えた人たちに阻まれている。囲まれてしまった。

 ――ここまでか。

 逃げられない。

 ――いや、でも。

 向かい側に比較的大きな窓が付いている。黒いプラスティックが埋め込まれていて外の様子わからない。仮にこの窓を突破してもまだ建物の中かもしれない。

「ここまでだ、大人しくするんだ」

 ゆっくりと、手を上げた。

「よし」

 一瞬だった。窓に向かって飛んだ。

 横瀬の体は窓を突き破り、そのまま宙へと投げ出された。


 一瞬、意識を失ったみたいだった。

 横瀬は体を起こす。痛みで呼吸が止まった。

 冷や汗が出てくる。必死で息を吸った。

 あたりは木々が立ち並ぶ。後ろを見ると灰色の外壁で覆われた建物がそびえ立っている。

 ――これがさっきまでいた……。

 早くここを離れないと。

 痛みをこらえて立ち上がると、そのまま歩き出す。

 ――足を前に出す事だけ、考えろ。

 肩と脇腹に入った銃弾が体にダメージを与えていた。気を抜いたら気絶しそうだ。

 木の根っこを踏み越え、凹凸(おうとつ)の激しい山道を下った。

 ――どこかで見た事ある。

 既視感、というのだろうか。これと同じような光景を見た事があるような気がする。

 でもその時は、こんなに体が辛くなかった。

 ――思い出した。

 小さいころの事だ。もう使われていない線路を辿って廃墟まで行った事がある。

 昔の話だ。

 どこか懐かしい感じがした。まるでどこかに戻った気分だ。

 戻った? どこに?

 感情がイメージを成して頭の中でぐるぐる回った。不思議なことに自然と体の痛みが消えていくのがわかった。

 まだ世界が優しいかった時の事だ。無我夢中になって線路を辿った。

 きっとここを辿っていった先には、驚くような素晴らしい世界があるに違いない。

 わくわくしていた。

 他に何もいらなかった。

 その期待感だけで、時間を謳歌出来た。

 なぜだろう、今もそんな気分だ。逃げているのに、そんな気分だ。

 今までの記憶がすっぽりと抜け落ちたみたいだ。小さいころの記憶と、今この瞬間が直結している。

 このまま、戻れるかもしれない。

 暖かくて白くて、眩しい。自分のために存在しているし、なにより自分を傷つけない。

 そうだ、まるであの歌みたいだ。

 隣にあったある宗教団体で歌われていた歌。単旋律で、美しくて、儚げで、まるでここじゃないどこかを歌ってるみたいだった。

 母親があそこには近づくなと言った。

 だから行くのをやめたんだ。だけどずっと焦がれてた。

 もしかしたらあの時から、自分は道を間違ったんじゃないのか?

 あの時、自分の求めるものに忠実になっていれば。

 近づけたかもしれないのに。

 あの優しい世界に近づけたかもしれないのに。

 もしかしたら、今からだって遅くないのではないか? 親に否定された道を辿りなおすのに、今からでも十分に間に合うのでは?

 今からだって行ける。きっと。

 だって、あれ? こんなに足が軽い!

 さっきまでの痛みが嘘みたいだ。走れる! ほら、ジャンプだって出来る!

 そうか、今からでも遅くないんだ!

 今までが馬鹿みたいだ。信じ込んでいたんだ。もう無理だって思ってた。だけど大丈夫。

 可能性が道になって目の前に通った。

 この道を行けばいいんだ。何も怖くないよ。だって。

 こんなに足が軽い。自分を阻むものなんて何もないんだ。自由だ!

 自由しかない。自由しかないんだ、世界には。

 見てよ、こんなに空が眩しい。こんなに世界が美しく映った事なんて、今までにあったか? こんなに幸せな気分になった事なんて、今までにあったか?

 ああ、見つけたんだ、見つけた!

 俺は!


 横瀬はまるで操り人形のように軽やかに森を下って行った。

 しばらくして行き止まりに会った。高い崖の下を川が通っている。

 しかし横瀬の足はそこで止まらなかった。

 横瀬の体は、断崖絶壁から落ちて行った。




 横瀬さん、横瀬さん、と、何度も呼ぶ声が聞こえた。

 呼ばれているな、と思って目を開けるとそこには知らない女性の顔があった。

「あ、目を覚ました!」

 女性は嬉しそうに顔をほころばせる。

「先生、目を覚ましましたよ!」

 横瀬は眼球を動かしてあたりを見回した。

 どうやらここは病院で、どうやら横瀬は病人のようだ。



 自分の力で食べられるようになると、体調は急激に良くなっていった。

「薬入りの銃弾二発、打撲多数、骨折が数か所、良く生きていましたね」

 医者が淡々とした口調で言う。

「薬入りの銃弾ですか?」

「うん、幻覚見たりとかしなかった? 妄想がひどくなったり」

「あんまり覚えてないです」

「そうか。骨折は繋がるのにもう少し時間がかかるかな」

「あの、病院に来るまでの経緯を良く覚えてないのですが」

「ヨスミの繁華街で倒れてたんだよ」

「ヨスミの?」

 随分と街中だ。

「ヨスミの繁華街でずぶぬれの服を着て倒れていた。発見した人は驚いただろうね。出血も相当なもんで大変だったよ」

「俺……そこに至るまでをよく覚えていないんです」

「まあ、そのうち思い出すよ。あとで公安の捜査員も来るから、思い出した事あったら話してみるといい。ちなみに事件として扱う方向だとさ」

 横瀬が覚えているのはキュナードのアジトから逃げ出して森を下っていったところまでだ。繁華街まではどうやって行ったのだろう?

「食事の量、増やしますよ。食べるね?」

「あ、はい。お願いします」

「介護ロボット、つけますか?」

 しばらく考え込んで、横瀬は首を横に振った。

「杖、使います」

 医者は微かにほほ笑んだ。



 

 公安局の槇山だと名乗ったその男には見覚えがあった。

「あ、田村の時の」

「横瀬さん、大丈夫ですか?」

 槇山によると、横瀬は1週間前の夕方ころ、ヨスミの繁華街の目立たない細い通路で倒れているところを発見された。そこに至るまでを旧都の監視システムを使い突き止めようとしたが無理だった。突然そこに横瀬が倒れているように見えたという。

「それってありえるんですか?」

「いや、高性能な旧都の監視システムで追跡出来ないなんてありえない。だけど、出来ないんだ」

「俺が空から降ってきたとでも?」

「もしそうだとしたらファンタジーだな」

 横瀬はキュナードのこと、アジトの事を話した。

「そのアジトの場所は、予想はつかないか?」

「逃げるのに必死で。ただ結構奥深い森だった」

「旧都は盆地なんだから、周りは全部奥深い森だよ」

 監視システムは森にまでは配置されていないという。アジトの場所を特定するのには時間がかかる。

「それにしても、キュナードか。しばらく動きがないと思ったら」

「数年前に粛清したんじゃないのか?」

「別に全滅にさせたわけじゃない。活動出来ないようにしただけだ。生き残りがまた活動を始めたとしてもおかしくはない」

「なんで根絶やしにしなかったんだ」

「この国には法律があり、ものには限度がある」

「それはそうでしょうけど」

「あと、これは調べていくうちにわかったんだが、横瀬さんは緑陵地区にある女性の弁護士の邸宅の前で突然消えてる。あなたが(さら)われたと推定出来る日の夜のことだ」

「消えてる?」

「監視システムから、ということだ」

「それは、つまり?」

「システムを外部からいじった人がいるか、それか横瀬さんが本当に突然消えたか、どっちかだね」

「なるほど」

 キュナードのことについては捜査を進める。旧都の監視システムを外部から干渉した人間についても調査を続行するという。

 槇山はその他にいくつかの連絡事項を言うと椅子から立ち上がった。

「それじゃ、お大事に」

「あ、槇山さん」

 横瀬は気になることがある。意識が戻ってからそのことで頭がいっぱいだ。キュナードのアジトであの男に言われたこと。

 勿論、嘘なのだろう。脳移植後の硬化症、腐敗症、人間を変異させるジュブリスタ菌、まるで妄想だ。

 でも、どうしても納得出来ない事があった。

 一番は鎧家のIDのことだ。なぜキュナードが鎧家のID番号を知っていたのか?

 鎧家の件が公安の言うような事故でない事は明らかだ。

 そして、謎の巨大生物の死骸のような物体。あの正体が本当はなんなのか、横瀬はきいていない。

 そして田村ナミの行方も。仮に田村ナミがキュナードに殺されたのだとして、でも遺体が見つかっていない。

「槇山さん、すみません、なんでもない」

「何か気になることでも?」

「いや、大丈夫」

 何でだろう?

 言えばいいのに。気になるなら聞いてみればいいんだ。

「どうも体力が弱ると頭も弱るみたいだ。なんて言おうとしてたか忘れた」

「よくあることです」

 槇山は頭を軽く下げると病室から出て行った。横瀬はため息をついた。



 ユリアンナとジュリアンがお見舞いに来た。横瀬が入院している病院は仕事の連携相手ではないので、横瀬のためにわざわざ来てくれたのだ。

 ユリアンナは横瀬を見ると走って駆け寄ってきて頭を抱きしめてくれた。胸の谷間がちょうど鼻にあたった。

「もう一生起きないかと思ったぞ!」

「そうなったら脳移植してくださいね」

「脳の機能も落ちていっていたんだ。あと数日寝たままだったら本当に脳移植してたぞ!

そしたら横瀬、目を覚ました時には借金地獄だったな」

 ユリアンナはますます強く横瀬を抱きしめた。

「班長、苦しい」

「おお、すまない」

 ユリアンナから解放されて、横瀬は深呼吸した。ジュリアンが困ったような顔で笑っている。ユリアンナの喜びかたが強烈なので戸惑っているのだろう。

 横瀬がいない間の会社での激務について、ユリアンナとジュリアンは細かく説明してきかせた。ユリアンナも培養室の清掃や病院への連絡業務を行ったという。

「班長は、やろうと思えばやれるんですね」

「当然だ。口だけじゃないんだよ、私は」

 ジュリアンが差し入れのお菓子をくれた。おしゃれな包装に包まれている。

「6班は人数が減ってしまったので新しいクライアントを取れなくなりました。今は培養途中の臓器やクローンの管理がもっぱらの仕事です」

 ジュリアンが言った。

「悪いな」

「いえ、田村と鎧家さんがいなくなった時点でだいぶ無理が来ていましたし。幹部は6班の再編に悩んでいるでしょうね」

「幹部に6班を気にかけるだけの脳みそのスペースがあるかな」

「でもさすがに機能しない班があるのは困りますから」

 いくつかの世間話をして、ユリアンナとジュリアンは立ち上がった。

 ユリアンナは去り際にもう一度抱きしめてきた。

「あの、班長」

「どうした?」

「硬化症とか腐敗症ってきいたことあります?」

「なんだそれは? 今年流行する予定の風邪か?」

 ユリアンナが即答だったので、横瀬は安心した。

「いえ、なんでもないです。お見舞い、ありがとうございます」




 ユリアンナは人がいない社内を歩いた。培養漕のモニター監視係が数人いるだけで、あとは空っぽだ。

 閑散とした部屋や廊下をゆっくりと歩く。そこにあるものを眺めまわす様にしながら。

「すっかり、独りだ」

 田村ナミも鎧家シュンもいなくなってしまった。そして横瀬誠も入院中だ。ジュリアンは他の班に編入するだろう。

 すっかり、いなくなってしまった。

 これは自分の監督不届きなのだろうか?

 もっと田村ナミに気をかけていれば良かったのか?

 もっと鎧家シュンを気にしていれば良かったのか?

 もっと横瀬誠の言う事をきいていれば良かったのか?

 いいや、きっと何かをしたとしても、結果はこうなったに違いない。それは長年の経験から導き出した結論だ。だから、今さら罪悪感を感じる必要はない。そもそもそんな感情は枯れてしまっている。

 培養漕の漕の中に、一体の少年のクローンが漂っている。新入社員は即座に理解する。これは器だと。これは人間ではない。でもユリアンナは入社して何十年たった今も、そうは思えない。まるで今にもしゃべり出しそうで、動き出しそうだ。培養室に入るたびにそう思うのだ。

「私だけじゃ、ない」

 透き通るような肌をしているクローン。これをただの器として見ることが出来ない人間は、ユリアンナの他にもいる。これはただの器じゃないのだと信じて利用しようとしている人間もいる。

 感じていた。そういう人間の存在を。

「まあ、関係ないけどね」

 ユリアンナは誰もいない作業室に入った。灯りをつけ、モニターをいじりはじめる。データが次々と流れていく。ユリアンナは画面にタッチした。パスワード入力画面に番号を入れる。そして手慣れた手つきで操作していく。

 関係ないと言いながらなんでこんな事をするんだ?

 自分には関係ないと言いながら、こんなにも密接に関わっている。

 きっとどこかで期待しているのだ。

 自分の嫌いな何かを壊してくれるんじゃないか。そして思うのだ。

 もし壊れる日が来るとするのなら、それをこの目で見てみたいと。

 

 

 

 骨がもう少し繋がるまで入院していなければならないという。横瀬は退屈していた。こうやって寝ているだけで、他にやる事がない。

 やることが無いとただただぼおっとしているか、何かを急激な勢いで妄想するかのどっちかだ。横瀬は後者だった。

 過去のこと、今のこと、あれこれ考えているうちに夜中に独りで泣いたりしてる。

 そしてそんな夜を繰り返すうちにキュナードのアジトで男に言われた事も鮮明に思い出してきた。旧都で相次いで起こっている弁護士や旧都議会議員殺害はメンバーによるもので、たぶん鎧家の事故も奴らによるもので、ただ一つよくわからなかったのはジュブリスタ菌の事だ。硬化症と腐敗症に関しては保留だ。

 キュナードを逮捕するべき理由がこんなにあるのに、奴らは森の奥のアジトでのうのうと生活をしている。

 知らなくてよかった世界に足を踏み込んでしまったなと思って、また号泣した。

 鎧家が死んだ時だって失恋した時だって泣かなかったのに。

 涙が枯れ果てたあとはひたすら何かを呪った。

 孤独は負の感情を肥大化させる。それが学んだことだ。

 そうやって負の感情を肥大化させた横瀬は、あることを決めた。

 

 

 

 話がある。

 横瀬は槇山にそう言った。槇山は公安の仕事の合間を縫って横瀬に会いに来てくれた。

「何か思い出したか?」

「いや、頼みがあるんだ」

「頼み?」

 槇山は訝しげに眉をひそめる。

「退院したら、田村ナミと鎧家シュンに関する捜査に協力させて欲しい」

「どうした、いきなり」

 槇山は動揺しているようだ。

「会社は辞める。あくまで協力者ということで、参加させてくれないか?」

「無理だ、そんなの」

「俺はキュナードの連中に攫われて、たぶん槇山さんたちにとって有益な情報を持ってる」

「ならその情報を今教えてくれ。一般人を捜査に加えるなんて、そんな事出来ない」

「鎧家は、事故じゃない」

「その根拠は?」

「キュナードが鎧家の会社のネットワーク接続に使うIDを持っていた」

「それを、早く言ってくれないと」

「あともう一つある」

「もう一つ?」

「ジュブリスタ菌っていうのは、存在する?」

 槇山の顔色が変わったのがわかった。抑えきれない驚愕が滲み出ている。

「その名前、どこで聞いたんだ? それもキュナードか?」

「ジュブリスタ菌に感染するとどうなるんだ?」

 田村ナミが行方不明になってもうだいぶ経つ。なのに行方を掴めていない。旧都の監視システムの高性能を謳いながら、女性一人を見つけることすら出来ない。

「他に、キュナードの人間に何を言われた? ジュブリスタ菌の他には何か?」

「こっちが槇山さんに質問してるんだけど」

「知らない方がいいことっていうのは、世の中にある」

「それを知りたいと思ったから捜査に協力させてくれって言ってるんだ」

「後悔することになる」

「ここで真実を諦める方が後悔する」

「知らなくていいんだ、あなたは」

「俺はキュナードに攫われたんだ。色々知ってしまった。気になって気になって仕方がない。それに会社に戻ったところで以前のように仕事出来ないと思う」

 槇山は額を押さえて俯いた。くしゃりと前髪をかきむしる。

「……わかった」

 槇山は顔を上げた。

「引き抜き、という非公式な制度がある。優秀なハッカーや能力者を引っ張ってきて捜査チームに加えるんだ。給料は安いが正式な公安局員ではないから比較的自由に動ける」

「たいした能力ないけど」

「そこは芝居だよ。凄い奴なんだと周りに思わせておけばいい。だけど条件がある。チームに加わる以上、情報の出し惜しみはしないこと」

「わかった」

「いやあ、それにしてもなんとも」

 槇山はそう言って無理やり笑顔を作った。口元が引きつっているのがわかる。

「なんとも言えねえや」

 槇山はそう言って横瀬の肩を叩いた。

 

 


 槇山と会ってから数日して、横瀬は無事病院を退院することが出来た。ユリアンナに会社を辞める事を伝えるととても驚いていた。

「色々考えて、自分の手で真実を掴みたいと思ったんです」

「なんだかよくわからんが、詩的な台詞言うようになったな」

「詩的ですかね?」

「休職届、出しておくよ」

「辞めます」

「いや、休職届出しておく」

 ユリアンナはもう一度言った。

「休職届、出しておく」




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