フタゴザ。
「具合悪いなら、帰っていいよ。」
「いえ……2階の休憩室で少し休んできます。」
フタゴザ。
1つの体に2人の自分。
トン、トン、トン。
手摺りを掴む手に力を込めながら、重だるい体を引っぱり上げるように階段を上っていく。
階段を上りきって、小さく背中を丸めながらコックコートの一番上のボタンを外す。
短い廊下を歩く。
ドアノブを回しながら、体重を前方にかけ、倒れ込むようにドアを開ける。
休憩室に人はいない。
左から3番目、一番陽の当たる席を取る。
背中に暖かな陽の光を受けて、顔を両腕に埋める。
ふと、私の中で、冷たい視線を感じた。
向かいの席に、冷たい目をした『ワタシ』が見える。
髪をぐしゃぐしゃにかき混ぜテーブルに突っ伏した『わたし』とは対照的に、すっと背筋を伸ばし、両手をテーブルの上に重ね、落ち着き払った様子でこちらを見据えている。
静かな口調で問いかける。
「まだ頑張れたんじゃないか?」
『わたし』はムッと口をとがらせる。
「朝から具合悪かったし、毎朝吐き気押し殺して出勤してるんだもの。もういいでしょ。」
「妥協するのか?38℃の熱あっても部活出来た精神力の持ち主が。」
「こんな会社でなにを頑張るの?残業代もない、ボーナスもない、2連休もないブラック企業に出すやる気はないわ。」
『わたし』は苛立たし気に溜息をつく。
「部長や工場長も2連休ないだろ。」
「『あの人たちは勤務形態が違う』って、課長が言ってたじゃない。」
「他の人たちも、頑張って働いてるよ。」
「工場は2連休も残業代もあるものね。羨ましい。」
「午後は支店に戻らないと。店長に小言言われるぞ。」
「退職願を出してから、『退職日を延期してくれないか、退職願を取り下げてくれないか』って毎日訊いてくるおばちゃんなんて、顔も見たくないわ。」
「でも、報告しなきゃいけないことと、やらなきゃいけないことが残ってるだろ。」
「あれだけ残業時間溜まってるんだもの、1日くらい良いじゃない。」
「今日は土曜日だ、沢山客が来る。」
「知らないわ。勝手に頑張って。私にはなんのメリットもないもの。残業したら、別の日に残業しただけ早く帰れなんて。こっちも稼ぎにきてるんですけど-。」
『ワタシ』の眼差しが、さらに冷たいものになる。
「……もう、そんなに体調悪くないだろ。仕事に戻ろう。」
「貧血起こしそうにフラフラしながら仕事しろって?冗談じゃないわ。」
「仮病じみたもの使った罪悪感抱えて休むよりはマシじゃないか?」
『わたし』はぐっと押し黙る。
「……大体、今何時よ。なんで休憩室の掛け時計壊れてるのよ。」
「作業場に確認しに行こう。」
「嫌よ。お昼休みに皆がきたら席を立つわ。」
時計は11時25分を指したまま、秒針すらも動かない。
私が髪を1房掴みながらしばらく突っ伏していると、車が砂利を踏む音が聞こえた。
私はゆっくりと振り返り、窓の外へと視線を移す。
配送のトラックが帰ってきた。
「……もう、1時間くらい経ったんじゃないか?」
『ワタシ』が瞑っていた目を静かに開く。
「皆がきたら動くって言ったでしょ。」
『わたし』が質問の意味を察し、頬杖をついて鼻を鳴らす。
「エアコン寒いな。」
「そうね。止めましょうか。」
エアコンを止めようと、私はボタンを押しに行く。
「え……。12時52分?」
『ワタシ』が、小さく驚く。
「おばちゃんたち、50分も前に休憩入ってるの?2階に上がってきてないじゃない。」
『わたし』の声に焦りが生じる。
「車で休憩とってる姿は見えないけど。この時計も合ってないんだろ。やっぱり、作業場に確認しに行こう。」
「……そうね。トイレ行きたいし。」
ぐらぐらする頭、重い体と気分を引きずって私は席を立つ。
ゆっくりとドアノブを回し、ゆっくりと階段を下りていく。
吐き気と、息の詰まる感覚にうんざりする。
トイレに向かう途中、作業場に設置してあるバカでかい掛け時計を見る。
現在、11時50分。
「やっぱり、合ってなかった。」
『ワタシ』は呟く。
「あと10分でお昼休みに入るんなら、仕事しなくていいわよね。」
『わたし』がにやりと笑う。
「……良いんじゃないか。何も出来ることないだろ。」
『ワタシ』の淡々とした口調の中に、わずかに呆れと見限りの色が滲み出ていた。
「あれ、まだ居たの?」
先輩に声をかけられ、私の中の2人はスッと消える。
「あ、はい……。」
「帰りな。誰も心配なんてしないんだから。」
先輩はそう言い、私の前を横切っていく。
呆然とする中、再び2人の私が現れた。
「わたし、必要ないってこと?」
『わたし』が泣きそうに顔を歪める。
「皆、自分のことで精一杯だから、他人のことまで気が回らないんだろ。」
『ワタシ』が諦めたように溜息をつく。
私は作業場を出て、とぼとぼと玄関へ向かった。
「あら、帰るの?」
すぐ後ろから、おばちゃんの声が追いかけてくる。
「……貧血気味なので、帰ります。」
「そう、お大事に。」
そう言っておばちゃんは2階へ上がっていく。
私は、ゆっくりとした動作で、靴を履き替える。
ゆっくりと、玄関のドアを押す。
向かい風が、生ぬるい。
フラフラしながら歩いていると、2人の私が会話し出す。
「本当に帰るのか?」
「そう言っちゃったじゃない、今。」
「……とりあえず、いつも通り1時間休憩を取ろう。お腹が空いただけかもしれない。」
「帰りましょうよ。60時間も残業溜まってるんだもの。今日、そのうちの8時間を消化するだけよ。……でも、そうね。何か食べた方が良いかも。」
車へ乗り、数分間ぼーっとする。
工場長が、工場から出てきた。
視界の端にそれを捉え、昼食を買いに車をコンビニへ走らせる。
少し、ゆっくりと運転する。
コンビニまでは、車で3分程度。
隣の駐車スペースは空いているけれど、ぎりぎり車から降りられる程度にドアを開ける。するりと出る。
コンビニのドアを、ゆっくりと押す。
フラフラと歩いて、とりあえず水を手に取る。
弁当コーナーへ向かう。
「毎日コンビニ弁当なんだもの。飽きちゃったわね。でもパスタ美味しそう。」
「今は半分も食べれない気がするな。」
「食べ始めたら案外完食出来るかもしれないわよ?」
『わたし』はへらりと笑う。
私は、ミートソーススパゲッティを手に取る。
会計に並ぶ。
「パスタは温めますか?」
店員に微笑みながら訊かれる。
「お願いします。」
無表情で、掠れた、小さい声で私は言う。
「ねぇ。『私』さ、店員みたいにもうちょっと愛想良く出来ないの?」
「『貧血気味』という設定なんだろ?笑顔じゃまずいだろ。」
店員が微笑みながらパスタの入った袋を渡す。
「お待たせしました。ありがとうございました。」
私は小さく頭を下げ、フラフラとコンビニを出た。
車の運転席に沈み込むように座る。
私は買ってきた水を一口飲む。
「とりあえず、支店に戻ろう。」
「……分かったわよ。コンビニの駐車場で昼食摂りたくないものね。」
『わたし』は肩を竦める。
「店長、休みだと良いわね。会いたくないわ。」
「そう考えていると、大抵いるもんだろ。」
「そうねー。」
『わたし』は棒読みで返す。
私は車を発進させ、支店に向かう。
支店の第2駐車場で昼食を摂る。
ミートソーススパゲッティを、何とか食べきる。
「完食出来たわね。」
「でも吐きそうだ。」
私は吐き気を押し込めるように、水を一気に飲む。
座席を倒し、15分程横になる。
携帯の時計を見る。
「……そろそろ1時になる。行くか。」
「……はぁーい。」
『わたし』はしかめた表情と対照的に、子供のように努めて明るく返事をした。
私は車から降りる。
相変わらず、風が生ぬるい。
先程まで輝いていた太陽と青空が、横になっている間になりを潜めた。
この曇天よりも暗い面持ちで、私はフラフラ歩く。
短い、緩やかな坂を下る。
「今日も、同じこと訊かれるんでしょうね-。まったく毎日毎日……。」
「仕方ないだろ。人手が足りないんだから。」
「1ヶ月に1人くらいのペースで辞めていくものねー。……げ。」
「あ。」
支店の裏口から、ちょうど店長が出てきた。
今から休憩に入るのだろう。
「早速会った……。」
『わたし』はげんなりとした表情を浮かべる。
店長が私に気付く。
「あ!お疲れ様-!」
「お疲れ様です。」
店長の明るく大きな声とは反対に、私は小さく冷淡な声で返す。
「どうしたの暗い顔して。大丈夫?」
店長は心配そうな顔で私を見る。
私は店長を視界の端に追いやり、支店の赤茶色の土壁を見つめた。
「……ちょっと、貧血気味で。」
私はぼそりと呟く。
「あらそう。帰るか?」
「……あ、じゃあ……。」
「うん、いいよ。帰って。あたしが今皆に言ってくるから。」
「いえ、私が言って……。」
「はい。じゃ、お大事にね。お疲れ様ー。」
そう早口で言うと、店長はせかせかと支店に戻って行った。
「……言ってしまったな。」
『ワタシ』が、呆れたように店長を見つめる。
「というか、人の話聞きなさいよ。だから嫌なの。」
『わたし』が、苛立ったように奥歯を噛み締める。
「退職のことについて訊かれなくてよかったじゃないか。」
「そうだけど……。」
「……帰ろう。言ってしまったものはしょうがないだろ。」
『ワタシ』は諦めたような目で第1駐車場を見る。
駐車場には8割程度、車が入っている。
こんな田園風景の中にぽつんとあるレストランなのに。
私は、踵を返す。
「早退なんだから、午後の外出は控えよう。」
「分かってるわよ。」
『わたし』は眉間に皺を寄せる。
少し、暗い目をしている。
『ワタシ』は宥めるような目で、けれど、淡々とした中に軽蔑を込めた口調で呟いた。
「……だから言っただろ。『仮病じみたもの使った罪悪感抱えて休むよりはマシじゃないか』って。」
「うるさいわよ……。」
『わたし』は弱々しい声で悪態をつく。
体の中心に、ずっしりと鉛の球を入れられた気がした。
私は車に戻るため、元来た道をゆっくりと歩く。
「……結局、早退か。」
私はコンクリートの地面を見つめ、自嘲気味に呟いた。