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「…………」
どうやら母さんと最後の別れをした後、私は意識を失ったか眠ったらしい。あの後の記憶が無いし、少しだけ体に熱が戻っているのがその証拠だ。
呼吸器は外されているようで、点滴の針の異物感と心電図の電子音はそのままだった。
変わったのは、右手にある温かさ。重たい瞼を少し開いて右へ視線を向ける。
部屋の電気は消され、寝台に備え付けられた電球の光だけが私の右手を握る人物を照らしていた。
「……静治」
「悪い、来るのが遅れた」
そう言って、彼は悲しげに笑う。
恐らく、母さんの死を知ったのだろう。そしてそれが原因で私がこうなっている事も。
「お前が倒れたって藤堂先生が連絡くれてな。家にいる時ならよかったけど、県外に遠出してたから時間掛かってしまった」
「いいよ、別に。ありがと」
私が弱々しく笑うと静治も笑ってくれる。だけど悲しみが混ざっているのは変わっていない。窓を見ると闇に染まった夜の空が見えた。
「今、何時?」
「丁度、十一時になった」
そう言って静治は携帯の時刻を見せてくれる。
「面会時間はいいの? それに、明日学校は?」
「面会は藤堂先生に許可をもらっているし、学校のことなら心配ない。単位を取るなんて楽勝だからな」
留年したくせにと、苦笑した。
「ねえ、静治。冷蔵庫に飲み物ある?」
「……あー、何もないな。何か買ってくるか、ていうか飲めるのか?」
「少し良くなってきたから、大丈夫。いつものリンゴジュースお願いできる?」
「わかった、少し待ってろ。売店開いてないから近くのコンビニで買ってくる」
名残惜しそうに手を離した静治は部屋を出ていく。一人になった部屋で私は呟いた。
「瑛子さん」
直後、窓の傍に瑛子さんが現れる。夜に溶けるような黒いライダースーツを着ていた。
「どうしたの? 彼は部屋を出て行ったけど」
「話が、したかったんです」
瑛子さんは僅かに頷き、私の言葉を待つ。
「もう、行くんですか?」
「そうね。そろそろ期限が切れるから、日付が変わる前には行くわ」
あらかじめ決められていた十三日の求人期間は終わろうとしている。それは別れを意味していた。
「私の死期は、近いですか?」
その質問を予想していたのか、瑛子さんはさして驚いた様子もなく答える。
「答えられないわ。例え適性を持った相手でもそれを話す事は絶対に許されないの。一応決まりだから。ごめんね」
瑛子さんは申し訳なさそうに目を伏せる。だけどその決まりを破って母さんの遺言を伝えてくれたのだから、瑛子さんにはどれほど感謝してもしたりない。
「気にしないでください、瑛子さん。私は瑛子さんの御蔭で色々な事を知る事が出来たし、最後に母さんの言葉を訊く事が出来ました。それに瑛子さんは、私を一人にしないでくれた。それだけでもとても嬉しかったんです。本当に、言葉にできないくらい感謝しています」
寝たままの姿勢で少し失礼だったが私が礼を述べると、瑛子さんは薄く微笑んだ。
「いいのよ、私がやりたくてやった事だから」
微笑みを浮かべたまま瑛子さんは窓の外へ視線を向ける。
「じゃあ、そろそろ行くね。いつになるかは分からないけどあなたの魂は私が迎えに来るから、その時に〈死神〉になるかどうかの答えを聞かせて」
「いえ、今でいいです」
瑛子さんは意外そうな顔で私を見つめる。そして困惑するように問いを口にした。
「……いいの? 別に私は急いでいる訳じゃないわ。それに最終的な決定は器を、肉体を失った時に決めるの。だから今じゃなくても――」
「生きているうちに瑛子さんに会えるのはこれが最後だから、今がいいんです」
瑛子さんは「わかった」と言って頷いてくれた。それを見た私はゆっくりと口を開く。
「私は、〈死神〉になろうと思います。瑛子さんのように色々な人に会って、傍にいてあげたいんです」
瑛子さんは驚いたような表情をし、私はさらに言葉を続ける。
「私はいつも一人でした。母さんと静治がよく来てくれたけど、帰った後は酷く寂しかったんです。だけど瑛子さんが来てからは全然寂しくありませんでした。いつも傍にいてくれて、私の知らない事をたくさん話してくれたから、寂しいどころかとても楽しかったんです。だから私は瑛子さんのように、誰かの傍にいてあげたいって、そう思っています」
私の話が終わっても瑛子さんはしばらくそのままだったが、不意に呆れるように溜息を吐いた。
「辛いわよ」
言葉と同時に瑛子さんは表情を真剣さで満たす。
「結衣が言っている事は必ず来る別れを承知で誰かの傍にいるという事よ。生きている時は別れなんて考えないけど、私の仕事は別れを前提に行う。あなたはそれを受け入れられる?
それに普通の〈死神〉の仕事もそれに負けず辛いわ。誰にも触れられず、誰にも聞こえず、誰にも見えないということを嫌でも実感して、魂を送る仕事をするの。唯一同僚たちとは普通に接することは出来るけど、それでも仕事の辛さは消せないかもしれない。だからこそ〈死神〉のほとんどは長続きしなくて、記憶を消して新しい命としてこの世に来ることを望むわ。正直言って辛い事の方が多いわよ」
いつもの穏やかな雰囲気を完全に取り払った瑛子さんには言葉にならない凄味があった。感覚が鈍い私でも感じられる圧力。頭に響くように重い言葉。目をそらせない力強い瞳。
それらを目の当たりにしながらも、私は言葉を紡ぐ。
後悔しないように生きると決めたのだから。
「それでも、いいです。別れが辛いからこそ知らない誰かとの出会いと、一緒にいる時間を、大切にできるから」
「…………若いわね、結衣。後に辛さが来るとしても今ある幸福を選ぶ、か」
その言葉は蔑みでも賞賛でもなく、ただ単純にそう思ったから口にしたように見えた。
「でもその若さが〈死神〉に向いているのかもしれないわね」
瑛子さんは急に年老いたような言葉を呟くと、両の掌を合わせた。すると初めて会った時のように黒いハーレーが姿を現す。寝台と窓の間のスペースを占領したハーレーに瑛子さんは跨った。
「本当はね、半分諦めてたの。結衣が〈死神〉になる事」
そう言って瑛子さんは苦笑いする。
「今のこの世は、魅力が大きすぎるわ。何もない昔と違って今は何でもある。だから結衣も新しい命になる事を望むと思ってた。仮に〈死神〉になったとしてもすぐ辞めるかもしれないって、初めて会ったあの日はそう思ってたの」
瑛子さんの苦笑が純粋な笑顔に変わる。それは美しく、儚げな印象を私に与えた。
「だけど今の結衣を見たら、そんな考えは消えたわ」
何もない空間からヘルメットを取り出し、「じゃあ、またね」といつかまた会えるような事を言った。
「はい、また会いましょう」
だから私も再会の為の挨拶を返した。
ヘルメットを被った瑛子さんは手慣れた様子でハーレーのエンジンをかけ、相変わらず音が無いまま動き出した。
瑛子さんは軽く手を上げるとバイクを走らせ、病院の壁をすり抜けて外へ向かう。
初めて会った日のようにバイクは空を駆け抜け、夜の闇に溶け込むように消えていった。
そして完全に見えなくなると、不意に涙が零れる。
それは二度目の喪失感だった。ただ少しだけ母さんの場合と違い、いずれ再会できるのでそれほど大きくはない。とはいえやはり別れるのは辛く、寂しさが溢れた。
「うあ……あああぁぁっ」
僅か十三日間とはいえずっと傍にいてくれた瑛子さんの存在は大きかった。いつも誰かが隣にいるという安心感が私を支えていたと、今になってわかる。
瑛子さんは私の精神的な支えだった。母さんや静治のように直接支えるのではなく、影のようにただ傍にいて、必ず一人にはしない。比喩ではなく事実として私を一人にしないでくれた。
本当に瑛子さんにはどれだけ感謝しても、全然足りなかった。
そのまま数分ほど涙を流していると、病室の扉がノックされる。慌てて袖で涙を拭うとコンビニの袋を持
って静治が入ってきた。
「買ってきたぞ」
「…………うん、ありがとう」
「すぐに飲……どうした?」
静治は泣いた跡に気づいたのか、少し心配そうにしている。
「ごめん、大丈夫だから」
「んなわけねえだろ」
少し怒ったように静治は言い、買ってきたリンゴジュースをテーブルに置いて寝台横のパイプ椅子に腰を下ろす。
「病人の言う大丈夫は信用できねえよ」
「そう、かな」
「そうだ」
断言するようにというより、自分の意見以外認めないといったような言葉の響きだった。
「言われてみれば、そうかもね」
「おう」
そうしてやっと静治は笑ってくれた。私はこの笑顔が好きなのだと、何となく再確認する。
だから、話してしまいたくなった。
「静治は、母さんのこと聞いた?」
そう口にしてしまった。
驚愕と悲しみ。その二つを表情に張り付けた静治は俯きがちに「ああ」と小さく呟く。
「そう」
重い空気が私たちの間を漂う。母さんの事を思い出すと目の奥が熱くなって泣きたくなるが、私は我慢して言葉を紡いだ。
「母さん、最後に言ってたんだ。『私は幸せだった』って」
静治が俯いていた顔を上げる。
「母さんは自分の生きたいように生きたから、後悔はしてない。そう言ってたんだ」
「会えた、のか?」
「……うん。最後まで笑ってたよ」
正確には会えていない。それでも瑛子さんから最後の言葉をもらったとき、母さんが傍にいるような感じがした。
だからかもしれない。遺言を聞く前よりも悲しさが減って、嬉しさがあった。母さんが幸せだったと言ってくれて、私は本当に嬉しかった。
「静治は後悔しないような生き方って知ってる?」
「後悔しない、生き方?」
「うん。母さんは後悔しない生き方を探せば、幸せが見えてくるかもしれないって言ってた」
静治は少し考え込む。
「……難しいな。後悔するかしないかは人によって変わるものだし、それが幸せとは限らないだろ」
「まあ、そうなんだろうね」
何が幸せかは人によって違う。それはそうだ。見知らぬ他人の生き方が幸せだったとしても、私が同じ生き方をして幸せになるとは限らない。
幸せというものは一人一人の価値観で変わるものだから仕方ないのだろう。
「静治、ベッドの上を起こしてくれない?」
「ああ」と言って静治は寝台の下部にあるスイッチを押す。寝台の上部が電子音と共に角度を上げる。心電図と繋がるケーブルを気にしながら私は軽く上体を起こし、座った姿勢になった。これで静治と向き合える。
「くっ」
こんな状態の時は体が痛くていつも辛いけど、今は何故か我慢できた。
「おい」
「大丈夫だから、右手貸して」
先程病人の大丈夫は信用できないといった静治は心配そうに私を見るが、何も言わず右手を差し出してくれた。
静治の右手と私の右手が触れ合う。少しだけ熱が戻った私にとって静治は暖かく、心地良い。
大切な人を感じる事。これが私の小さな幸せ。恐らくどんな時でもこの幸せは変わらないだろう。
そしてこの小さな幸せがずっと続く事が――
「静治は、私と一緒にいる事を後悔しない?」
一瞬呆けたような表情を見せ、静治は苦笑いする。
「訊くまでもないだろ」
「直接聞きたいの」
静治はハァ、と溜息して言ってくれた。
「お前と一緒にいて、後悔するわけねえよ。お前はどうなんだ?」
それこそ訊かれるまでもない。それでも、直接言いたかった。
「私も、静治といる事を後悔しない、絶対に」
例え願いが叶わず死ぬとしても、
死の恐怖に怯え続けるとしても、
後悔せずに生きていこう。
私の幸せは、ここにあるのだから。
了




