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 耳に届くのはピッ、ピッ、という電子音。腕には鋭い痛みと異物感。口は何かに覆われ息苦しい。

 

 全てがもう慣れてしまっていた。体調が悪くなったときの処置だ。

 

 重たくなった瞼をうっすらと開くと、見飽きた白い天井が映る。寝台の角度を戻され、私はいつものように横たわっている。一つだけ、いつもと違う感覚があった。


 身体が冷たい。


 私は元々体温が低かったが、それでもこの冷たさは経験したことがなかった。


「結衣」


 優しげで、安心感があって、落ち着かせてくれる声が耳に届く。左の窓へ視線を向けると、約二週間前の出来事が懐かしい思い出のように脳裏をよぎった。


「え、い、こさ、ん」


 初めて会った時の黒いライダースーツを着た瑛子さんがそこにいた。

 一瞬、瑛子さんが来た日からの出来事が全て夢だったらと思ってしまう。そんな都合のよい出来事はあるはずがないというのに。


「喋らなくていいから、そのまま聞いて」


 瑛子さんはそう言いながら私の額を優しく撫でる。冷たい今の私には瑛子さんの温かさは少し熱かった。


「あなたのお母さんは、私が送ったわ。まだ魂が残っていたから、担当の〈死神〉に無理言ってお願いしたの。それでね、本当はこんな事してはいけないけれど、あなたのお母さんから伝言を預かっているわ」

 

 私の額に手を触れている瑛子さんの手から何かが流れ込んでくるように感じた。それは冬の夜のように静かで、春の風のように温かい。

 

 まるで母さんのよう。そう、それは母さんだった。


『ごめんね、結衣』


 そんな言葉が私の意識に流れ込む。一週間、たった一週間その声を聞いていないだけでとても懐かしく感じる。明るい、母さんの声。


『母さん、ちょっと頑張りすぎちゃったね。最後に結衣と面会した後、本当は休日返上で仕事に行ったの。

それからまた出張に出て家に帰ったら目の前が真っ暗になってね。気が付いたらこうなってた』


 あはは、と笑う母さんの声が私の意識に響く。

 娘には心配性で、自分には楽天的な母さん。死んだというのに相変わらずで少し嬉しく、酷く悲しかった。


『これからの事は心配しなくていいよ。母さんが入っていた保険のお金は全部結衣に行くようにしてあるし、結構沢山貯金もあるから。あ、それと〈死神〉の工藤さんから聞いたけど静治とキスしたんだって? よくやった! 母さんは嬉しいよ、うん』


 そう言えば昨日瑛子さんに話したんだった。少し恥ずかしいけれど、母さんに喜んでもらえた。なんだか嬉しいな。


『本当だったら母さんは沢山働いてお金を稼いで、そのお金で結衣の病気を治す予定だったんだけどね。で、結衣が誰かと結婚、まあ静治でいいけど、とにかく結婚して子供が出来て母さんはお婆ちゃんになって、その後はのんびり生きたかったんだ』


 残念そうな母さん。悲しそうな雰囲気ではなく、ただ単純に残念そうなのが母さんらしい。


『出来れば曾孫の顔でも見てからゆっくりと死ぬのが夢だったんだ。まあ、こうなっちゃったら仕方がないか』


 再び母さんは笑う。本当に楽天的で明るい。まるで不幸なことは何もなかったようで、何だか眩しく感じる。


『でもね、母さんは後悔してないよ。結衣を産んでからは楽しいことも辛い事もあったけど、それでも幸せだった。それだけは絶対に断言できるわ。だって母さんは自分の生きたいように生きていたんだからね』


 意識に響いてくる母さんの言葉に涙が流れる。

 私は母さんに対してずっと負い目を感じていた。病気のせいで母さんを縛り付けて自由を奪い、重い足枷となっていると、そう思っていた。


 なのに母さんは『幸せだった』、『自分の生きたいように生きた』と、そう言ってくれて救われた気がした。


『だから結衣も自分が後悔しないような生き方を探しなさい。そうすれば、少しは幸せが見えてくると思うから』


 後悔しない生き方。

 

 それは私にとって、静治といっしょにいる事なのかもしれない。静治と共に生きると決めた時、不安と罪悪感はあっても後悔はなかったのだから。


『さてと、じゃあそろそろ最後かな』


 別れが近いにしては随分と軽い。それはつまり、母さんは本当に幸せだったという事だろう。


『結衣。私の娘になってくれて、ありがとう。私に生きる目的をくれて、ありがとう。私の幸せになってくれて、ありがとう。結衣が娘で、ほんとうによかった』


 母さん。私を産んでくれて、ありがとう。私をここまで育ててくれて、ありがとう。母さんがいたから静治にも会えたし、母さんがいたからこそ私は不幸じゃなかったよ。母さんが私の母さんで、ほんとうによかった。


『さようなら。私の大切な結衣』


 さようなら。私の大切な母さん。


 そうして、私の意識から母さんの声は消える。

 恐怖がにじみ出していた心の穴が、少しだけ埋まったような気がした。

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