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 瑛子さんと知り合って五日が経過した。あの日以降、瑛子さんは私が一人のときは必ず部屋にいてくれる。求人期間が十三日あるので、その間は私の傍にいて〈死神〉の色々な話をしてくれるらしい。


 同僚の事やこれまでに出会った適正ある魂を持つ人達、さらには魂をあの世へ送る上で起きた問題の数々。病院を出る事が出来ない私にとって、その話の多くは面白い小説の様に私を引きつけていた。


「――で、私はその子をお兄さんと一緒に送ってあげたの。今では二人して〈死神〉になって頑張っているわ」


「兄妹で〈死神〉ですか、凄いですね」

 

 寝台の上半分の角度を上げてもらった姿で私は感嘆の声を洩らす。

 瑛子さんは今、過去に出会った適性ある魂を持った兄妹の話をしていた。第二次世界大戦で孤児となった兄妹は飢えながらも何とか生き延びていたが、終戦の年の冬に死を迎えたらしい。極度の飢えと寒さの中、瑛子さんは二人の魂を〈死神〉へと誘ったのだそうだ。


「あの二人は適性以前に性格がよかったからね。それに二人とも真面目だし、今ではもう私が教えることはなくなって――ん?」


 話の途中で瑛子さんは部屋の入口に視線を注ぐ。


「どうかしました?」


「んー、んふふ、彼氏さんのご登場かな」


「へ?」


 私が間抜けな声を出すと部屋の扉がノックされる。


「じゃ、私は屋上に行くわねー」


 からかうような笑みを浮かべながら瑛子さんはその場で飛び上がり、天井をすり抜けて部屋から去った。初めは驚いたが瑛子さんはどうやら空も飛べるらしい。窓から飛び降りるようにして部屋から出た時はさすがに焦ったが、今ではもう慣れた。と、そんな事を考えている間に二度目のノック。


「あ、え、ど、どうぞ」


 部屋の扉が開くと同時に私の心を高鳴らせる声が響く。


「よ。結衣、調子はどうだ?」


 軽く手を上げて入ってきた短髪の彼は城島静治。去年の末に事故で入院して最近まで隣の部屋に入院していた。


 老人が多いこの病院で私たちは当然のように知り合った。同年代と話すことに慣れていない私は怖く感じたが、話している間に打ち解け、今では恋人のような関係になっている。

 

 まあ、好きだということはお互いで確認しても、まだ恋人らしい事はしていないけど。

 

 彼は私より一つ年上で高校三年生だったが、長期入院の所為で単位をいくつか落とし、今では高校四年生になっていた。しかし留年したといっても彼はそれなりの成績だったので、残りの単位を取るのは難しくないらしい。だからこそ必要な授業が無い日は平日でもこうしてお見舞いに来てくれる。


「今日は少し、調子がいいかな」

 

 上体を起こしながらの私の答えを聞くと静治は嬉しそうに笑う。その笑顔を見ると私まで嬉しくなってしまうから不思議だった。

 彼は何かの袋を手に持っていたので、私がそれに視線を送ると静治は誇らしげに掲げる。


「ふっふっふ、聞いて驚け、何と近所の誰もが知るあの有名な有馬洋菓子店のケーキだ!」


「何それ?」


 静治は危うく、近所の誰もが知るらしい有名な有馬洋菓子店のケーキを落としそうになった。


「お、お前、有馬洋菓子店のケーキだぞ! 休日じゃなくても売り切れるほどの人気っぷりの店だぞ!?」


「名前も聞いたこと無いけど」


 彼はガックリと項垂れる。が、すぐに顔を上げて快活に笑う。


「まあいいか。そんなことより、ケーキ食うだろ?」


 私が頷くと静治は部屋に置かれている紙皿を二つ取り出し、それに二つのケーキを乗せる。


「さて、お前はどっち食う?」


 テーブルの上に置かれているのはシンプルなチョコレートのショートケーキと、黄色いクリームでコーティングされたショートケーキ。自然に私の視線は見た事が無い黄色いケーキに向けられる。


「これは?」


「マロンケーキだ」


「マロン?」


「あー栗だ、栗。栗のケーキ」


 私は「へぇ」と言葉を洩らしながらマロンケーキを指さす。


「じゃあマロンの方で」


既知の味よりも未知の味に私の興味が傾いた。


「オッケー。んじゃあ俺がチョコな」


 ケーキの乗った皿とフォークを渡され、「いただきます」と同時に早速一口。

 ……形容しがたい甘さが口に広がる。強いて言えばまろやかな味わい。


「おいしい」


 思わず口元が緩む。視界の隅で静治がパイプ椅子に座りながらにやにやと笑っていた。

不気味だ。


「ふっふっふ、美味いだろ。平日に行った甲斐があるってもんだ」


 自分で作ったわけでもないのに誇らしげに出来る静治が何だかおかしかった。


「そんなに人気があるの?」


「おお、それはもう大人気だ。これほど美味いうえに店の規模が小さくて数も少ないから、よく取り合いになるぞ」


 静治はチョコのケーキを大きく切り分け口に入れる。


「ブランドっぽい有名店とかだと面倒なくらいケーキを飾るけど、有馬洋菓子店はそういうのを一切やらない。見た目を最低限にして味だけを重視してるんだ。おまけに俺みたいな学生でも手が出せるぐらいに安いからな、夕方には大体売り切れてるぞ」


 そんな話を耳に入れながら私はケーキを味わっていく。これほど美味しいなら母さんも気に入るだろうから、今度買ってきてもらおう。静治に。


 ケーキを食べ終わると今度は静治の高校の話になった。普通留年というのは負のイメージが付きまとうらしいが静治は気にしていないらしい。元々学校は嫌いではないし、下級生とも交流があったので人間関係は良好。大学の受験勉強にあてる時間が増えた分留年も悪くないと口にしていた。


 角度が上がった寝台に背を預けて話を聞いていると、静治の自信のありように少しおかしくて、笑ってしまった。


「随分余裕なんだね」


「まあな。別に大学なんて近くて安ければいいんだよ。必要なのは大卒っていう肩書だからな」


 そう言いながら静治はパイプ椅子から立ち上がる。寝台の左側へ歩き、桜色に染まった公園を窓越しに見下ろした。私もつられて桜へ視線を向ける。病院の裏が桜に満たされた公園というのはとてもいい眺めだった。


 桜の美しい景色を見ていると私の頬が自然と緩む。なのに静治の表情は硬かった。


「どうしたの?」


「ん、ああ。お前さ、調子が良くても外は歩けないのか?」


 その言葉は私の心に痛みを与える。


 私の体は一般人より弱い。それどころか長い入院生活で悪くない所まで弱くなり、車椅子で散歩するだけでも辛い時がある。そんな私に外出許可が出るはずもなかった。


 もはや私には、普通の人が簡単に出来ることすら不可能になってきている。

 健康な静治と病弱な私が、共に外を歩くことは無い。想像すらもできなかった。


「……うん、ごめん」


「謝らなくていいって、別にここからでも桜は見えるしな」


 静治はそう言いながら寝台に腰かけ、外の景色を見ている。私のすぐ側にいるのに、私の手が届く距離にいるのに、静治は遠かった。

 

 沈黙が私たちの間に漂い、それが私と静治の距離を表しているようで辛い。


 気まずくなって視線を右へ逸らす。視線を逸らした先は部屋の扉があって、少しだけ開いていた。隙間からは廊下、ではなく母さんの顔が見えた。

 母さんは私が見ている事に気づくと扉の隙間から手を出してストップのジェスチャーをする。声をかけようとした私が仕方なく口を閉じたままでいると、母さんは隙間からメモ用紙を出してきた。

 そこには――

『母が望むはただひとつ、キスである! その先はまだダメね』


 瞬間的に頬が熱くなるのを感じた。


「あ、かか、か、キキ」


「蚊? 刺されたのか……っておい、顔が赤いぞ。大丈夫か?」


 私が慌てているのも知らずに静治は私の額に手を当てる。


「うひゃあ!」


「おわ!」


 変に意識した所為で恥ずかしくなり、思わず身体全体で引いてしまう。


「お、おい、大丈夫か?」


「だだ、だ大丈夫。大丈夫」


 恥ずかしくて静治の顔が見れない。静治から視線を逸らして部屋の入口へ向けると再びメモ用紙が掲げられていた。

 そこには――


『おしい! あと少し、あと少しでイケる! 私が許す! キスだ! いや、もう最後まで許す!』


 いつの間に書いたのかは知らないが、とにかく文字を理解した私は、顔が溶けるのかと思う程熱くなったのを感じた。それにしても最後までって、母さんここ病院なの忘れてないかな。いやそもそも私と静治はそこまでの関係じゃないし、確かにそんな関係になったらいいなと思った事はあるけどいくらなんでもいきなり最後は無いんじゃないだろうか。いやそれ以前にまだキスすらしていないのだから、それさえ済めば最後までいっても…………いやいやいやいやストップ、少し落ち着こう。なんだか変な事を考えてしまっている。


「おい、大丈夫じゃないだろ! ちょっと待ってろ、今ナースコール押すから」


 母さんに全く気が付いていない静治は慌ててナースコールへ手を伸ばす。それが寝台の左にあるならよかった。それなら静治は手を動かし、親指で押すだけで看護婦を呼べる。


 しかし幸か不幸か、ナースコールは右側にある。


 つまり静治は私の身体に覆いかぶさるようにしてナースコールに手を伸ばしたのだ。


 そうなると必然的に静治の顔が近付く。


 日に焼けた肌。意志の強そうな目。焦った表情。それらが私の視界を満たした。


「ふッ!?」


 頭に血が上った私は何も考えず、反射的に静治を突き飛ばした。


「うお!」


 不安定な姿勢だった静治は貧弱な私の力でも簡単にバランスを崩し、寝台の落下防止用の鉄の柵に後頭部を打ちつける。


「ぎょあ!」


 痛そうな音と共に奇妙な悲鳴を上げる静治は頭を抱えて部屋の床にうずくまった。


「ご、ごめん静治。大丈夫?」


 数秒ほど間が開いて「ぐぅぅぅ、なんとか」という苦しそうな声が私の耳に届く。


「ま、まあ、いい。それよりどうしたんだ、今日は様子がおかしいぞ。もしかして本当は調子が悪いんじゃないか?」

 

 心配そうに声をかけてくる静治と目を合わせられない。未だにキスとか最後までという言葉が頭に残っていてどうしても意識してしまう。


「えっと、調子は悪くないんだけど、その…………ああもう、母さん!」

 

 いくらなんでも言葉で説明するのは無理。ここはもう黒幕に登場してもらうしかない。それ以前に全ての原因は母さんにあるのだから文句は言わせない。


「えー、私の出番はもう少し後なのに」

 

 そんな文句を洩らしながら母さんはやっと部屋に入って来る。仕事用のパンツスーツじゃないという事は久々の休日なのだろう。家で休んでいればいいのに。


「お、おばさん? 一体いつから……」


「んー、結衣が『おいしい』って言ってたところからかな」


 だとすると、静治が来て少し後に母さんは来たわけだ。


「いやー、二人がとってもいい雰囲気だし、邪魔するのも悪いかなと思ってね」


「だったら覗かないでよ」


 私の恨み言にも母さんはどこ吹く風といった様子で笑っている。


「これは親の務めよ。結衣が静治とどこまで行ったのか知る必要があるからね」


「ど、どこまでって」


 思わず静治を見て、静治も私を見た。

 目が合う。

 再び顔が熱くなる。私が目を逸らすよりも早く、静治が恥ずかしそうに頭を掻いて俯いた。

 そんな私たちを見た母さんは子供のように目を輝かせて笑みを浮かべる。


「もう、母さん」


 いいかげん悪ふざけが過ぎる。さすがに我慢できなくなって母さんを睨みつけた。


「あはは、まあいいじゃない、たまには刺激も必要よ」


 そう言いながら母さんは私の頭を撫でる。確かに必要だとは思うがこの刺激は私にとって強すぎた。


「さて、面白いものも見れたし、今日は帰るね」


「えっ?」


 母さんの意外な言葉に私は驚いた。いつもの休日なら過保護な母親よろしく面会ギリギリまでいるのに、今日の母さんはあっさりと踵を返した。


「結衣がいつも言ってたでしょ? 久しぶりに自分の為に休んでみるわ、じゃあね。あと静治、結衣の事よろしくね」


「あ、はい」


 母さんは私たちに手を振って病室を後にする。嵐のような母さんが部屋から消えると、急に静かになった気がした。


 私は部屋の扉を見つめながら、変な気分になっていた。

 母さんは私が何度も休むように言っても休暇を取ることは滅多にない。仮に取ったとしてもほとんどの時間を私の面会に当て、自分の為に休むことはしなかった。そんな姿を見ているとまるで自分が母さんの足枷のように感じてしまい、嫌だった。


 だからこそ、母さんが自分の為に休むのは私にとって嬉しい事だ。

 なのに今の私には寂しさがある。

 大事にしていた物がある日突然消えてしまったような寂しさが、嬉しさと共に私の心にあった。


「どうかしたのか?」


 ずっと扉を見つめていた私に心配そうな声がかけられる。


「ううん、何でもない」


 矛盾した想いを抱えていても、心配はいらない。静治が傍にいると不思議とそう感じた。


 その後、静治は母さんに任されたのを重く受け止めたのか、面会時間ギリギリまで病室にいてくれた。

外は完全に日が落ちて暗闇に染まり、街灯が街を照らしている。窓から見える公園にもいくつか街灯が設置され、美しい夜桜を見せていた。


「へぇ、夜はこんな景色なのか」


 昼間と同じ場所で桜を見ている静治は感嘆の声を洩らす。


「私は夜の方が好きだな。町は静かだし、なんだか落ち着く」


 今日は私の調子がいいので窓を開けてもらい、夜風を感じながら夜桜を見ている。

 昼間と違って私は寝台の左側に腰かけ、静治の傍にいる。左手は静治の右手と繋がり、肌寒く感じる夜風

の中でも温かい。


「静治」


「ん?」


「静治は、今まで女の子と付き合ったことある?」


 さすがに驚いたようで、静治は身体をビクリと震わせる。


「な、何でそんな事を訊くんだ?」


「聞きたいから」


 しばらく沈黙が流れ、私が再び質問を口にしようとすると呟くように「二人」と聞こえた。

 二人。病院暮らしが大半の私にはそれが多いのかは分からない。それでも静治が誰かと付き合っていたという事実には少し驚いた。


「どんな人たちだったの?」


「……一人目はよく本を読んでいたな。他の奴らと遊ぶよりも本を読むほうが好きみたいだった。学校の図書館でよく見かけたし、本を読んでいない日の方が少なかったと思う」


 静治は遠い目をして過去の記憶を思い出し、恥ずかしそうに口にした。


「静治が告白したの?」


「あーまあ、最初は……ってこれも聞きたいのか?」


 当然私は全力で頷く。そんな私を見て静治は照れくさそうに溜息を吐きながら「わかった」と呟いた。


「一人目は俺が好きになって、告白した。確か中二の頃だ。付き合うようになってからは俺もよく図書館に行くようになって、そこでそいつとよく話をしてた。確かそれが卒業まで続いたけど、俺が県内の高校であいつが県外に行ったから自然消滅したな」


 あっさりと、淡々と語る静治には寂しさが見られない。


「二人目は、俺が告白された。あれは高一のときだ。俺は一人目のときの影響で高校でも図書館に入り浸っていてな、図書委員だったそいつと仲良くしているうちに告白されたんだ。最初は上手くいってたんだけど、そいつは遊ぶ事が好きだったみたいで、俺はついていけなかった。そのまま俺達は会うことも少なくなって、確か高校二年になった直後に別れた」


 まるで未練が微塵もないように語る静治はなんだか怖かった。


「……寂しくないの?」


「寂しくないって言ったら嘘になるけど、割りきったよ。あいつらとは付き合う事はあってもずっと一緒にいたいほど好きじゃ無かったってな。まあ、だからこそ続かなかったんだろうし、別れた事に未練は無い」


 そう言って静治は力無い笑いを私へ向けた。


「一人目は、もう好きになった理由は覚えてないし、二人目はただその時に相手がいなかったから付き合っただけかもしれない。今考えたら、本当に好きだったのかもわからないな」


 反射的に私は言葉を吐く。


「そんなこと言ったら、付き合った二人に失礼よ」


 付き合っていた二人をまるでただの通過点のように言う静治に、私は反感を覚えていた。


「好きだったから付き合うんでしょ。二人とも静治が好きだったから、静治と付き合おうって思ったんだよ。なのにそんなこと言ったら、その二人は静治にとって何だったの」


「…………悪い」


 ばつが悪そうに顔を伏せ、「でもな」と続ける。


「その二人がいたから俺は今度からはちゃんとしようって決めたんだ」

 

 静治は顔を上げて夜の桜を目に映す。つられて同じ方向を向くと外で風が吹き、夜の公園に桜の花弁が散っていた。


「何を?」


「今度誰かと付き合うときはずっと一緒にいたくなる相手にしようってな」


 そう口にする静治は恥ずかしそうでもあり、楽しそうでもあった。

 言葉の意味を理解した私は頬が微かに熱くなるのを感じる。


「二人の事は好きだったのかもしれないけど、ずっと一緒にいたいとは思えなかった。だから別れたくないって思える相手を好きになって、ずっと一緒にいようって決めた」


「……それが、わ、私?」


「そうだ」


 即答する静治は男らしくもあり、無邪気に笑った表情は子供らしくもあった。

 確か、私が告白された時もこんな顔を浮かべていた。

 あの時私は死ぬかと思った。心臓が間を置かないほど連続して脈打ち、まるで熱で溶けてしまったかのような熱さを胸の内側から感じた。


 最初は病気の発作かと思った。それほど私の心臓は異常な鼓動を刻んでいた。だけどすぐに違うとわかる。発作なら全身から汗が出て心臓が締め付けられるような痛みを訴えてくる。だけどあの時感じたのは、苦しみではなく嬉しさ、出たのは汗ではなく涙だったのだから。


 あの瞬間ほど嬉しいと思った事は今までにない。私のような病人でも普通の女性のように見てくれる人がいると、あの時初めて知った。思い出すだけでも頬が緩んでしまう。


 だけどそれが、少し不安だった。


「本当に、私でいいの?」


 私は緩みかけた頬を無理やり元に戻し、不安を吐きだす。


「私は静治と一緒に外も歩けないし、入院しているから沢山迷惑をかける。それに私は、いつか、静治を残して……」


 私の不安は私自身に対してだ。この病弱で貧弱な身体はいつ息絶えるともしれないうえに、近くにいる人の負担となる。


 そしていつか、逝ってしまう。それがいつなのかは分からない。ただ、普通の人や静治よりも早い可能性は高い。


 瞼の裏に涙が溜まっているのを感じる。視界も少しずつ歪み始めた。

 ただ悲しかった。静治の願いは叶わないし、私が同じように願ったとしても何も変わらない。


 入院してから一、二年は私も願った。病気が治りますように、と。その結果が今の私だ。願いで何かが変わらないと私は知っている。だからこそ、静治との関係に不安を感じていた。


 静治の私と一緒にいたいという願いは叶わない。それなのにこのままでいいのだろうか。死という別れが来る前に、自分から離れたほうがいいのかもしれない。そうすれば静治の傷は浅くて済む。そんな思いが今、私の中にあった。


 それと対するように離れたくないという執着心もある。


 私は大切な人を失う事が怖い。


 喪失感という感覚に私は慣れていない。入院から十年間、私の大切な人は母さんだけ。それが今年に入って静治が加わり、大切な人が二人に増えた。


 大切な二人が消える事を想像すれば、今すぐに自殺して逃げたくなるくらい怖くなる。

 今まで失くした経験が無い私にとって喪失感は死に匹敵していた。

 静治の願いを叶えられない私に対する不安と、静治を失うという喪失感に対する恐怖。


 二つの負の感情が私の中で渦巻いてせめぎ合っている。

 そんな私を静治は抱きしめてくれた。


「……静、治?」


「俺は今、お前と一緒にいたいからここにいる。『いつか』なんて先の事より『今』の方が大事だ」


 ゆっくりとした静治の呟きは私の耳に染み渡る。それはとても心地よく、このままの姿勢でいつまでも聞いていたいと思った。


 もちろんそんな願いは叶うはずもなく、静治は抱擁を解いて私と真正面から向き合う。


「結衣、お前はどうなんだ?」


「私は――」


 不安と恐怖のせめぎ合いが揺らいだ。


「私は……私も今、静治と一緒にいたい」


 叶わない願いに対する不安が消え、喪失感に対する恐怖が打ち勝つ。静治と同じように、見えない未来より見える今の方が大事だった。


 目に映る静治の姿が歪む。静治と一緒にいられることが嬉しくて、同時に深い傷を負わせるかもしれない事に悲しくて、私は涙を流していた。


 そんな私の涙を静治は優しく拭ってくれた。だけど私の目から涙は溢れ続ける。


「……うあ、ご、ごめ、ん」


 慌てて自分の手で涙を拭うがそれでも止まらなかった。そんな私の手を静治は優しく掴んでやめさせる。そしてゆっくりと顔を近づけてきた。


 私はこの行為の意味を知っている。だからこそ答えるように顔を近づける。


 私は歓喜と罪悪感を抱きながら、初めて唇を交わした。


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