記憶 黄金の旅 その六 ハレムの秘密
その時私はアイシャに体術の稽古をつけていた。乾いた豆を入れた小袋を六つ、初めはゆっくり、次第に速く、アイシャに向って投げてやる。順に飛んでくるその小袋を、アイシャは両手に一本ずつ持った長さ一尺の棒で受け止め弾き返す。帰って来た小袋を私はまた投げ返す。
ジャグリングの一種だが小さい子の武術訓練にもなる。飛んでくる小袋を確実に受け止めて返すにはフットワークが必要だし、油断すれば顔や胸に小袋が容赦なく当たる。脚と腕だけでなく眼も働かせなくてはならない。ただ叩き落とすだけなら簡単だが、私に返してよこさなければ練習が長続きしない。
呼吸の仕方も大事で、戦闘用の呼吸を身につけなければ直ぐに息切れしてしまう。だが単調な呼吸しかしなければやがて息を読まれ隙をつかれる。だから息の仕方は身体の動きと同じくらい重要だ。
小さい子に無理に力や速さを持たせようとしてはいけない。小さい子にまず教えなければならないのは、正しい呼吸の仕方と的確な動きだ。力や速さは身体が育つに連れて身について来る。アイシャは筋がよかった。
練習場は私が占いの小店を開いている店舗の裏路地だ。幅が五尺程しかない磨り減った石畳の小路で、足場は決して良いとは言えない。フッフッフッという短い吐気がアイシャの唇からもれ、顔からは玉のような汗が滴る。ほとんど同時に私が放った六つの小袋がすべて返って来る。
「よし、今日はこれまで」
「まだできる!」
きつい眼をしてアイシャが叫ぶ。
「まだ無理をする時期ではない。お前の気迫は認めるが、体術の訓練をしている間は私が師匠だ。師匠の言葉には意味がある。今はわからなくとも、やがてわかるようにならなくてはならない。考えるのだ」
小さい子の心臓や肺はまだ未完成だ。ただ負荷をかければよいというものではない。アイシャは少し前に両親を失っているので確かではないが、本人の言葉では六歳ということだ。訓練で死ぬ思いをさせるべき時はまだ来ていない。
私はアイシャに呼吸を整える体操をさせる。訓練の結果身体が固くなっては何にもならない。戦いの後に戦いがまたあることだってありえるのだから。それが終わると水浴びに行かせる。少し先の広場に水道が引かれ、魚の形の銅像から絶え間なく水が吹き出していた。アイシャはそこに桶を持って行って水を汲み、頭からかぶる。水浴びには少し寒い季節だが、火照った身体を静めるのには丁度よい。
私は自分の店舗に入り炭火に掛けておいた煮豆の鍋を確かめる。昨日から水に浸しておいた豆は鍋の中で煮えて柔らかくなっていた。塩味は干し肉を入れてつけた。
帰ってきたアイシャは湯気の上がる豆の皿を受け取り、座って種なしパンと一緒に豆料理を食べる。そこには運動の後食事をする子どもの幸せそうな顔がある。
前にも言ったが私の同居人であるアイシャには親がいない。何かの揉め事に巻き込まれて殺されたのだ。アイシャが体術を習いたいと言い出したのはそれが理由なのかも知れない。自分の身は自分で守れるようになりたいのだ。
私の生業は占い師だ。人々は色々な悩みを抱えて私の所にやって来る。私は話を聞いて有益と思える助言を与える。報酬は数オボルスから二・三ドラクマ、時には百ドラクマということもある。私も商売であるから報酬によって客の得るものもまた違う。百ドラクマともなれば私もかなり真剣に取り組まねばならない。払った金額に見合う成果を返さなければ評判は落ち、次の客はやって来ない。
時々とは言え私の所に百ドラクマかそれ以上支払う客がやって来るということが、私の評判を物語っている。私に払った金は決して無駄にはならない。それが私の矜持だ。その私のところに、ハッサンの使いの者がやって来た。
ハッサン・アリ・アブドゥラは東の大通りに屋敷を構える大富豪で、もう六十をいくつも越える老年の男である。この男が、アリ・ハーメッド・イマッドというヘイダル通りの油問屋の、娘であるアミラという若い女を嫁に貰ったことが、私と関わる切っ掛けであった。
この娘はよほどこの老人に嫁がされたことが嫌だったのか、あろうことか庭師の息子と姦通し駆落ちした。だがそんなことが上手くいく筈も無く、間もなく二人は追手に捕まり、宗教裁判所に引き出される。姦通の罰として彼らが処されたのは、腹を切り裂かれ腸を引きずり出されるという刑であった。
だがそれで事は終わらず、法務官はハッサンの訴えを聞き入れ、アリがアミラの婚資三十タラントを返却しなければならないとの裁定を下したのである。三十タラントと言えば大店の身代にもなろうという大金だ。すでにその金を油相場に投資してしまったアリには返済の術が無かった。
アリの二人目の娘アティヤをアミラの身代わりとしてハッサンに嫁がせることでこの問題を解決した私を、どういう訳かハッサンは気に入ったようだった。それまで市場に天幕を張り、占いの店を出していた私の保証人になり、商業地区の店舗通路の片隅に店舗を借りるにあたっての便宜まで図ってくれた。
たとえ雨漏りがして雨の日は中に天幕を張らねばならない場所でも、屋根と壁のある店舗はありがたかった。そんな場所であるから家賃も安く、それまで木賃宿に払っていた分と市場の場所代に少し上乗せすれば賄うことができた。礼拝堂から一番離れている場所であるのもかえって都合がよかった。何と言っても占い師という私の商売は、導師や礼拝招聘者には受けがよくなく、異端者または背教徒という誹りを投げかけられかねなかったからだ。こうして店舗を構えたことで、私の客筋も少しよくなった。それまでは見料としての数ドラクマが払えず、代りに南瓜や葉野菜を持参するような客が少なくなかったのである。
普通、私のような正体不明の流れ者に店舗を貸してくれる者はいない。ハッサンの保証があればこそ貸してくれたのだ。そう言う訳で私はハッサンに借りがある。借りと言って分かりにくければ恩と言い換えてもよい。だからハッサンに呼ばれたら出かけていかなければならない。
私にも誇りがあるから、私が叩いた扉は裏通りの通用門ではなく、東の大通りにある正玄関の扉だった。ハッサンから呼び出しがあったことを告げると、お仕着せをきた門番は私の古びた長衣をジロジロ見ながらも、扉を開けて入れてくれた。やって来るならもう少しまともな格好をして来いと言いたいのだろうが、生憎これが私の一張羅だ。
玄関を入って控えの間で待っていると、やがてマジッドという名の召使頭が現れ、私を奥に招き入れた。この前この屋敷を訪れたとき、この男は私のことを殺人者だと主人に告発した。何のことはない、この男が私の所に寄越した二人がアイシャを人質に取って私を脅そうとし、逆にアイシャに目つぶしをくらっただけの話である。二人が私を襲ったのは不用心な場所であったから、目の見えないまま放置された二人はその後物取りにでも出会い、命を失ったのだろう。マジッドはそのことをまだ根に持っているのかもしれないが、顔には出さない。かと言って愛想の一つを言うわけでもなく、黙って案内するだけだった。
ハッサンは六十をいくつも越えているにしては矍鑠としていて、恰幅のいい男だ。いかにも裕福な大商人という身なりで立ち上がると、笑いを浮かべた顔で私を迎えた。手を取らんばかりにして私を座らせ、マジッドに命じて香り高い珈琲を用意させる。正に客を迎える主人の鑑というべき態度だ。
「エソスのルズ、大いなる知恵の持ち主、混迷の向こうを見通し、余人には解けぬ謎を読み解く貴殿を我が家に迎えることは大いなる喜びである……」以下略。
「神に愛でられ豊かな恵みを得られし御方、勇気と知謀で富を築かれ、今もまた財産を弥増しながら惜しみなく喜捨を振る舞い貧者を救われる御方……富者の王であるハッサン・アリ・アブドゥラ様のお蔭を持ちまして、この僕は糊口を凌いでおり……」以下略。
互いへの称賛と謙遜の言葉の応酬が一段落し、山ほど砂糖の入った珈琲に口をつけると、やっと本題に入る事ができる。
「アティヤがどうしても貴殿に相談したいことがあると言うのだ、エソスのルズ。必要な見料はあれが支払うとまで申しておる」
「はて、それは……?」
アティヤは処刑されたアミラの身代わりとしてハッサンのところへ嫁いできたアリ・ハーメッド・イマッドの次女である。年齢は十五、いや嫁いで半年になるからもう十六かもしれない。私が直接会った事もないその女が、私に用とはいったい何だろう。
「心当たりはないか?」
「さて、私めは当然、お目にかかったこともありません。だが、ご無礼を承知で申し上げると、いささか恨まれているやもしれませぬな」
「ふむ」
ハッサンもこれだけの年齢だ、女心の機微ぐらい承知していないはずがない。本来であればアティヤは、ハッサンより歳の釣り合ったずっと若い婿を貰い、イマッドの家を継ぐはずであったのだ。それが姉のアミラが駆け落ちなどしたばかりに、身代わりとして老人の所に嫁ぐ羽目になった。無論そうしなければ、イマッドの一家は破産し、家族全員路頭に迷うことになっただろう。それを考えれば、裕福な生活を保証される今の暮らしは幸運と言わねばならないはずだ。だが、十五・六の女にとって六十を越える男と肌を合わせることが幸せと思えるかとなると、話は別であろう。そのことは、アミラに不義を働かれた立場であるハッサンにわからぬはずもない。
「なるほど。貴殿はアティヤに感謝されているとは限らぬというわけだ」
「ただ、それだからといって、寡婦財産の中から自分で見料を払ってまで私を呼ぶというのは……」
ハッサンほどの資産家の家に呼び出されて赴くならば、私の見料は当然五十ドラクマ即ち半ミナ以上になる。この町でも年間数ミナリの稼ぎで暮らしている家族が少なくないことを考えると、これは随分な額と言えよう。それだけの犠牲を払ってまで私を呼びつけ、アティヤは何を相談しようというのだろうか?
「それがわしにも気になるのだ。だから頼みがある。アティヤが相談する内容をわしに教えてもらえないだろうか? 無論見料とは別に礼はするつもりだ」
「それは……」
できないと直ぐには言い切れないのが難しいところだ。本来女は夫の監督の許にある。寡婦財産は女のものであっても、その使い方については夫の助言に従うのが良い妻の義務であると言われている。妻の悩みを夫が知りたいと望むことは当然許されるべきだと法学者なら言うであろう。
だが一方、占い師が顧客の相談の秘密を漏らすならば、当然顧客を失う羽目になる。顧客の利害を軽んずる占い師など、誰が信用することができるだろうか。相手がハッサンでなければ、私は即座にそんなことはできぬと断ったことだろう。
「この相談は、お受けしないのが正しいと存じます。もしお受けするとすれば、相談の内容はアティヤ様から直接お聞き下さい。私めの口から相談者の秘密を漏らすわけにはいきませぬ」
結局私はそう答えるしかなかった。五十ドラクマは惜しいが、自分の首を絞めるようなことはできない。これでハッサンの恩顧を失うことになるかもしれないが、それはそれでやむを得ないと考えたのだ。
ところがハッサンは顎鬚を一撫でして頷くとこう言った。
「うむ、貴殿はわしが考えた通りの男じゃ。顧客の秘密を守るのが占い師の掟ということであれば、貴殿の態度は当然と言えよう。だが、いかに我が屋敷の内とは言えどアティヤとの面会には立ち会いが必要じゃ。あれについてきた乳母を立ち会わせるが異論は無かろうな」
「勿論でございます」
ハッサンがその乳母を買収するなり何なりして話の内容を聞き出すことは間違いなかろう。だがそれは私の与り知らぬことである。
しばらく待たされた後、私は奥の部屋に通された。無論そこは女たちが居住する本当の奥の間などではなく、出入りの商人が装飾品や織物などの商品を持ち込み、女たちが品定めする時などに使われる広間である。そこは中庭に面しているため採光も良く、待ち受けている二人の女の姿をはっきりと見ることができた。と言っても、二人とも黒い衣装で眼と手首から先以外の身体をすっぽり覆っていたので、どちらが私の依頼者でどちらがその乳母なのかの区別はつかなかった。
「私がエソスのルズ、お呼びにより参上いたしました」
長い挨拶を省略し、そう言って頭を下げた私の態度を別に侮辱とは受け取らなかった様子で、片方の女が手を差し伸べ用意されていたクッションを示した。女が労働する必要がないほど裕福な家では、身内以外の男が女に挨拶することなど考えられないのだから、守るべき礼法というものも存在しないのだろう。
クッションの前まで進んだ私に、女はもう一人の女を示して紹介する。
「こちらがお前をお呼びになったアティヤ様、アリ・ハーメッド・イマッド様のご息女にしてこの屋敷の主たるハッサン・アリ・アブドゥラ様の夫人であらせられます」
「お目にかかれて光栄でございます」
大仰な紹介に驚きながらも、私は一礼してクッションに腰を下ろした。
今回の私の依頼主アティヤはまだ黙ったまま私の方を見るだけだった。口を開いたのはまたしてもあの乳母、と思われる婦人の方である。
「お前に支払う謝礼の五十ドラクマはここに用意してあります。ただし、お前に言っておかなければならないことがある。これからアティヤ様がお前に相談する内容を、誰にも漏らしてはなりませぬ。それを誓えぬとあらば、この話は無かったことにします。どうです、誓えますか?」
「もとよりこの仕事をする者は顧客の秘密を守らねばならぬもの。ご心配は無用です」
「誰にもというのは、ご主人のハッサン様にも、アティヤ様の父アリ様にもということです。誓えますか?」
「無論でございます。相談の内容は、ここにおられる方以外には誰にも、このエソスのルズの口から漏れることはありません。神かけて誓いましょう」
ホッとしたような溜め息がアティヤと紹介された女からもれた。それから女は初めて口を開いた。
「ルズ殿、それでは私の願いを聞いて下さい。私は『媚薬』が欲しいのです」
「はて『恋茄子』をご要望とは……いったい、何故?」
「旦那様の、ハッサン様の御成りが無いのです。私が輿入れした晩と、その三日後の晩、二度来られたきり、その後は一度もお声を掛けて下さいません」
「はて、それは……」
私はもう一度アティヤの姿を上から下まで見直した。こういう時女が纏うべき衣装は、長袖の長衣、頭と髪を覆う長い布、顔の前に垂らして眼以外を隠す布の三つから成っている。これらを身につけると顔かたちばかりでなく身体の輪郭さえわからなくなる。だから女の美醜など区別がつかないと思ったら大間違いだ。
私はまずアティヤの眼とその周囲、ヒジャブとニカブの間から露出している部分を眺め、それから手相を見るという理由を告げて、彼女の掌を見せてもらった。間違いなくこの女は人並み優れた美貌の持ち主だ。いくら隠そうとしても、私のような熟練の占い師の眼にはお見通しである。
若い雌鹿のような眼の周囲はしっとりして皮膚には張りがあり、白い手の指はしなやかで美しく生気に満ちている。掌の、特に親指の付け根から手首に繋がる部分、羅馬人がヴィナスの丘と呼ぶ場所は、身体全体の肉付きの良さを示していた。もし一部でも他人から醜いと見られるような造作があれば、このように均整の取れた手や眼を持つことはできない。乳母という婦人の、いかにも宝物を守ろうとでもいうような態度を見ると、女の眼から見てもその美貌が大層価値あるものと評価されていることがわかる。
だとすると、ハッサンがこの女の臥所を訪れない理由は何か? 息でも臭いのか? いいや、そんな事はない。これだけ近くに座していて、そのような欠点があれば感じられぬ筈は無い。
「旦那様はそれについて何かおっしゃいましたか?」
「いいえ、何も。ある時はお忙しいから、ある時は疲れてているからと……その度に言を左右にされて、結局この半年と言うもの一度もおいで下さらないのです」
「ふぅむ」
ハッサンはもう老年だ。だからと言って跡継ぎを生ませるために迎えた女の元を、半年間一度も訪れぬなどと言う事があるだろうか? 何かの理由で気がゆかぬという可能性は無いわけではないが、普通だったら何度か試みてみるくらいはするはずだ。
この場合ハッサンの年齢から考えて、『恋茄子』を処方する訳にはいかない。老齢者の心の臓には、あの処方は負担が大きすぎ、まかり間違えばポックリ逝ってしまいかねない。そんなことを説明しながら、私はアティヤの悩みについて思いをはせた。
せっかく富有の家に嫁いでも、いつまでたっても子が成せぬとあれば、離縁を申し渡されることもありうる。そうでなくともハッサンは高齢である。いつ儚くなってもおかしくはない。主人が死んで跡継ぎがいなければ寡婦財産を持って実家に戻るのが普通である。そうなった時、アティヤの立場は決して望ましいものではなかろう。実家には婿を取って家を継がせる予定の三女がいる。そこへ年上のアティヤがのこのこ帰って行ってもいい顔はされまい。アティヤとしては何としてもハッサンの子を授かることが必要なのだ。だが主人が臥所を訪れなければ、そんな望みが叶う筈もなかった。
「ご存じだったら教えて頂きたい。もしご主人に跡継ぎが生まれなければ、どなたが財産を継ぐことになるのだろうか?」
「……それは、多分、家の差配をしているマジッド様だと思います……」
これに答えたのはあの乳母だった。多分この家の事情には、アティヤより詳しいのだろう。
「あの男は召使の一人ではないのですか?」
「それが、召使頭をされてはおりますが、何でもハッサン様の遠縁の者だとか……」
乳母が他の召使から聞き出したところでは、両親が亡くなり孤児となったマジッドをハッサンが引き取り、成人した後は今の地位に据えたのだという。
「するとアティヤ様に子が生まれることは、そのマジッド殿には嬉しくないという訳ですな」
「それはそうですが、ハッサン様はゆくゆくはマジッド様に財産分けをして、一家を構えさせるおつもりと聞きました」
「だが、ハッサン様の財産が丸ごと手に入るのと、おこぼれ程度を分けてもらうのではだいぶ違いがありましょう」
アティヤは乳母と眼を見合せ、それから考え込むように眼を伏せた。おもむろに口を開いたのはしばらくたってからだった。
「ルズ殿、それでは旦那様が私を訪れて下さらないのはマジッドが邪魔しているからだとお考えなのですね」
「確かな証拠があるわけではありません。ただ、それで大きな利益を得ると思われる人物が他にいないのであれば、そう考えるのが筋でしょう」
アティヤは再び黙り込んだ。彼女は乳母がマジッドと通じているのではないかと疑っているのだろう。マジッドだけでは半年もの間アティヤとハッサンの関係を疎遠なままにしておくのは難しかろう。だが乳母の手助けがあれば別だ。乳母とマジッドが結託すれば十分可能なことである。
「わかりました。ラムラ、五十ドラクマをこの方へ」
「でも、お嬢様……」
ラムラというのがこの乳母の名前なのだろう。ラムラは不満そうだ。結果が出る前に報酬を支払うべきではないと言いたげだ。
「私に必要なのは媚薬などではなくルズ殿の知恵だということがわかりました。どうぞ半金を御受取り下さい。残り五十ドラクマは、私が旦那様の跡継ぎを身ごもった時にお支払いいたします」
アティヤという女は中々の遣り手だ。相場というものを心得ているし、私のやる気を促す手だても考えている。それに比べ、ラムラは数段役者が劣る。マジッドに買収されているのか、脅されているのか、その両方なのか、いくらニカブで顔を隠しても焦りが眼に表れてしまっていた。だが今はまだ告発の時ではない。知らぬ顔をして私は金を受け取り、退去の挨拶を述べた。
「承知いたしました。では後日また参上いたします。奥様に神の加護がありますように。くれぐれもお身体をお大事に」
相談事を解決する前にアティヤが毒殺されでもした日には、残りの半金は望めない。彼女にはせいぜい身の回りを気づかってほしいものである。
それにしてもラムラは、処刑されたアミラの乳母でもあったはずだ。だとしたら、庭師の息子とアミラの駆け落ちにもラムラとマジッドが関わっていた可能性がある。ハッサンは本当にこのことに気づいていないのだろうか?
私は約束を守って、アティヤの相談事をハッサンに報告することなく屋敷を辞した。乳母のラムラはハッサンに呼び出され、私とアティヤとの会話をどのように説明したのだろうか? あくまで白を切り通したのか、それともありのままを話したのか? 考える種はいくつもあったが、私は空腹でもあった。暮れ始める夕闇の中を、夕食の算段を考えながら私は家路についた。
帰路の途中アイシャに出会った私は、彼女に一ドラクマ与えて夕餉を買いに走らせた。
店舗まで辿り着き扉を開けて中に入った瞬間、奥から一人の男が私に向って突進してきた。思わず身を捻って躱そうとしたが、避けきれなかった。その男の握った細身の短剣は、私の脇腹を突き通し背中に突き出した。
その時入ってきたアイシャがシシ・カバブの鉄串で奴の尻を突き刺さなければ、私はとどめを刺されていたかもしれない。奴は大声を上げると、何か喚きながらアイシャに向って行ったが、アイシャは闘牛士さながらヒラリと身を躱す。奴はそのままドシンと扉にぶつかり、それを押し開けると跳び出し、駈け去っていった。
「ルズ、大丈夫?」
「いや、刺された」
「誰だったの?」
「マジッドだ。どうやら私に生きていてもらっては困ると考えたらしい」
騒ぎを聞きつけたご近所さんが様子を覗きに来て蒼くなった。
「ルズさん、あんた、その剣背中につきぬけているぞ!」
「ああ、誰か湯を沸かしてくれ。それから床屋のザィードを呼んできてくれ」
ザィードは東の通りの露天で、腰掛けと剃刀一本で商売している馴染みの男だ。呼ばれると直ぐにやって来て私の腹に突き刺さっている短剣を眺め、またやったのかと言わんばかりの顔をした。
火に掛けた大鍋の中の湯に、干したニガヨモギの束を放り込み、包帯にする布と一緒に煮込んだ。それから私の腹に突き刺さった短剣をゆっくりと抜き、ニガヨモギの煮汁で傷を洗うと、これも一緒に煮込んだ針と糸を使って傷口を縫った。その後腹を包帯で丁寧に巻き上げると、治療は終わりだ。
「ルズ、すごいね! お腹をくし刺しにされても死なないなんて!」
アイシャが興奮してそう言った。
「真似するんじゃないぞ。ルズにだけできる荒技だ。皮だけを刺し通させて、内臓を避けるなんて、魔術と言っていいくらいだ。大道芸で見たことはあるが、普通相手は芸人の相方だ。殺しに掛かる相手にやってのけるなんて……それに……」
ザィードが頭を振りながらそう言う。それに毒を使われたら危なかった、そう考えているのだろう。それは私も先刻承知だ。この仕事は命懸けということになってきた。はたして百ドラクマで割りが合うのだろうか?
ザィードには治療代として十ドラクマ渡して帰した。それからアイシャに、もう一度カバブを買いに行かせた。マジッドの尻に突き刺さった鉄串は証拠として取っておいたから、鉄串代も持たせた。
次の日、再び私はハッサンの屋敷を訪ねた。鉄串と短剣を持って玄関の扉を叩くと、門番の男が出てきてギョッとした顔で私を見た。まあ私も刺し傷で多少堪えていたから、あまり良い人相ではなかったのだろう。
ハッサンが出てきてまた挨拶を交わし、それから訪問の理由を聞かれた。
「お屋敷の召使頭が何故私の血を流そうと望まれたのか伺いたいと存じます」
「マジッドが? 本当かそれは!」
私は自分の長衣をたくし上げ血の滲む包帯を見せた。それから短剣を卓の上に置き、私を刺した男の物だと説明する。
「これは確かにマジッドの物だ。どう弁明するか本人に聞いてみよう」
その時マジッドが客間に入って来て私を見いだし、死神でも見つけたような蒼白な顔になった。
「これはいったいどうしたことだ! 悪魔の息子め、お前は死んだはずだ!」
「この通り生きているとも。そう言えばお前の尻に突き刺さった鉄串をここに持ってきた。お前の尻の傷と比べれば、確かな証拠となるだろう」
私がなおも言い募ろうとするのを、ハッサンが遮った。
「おおマジッド、ではお前がこのルズ殿を殺めようとしたというのは本当なのか?」
「旦那様、この男は人殺しです。アティヤ様に頼まれて旦那様を毒殺しようとしていたことは、乳母のラムラからお聞きになっているはずです。私はそんな恐ろしいことが起こる前に災いの種を除こうとしただけでございます」
「マジッド、お前はどうしてラムラの話を知っているのだ? ラムラは誰にも話していないと言っていたが?」
「そ、それは、旦那様に話した後、ラムラが私に話してくれたのでございます」
「馬鹿な、ラムラはその後ずっとアティヤの傍にいたはずだ。お前は奥の間に忍び込んだとでも言うつもりか?」
切羽詰まったマジッドは何を思ったか卓の上の短剣に手を伸ばそうとした。何をしようとしたのかはわからないが、何であろうと私はそれを許すつもりはなかった。まだ持っていた二本の鉄串を持ち替えると、その一本ずつでマジッドの両の太股を突き通したのである。
ギャッという声と共に奴は倒れ伏した。鉄串を引き抜こうとしたが、固く硬直した筋肉はそれを許さない。奴は這いずり廻って呻いていた。これでは逃げ出すことなどできるはずもなかった。
後に役人の手で、乳母のラムラとマジッドを別々に尋問した結果、次のようなことが明らかになった。
ハッサンの財産全てを継ぐつもりであったマジッドは、一人目の邪魔者アミラの時乳母のラムラを籠絡し、結託してハッサンとアミラが疎遠になるよう仕向けた。アミラが庭師の息子と情を通じたというのも、そもそもはこの二人の企みによるものだったのである。
そして二人目のアティヤについても、同じことを仕掛けたのであった。だがそこに私という男が現れ、アティヤの依頼を受けた。企みが露顕しそうだとあせったマジッドが私の謀殺を企て、失敗したという訳である。
マジッドは主人を欺き財産を我が手にしようとした罪で打ち首に、ラムラも主人を陥れ大罪を犯させた罪で絞首刑になった。
ハッサンのところからは私に二百五十ドラクマの金が届けられた。ただしアティヤがハッサンの子を身ごもったかどうかは、奥の間の秘密であり、私はまだ知らない。