使徒のうごめき-1
「あっつい。もう真夏じゃないのこれ」
季節は初夏、時間は正午頃、街を歩いていたみやびはハンドタオルで額の汗を拭っていた。そこで電話が鳴る。
「はいはい、ああ貴恵ちゃん。いったいどうしたの」
「仕事を依頼したいのだけど、余裕はあるかしら?」
「まあ、ちょうど一仕事終わったところだからいいけど。そっちに行けばいいの」
「そうしてくれるなら助かるけども」
「了解。なんか冷たいものでも用意しておいて」
みやびは電話を切るとため息をついて方向転換をした。
それから徒歩と電車で移動してみやびは木村興信所の入っている三階建ての雑居ビルの前に立っていた。
「あれ、貴恵ちゃん」
みやびはビルの外にいた木村を見つける。地味だが高級そうなスーツを着た木村も気づいたようで、煙草を手に持った灰皿に押しつけながら近づいてきた。
「早かったわね」
「まあ、電車のタイミングがよかったからね。立ち話じゃ済まないんでしょ」
「そうね」
木村はうなずくと先にビルに入っていった。みやびもそれに続いて階段を上って興信所の事務所のドアを通る。
「どうもお世話様」
みやびは見知った社員に声をかけながら木村とは別に応接室に入った。そこでソファーに座ってしばらく待っていると、お盆にカップを二つ乗せた木村が入ってきた。
「冷たいものでいいのよね」
「はいはい、ありがとさん」
みやびはカップを受け取ると早速一口飲み、その間に木村は脇に抱えたファイルをテーブルの上に置く。
「お、アナログいいねえ」
そう言うとみやびは早速ファイルを開いて中をざっと確認した。
「なんでこんなにためこんだわけ」
「あなたが忙しそうにしてたからよ。それに、これはごく短期間で起こったことなの」
「短期間?」
みやびはもう一度ファイルの中を見てうなずく。
「なるほど、これは大したもんだ。しかもこの十件が全部市内とはね」
「そう、こんなことは今までなかったし、何か心当たりがあったりするんじゃないの?」
「まあ、なくはない。それより、車を運転手付きで貸して欲しいね。できるだけ早く片づけたほうが良さそうだから」
「ちょっと待って」
木村は立ち上がって事務所の方に戻り、しばらくすると一人の若い女を連れて戻ってきた。
「とりあえず今日一人は確保したわ。まだ新人だからよろしくね」
「よろしくお願いします! 鈴野未来です」
「ああ、よろしく。あたしは矢代みやび」
みやびは鈴野に手を差し出し、軽く握手をしてから鈴野の横に移動してその肩に腕を回した。
「じゃあ未来ちゃん、一緒に外回り行ってみようか」
そのまま二人は外に出て行き、木村はそれを見送りながら、鈴野の給料に色をつけるのを考えていた。
それから数十分後、みやびは鈴野の運転で五階建ての団地に到着していた。
「一件目はここか。一種間前に複数の部屋で異臭騒ぎが発生。調査はされたけど原因はわからずに、毎日怪現象が起こる、と」
「はい。それで困り果ててうちに相談が来たみたいです。怪現象は物音から始まって、最近はベランダのものが落ちたりすることもあるみたいです」
「そりゃ危ない」
そう言ってみやびは片眼鏡を取り出し、右目につけると、しばらくの間周囲をじっくりと見回していた。鈴野はその様子を下がって見ていたが、数分後には歩き出したみやびに手招きをされてその後について歩き出した。
「この件は原因が複数あるね。一つ以外は大したことがなさそうだけど、団地内に分散しててちょっと面倒くさい」
「それは、どれくらい時間がかかるのでしょうか」
「まあ、邪魔が入らなければ三十分くらいじゃない」
「邪魔が入るんですか?」
「かもしれない。油断はしないようにね」
「はい」
それから最初にたどり着いた場所は団地の給水設備の前だった。
「まずこの中だ」
「それじゃあ、私達だけでは」
「ああ、それは大丈夫。別に実体のあるものを相手にするわけじゃないし」
そう言うと、みやびは片眼鏡の位置を軽く直し、右手を真っ直ぐに伸ばす。数秒後、その手が握らると同時に給水設備が揺れた。
「え!?」
突然のことに鈴野は一歩後ろに下がる。だが、その目は何も変わったものをとらえることはできずに、何が起こったかわからずに戸惑うだけだった。
「中々のもんだ」
つぶやいたみやびはジャケットの内ポケットから紙の包みを取り出すと、その中身を目の前にばら撒く。次の瞬間、その包みが弾けて火花が周囲に散らばった。それが何もなかった空間に影を浮かび上がらせる。
「や、矢代さん、あれは?」
鈴野は目の前のことに理解が追いつかずに、とりあえずみやびに声をかけた。みやびは一歩踏み出してから顔だけそこに向けて口を開く。
「ああ、あれは原因の一つ、簡単に言うと悪霊かな。とりあえずそこで動かずに見てて、後は片づけるだけだから」
みやびは前を向くと影に近づいていき、そこに無造作に右手を突っ込み、何かを探るように影の中を動かした。
「あー、ここかな、いやこっちか」
手を下に向けたところで、みやびは何かをつかみ、影の中から腕を引き出した。それは手のひらサイズの巨大な目玉で、鈴野は思わず顔を引きつらせる。
「なんですか、それ」
「見ての通り、もうただの化物。まあ、こうなったら簡単なんだけど」
みやびは目玉を顔の高さまで持ち上げると、力を込めてそれを一気に握り潰す。それで体液が飛び散るようなことはなく、煙となって消えただけだった。みやびは手を払うと、まだ固まっている鈴野に近づいて肩を叩いた。
「さて、次行こうか」
返事を聞かずにみやびは歩いていき、数秒経って気を取り直した鈴野は焦ってその後を追い、すぐに追いつく。
「あの、矢代さんはいつもああいうのを退治してるんですか?」
「それなりにね。でもこういうのは珍しいから」
「そうですよね、あんなのが沢山いたら大変ですよね」
「あれくらいなら、そんなに大したことはないけどね。こっちの方に引っ張り出してやれば、今みたいに簡単に握りつぶせる程度。次はそう簡単に行くかはわからないけど」
「とういことは、次の場所が一番厄介な場所だということですか?」
「そうなるね」
みやびの返事に鈴野は唾を飲み込んで気合いを入れた。それから数分後、二人が到着したのはドア付のゴミ集積場だった。
「ここなんですか?」
「そう、動き出す生ゴミとかいるかもね」
みやびはドアに近づいて手をかける。
「鍵はかかってないか。よっと」
重いドアが横にスライドし、集積場の内部が露わになった。内部にはそれなりにゴミが集まっていたが、不潔とまでは言えない様子だった。みやびはその中に足を踏み入れ、建物内を一度見回すと、一度外に出た。
「未来ちゃん、ちょっと離れてて」
「はい」
鈴野は言われた通りに後ろに下がり、それを確認したみやびはその場に右膝をついてしゃがむと、右手を地面につけた。
「うまく隠れてるようだけど」
そこでみやびはうつむいて目をつぶり、数秒間その状態を維持した後、おもむろに立ち上がって自分の電話を取り出して通話を始める。
「こっちの位置は分かってる? ああそれなら話が早い、目の前に隠れるのがうまい奴がいるんだけど、そっちからちょっかい出してもらえる。じゃあ三分後によろしく」
みやびは電話を切ると、それをポケットにしまって腕を組んだ。そのまま三分経過すると、突然集積場の入口からゴミが噴出した。
「時間通り」
そう言ったみやびは飛び出してきたゴミを一つずつ見ていくと、小さなスーパーの袋に目を止める。それからみやびがそれに近づいていくと、あと三歩の場所で袋が破裂した。
「仕方ない、二郎!」
何かの名を呼ぶと同時に、みやびが電話を空中に放り投げた。すると、それが黒く変色すると同時に、直径一メートルはある球状の闇となり、次の瞬間には翼を広げた巨大なカラスの姿に変わっていた。
「あえ?」
鈴野は目の前の出来事が信じられずに、よくわからない音を出しただけだった。その間にも二郎と呼ばれたカラスは空を舞って何かをくわえると、すぐにみやびの前に戻ってきた。
「おつかれさん」
みやびはしゃがんで手を差し出すと、そこに二郎はくわえていた何かを落とす。それを確認して握りつぶしてから、みやびは二郎の胸元を撫でた。
「よしよし、さすがあんたは素早いね」
それに二郎は甲高い鳴き声を一つ上げたが、そこで突然空を見上げると、今度は長く鳴いてみやびの肩に飛び乗った。
「どこ?」
ささやくような言葉に二郎は再び空に向かって飛び立つ。しかし、十分な高度に到達する前に突然空の色が変わり、二郎は何かにぶつかったようで体勢を崩してしまう。
「働き者め」
そうつぶやいたみやびの視線の先、空中には白神の使徒の姿があった。すでに体勢を立て直していた二郎は、急降下をしてみやびの隣にふわっと着地する。
「それがお前の使い魔か」
「真昼間っからそんな暑苦しい格好でよく出てくるよ。しかもご丁寧に結界まで張っちゃって。ああ、ちなみにこの子は二郎っていうんだ、まあよろしく」
「自分がどんな危険にさらされているのかもわからないようだな」
「そいつはどうかな? 結界はあたしにとっても都合がいい部分があるし」
「ほう」
使徒は鈴野に手を向けるが、それよりも早く二郎が飛んでその手を弾いた。そして、みやびはジャケットを脱ぐと、それを鈴野に向かって放り投げる。
「一郎! そっちはよろしく!」
声と同時にみやびのジャケットが巨大な狼と変化し、鈴野を守るような位置に着地した。
「え? ぅええ!?」
すでに事態は鈴野の理解を超えたようで、よくわからない声を出してみやびや使徒、一郎や二郎を見ているだけだった。
「じっとしててね」
みやびがそれだけ言う間に、使徒は地上に降り立っていた。二郎はみやびが差し出した左腕にとまり、それに向かって一声上げる。
「よほどその使い魔二匹の力に自信があるようだな」
使徒は声に警戒をにじませながらみやびに向かって一歩踏み出した。すると、踏み出した足から影が四方に広がり、人の形になって立ち上がった。
「そんなものまで使うわけね、それならこっちもやりますか。二郎!」
二郎は軽くみやびの腕を蹴ると、空中で拳銃のようなものに姿を変えてその右手に収まった。その間に立ち上がった影の二体が迫ってくるが、みやびは落ち着いて銃口を右に向けると、引金を引く。
次の瞬間、乾いた音が響くと同時に影の一つが砕けて消え去っていた。みやびはすぐに反対側の影に狙いをつけるが、それより早くその影は地面に潜る。
「そのくらいじゃね」
みやびはそう言って銃を上空に向けると、続けざまに三発撃った。放たれた黒い銃弾は空中で軌道を変えると、地面にある三つの影に向かってそれぞれ落ちていき、同時に貫いた。そして、みやびは銃口を使徒に向ける。
「さて、次の手はあるのかな」
「なるほどな、確かに言うだけのことはあるようだ」
いつの間にか最初より後方に下がっていた使徒がそう言うと、みやびはそれに向けて引金を引いた。だが、使徒はその銃弾を手で受けて握りつぶす。
「しかし、この程度ではな」
「まさか、これで終わりだとは思ってないでしょ?」
使徒はそれにうなずくと、被っていたローブに手をかけて、顔をさらした。
「っち、悪趣味な」
みやびは舌打ちをして、銃を下げた。それも当然で、その視線の先にあるのは妹であるみきとうり二つだったからだ。使徒はみやびの反応を確認すると、ローブで再び顔を隠す。
「今回はこれで帰らせてもらう。これ以上は無駄だろうから、お前のここでの残りの仕事も片づけておいてやる」
「そいつはどうも。でも、ここ以外は残しておくんだろう」
「お前の手の内を見るためにもな」
そこで空の色が元に戻り、使徒は空気に溶け込むようにしてその場から消えていった。
「二郎! 一郎!」
二郎は電話に変わり、一郎もジャンプすると空中でジャケットに姿を変えてみやびの手に収まった。それからみやびは周囲を見回してからジャケットに腕を通す。
「あー、未来ちゃん。とりあえずここは終わったみたいだから、車に戻ろうか」
「は、はい」
鈴野は返事をしながらも、どうしてもみやびの電話とジャケットが気になるようだった。みやびはそれを見て、片眼鏡を外してから笑みを浮かべる。
「まあ、説明は道中でするから。あと、ゴミの集積場の件はすぐに連絡しておいてね」