亡霊の部屋
みやびは向かい側に座る中年の男、弁護士をやっている北川健児を眺める。さらにその隣の痩せた中年の女に視線を移動させた。
「彼女が私の依頼人でして、アパートの大家をやっています」
「目黒です」
痩せ型で地味な中年の女、目黒がそう言って頭を下げる。
「矢代です。それで、今回の依頼は?」
「それなんですが、こちらの目黒さんのアパートの部屋で幽霊騒ぎが起こりましてね。今は空いている部屋なのですが、どうも周りの部屋にも影響が出ているようなのです」
それを聞いたみやびは立ち上がり、電話をポケットに入れた。
「そういうことなら、すぐに現場を見せてもらいましょうか」
数十分後、みやび達三人は目黒の三階建てのアパートに到着していた。そこでみやびは右目に片眼鏡をつけてアパートを見上げる。
「ああ、これはまずい」
「そんなにひどいんですか」
目黒が動揺した様子でそう言うと、みやびは軽く手を振った。
「まあ、大丈夫です。まだ建物全体ってわけじゃありませんから」
そう言うとみやびは先に歩き出し、二階の一番奥の部屋の前まで到達した。
「どうです、教えられなくても正しい部屋にたどり着く。この人は本物でしょう」
耳打ちする北川に目黒も満足そうにうなずいた。そこにみやびが顔を向けて手を差し出す。
「鍵をお願いします。それからしばらく下がっていてください」
目黒はその手に鍵を置き、北川と共に後ろに下がった。それを確認したみやびは鍵を開けてからゆっくりとドアを開ける。内部はダイニングキッチンと二つの部屋、風呂にトイレがある間取りで、空き家として特に変わったところはない。
みやびは靴を履いたまま室内に入り、まずキッチンを見る。そして、そのまま足を止めずに和室を覗いてから、フローリングの部屋に入っていった。それから数十秒後、みやびは玄関に戻った。
「今は入っても大丈夫ですよ」
そう言って再び室内に戻ったみやびを追って北川と目黒も中に足を踏み入れた。フローリングの部屋にいたみやびは二人が来たのを確認すると、窓際を指さす。
「死体があったのはそこですか?」
みやびの問いに目黒は驚きを顔に出し、北川を見てから口を開く。
「え、ええ、そうです。自殺でした」
「二ヶ月前ですね。幽霊騒ぎの原因はこの部屋の前の入居者で間違いありません」
それからみやびは室内を歩きながら言葉を続ける。
「年齢はまあ四十歳くらい、知能の高い男で仕事以外に目立ったことはしていなかった。それが自殺をして、この幽霊騒ぎを引き起こした、か」
みやびはそこで言葉を切り、しばらくの間黙って天井を見上げる。それからおもむろに視線を下げると、目黒に顔を向ける。
「出来るだけ早くかかりたいんですが、できればその間は住人には避難しておいてもらいたいですね」
「時間はどの程度かかるのでしょうか?」
「三十分ほどあれば大丈夫ですね」
「それならすぐに出来ると思います」
「わかりました。準備ができたら連絡してください。それでは、私は他の用事があるので失礼します」
それだけ言って片眼鏡を外してから、みやびはその場を離れた。そして事務所に帰る途中で電話をかける。
「もしもし、念のために調べおいてほしいことがあるんだけど。ああ、別にお偉いさんは呼ばなくていい」
みやびはそこで今回の件の情報を伝えた。
「今言った情報の周辺に妙な動きがないか確認しておいて。ちょっときな臭い感じもするんでね。それじゃよろしく」
ほぼ一方的にしゃべって電話を切ると、みやびは一度立ち止まりどの方向に行こうか思案したがそれは後ろから走ってきた気配で中断させられる。
「みやびさん!」
聞き覚えのある声に振り返ると、そこには須田の姪、吉本真純の姿があった。
「ああ真純ちゃん。学校はもう終わったの?」
「はい、今日はテストとかがあったので。みやびさんは仕事ですか?」
「そう、なんだかちょっと面倒そうな予感がする仕事でね。どうしたもんかなと考えてるところ」
「そうなんですか、おじさんもなんか最近忙しそうにしてますよ」
それを聞いたみやびは一つうなずくと、胸の前で手を叩いた。
「じゃあ、ちょっとつき合ってもらえる。今は待ちの状態でね」
「いいですよ」
「よしよし、それじゃあご馳走してあげよう」
それから二人は一緒に近くの喫茶店に入ると奥の席に座り、みやびはコーヒー、真純はパンケーキと紅茶を注文した。
「そういえば、なんであいつは忙しいの?」
「なんか連続で人探しの依頼が入ったみたいですよ。ちょっと遠いところもあったりして今は出かけてます」
「さすが探しものに強い探偵。必要な時はこっちに居てもらいたいけどね」
そうして雑談している間に注文が到着し、真純は早速パンケーキにとりかかった。みやびはコーヒーを今回はブラックのまま飲む。
「ところで、最近みきとは会った?」
「一昨日会いましたよ。おじさんのところに遊びに来てたので」
「何をやってるんだか。真純ちゃん、妹のことはお願いね」
「それはもちろん」
そこでみやびの電話が鳴った。
「はいはい、ああアパートの。明日の午前十時なら大丈夫って、早いですね。いや、いいですよ明日の十時にうかがいます」
手短に済ませると、みやびはコーヒーを一気に飲み干し、立ち上がった。
「さて、予定は決まった。それじゃ、ちょっと準備もあるからあたしは先に帰るよ」
そう言ってみやびは財布から紙幣を数枚取り出してテーブルに置いた。
「お釣りはいらないから、宴会でもなんでもやっちゃって」
「はい」
真純は笑顔で返答し、みやびもそれに向けてにやりと笑ってから外に出て行った。
翌日、みやびは時間の十分前にアパートの前に到着していた。すでに北川と目黒は先に来ていてみやびを迎える。
「どうも、おはようございます」
みやびは軽く挨拶をしてからアパートを見上げ、右目に片眼鏡をつけた。
「今日はよろしくお願いします」
目黒が頭を下げ、鍵を差し出す。みやびはそれを受け取ると軽くうなずいた。
「それじゃ、早速かかりますか」
そう言って返事を待たずに早足で階段に足をかけたみやびは、そこで北川と目黒に向かって振り返る。
「終わったら言いますから、それまではそこを動かないでください。なに、そんなに時間はかかりませんよ」
「お願いします!」
目黒の声に手を上げて階段を上り、みやびはすぐに目的の部屋の前に到着していた。そして鍵を開けると、手を二つ叩いてドアに手をかける。
「さて、ご対面」
言葉と同時にドアを開けると、内部からは妙に湿気のある空気が吹き出し、体にまとわりついてきた。その生温かさにみやびは顔をしかめる。
「聞き分けがいいと助かるけど」
それだけつぶやくと、みやびは迷いなく部屋に足を踏み入れドアを閉め、さらに鍵をかけた。それから左手で壁を触りながらフローリングの部屋の窓の前まで歩く。
「さあ、準備万端待ち構えてたんだろ。ここにはあたしだけだし、住人も今は誰もいない。遠慮する必要なんて何もないよ」
その言葉が終わると同時に、窓に人の形をした影が現れた。
「ああ、やっと出てきた。喋れる?」
影はみやびの言葉に応えるように揺らめくが、言葉は聞こえない。その様子にみやびはため息をついた。
「環境の激変を考えれば理解できるけど、今は喋ってもらわないと困るんでね」
そして、みやびは窓の影に右手を置くと、それを軽く押した。すると、窓に映っていた影はバルコニーに押し出され、顔に驚愕の表情を張りつけた薄い中年の男の姿となった。
「こ、これは?」
「あんたの存在を一時的にこっちに寄せたんだ。とにかく、なんでこんなことになってるのかを聞こうじゃないの。ほら、中に入る」
みやびが窓を開けると、男はとりあえずそれに従う。
「い、今まで何をしても誰にも気づいてもらえなかったのに。ここから動けなくて気が狂いそうだった」
「それはまあ、あたしは専門家だからね。まず単刀直入に聞くけど、自殺はあんたの自身の意思だったの?」
その言葉に男は多少落ち着いてような様子になってうなずいた。
「それは、確かにそうだった。最近は何もうまくいかなかったし、それに病気も悪化していて。毎日つらいだけだった。それで」
「なるほど、それでそうしたけど。ここにとらわれて苦しんでいるわけか」
「そうだ。あんたは専門家だと言ったな、だったら俺を助けられるのか?」
「それが依頼だからね。でも、まだ時間の余裕はあるから、あんたがこうなった理由をここで調べようと思ってる。すぐに終わるし、その後であんたのことを開放するのは約束する」
みやびの言葉に男はほっとした様子を見せる。
「そういうことなら、なんでも聞いて欲しい」
「それならまず、あんたが死んだのは二ヶ月前だったようだけど、この状況になってから何日経つ?」
「それは、十日前だったはずだ。二日くらいは何がなんだかわからなかったが、三日目に声が聞こえてきた。その声に従ったら周囲に影響を及ぼせるようになっていった。その方法は言わなくてもいいのか?」
みやびは黙ってうなずいて先をうながす。
「じゃあ、それから徐々に周囲に影響を及ぼせるようになっていって、俺はなんとか気づいてもらおうと努力をした」
「それで頑張りすぎてあたしが呼ばれることになったわけだ」
「そうだ。でも今から考えるとなんであんなことをしていたのかわからない。俺の行動だけ見えたって何もわかるわけがないのにな。あんたが来たのはただの幸運だった」
「そうかもね。で、あんたが従った声については、今言った以上のことはないんだね」
「ああ、正体はわからなかった。それでも従うべきと思ったんだ」
その答えにみやびは腕を組んでからうなずいた。
「わかった。それじゃ、そろそろあんたをここから解放しよう」
そう言ってみやびは片眼鏡の位置を軽く直し、左手を男の右肩に置いた。男はそれにうなずく。
「頼む。やってくれ」
「今度こそ死ねるけど、何か言い残すことは?」
「ない」
「いい返事だ」
みやびは左手を戻すと、両手を打ち合わせた。そうすると男は元の影に戻り、徐々に薄れ始める。みやびは一歩下がると、それが完全に消えるまで動かずにじっと見ていた。
十分後、片眼鏡を外したみやびは北川と目黒の場所に戻ってきていた。
「終わりましたよ。案外聞き分けが良かったので簡単に済みました」
目黒はその言葉にほっとしたようで、大きく息をつくと頭を下げる。
「ありがとうございました」
北川はそれを見て満足そうにうなずくと、みやびに視線を向けた。
「ご苦労様でした。支払いについては後ほど連絡いたしますので」
「ああ、振込先はいつも通りでよろしくね。それじゃ、ちょっと野暮用があるのでこれで失礼しますよ」
みやびはその場から離れてしばらく歩くと、電話をかける。
「もしもし、そっちの調べた通り、干渉があったわ。正体は詳しくはわからなかったけど、まあ予想はついてる。そういうことだから、とりあえず調べは引き続きよろしく」
そこでみやびは電話を切り、足を止めた。
「おや、言ってるそばから」
そして空を見上げると、そこには先日遭遇したローブをまとった白神の使徒の姿があった。
「なんともまあ、びっくり人間のコンテストでもあんのかね」
「お前があれを片づけたのか」
「あれ? ああ今の仕事のことか。やっぱりあれはあんたの仕込みだったわけね」
「そうだ。あれが簡単に止まることはなかったはずだ」
「まあ、専門家なんでね。あれくらいはできるさ」
みやびの返しに使徒は数秒沈黙する。
「どうやら、お前を見くびっていたようだな。白神様が油断するなと言っていたのも納得できる。楽しむのはやめだ、まずお前を片づけるのが先のようだな」
「褒めて頂いてどうも」
「近いうちにまた会うことになるだろう。その時は覚悟しておけ」
そう言うと、使徒は空中に溶けるようにして消えた。みやびはそれを見届けてから歩き出す。
「さて、昼は何食べようか」