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主人をなくした城は、もろい。
高い城壁も頑強な門も、守る人の心が崩れてしまっては、所詮は張り子の虎でしかなかった。
有岡城の抵抗は今なお続いているが、熱気は徐々に冷めてきている。辺りに漂うのは、主君に見捨てられた兵士たちの、どうしようもない悲壮感ばかりだった。
「なあ、晏火よ。残された兵どもは、皆して哀れよな」
晏火が陣幕をくぐるとすぐに、嗄れた声が掛けられた。
足音を押さえていたはずなのだが、さすがだ。晏火は軽く頭を下げ、羽柴筑前守秀吉の隣に並ぶ。
自陣に戻ってからさほど経っていないようで、泥で汚れた具足を着けたまま、秀吉は有岡城から立ち上る黒煙を目で追っていた。
「官兵衛はどうだ? お前の目立てを聞きたい」
疲れの色は濃いものの、秀吉の眼光の鋭さは陰らない。
晏火は、たいしたものだと感嘆する。
まったくもって、驚かされる。小柄な体格のどこから、他者を飲み込むほどの威圧感が生まれるのだろうか。
「三木城攻めに間に合うかどうかは分かりませんが、使えましょう。彼の者はまだ、すべてを諦めてはいないように思えます」
逆心の心は欠片もなく、ずっと土牢に幽閉されていたのは、晏火がしかと確かめた。
「筑前守様の采配しだい、といったところでございましょうね。仕えるに値する人物である限り、牙を向けられようとも、囓られはしない。あれは、そういう男です」
冗談半分に言えば、秀吉はまばらに伸びた髭を撫でて「なるほどのぅ」と笑った。
「では、問うぞ、晏火。儂はお前にとって、よき主か?」
「己の能力を存分に振るえるのも、すべては筑前守様の元にいるからこそ。朽ちてゆく鉱山と共に廃れた掟に縛られたまま死ぬ気は、毛頭ありませぬ。ゆえに、今この場所にいるのですが?」
「ならば、良い。後悔していないのならば、良いのだ」
床机にどっかりと腰を下ろし、秀吉は大きく息をついて「有馬の湯に浸かりたいものだ」と冗談とも弱音とも取れる願望をこぼした。
「晏火よ、隠し村の調子は、どうだ? 順調であるのは、お前が届けてくれた小一郎からの書状で分かっておるが、実際にこの目で見ていないと、なかなか落ち着かんでの。出世は嬉しいが、己の身一つで全部やっていたころと、ずいぶんと勝手が違って、大変だ」
苦笑をこぼす顔は、どこにでもいそうな中年男のものだ。しかし、隙があるようで、不思議と全くない。
「お若き頃が、懐かしいですか?」
どこか野生じみている秀吉の相貌は、好感の持てる部分でもあった。
「今となっては穴掘り生活も懐かしく思うが、だからといって、あの頃が良かったとは思えんな。己の思うように振る舞うためには、それ相応の地位と金が必要ぞ、晏火」
床机に座り、大勢の部下を持つ秀吉だが、元々は晏火と同じ黒川金山の黒鍬衆出身であり、すなわち忍びだ。
「筑前守様の判断は、正しくていらっしゃいます。今も、昔も」
湯水のように金が採れた黒川金山も、晏火が生を受けるよりずっと前から、衰退の兆しを見せていた。
黒川金山の採掘量が減り、焦る武田は新たな土地を欲して他国へと攻め入った。甲斐の山は深く、農業が難しいゆえの行動だった。
(正しい、といえば正しい判断だが、結局はその場しのぎでしかない)
鉱山からの収入が期待できなくなった黒鍬衆も武田軍と共に戦場へ趣き、秀吉は砥石城の大敗をその目で見たのだった。
「あれほどの負け戦も、他に類を見まいて。実にぶざまであった」と、笑い話に秀吉は晏火に語ったものだ。
大局的に見れば、武田信玄は勝利者ではあった。しかし、秀吉は黒鍬衆から離れ、今は織田の家臣として生きのび、黒川金山は枯れた。
「己の懐に金がなければ、何れは滅びる運命よ。世は常に流れ、変化する。人の心も変わらなければ、ただ濁流にのまれるばかりぞ」
生まれもった直感に拠るところの秀吉の先見の目は、結果から言うと正しかった。
甲斐の虎が死去した今、武田の威光は風前の灯火だ。
人から言わせれば、金ありきの秀吉の考えはみっともなくとられるのかもしれない。が、何をなすにも先立つものがなければ儘ならないのが、世の理だ。
大軍であればあるほど、行動には思想よりも実質的な報酬のほうが強い。
今回の中国攻めに対しても、まず先に、秀吉は但馬の生野銀山を手中に収めた。
疑問に思う者も多かったが、半兵衛の後押しも有り、結果的には長期間にわたる三木攻めにおいて、考えの正しさが証明されることになった。
「丹波の生野銀山はもとより、播磨にこしらえた隠し銀山も、順調に動いております。問題は、三木の情勢でございましょう。有岡城が落ち、一気に追い詰めれた形となりますれば、勝敗が決するのも、もはや時間の問題」
三木城に篭城している別所氏の生命線は、毛利から届けられる兵糧のみだ。
その毛利も、自慢の水軍を織田の水軍に壊滅させられ、出鼻を挫かれている。別所に援軍を送るのさえ、困難な状況であった。
三木城は、弱っている。
ぶつかればいくらかの損害は出るだろうが、圧倒的に有利の情勢は、どう転んだところで覆りはしない。勝ちは、秀吉の掌にある。
だが、すんなり勝ってしまってはもったいない。秘密裏に鉱山開発に着手している秀吉にとって、戦は信長の目を逸らすには都合が良かった。
「少々、早すぎる……か。とはいえ、要らぬ手間を掛けていると、右府様の機嫌を損ねかねんしな。そろそろ、潮時なのだろう。儂の見立てでは、まだまだ採れそうなのが惜しいところではあるが、もとより予定にない事業だ。後回しにしても、よかろう」
重い家名を背負うわけでもない秀吉の身軽さは、そのまま、切り替えの早さへと反映されている。
晏火は、柔軟な秀吉の知性に惹かれていた。
秀吉ならば、己の存在を無駄に殺すことをしないと信じられる。そう、信じていたい。
(後戻りはできない。進むだけの身には、希望が必要だ)
「――申し上げます」
陣幕にしみ出る小さな人影に、晏火は「続けよ」と返す。
「三木城の監視に当たらせていた忍びが一名、連絡を絶ちました」
「殺られたか?」晏火が問うと「何処の手の者か、はっきりとは致しませんが、おそらくは」と、淡々とした声が返ってきた。
隣を見ると、意外にも秀吉は楽しげな様子で唇を吊り上げている。
秀吉は「わかった、下がれ」と忍びを追い払い、床机から勢いよく立ち上がった。
「毛利方の忍びでありましょうか?」
忍びを狩れるのは、同じ忍びだけだ。
上月城では、毛利が放った忍びに手を焼いたのを覚えている。
「分からぬものは、断定しない方が良い。目くじらを立てなくとも、儂らの敵であるのなら、こちらからわざわざ動かなくとも、何れどこかで相対するであろうよ」
「座して待つと? いささか、危険ではありませぬか」
心配する晏火に、秀吉は「安全である時など、あったためしはない」と笑い飛ばした。
「事が上手く進みすぎるほど、恐ろしいものはない。良い具合に、気が引き締められて、ちょうどよい。なあ晏火、そうは思わぬか?」
ぎらっと滾る秀吉の眼光に、晏火は悪いクセが出ていると呆れた。
が、同時に晏火自身も、気が奮い立っているのを感じていた。
先の見えている戦いにくすぶっている秀吉など、らしくないのだ。