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朝露の厚く乗る葉が、過ぎ去る一陣の風に揺れた。
弾ける飛沫が夜明けの光にきらりと瞬き、驚いたカラスどもが、寝床から一斉に飛び上がる。
(さて、あれは、どこの間者だろうか?)
わずかな気配を追って、少年は足音もなく木立の合間を器用に駆ける。
肌にまとわりつくような湿気に濡れ、重くなった柿色の頭巾を乱暴に脱ぐと、夏の兆しを感じさせる風が、汗に塗れる頬をひと撫でしていった。
(甲斐の山にも、じきに温い風が吹こう。山は緑に萌えているだろうか)
周囲を取り囲む青々と茂る木々を見回し、篝火は唇をわずかに持ち上げて嗤った。
郷愁を抱くとは、らしくない。すぐさま思考を切り替えて、慣れない播磨の空気を吐き出した。
獣の呼気すら薄い森に違和感を覚えたのは、空がうっすらと白み始めた頃だ。気配を追走してからは、そう時間は経っていない。
(気配の隠し方は、上々。しかし、油断が過ぎる)
前を行くのは同業者、つまり忍びの者。三木城の様子を探りにでも来たのだろう。篭城が始まってからそろそろ一年、播磨国人の粘り腰は、熱した鉄のように強くしつこい。
(状況を考えれば、羽柴方が放った忍であるのに間違いはないな。じつに、好都合)
男と、篝火との距離はつかず離れず。一定の間を保ったまま、変化はない。
先方は、追われているのに気付いていない。間抜け……というよりは、篝火の忍びとしての才能が勝っているだけだろう。悪くはない腕だ。
先手を打てると確信した篝火は、徐々に走る速度を上げていった。
腰に差した忍刀に、手のひらを添える。
どんなに天賦の才を持っていようと、目視できる距離まで近づけば、さすがに気配を悟られる。男の肩が訝しげに動くのを見てとって、篝火は殺していた息を目覚めさせた。
「儂を追うのは、何者ぞ!」
「明かしたとて、無意味。手向けにもならぬ!」
若さが滲む篝火の声に対し、「小僧ごときが、生意気を言う!」と苛立ち気味に振り返った男の顔が、にわかに強張った。
子供と思って、油断しすぎだ。
背後から近づいてくる気配に男が感づいてから、振り返るまで。
時間にして瞬きほどの、わずかな間。
つまりはその一瞬で、篝火は互いの顔がわかるほどの距離まで接近していた。男は完璧に度肝を抜かれ、初動にもたついてしまっている。
「おのれ、貴様! もしや、毛利の忍びか?」
男は握っていた棒手裏剣を投げ捨て、腰に差している忍刀へと手を伸ばした。鯉口を切る小気味良い金属音が響き、鋭利な刃が薄暗闇の中でぎらっと光る。
向けられる切っ先を怖れることなく、篝火は男の懐めがけて更に走り込んだ。両手を握り閉めたまま、切迫する。
「馬鹿な!」と、零れる苦い声が男の口から漏れる。
無手と思えた篝火と男の間に、黄金の火花が散った。
あるはずのない、堅い感触。鼓膜をつんざくほどの高い金属音に、男が短い舌打ちを漏らした。
「その刀、徳良の――」
「然様」
刀を弾き飛ばした勢いに乗り、篝火は腕を思い切り振り上げた。
避けようと咄嗟に体を反らした男の反応は、たいしたものだった。しかし、一寸ばかり足りなかった。
薄明かりの中に、突如として鮮やかな血飛沫が散る。
間合いを計り間違えた男の喉は、闇と同化した篝火の刀の餌食となった。温く暖かい血を盛大に吐き散らしながら、痩躯が藪へと頽れる。
傘のように広がる木々の葉から、強い太陽の光が差し込んでくるのと同時、裂けた喉から血と呼気を吐き出す男の眼前に、奇妙な忍刀が姿を現した。
「この徳良の名を知っているとあれば、あの男はやはりこの播磨におるのだな」
黒錆の刀身。
甲斐の国、黒鍬衆が好んで持つ禍々しい一振りの忍刀を手に、朝日が作る光柱の中に佇む少年。
男が見た最後の光景は、皮肉にも思えるほどに神がかっていた。