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取り皿いっぱいの朝日

作者: やしろ

 好きなものは最初に食べる派だ。

 幼い私のこの信条を目の当たりにした大人は、大抵「そうだよね」と眉尻を下げ、口の端を上げる。どこか遠くにピントを合わせたような目つきになり、「たくさん食べて。なんなら、これもあげるから」と私の皿に自分の分を載せてきたりする。

 この反応に「同情」という呼び名がつくことを知る頃には、すでに見える場所にゴールテープが用意されていた。「往生」という崖がその先を隔てていて、そこに至るまでのまっすぐな道の両脇には「頑張って渚ちゃん、辛くても頑張って」と声援を送ってくる人たちの群れでごった返している、そんな感じだった。

 私の寿命は、どうやら人より短いらしい。

 ドラマなんかでは、分娩室の廊下で座り込んでいる父親に開口一番、「元気な男の子です」などと言ってくれる看護師さんがいるのを見かけるが、私のお父さんもそうだったらしい。

 私がこのシーンに対して思うことは、「私、女子でよかったなあ」ということ。

 事実、お父さんはちゃんと看護師さんに「可愛い女の子ですよ」と言ってもらえたらしい。これが男子だったら、なんて言うつもりだったんだろう、とときどき苦笑してしまう。「元気ではありませんが、男の子です」とは言えないだろうから。それとも、いっそ開き直ったように「可愛い男の子です」と言い切り、「男の子を可愛いと評するの、いけません?」と新・父親を睨んだりしたのかもしれない。

 「渚が生まれたときな、実はお父さん、お腹が痛かったんだ」

 お父さんは「実はお父さん、宇宙人だったんだ」とでも言うかのように、私に驚きのリアクションを期待しながら打ち明けたてきた。

 どう捉えても面白味のないこのセリフに、私は「うん」とだけ言った。「さあ早く先を聞かせて」と言えるだけの優しさを、私は持ち合わせていない。

 「出産ってすごく痛いって言うだろ?しかも長期戦だ。お父さん、何時間も分娩室の廊下で待ってたんだけど、特にやる事もなくてさ、正直に言えば暇だったんだよ。でもお母さんの呻き声がひっきりなしに聞こえてくるし、産婆さんの掛け声はやたら熱がこもってるし、おまえの出産はけっこう盛り上がってたんだ。お父さん、べつにいらないんじゃないかなって自分でも落ち込んじゃってな。ほら、よく言うだろ、私がいなくても世界は回るのにって。それだよ。お父さんに出来ること、何もなかったんだよ。産むのはお母さんの仕事だし、生まれるのは渚の仕事。お父さんはあのとき、無職だったんだ」

 後から聞いた話だけど、お父さんは私が生まれるとき、本当に職がなかったのだそうだ。一児の父になろうってときに、とヒヤッとしたが、お父さんらしいなと思ったのも確かだ。私のお父さんは、「どうせそのハプニングだって、予定調和なんでしょ」と相手を白けさせることが出来るくらい、安定感がある。今は亡きお母さんも、生きていた頃はそこに惹かれたんだろう。

 「不安だったし、居ても立っても居られなかったけど、実際には座ってぼんやりしているくらいしかやることもない。そんなときに、突然来たんだよ」

 お父さんは「サンタクロースが」と言い出しかねないような笑みをたたえて、「腹痛が」と継いだ。

 「お母さんも渚も苦しい。痛い。つらい。お父さんだけ平気でいいなんて、そんなことあるわけないだろう?だからきっと、神様が気を利かせて分け与えてくれたんだよ」

 「痛みを?」

 「足踏みを」

 お父さんは楽しそうだった。

 「楽しみだ、待ちきれないってときにするだろ、足踏み。あの痛みは、内側から蹴り飛ばされてるようなすごいやつでな、ああおれの子どもはせっかちだなぁって、会う前から実感出来た。なかなか幸せだった」

 「マゾヒスト」

 私は即答した。足踏みが楽しみによる産物だというおめでたい発想に水を差さないための、私なりのブレーキだった。

 前進につながらない足踏みなんて、もどかしさや憤りの現れでしかないと指摘するのはナンセンスだ。 そして、事実とは概してナンセンスであるということを、私は知っていた。足踏みじゃ進めない。私の病気は治らない。声に出して確認するだけ、むなしい。

 私の沈黙の意味も解さず、お父さんはうんうんと頷く。

 「そうかもしれない。痛いよりは痛くない方がいいけど、痛みを感じないよりは、感じる方がいい」

 「貧乏性だね」

 「そう。お父さんは欲張りなんだ。無いよりは、有る方がずっといい」

 「痛みでも?」

 「痛みでも」

 だから、とお父さんは続けた。

 「お父さんに、分けてくれないか」

 ベットの脇から発せられる「ピッ、ピッ」という機械音が私の寿命の秒読みをするなかで、お父さんの掠れた声は消え入りそうなもろさで病室に響いた。

 「お父さん、何もないんだ。お母さんも苦しんでた。渚も苦しんでる。なのに、どうしてお父さんにだけ仕事がないんだ。一人くらいいなくても世界が回るんだろう?だったら、おまえくらいは休んでいたっていいじゃないか」

 お父さんから、仕事を盗るんじゃない。絞り出されたその声に叱咤の強さはなく、ただ懇願だけがあった。

 私は、好きなものは最初に食べる派だ。裏を返せば、嫌いなものに手を付けるだけの心の準備がなかなか整わないということでもある。

 でもそれは、見かねた誰かがつまみ上げてくれるのを待っているわけじゃないのだ。

 「私、好きなものは最初に食べる派なの」

 お父さんは何も言ってくれない。続ける。

 「でもね、それは、まだ残っている誰かのお皿から分けてもらうためにしていることじゃないの。与えられたものだけでいいの。人のものまで欲しがったりしない」

私のものは私のものだ。皿の端に除けたものでも、ちゃんと食べる。噛みしめるたびに滲み出てくる苦みを思えば怖気づいたりもするけど、最後には受け入れたい。「強がり」でしかないこの意地が、辛苦を血肉に溶け込ませるなかで、いつかきっと本当の強さになってくれるのだと信じていたいのだ。

 そしてきっと、その「強さ」というのは今このときのためにある。

 「私は欲張りだから、誰にもあげない。全部ぜんぶ、私のものだから」

 「矛盾だ」

 お父さんの声は震えていた。

 「渚は、欲張りなんだろう?」

 「そう、欲張りだよ。お父さんと同じで」

 だって、娘だから。そう茶化す私は、たぶんお父さんと負けず劣らずひどい顔をしているに違いない。

 そう思うと、自然に笑えた。涙が筋を作って頬を流れていく。

 「欲張りだけど、もうお皿に載りきらない」

 お父さんは唇をわななかせていたけど、やがて「皿ならまだ、いくらでもあるじゃないか」と、口の端をちょこっと上げた。

 「渚は、あれだろ、エコだとか省エネだとか、そういう流行りの言葉を気にしているんだろ。あんなものは迷信だ。ちょっとやそっとで地球はどうにかなったりしない。だから木なんていくらでも伐採すればいいんだ。そうすれば紙皿なんていくらでも作れる。おかわりし放題だ。いや、紙皿なんてケチくさいことを言わないで、古伊万里だのなんだの、バカ高い皿だって、いくらでも使っていいんだ。おまえはいったい誰に遠慮をしているんだ。おまえ一人に遠慮を強いなきゃ回っていかないほど世界が繊細なら、そもそもお母さんが死んだ時点でぶっ壊れていていいはずなんだ」

 ほら日が昇ってくる、とお父さんは窓の方を指した。

 「お母さんが死んだ日も、変わらず昇ってきやがった。みんなみんな、無神経なんだ。こっちの都合なんておかまいなしに世界は回ってる。だから渚、おまえはもっと図太くなっていいんだ。ならなきゃいけないんだ」

 朝日が音もなく私のもとまで伸びてくる。聴覚では拾い上げられない不思議な賑わいを含んだ光が、目の前を照らしていく。

 この美しさを表す言葉を、私は知らない。知らないままだ。

 「もう、いいの」

 伝えたい相手が同じものを見ているなら、わざわざ言葉になんてしなくていい。だから、もういい。充分だ。

 「おなか、いっぱいだから」

 私がいなくても、太陽は昇ってくるのだろう。何事もなかったように繰り返し朝はやってくる。泣き腫らした眼から赤みが引かなくても、おかまいなしにその顔を照らし出すその鈍さを、無神経さを、図太さを、私は心強く思う。

 「お父さんの分は、お父さんの分だよ」

 どうか、これからも変わらずこの人を照らし続けてほしいと願うのだ。


本当に苦しんでいる人を見ると、いつも「もういいよ、あなたはこんなに頑張ってるんだから」と物陰に隠してすべての困難から遠ざけたくなりますが、それが出来ないので、結局おろおろして、事態がちっとも変わっていかないことを悟ると一目散に逃げ出します。だから主人公は私の理想、すなわち「絶対になれっこない」姿であり、こうして踏ん張っている人を心から尊敬し、同時に「もういいじゃないか」と喚き出したくもあるのです。ここまで付き合ってくださってありがとうございました。

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