夏到来、追いあげ始めました。
夏休み前日。午前放課ではあるが、午前は通常授業だ。
俺は便所で手を洗いながら、ふと鏡を見る。
うん。悪くない。……顔は悪くないと思う。総合的に見れば中の上、いや、上の下ぐらいは――
「悠一、あんた何やってんの? 鏡に向かって変な顔して不気味よ」
人を罵りながら現れたのは、幼小中高と一緒な腐れ縁。
「何だよ、綾」
俺の隣、もとい男子便所の傍らに突っ立ってる綾を睨む。
綾は本当に憎ったらしい事だけど、美人だ。
揺れる黒髪、すらっと伸びた手足は細くて長いし、目鼻立ちはケチを付け難い。
「別に何でも無いわよ。明日から夏休み、なんだからね」
それだけ言って綾は立ち去った。
俺としては夏休み前に、この高飛車、高慢ちきを負かしてやるつまりだが、どういうつもりなんだろうか。
ともかく、敗北から勝利は生まれる。だからルックスの黒星は甘んじてやる。
明日から夏休みだってのに、体育とは如何なものか。それも50m走の測定なんてあんまりだ。なんて、クラス連中は考えてるだろうが、俺は違う。これはチャンスだ。
体育は男女別れて行われる。だが今日、測定に至っては男女別々ながらも隣同士のレーンで走る。
去年は0.45秒差で負けたが今年は勝つ。何せ意気込みが違う。走り込みをして体を作り、調整してきた。まさに万端。大差をつけて勝ってやる。
笛の音と共にフラッグが振られる。隣で準備していた男子が飛び出す。クラス連中はまたか、と笑っている。
焦らない。綾の番はまだだ。綾と同時に走るには、順決めの時に細心の注意を払い、更に微調整にも念を入れなければ勝負もできない。
綾は呆れ半分に、俺を一瞥してからトラックに入った。
「ホント馬鹿」
「今日こそ俺の勝ちだ」
笛の音。
綾の足がしなやかに地面を蹴る。
だが負けてられない。必死に足を回す。ただ前へ、少しでも速く、綾より速く。
並んだ。全力で振り絞る。飛び込むようにゴール。
ほぼ同着、判定はタイム。
7.01――――女史の体育教師が綾のタイムを告げる。
男子の体育教師に詰め寄る。息も切れ切れ、声に出す気力もない。
体育教師は渋い顔している。
まさか、負けたのか?
「……26.59。あんまりナメた真似してると赤点にするぞ」
ここで、正直な事を言っておこう。俺はどうしようもないアホだ。
綾は性格が悪い。容姿と反比例して嫌な性格だ。綾の嫌いな所を上げれば切りがない。だから、そんな綾に惚れちまった俺は、アホだろう?
気付いたのは中学三年の時。でも告白はしなかった。綾は本当に何でも出来た。容姿端麗、才色兼備、思わず卑屈になっちまうぐらい何でも出来たんだ。気後れした。柄にもなく釣り合いなんて考えて、結局言えなかった。だから自分で決めた。なにか一つ、何でもいいから綾に勝てるものを作る。それで告白しよう。そう決めた。
だから俺が妥協なんて出来るわけ、ないんだ。
「私って美人だし、頭もいいでしょ?」
これが放課後、俺を呼び出しといて綾が言った第一声。
突然過ぎてリアクションも取れない。
「でね、高望みしてたんじゃないかって。付き合うなら、格好良くて頭も良くなきゃ嫌だって思ってたの」
思った通りハードルは高かった。高二になった今でも越えられないハードルだ。ずん、と胃が重くなる。
「なにが、言いたいんだよ」
「ちょっと値下げしようかなぁ、なんてね。何ていうの? 高嶺の花? まぁそんなんじゃ損かなって思ったのよ。夏休み、青春よ。それを一人で過ごすなんて嫌なの。だから、ね。悠一で良いかな、みたいな。光栄に思いなさいよ。それで――」
「ふざけんなッ! 馬鹿にすんのも大概にしろよ」
一瞬、綾が怯えた顔をした。
あぁ、嬉しかった。でも、だからこそ、負けたくない。妥協なんてさせたくない。
「いつまでもお高く止まってろよ! 俺以外、誰も届かないぐらい高いとこにいてくれよ。すぐに追い越してやるから、待ってなくていい、どんどん上がっていけ。それでも俺は、お前を越えるから」
顔が熱い。これって告白じゃ? もう言っちゃった様なもんなんじゃ? あっ、急に恥ずかしくなってきた。今すぐ帰りたい。
「じゃ……のよ」
「じゃ?」
「じゃどうすんのよッ! 私の夏休み。一人? 一人で夏休み過ごすの?」
「えぇっと、そうだ。勉強するか? ほら、昔はよくお前ん家で勉強しただろ」
夏休みは元から勉強するつもりだ。夏休み明けにあるテストで、綾を負かしてやるともりだった。本当を言えば、俺だって一人勉強に明け暮れる夏休みは御免で、出来れば休み前に負けして、告白をしていたかった。
「……ケーキ買ってきてよ。昔はお菓子やジュース持って来てたじゃない。買いに行って、今すぐ」綾はつん、とそっぽを向いて言い放った。
「へ? 今日? いやでもケーキ屋なんて」
「駅前のモンブランじゃなきゃイヤ。紅茶ぐらい用意しといてあげるから早くね」
そういって綾は教室を飛び出していった。
本当に我侭な奴だ。不思議と嫌にならないのは俺の気質か。
夏到来、夏はまだ長い。追い上げはまだまだこれからだ。
お読み頂きありがとうございました。
いや、なんというか……はい。恥ずかしいですね。