第5章
逢月が竹林にたどりついてから5日が経った。
逢月は、竹林に来てから何をするわけでもなく過ごしていた。
雲隠は願いを叶えてくれると言ったが、彼が特に何かをしているようには到底見えなかった。
それはまるで、何かが動くのをじっと待っているかのようにも見えた。
一体どういうことなのか、何度か聞こうとも思ったが、それは失礼かもしれないと思った。
なんせ雲隠は仙人だ。自分にはわからないところで、何かをしてくれているのかもしれない。
だから、しばらく様子を見ることにした。
しかし、逢月にも無限の時間があるわけではない。
ここに来られたのも期限付きのことだ。
あと十日もしたら、ここを出ていかなければならない。
(本当にそれまでに願いを叶えてくれるんだろうか)
もし彼が逢月の知らぬところで何かをしてくれているとしたら、それはただ1つ。雲隠はウォルバンと接触している、ということになりはしまいか。
だが、この竹林に兄がいるようには思えない。
いや、兄どころか、雲隠と学然以外の人間が、ここに住んでいるようには見えなかった。
かといって、逢月は帰るわけにもいかないから、庵にとどまっていた。
内心焦ってはいたが、どうすることもできず、気持ちを落ち着かせるためにも、庵の近辺をぷらぷらと歩く。
王宮にいたときには考えられないことだった。
あそこにいれば、警護のものが重々しい雰囲気でいつも周りにいる。
王宮の庭園を散歩をするときでさえ、周りには必ず誰かがいる。
生まれたときからずっとそうだった。
それが決して当たり前だとは思わなかったが、自分には「自由」を望んではいけないのだと、心のどこかでわかっていた。
それがなぜだかは、幼い頃の逢月にはよくはわからなかった。
だが、父や母の様子からも、決して自分に何かがあってはいけないのだと悟っていた。
この身は決して自分1人のものではないのだと、そんな気がした。
ましてや、いまはその理由もはっきりとわかっている。この身は何ものにも代えることができない。
兄のためにも、国のためにも。
自分の身に何かがあれば、すべてが無駄になってしまう。
これまでの自分の苦労も、そして父の願いも――。
今回、雲隠を探しにくることでさえ、かなりの決心が必要だった。
けれど、できるとしたら今しかない。父の跡を正式に継いでしまえば、今まで以上に自由はなくなる。兄を捜しに自ら行くことなど不可能となる。だから、即位をする前に国を見ておきたい、と父に言い、遊学を口実に王宮を出た。
そうして、警護の者たちの目を一瞬だけ盗んで、ここにやってきたのだ。
逢月にとっては、そのようなことをするのは、生まれて初めてのことだった。
昔、兄ウォルバンと王宮を抜け出したことはあったが、あのときはウォルバンがそばにいてくれた。
まるっきり1人なのは、今回が初めてだ。
きっと今頃王宮は大騒ぎだ。
もちろん、父宛に手紙は残してきた。だが、それでも長い間行方不明になっているわけにもいかない。それこそ取り返しがつかないことになってしまいかねない。
これ以上の無茶はできない。
「大丈夫ですよ、ここは安全ですから」
雲隠にそう言われなければ、こうして散歩をすることもなかったかもしれない。
この日、逢月は夕餉を食べた後、湖の近くにやってきていた。
この竹林はとても不思議だ。
庵に着くまでは、とにかく仙人を探すことに必死になっていて周りをみる余裕もなかったから感じなかった。
だが、こうして何日か庵で過ごし、ここに特別な場所だということを肌で感じた。
この感覚を言葉で表すのはとても難しい。
だが、空気が違うのだ。
しんとした静かな空間。
かといって、動物がいないわけではない。鳥もいる。風の声も聞こえる。それは外の世界と変わらないもののはずなのに。
1人こうして庵の外に出ると、背筋がぞくりとする。それは不快なものではない。むしろ心地よい感覚だ。すべての神経が…そう、周りの自然と一帯になるような感覚に襲われる。
湖面にぽっかりと浮かんでいる大きな月に目をやる。あと数日もすれば、きれいな満月になるだろう。
と、逢月の足がとまった。その視線の先にいたのは……月明かりに照らされた1匹の大きな虎。
虎は大岩に寝そべり、ゆらーりゆらーりと尻尾を揺らしていた。
全身が凍りつく。
虎といえば、人をも襲う猛獣と聞く。
今、自分は死ぬわけにはいかない。静かに気付かれぬよう、逢月は前を向いたまま後退する。
と、揺れていた虎の尻尾が止まる。ゆったりと体を起こすと、逢月のほうに顔を向けた。そして――虎の視線が逢月にくぎ付けとなった。
逢月もまた、虎から目を離すことができず、その場に立ちすくんでいた。
「――何をしにきた」
しばらくして、低い声がどこからか聞こえた。
逢月はだれか自分以外に人がいるのかと、あわてて周りを見渡したが、己以外の人の姿は見えない。
「どこを見ている。ここだ」
もう一度先ほどの声が聞こえた。
周りをきょろきょろしている逢月の前に、大岩から虎が跳び下りてきて、ぬっと目の前に現れた。
「ひゃあ」
思わず悲鳴にも似た声をあげる。
「――驚かずとも、とって食いやしない。私の好物は人ではない」
ここで、ようやく逢月は、虎が人語を話しているのだと理解した。
「あなたは……神様の遣い?」
動物の中には、神の御遣いであるものもいるという。人の言葉を解することができるということは、普通の動物ではないに違いない。
「ただの獣だ。お前の言葉がわかるのは、ここがそういう場所だからだ」
まるで逢月の心を読み取ったかのような虎の答えに、逢月は妙に納得してしまった。
そうか、ここは仙人である雲隠がいる場所だ。きっと動物たちも、逢月の知っている動物たちとは違うのかもしれない。
虎は動けないでいる逢月に、くるりと踵を返すと、もといた岩の上に戻り、その身を横たえた。そして、ふらり、ふらりとしっぽを再び揺らし始めた。
そんな虎の後ろ姿を見ているうちに、なぜか逢月の中で、虎に対する恐怖心が薄れていった。なぜか虎に対して、どこか懐かしさを感じていた。
「隣に座ってもいい?」
逢月はゆっくりと近づくと、虎に訊ねた。
「――…」
虎はいいとも、だめだとも言わなかった。
「座るわよ?」
もう一度断ると、逢月は虎の横に腰を下ろした。
虎が本当に何もする気がないのだとわかると、逢月はぽつりぽつりと自分のことを話し始めた。
はじめはただの自己紹介のつもりだった。けれど、隣りにいる虎の気配を感じているうちに、すべてを虎に聞いてもらいたくなったのだ。自分が何者で、なぜここに来ているのかということを。
虎はただじっとそれを隣りで聞いてくれていた。一言も言葉を発することはなかったが、ゆらりと垂れた尻尾が時折、逢月の肩や頭をやさしくなでてくれた。
それが妙にうれしくて。
月が南中し、やがてゆっくりと西に沈み始めるまでずっと逢月は虎のそばで話をした。
別れ際に、逢月は「また来るわ」、そう告げた。やはり虎は何も言わなかった。
けれど、翌日も逢月は日が暮れると湖へと足を運んだ。そこにはやはり虎がいた。
そしてその翌日も。
一人と一匹は日が暮れてからの数刻を共に過ごした。
雲隠も学然もそのことを知っているようだったが、何も言わなかった。




