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第2章2

 彼女は一国の後継ぎだと告げた。

 彼女には兄が1人いた。だが、兄は生まれてしばらくしたころ、隣国に人質として渡された。

 しかし、父王は決して兄を取り戻すことをあきらめず、いつか彼が戻ってきたとき、王位を障害なく継げるよう、自分を男として育てたのだという。

 つまり、彼女は兄が戻ってくるまでの、いわば身代わりだったというのだ。

 そして父王の願いは叶い、祖国の力が増した結果、兄を隣国より取り戻した。しかし、兄は己の出自をまったく知らなかった。自分はずっと隣国の王の実の息子であると思っていた。

 その結果……彼は突然つきつけられた真実を受け入れることもできず、自分たちの前から姿を消してしまったのだ、と――。

「兄を追い詰めたのは私です」

 逢月(フォンユエ)は苦しそうに言葉を紡いだ。

「何も知らない兄に、私は真実をすべてぶちまけてしまったんです。もっと兄を傷つけずにすべてを知ってもらうことはできたはずなのに……」

 ずっと、ずっと…彼女は後悔し続けているようだった。

「兄が姿を消してからというものの、父は目に見えて覇気を失っていきました……」

 そして数ヶ月前、人払いされた一室で、父王は逢月に告げたのだという。

 己の命はもはやもつまい。

 だから、完全に尽きる前に王位を譲りたい。

 逢月に――。

 だが、彼女は女。

 逢月の国に、女が国を治めた前例はない。

 だから、父王は逢月を「男」のまま、国を継がせようとした。

 今までも、そしてこれからも逢月はずっと男であり続けなくてはならない。

 周りに決してこの苦しみを悟られることなく、民を欺き、臣下を欺き生き続けなければならないのだ。


 迷い。

 不安。

 足りない覚悟。


 現実を目の前に突き付けられた時、それでも逢月はぐっと耐えるしかなかったのだろう。

「父が病に伏した今、王位を継ぐべき者は私しかいませんから。それはわかっているんです。けれど……」

 その一方でどうしても兄のことが忘れられない、と逢月は言葉を絞り出した。

「兄はきっとどこかで生きていると思うんです。兄が死んだという確証がないのに…このままでは私は王位を継ぐことができない……」

「お兄さんに王位を継いでもらいたいのですか?」

 雲隠(ユンイン)の質問に一瞬の間があった後、逢月は深くうなずいた。

「本来、王になるべき人は兄です。今、私は継ごうとしている王位は、兄のために用意されたものです。私は……そのために今まで生きてきたのですから」

 逢月は自分が考えなしの行いをしてしまったがために、兄が国の王となる機会を失ってしまった、と自分を強く責めているように見えた。

 父の夢も、そして兄が手にするはずだった未来も、すべてを奪ってしまったのは自分だと。

「それで、あなたはどうしたいのですか?」

「私の願いはただ一つ。兄が平穏な心で過ごせる場所を作ってほしい。王宮に。彼が本来いるべきだった場所に戻れるように」

 父王の命が尽きる前に、と逢月は言った。

 学然(シュエラン)は小さく息をついた。

 それを願うなら、次の雲隠の質問に対して、彼女がどのように答えるのか――それを想像し、心がずんと重くなった。

「では、その願いを叶える代わりにくださる、あなたの一番大切なものはなんですか?」

 彼女は微笑むと、言った。

「私の居場所。私の地位。私の人生。私の……命」

(やっぱり…そうきたか……)

 彼女の立場を考えれば、それは当然の結論なのかもしれない。

 逢月には痛いほどわかっているのだろう。

 兄が戻ってくれば、それはすなわち、己の居場所がなくなるということを意味することを。

 いや…なくなるのではない。

 居場所は残しておいてはいけないのだ。決して。

 王位を継げる人間が2人いるのは、争いの種だ。

 ましてや、逢月は長年兄の代わりとして生きてきたと言っていた。

 その間にいやでも目にしてきたはずだ。官の政治的な、ときには暗闇に隠したくなるような駆け引きを。

 少しでも兄の治世に障害となるものを残してはならない。

 彼女が生きていれば、官に利用されるとも限らない。

 逢月と兄が入れ替わった瞬間から、彼女はこの世に存在してはならない人間となる――。

 兄の生還と引き換えにできるのであれば、彼女は喜んですべてを差し出そうというのだ。

「私が生きてきたのは、兄が戻ってきたときの、兄の居場所を守るためなのですから」 

 だから、自分の命は惜しくない。そうはっきりと彼女は雲隠の目を見て答えた。

「――わかりました。あなたの願い…叶えましょう」

 そうして雲隠はいつものように「契約」の儀式を行った。

「ねえ、仙人さま」

「?」

 儀式を終えた後、彼女はようやく一息つけたようで、ゆっくりとした口調で雲隠に語りかけた。

「私、思うんです。兄がいつも話してくれた虎と熊の娘の話があるんですけれど、兄はまるでその物語に出てくる虎の娘のようなんです」

(まさか……)

 ここでようやく、学然の中にあった小さな突っかかりがすっと取れ、脳裏にある一匹の虎の姿と結びついた。

 5年前、この竹林にやってきた1人の少年。

 彼が自分たちに話してくれたことは、彼の身の上のことではなく、彼の国に伝わるという物語だった。

 彼が話してくれた物語にも、虎と熊の娘が出てきはしなかったか。

 隣りを見れば、雲隠も大きく目を見開いている。雲隠も気付いたのだ。彼女の兄が誰なのか――。

 震える声で雲隠は訊ねた。

「逢月。あなたのお兄さんの名は?」

 彼女ははっきりとこう答えた。

「ウォルバン。でも…本当の名は月芳(ユエファン)です」

 名の中に自分と同じ「月」を持つ。

 大切な兄です、と逢月は告げた。

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