『私がいなくても屋敷は回るそうなので、最後に朝食だけ作って帰ります』
私がいなくても屋敷は回るそうなので、最後に朝食だけ作って帰ります
「正直なところさ、マルグリット。借金の整理も終わった今となっては、君がいなくてもこの屋敷は普通に回るんだよ」
秋の長雨が上がったばかりの火曜日。応接間の窓から、濡れた庭と鈍い色の空が見えていた。
婚約者のユリアンは、椅子に深くもたれ、マルグリットの淹れたカモミールティーを口に運んだ。庭の隅で育て、摘んで乾かした花の甘酸っぱい林檎のような香りが、湯気とともに室内に広がる。
「……今、何とおっしゃいました?」
自分の声が、思ったよりもかすれていた。
「聞こえなかったかい? 君が毎日帳簿を持って屋敷を歩き回っているのは知っているよ。でも、あれは使用人の仕事だろう。買い出しの差配や、薪や石炭の手配なんて、下働きに任せればいい。母上もおっしゃっていた。借金返済の目処がついた今、いずれ正式に子爵夫人になる人間が、いつまでも台所の煤の匂いをさせているのは見苦しいって」
「仕入れも、支払いも、下働きに任せればいいと?」
「商人とは取り決めを交わしてあるんだろう? なら、朝になれば品物は届く。街角の水栓をひねれば水が出るのと同じさ。どうして君は、自分の仕事を大げさに言うんだい?」
ユリアンはカップを置いた。陶器がソーサーに触れ、カチャリと鳴る。
その音を聞いて、マルグリットの中で何かが切れた。
怒りが先に来た。けれど、その底には悲しみも、みっともない未練も残っていた。
三年前、先代当主が遺した膨大な負債で傾きかけた子爵家を救うため、親族会に頭を下げられて送り込まれたのが、商家の娘である自分だった。実家の商会の信用を盾にして商人たちに支払いを猶予させ、寝る間を惜しんで帳簿を整理し、ようやく財政を立て直した。ユリアンが今着ている仕立てのいい上着の生地代だって、マルグリットが捻出したものだ。
三年も一緒に過ごしたのだから、借金が片付いた途端に追い出そうとする母親の浅ましさを、せめて彼だけは諫めてくれるのではないか。そんな期待を、まだ捨てきれずにいたのだ。
指先が冷える。親指の皮が少しめくれて、ひりついた。昨夜、大鍋を動かしたときについた傷だった。
九月の朝晩は、もう暖炉が欲しいほど冷える。湿った薪を燃やせば煙が屋敷中に回るから、マルグリットは先週、煙突掃除を手配し、蒸気鉄道で届いた硬木を乾いた場所に移させた。石炭の納入日も、台所の窯を使う回数に合わせて調整している。
ひとつひとつは小さな仕事だ。けれど、誰かが見落とせば、家の中のあちこちに不都合が出る。
「分かりました。では、私の役割はここまでとさせていただきます」
「なんだよ。すぐ拗ねるな。大人の話し合いができないのかい?」
ユリアンの声を背中で聞きながら、マルグリットは応接間を出た。
廊下で壁に手をついた。膝が震えている。涙がにじんだが、袖で拭った。泣くなら、彼に見えないところで泣けばいい。
部屋に戻り、机の引き出しを開けた。商人組合に預けた個人保証の控え、当主代理の委任状、個人口座の通帳。婚約の際に交わした覚書も、封筒に入れてしまってある。
紙の端が指先に引っかかった。
「落ち着いて。順番に」
自分に言い聞かせ、必要な書類を机に並べた。婚約の覚書には、家政を担う前提が失われた場合、双方が解消を申し出られると記されている。委任状も、先代当主の親族会が定めた任期つきのものだ。マルグリットは、任期を更新しないと決めた。
引き出しの隅に、ユリアンからもらった押し花の栞があった。婚約が決まった頃、彼が庭で摘んだ花を挟んでくれたものだ。
捨てようとして、手が止まる。少し迷ってから、栞を引き出しの奥へ戻した。今すぐ捨てられない自分に腹が立った。
彼への気持ちは、書類のようには片づかない。
マルグリットは息を吐き、地下の厨房へ向かった。
午後の厨房では、料理長のトマスが包丁を研ぎ、見習いのアランが明日の仕込みに使う玉ねぎの皮を剥いていた。
「お嬢さん、顔色が悪いな。また若旦那かい」
「トマス。私、屋敷を出ることにしました。ユリアン様との婚約も解消します」
包丁を拭くトマスの手が止まった。アランは玉ねぎを持ったまま、目を丸くしている。
「本気か?」
「はい。今月分の食材や職人への手付金は、子爵家に請求書を回します。私が個人で立て替えた分も、帳簿に記載してあります。市場の商人組合に出している信用保証は、今夜で取り下げます」
「つまり、明日からは現金払いってわけか」
「はい。急にご迷惑をかけて申し訳ありません。納品も仕込みも、混乱すると思います」
トマスは、ふうっと息をついた。
「昨日の晩餐を思い出したよ。奥様は『秋らしいものを』とおっしゃるから、秋鮭と茸を焼いた。そしたら骨を取るのが面倒だ、もっと食べやすくしろだとさ。魚の味より、皿の見栄えしか見てねえ」
「トマスさん……」
「お嬢さん、これからどうするんだ?」
「中央駅の広場に近い、小さな店を借りるつもりです。以前から空き店舗を探していました。最初は朝食と昼の定食だけ。広さもないし、私ひとりでは回せないでしょうけど」
「じゃあ、俺も辞める」
トマスがエプロンの紐をほどいた。
「あなたまで来たら、お屋敷の厨房が」
「お屋敷の心配は、もうあんたの仕事じゃない。俺を雇ったのは先代だが、給金を削ろうとした奥様から守ってくれたのはあんただ。それに、あの若旦那の薄っぺらい舌に合わせて料理するのは、もう飽きた」
「僕も行きます!」
アランが勢いよく立ち上がった。
「まだ見習いなのに、いいんですか?」
「僕、お嬢さんの朝のスープが好きなんです。あの出汁の取り方、まだちゃんと教わっていません。お店で教えてください」
「二人分の給金を、すぐに払えるか分からないのよ」
「最初は飯と寝床でいいさ。店が繁盛したら、あとから耳を揃えて払ってもらう」
トマスが笑った。つられてアランも笑う。
マルグリットは、とうとう涙をこぼした。今度は袖で拭かず、しばらくそのまま泣いた。
「……ありがとう。じゃあ、明日の朝、最後の朝食だけ作りましょう。九月の美味しいものを揃えて。私たちの仕事を、きちんと置いていきます」
*
翌朝、夜明け前の厨房は、竈の火と人の息で温まっていた。
窓の外はまだ薄暗い。雨上がりの空気が、石壁の隙間から冷たく忍び込む。
マルグリットは、黒革の仕入れ台帳を作業台の端に置いた。角は擦れ、背表紙には細かな傷がある。三年間、仕入れ値や納品日、支払いの控えを書き留めてきた台帳だ。使い始めた頃は、行ごとに字が傾いていた。今は、どの商人に何を頼めばよいか、どの季節に何が届くかが、すぐ分かる。
見開きには、前日の納品と今朝使う食材を書き込んである。支払いの期日も、請求先も、子爵家の金庫番が見て迷わないように記した。
「今日の仕入れは、これで全部だな」
トマスが台帳を覗き込んだ。
「ええ。支払いの分も、あとで金庫番に渡します。朝食に使った材料の分も、忘れずに」
「最後まで細かいな」
「最後だからこそ、です」
その言葉に、自分でも少し笑った。
今朝の献立は、夏の名残と秋の走りを合わせた。
子爵家の朝食は、昔から厄介だった。東方貿易で財を成した先代の好みを引き継ぐ母親は味噌汁と魚を求め、流行に敏感なユリアンは焼きたてのパンと洋風のジャムを欲しがる。互いに譲らない二人のために、マルグリットは毎朝、和洋の調和を取りながら献立を組んできたのだ。
大鍋には、前夜から水に浸しておいた昆布と煮干し。火にかけて、ゆっくり出汁を取る。里芋は皮をむいて乱切りにし、下茹でしてから鍋へ。走りの舞茸も手でほぐして加えた。里芋が柔らかくなったら、麦味噌を溶き入れる。椀によそう直前、庭のすだちの皮をほんの少し削って落とした。
味噌の香りに、きのこの土の匂いが重なる。そこへ青い柑橘の香りがすっと抜ける。
メインは秋ナスの煮浸しだ。皮に細く切れ目を入れ、油でさっと揚げる。熱いうちに生姜をきかせた出汁へ浸すと、紫色の皮に照りが出た。箸を入れれば、出汁を含んだ身がほどける。
今朝届いた戻りガツオは、表面を強火で炙り、厚めに切った。初夏のものより身に脂があり、香ばしい皮の下に、深い赤色が見える。
パンは、ユリアンの好みに合わせ、トマスが上等な粉から捏ねた丸パンだ。石窯から出したばかりの表面が、ぱちぱちと小さく鳴る。割ると湯気が立ちのぼった。いちじくを赤葡萄酒と蜂蜜で煮たジャムと、農家から届いた無塩バターを添える。
梨と大粒の葡萄も、冷たい水で洗って籠に盛った。
「焼けたぞ」
トマスが丸パンを籠に移す。アランは配膳台に皿を並べ、湯気の立つ椀を順番に置いた。
「できました」
朝の光が小窓から差し込み、皿を照らした。ナスの紫、カツオの赤、梨の淡い色。厨房に、焼きたてのパンと出汁の匂いが満ちている。
マルグリットは、自分たちの分を小皿に取り、ナスを一口食べた。生姜の香りが先に立ち、ナスの甘みが口いっぱいに広がる。
(おいしい)
その一口で、身体の芯に温かさが戻ってきた。明日からのことは、まだ怖い。それでも、食べて、働いて、眠ることはできる。
「荷物は裏口の辻馬車に積んである」
トマスが言った。
マルグリットは台帳を閉じ、革の表紙についた粉を払った。
料理を載せた銀のワゴンを押し、配膳室の前まで運ぶ。そして、ワゴンの横にある受け渡し用の銀盆の上に、仕入れ業者の一覧、月ごとの支払い控え、器具の保守記録、そして退去と委任状更新拒否の封書を順に重ねた。
その一番上に、黒革の台帳と、外した婚約指輪を置く。冷たい白金の輪が、朝の光を鈍く弾いた。
配膳室の扉の横にある呼び鈴を、一度だけ鳴らす。
これですべて、給仕頭の手から当主一家へ渡る手筈だ。
返事を待たず、マルグリットは踵を返して厨房へ戻った。
「行こう」
アランが包丁袋を抱え、トマスが古い外套を肩にかける。三人は裏口から屋敷を出た。
秋の朝の空気は冷たかった。マルグリットは一度だけ振り返り、窓の向こうにある厨房の小窓を見た。そこから、まだ湯気が薄く流れている。
*
午前八時。子爵家の朝食室には、白いクロスが敷かれ、銀のカトラリーが並んでいた。
ユリアンはガウン姿で席についた。母親はすでに化粧を済ませ、向かい側で紅茶を飲んでいる。
「今朝はやけに豪勢ね。やっとマルグリットも、自分の立場が分かったのかしら」
「言っただろう、母上。少し厳しく言えば、話は早いんですよ」
ユリアンは得意げに笑い、皿を見た。秋ナスの煮浸し、戻りガツオ、里芋と舞茸の味噌汁。それから、焼きたての丸パンといちじくのジャム。母親の和食と、自分の洋食。文句のつけようがない食卓だった。
パンの香りに、ユリアンの目が細まった。
「僕の好みに合わせて、ちゃんと焼き加減を変えたんだな」
彼はまず秋ナスを口に運んだ。
「……うまい」
箸が止まらない。出汁の旨み、生姜の辛み、とろけるナス。続けてカツオを食べると、炙った皮の香ばしさと、脂ののった赤身が舌に広がった。
「お味噌汁も、今日はずいぶん香りがいいわね」
母親も椀を手に取る。里芋は柔らかく、舞茸の出汁が味噌によく馴染んでいた。最後にすだちの青い香りが鼻を抜け、寝起きの身体が少しずつ温まる。
ユリアンはパンを割った。表面はぱりりと鳴り、中から白い湯気が上がる。いちじくのジャムをたっぷりのせ、バターも重ねた。
果実の酸味と蜂蜜の甘み、バターの塩気が溶け合う。
「これは、今までで一番だな」
気づけば、パンの籠は空になっていた。梨も葡萄も残っていない。
ユリアンは満ち足りた息をついた。
「ごちそうさま。食後のお茶を頼む」
呼び鈴を鳴らした。
誰も来ない。
もう一度鳴らす。少し間を置いて、三度目を強く鳴らした。ようやく扉が開き、給仕頭が青ざめた顔で入ってくる。
「遅いぞ。マルグリットを呼んでこい。今朝の料理はよかったと伝えてやる」
給仕頭は返事をせず、配膳室から持ってきた銀盆を両手で差し出した。
その上には、指輪と、一枚の封書が載っている。
「マルグリット様は、今朝早く屋敷を出られました。婚約解消のお申し出と、当主代理の任期を更新しない旨の書類をお預かりしています」
「……何だって?」
「料理長のトマス様と、見習いのアランも一緒です」
「トマスは子爵家の料理長だぞ!」
「雇用契約は、前当主様とマルグリット様の名義で結ばれております。給金の保証も、マルグリット様が引き受けておられました。契約の更新は、ご本人たちが断られたそうです」
母親がテーブルを叩いた。
「それなら今日の昼食はどうするの? 使用人たちの黒パンを届けるパン屋から買い取ればいいでしょう! 市場から食材を取り寄せなさい!」
「それが……先ほど、パン屋と青果商、それに粉屋が裏口に来まして……。今月分の支払いについて金庫番が現金決済を渋ったところ、これまでの掛け払いを即座に止めると言われました。これまではマルグリット様のご実家の商会が信用保証をしていたため、ツケが利いていたそうです」
「待て。支払いは、帳簿に……」
給仕頭は、銀盆の下に抱えていた黒革の台帳を示した。
「こちらに、仕入れと支払いの一覧がございます。配膳室前の盆に、請求書とともに揃えて遺してくださっていました」
ユリアンは台帳をひったくるように手に取った。使い込まれた革の表紙に、細かな傷がいくつもある。開くと、商人の名、品物、値段、納品日、支払い期日が、隙間なく几帳面に書き込まれていた。
街角の水栓をひねれば水が出る。
そう言ったのは自分だった。
けれど、栓をひねる前に水を通す者がいた。届いた食材を確かめ、期日どおりに支払い、料理人の働きに報い、暮らしに必要なものを切らさない者が。
「今朝の料理は……」
ユリアンは空の皿を見た。湯気の消えた椀の底に、すだちの種がひとつ残っている。
あれは、仲直りの印ではなかった。感謝を待つための料理でもない。
彼女が、自分の仕事を終えるために作った朝食だった。
「そんな……」
ユリアンの手から台帳が落ちかけた。母親はなおも給仕頭を責めている。彼はそれを聞きながら、食べ終えた皿の前で身動きできずにいた。
*
三週間後。
王都中央駅に近いレンガ通りの路地に、小さな食堂が開いた。蒸気機関車の汽笛が遠くに響く朝、軒先の黒板には、マルグリットの字で今日の献立が書かれている。
『朝定食
さつまいもと豚肉の粕汁
焼き秋鮭 すだち添え
蒸しナスとオクラの胡麻和え
新米ごはん』
店の広さは、子爵家の厨房の半分もない。客席は七つ。けれど、パンを焼く香ばしい匂いと出汁の香りが通りへ届くよう、小窓を少し開けてある。
午前七時。駅へ急ぐ鉄道技師や仕立て職人が、ひとり、またひとりと入ってきた。
「おはようございます!」
アランが声を張り、トマスが厨房で平鍋を振る。マルグリットは粕汁の味を確かめた。さつまいもの甘みと、酒粕の香り。うん、ちょうどいい。
「二番テーブル、おかわりだってよ!」
「はい、すぐに!」
椀によそい、湯気を立てたまま客席へ運ぶ。詰襟の若い駅員が両手で椀を包み、「ふう、生き返るなあ」と目を細めた。
その顔を見たとき、マルグリットの胸の奥が温かくなった。
誰かの機嫌をうかがうためでも、家の名誉を守るためでもない。ただ、目の前の人が今日を始められるように、温かい食事を作る。
引き戸が開き、ひやりとした秋の風が店内を通り抜けた。
マルグリットは木綿のエプロンで手を拭き、笑顔で客を迎えた。
「いらっしゃいませ!」




