第20話 理想と砂時計
1943年七月下旬 昭南島
唐人街の喧騒から少し離れた裏路地の茶館。
雨季の晴れ間の強烈な湿気の中、薄暗い個室で天井の天井扇が重々しく回っていた。
越智広重は、向かいに座る男に茶を注いだ。仕立ての良い麻の背広を着こなしたその男は、光機関に所属する陸軍将校、山脇大尉であり、越智の陸軍中野学校時代の同期だった。
「……チャンドラ・ボース氏はどうだ?」
越智が静かに尋ねると、同期の男は苦笑して茶の杯を手に取った。
「猛烈な熱気だよ。今月に入って彼が昭南入りしてから、組織の雰囲気は一変した。……だが、彼が熱を帯びれば帯びるほど、国家の基本戦略と我々光機関の方向性との『乖離』が手に負えなくなってきている」
「だろうな。現地の工作機関が東京の思惑を外れ、南方が統制の利かない泥沼になることを、東京の閣下たちはひどく心配しておられるよ」
「皆、大東亜に対する理想は違うからな。……中野の教官たちも、そうだった」
山脇は遠くを見るような目をした後、ゆっくりと声を潜めた。
「結城少佐殿は、特にその東京との戦略の乖離を嘆いておられた。純粋にインド独立を志士たちと夢見た『F機関』の時代とは、描く絵が完全に変わってしまったと」
「……」
「だから……資金を貯めてきたんだ。東京の小役人どもの干渉を受けず、自らの理想のままに独立した工作を動かすための、莫大な裏資金をな」
越智は懐から歪んだ煙草を取り出し、口にくわえた。燐寸の火がチリと鳴る。
紫煙を細く吐き出しながら、越智は淡々と告げた。
「結城少佐殿ね……個人にできることなど、たかが知れている。少佐殿ほど優秀な男であれば、そんな小賢しい真似をせずとも、正攻法で中央の参謀本部へ入り込み、組織全体を内側から動かすこともできたはずだ」
「正攻法で?」
山脇は自嘲気味に笑い続ける。
「越智。……本当に、そんな悠長な時間が我が帝国に残っていると思うのか?」
ファンが回る鈍い音だけが部屋を支配し、越智はただ無言で煙草の灰を落とした。
「……貴官には、結城少佐殿を助けてもらった」
山脇が不意に、事務的な口調に切り替えた。
「我々もあの華僑の王という男の動きは把握していたが、貴官の部下が先に接触してしまったからな。手遅れかと思ったが……貴官が少佐殿に『逃げるための助言』を与えてくれたのは分かる」
「……」
「第七倉庫での取引の前日。貴官は管轄の憲兵隊に、『明晩、ケッペル港周辺で我々が特務を行う』とわざわざ事前通達を入れただろう。少佐殿の独自の情報網なら、その連絡を必ず傍受できると計算してのことだ。事実、少佐殿は異常を察知し、翌朝には角田少尉たちに曼谷へ行くと言い残して、行方をくらませた」
山脇は、目の前の底知れぬ男を値踏みするように見つめた。
「我々の情報網でその動きに気づかないような鈍物なら、それまでの男だった、というわけか?」
越智は短くなった煙草を灰皿に押し付けた。
「……君が何の話をしているのか、私にはさっぱり分からん。結城少佐殿と言えば、その角田という副官が急な熱病で亡くなられたらしい。気の毒なことだよ」
「……まぁいい、現行犯で押さえられれば、我々や少佐殿の人脈も庇いようがないからな」
越智は猫背を丸め、胃のあたりをさすりながら人懐っこい愛想笑いを浮かべた。
「私はただの第五事務室の事務掛だ。計算が合わないと、胃が痛んで夜も眠れなくなる性分なだけさ。……ああ、そうだ。その美味そうな月餅、私が食べてもいいかな?」
山脇は、皮肉めいた越智の言葉に小さく息を吐き、手つかずの月餅の皿を無言で推しやった。
「……それにしても……対米開戦によって、我々に残された砂時計の砂は、あまりにも少なくなった」
山脇は茶の杯を見つめたまま、重い声で言った。
「いかに贔屓目に見ようと、彼我の物量差は時が経つほど帝国の喉元を締め上げる。だが、東京はその現実を『必勝の信念』だの『大和魂』だのといった墨で塗り潰し、糊塗しようと必死だ。……越智、君のやっていることも、結局はその一部に過ぎないのではないか?」
「……」
「現場の不正を糺し、帳簿の辻褄を整える。それが果たして『勝つための戦い』なのか。……それとも、軍という巨大な組織が面目を保ちながら死兵を消費し続けるための、ただの姑息な延命処置に過ぎないのか……」
越智は月餅には手をつけず、ただ黙って男の言葉を聞いていた。
山脇は冷めた茶を見つめながら、吐き捨てるように言葉を繋ぐ。
「中央では今なお、主戦論が幅を利かせている。だが、冷静に考えてみろ。圧倒的に分の悪い対米戦を、世論や若手将校の『熱狂』を巧妙に煽り立ててまで始めさせ……結果として、一体どこの国が一番得をした?」
越智は煙草を口に運ぶ手を止め、視線だけを男に向けた。
「大東亜の解放が真の目的であるならば、政治工作や特務工作を絡めた『総合的謀略戦』で、他にも搦手はいくらでもあったはずだ。なのに、我が国はわざわざ米国の『虎の尾』を踏みに行った」
山脇は声のトーンを限界まで落とし、呪詛のように呟いた。
「ただ、一番恐ろしいのは……その『無責任な主戦論』を背後で操り、帝国を破滅へと誘導している見えざる者の正体と、それに熱狂させられた時局の狂った空気だ。……越智。我々は、いっぱい食わされたのではないか?」
天井の天井扇が重々しく回る音だけが、息苦しい個室に響き続けた。
「各人それぞれに、理想はあるだろう。結城少佐殿にも、君にも、私にもな」
山脇は顔を上げ、越智の底知れぬ眼を真っ直ぐに見た。
「しかし、戦争には相手がある。米国の物量や、見えざる敵の罠だけではない。……スターリングラードの惨状を見ろ。同盟国ドイツも、もはや時間の問題だ。はっきり言えば、いずれ北のソビエトは必ず帝国へ牙を剥く。日ソ中立条約など、いざとなれば簡単に反古にされる、なんの価値もない紙切れだ」
山脇は身を乗り出し、越智に痛切な現実を突きつけた。
「あのロスケどもに踏み躙られれば、皇国がどうなるか……少しは現実を考えてみろ。交渉の余地などない。我が国の『国体』そのものが、根底から破壊され解体される。俺が本当に恐れているのは、そこだ」
越智はゆっくりと懐から新しい煙草を取り出し、指先でトントンと揃えた。
「……君は、相変わらず優秀な戦略家だな」
越智は燐寸を擦り、ゆっくりと火を点けた。
「だがね。我々のような一介の特務にできることなど、たかが知れている。……一度動き出した巨大な歯車は、誰にも止められんよ。それが誰の罠であろうと、どんな泥沼に向かっていると分かっていてもな」
越智は紫煙を細く吐き出し、ようやく皿の上の月餅に手を伸ばした。
「……まあ、君の気持ちはわかるが、その話を他ですることは、あまりおすすめしないね」
「……」
越智は月餅を口に運び、ゆっくりと味わう。
「空気ね……」
山脇はそれ以上何も語らず、椅子の背にかけていたパナマ帽を手に取った。




