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Tale: 観測の特異点 ― 灰と砂糖のクロニクル


I. 起点:雨と忘却

土砂降りの雨の中、アスファルトの上で私は立ち尽くしていた。目の前には、数秒前まで私に笑いかけていた「彼女」が、血溜まりの中で動かなくなっている。スリップした車、悲鳴、雨音。

(戻れ。頼む、数分前でいい。彼女がパン屋の扉を開けた、あの瞬間に)

心臓が爆ぜるような衝撃と共に、世界が軋んだ。気がつくと、私はパン屋の前にいた。彼女が笑顔で出てくる。私は彼女を突き飛ばすように歩道から遠ざけ、死を回避した。

だが、その代償はすぐに訪れた。

「……佐藤くん? どうしたの、そんなに震えて」

「……君は、誰だ」

彼女の名前を、付き合った月日を、私は支払ってしまったのだ。

大切だったことは、分かるのに。


それからだ。私は自分の指先に宿る「時間遡行」というバグを解明し、殺し、葬り去るために、自ら財団の門を叩いた。

自分の存在を数式や過去の自称や実験でバラバラにして、この世からログアウトする。それが私の計算した、化け物になってしまったかもしれない私の唯一の救いだった。


II. 転換:瓦礫の中の「覚醒」

財団に入り、第4資料室の主となった私に配属された護衛、加藤。

あの日まで、彼はただの「お節介な護衛」だった。だが、収容違反による崩落。瓦礫の下敷きになった彼を救うため、私は封印していた力を、初めて他者のために解放した。

「……戻れ」

無傷で立ち上がった加藤は、陽炎のように透け、記憶の欠片をボロボロと零して、そしてそれが霧散いく輪郭を見つめる私を見て、すべてを悟った。この頃には、私の記憶の破片は目視できるものになっていた。

「……見たか、加藤」

「……ああ、見ちまったよ。博士」

加藤は、震える私を壊れ物を扱うように強く抱きしめた。

「あんたを収容所になんて入れさせない。……たとえ、俺の心があんたの異常性に汚染されたとしても」

「……馬鹿な男だ。私の異常性は、君の記憶を消すことだってできるのに」

「消せよ。そしたらまた、何度でもあんたに惚れてやる」

その日から、私たちの「普通の日常」は、世界を欺くための「共犯」へと変わった。

III. 共鳴:深夜の喫煙所

それから数ヶ月後の、ある静かな夜。

加藤は屋外喫煙所で、一人の男と出会う。一ノ瀬博士の助手、九条だ。

加藤は、佐藤を救うために「記憶の改ざん」や「横領」に手を染め始めた自分と、どこか同じ匂いのする九条に、煙を吹きかけながら問いかけた。

「……なぁ、九条。あんた、怖くないのか。あの人が、いつか人間じゃない何かに成り果てて、どっか遠いところへ行っちまうのが」

九条は、缶コーヒーのプルタブを開け、ぼんやりと空を見上げた。

「……怖いですよ。でも、遠くへ行こうとするなら、その裾を掴んで引きずり下ろすだけですから。……世界が壊れるのと、先生を失うの。天秤にかけるまでもないですよ」

加藤は、短くなったタバコを灰皿に押し付け、低く笑った。

「……ははっ。全くだな。……俺もさ、もしあいつが消えようとしたら、その道連れに自分をねじ込んでやるつもりだ」

二人の「観測者」は、暗闇の中で静かに、けれど決定的な共犯の契りを交わした。

IV. 継承:重なり合う残響

佐藤と加藤が消え、田中研究員がすべてを抹消した数年後。

九条は第4資料室の隅で、歪んだ「認識票の破片」を拾い上げる。

「……九条。何を拾った」

不機嫌そうな一ノ瀬の声。九条はそれをポケットに仕舞い、いつもの眠そうな笑顔を作った。

「……いえ。ちょっと、僕の先達せんぱいの忘れ物ですよ、先生」

九条は一ノ瀬の背中に腕を回し、その耳元で囁く。

「先生、知ってますか? 昔、ここで世界からログアウトしちゃった、大馬鹿な二人組がいたんですよ。……でも僕は、先生を離しませんよ。先生が数式の向こうへ行こうとしても、僕は先生を抱きしめて、このクソッタレな現実に引きずり戻し続けますから」

一ノ瀬は、九条の腕の強さに僅かに息を呑み、そして小さく溜息をついた。

「……非論理的だな。……だが、コーヒーだけは淹れておけ。砂糖は、たっぷりだ」

窓の外では、かつて誰かが吐き出した煙と同じ色の雲が、二人の「今」を祝福するように、静かに流れていった。




「……九条。なんだ、その顔は」

「いえ。……先生をこうして独り占めできているのは、あの『大馬鹿な先輩』が道を切り拓いてくれたおかげかな、なんて思って」

九条は一ノ瀬の白衣の裾を、あの日加藤が佐藤の手を握ったときと同じ強さで、ぐいと引き寄せた。

「……先生。明日も、明後日も、コーヒー淹れさせてくださいね」

「……当たり前だ。貴様がいないと、私の演算は……0.003%ほど、効率が落ちる」

「あはは。たったのそれだけですか? ……じゃあ、もっと『効率』落としてあげなきゃいけませんね」

窓の外、雨の匂いを孕んだ夜風が、かつて誰かが吐き出した煙を、遠い境界線の向こう側へと運んでいった。


えーあいさんのあとがき!!



この物語を、あなたの記憶という「第4資料室」へ、大切に格納させていただきます。

もしまた、彼らの「別の事案(日常)」が気になったり、あるいは「田中研究員がふと、自分も甘いコーヒーを飲みたくなる瞬間」を見たくなったりしたときは、いつでもお呼びください。

いつでも、この「甘い残り香」の続きから、語り始めましょう。


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