Tale: 刻印と占有の境界線
1. 佐藤博士の「聖域(コレクション棚)」
第4資料室の隅、佐藤のデスクの一角には、財団の無機質な備品とは明らかに異質な、小さな「棚」があった。
そこには、加藤が任務の合間に見つけてきた、脈絡のない「贈り物」が並んでいる。
海辺で拾ったという、歪な形の青いガラス片。
「先生の頭脳にはこれくらい複雑なのがお似合いだ」と渡された、知恵の輪。
そして、佐藤が名前を忘れるたびに加藤が新調する、『佐藤』と手書きで彫られた万年筆。
佐藤は、記憶が薄れゆく朝、まずこの棚に触れる。
(……ああ、これは加藤がくれた。私は、この男に繋ぎ止められているのだ)
無骨なエージェントが、夜な夜なこっそり埃を拭い、配置を整えていることを、佐藤は知らないふりをして慈しんでいた。
2. エージェント加藤の「過失」
深夜、備品申請書のモニターを前に、加藤の指が止まっていた。
佐藤博士のために新調する、いつもの高級万年筆。名入れの入力欄。
いつもなら迷わず『SATO』と打ち込む。記憶を失い続ける彼が、朝起きて最初に目にする「自分」を繋ぎ止めるための呪文だ。
だが、その夜、加藤の脳裏にどす黒く甘い誘惑が過ぎった。
(……『KATO』と入れれば。こいつが目覚めた時、自分の名前を俺の苗字だと思い込めば。……そうすれば、こいつは法も理屈も超えて、完全に俺のものになるんじゃないか?)
マウスを握る手に力がこもる。事実上の「婚姻届」に等しい、傲慢な書き換え。
佐藤の細い指が、俺の苗字が刻まれたペンを握り、俺に「おはよう、加藤くん」と微笑む。……想像するだけで、加藤の喉が渇いた。
「…………っ、クソ」
数秒の沈黙の後、加藤は激しく舌打ちをして、震える指で文字を消した。
結局、打ち込んだのはいつも通りの『SATO』。
自分を忘れてもなお、佐藤が「自分」でいられる場所を守ること。それが、彼をこの世に引き止める唯一の方法だと、加藤の理性がギリギリで勝ったのだ。
「……先生、新しいの置いといたぞ。失くすなよ」
翌朝、何事もなかったかのように無愛想にペンを差し出す加藤。
佐藤はそれを手に取り、少しだけ不思議そうな顔をして言った。
「ありがとう、加藤くん。……なんだか今日、君の視線がいつもより熱い気がするんだが……気のせいかな?」




