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 ミシャナが頻繁にカルノを訪ねてくるようになった。

 彼らは同じ大学三年生で、対等な立場だった。それに彼らは話が合った。どちらも相手の国に興味があるからだ。彼らはすぐに、相手の方が自分の母国をよく知っていることに気づいた。そこから相手への敬意が生まれた。

 彼らは交流により知識を相互補完する関係になった。カルノが世界共通語を教え、ミシャナがその代わりにマコパン語を教えた。彼女が留学生寮にやって来ると、カルノと親しい男子はこんな冗談を言った。

「そのマコパン人の美女と付き合ってるのか?」

 そう言われて、カルノは初めてミシャナが美人であることに気づいた。今までは一人の現地人としてしか見ていなかったが、なるほど目鼻立ちが整い、他の陽気なマコパン人と異なりクールな印象で、それが一種の知性を醸し出している。「マコパン美女」というレッテルが貼られると、もうそのようにしか見えないから不思議だ。彼は彼女の容姿に夢中になった。

 前期の試験が終わり、大学は二カ月弱の長期休暇に入った。カルノがそのほとんどをンバルの実家で過ごすつもりだと言うと、ミシャナは顔を真っ赤にして怒った。彼らは初めて喧嘩をした。どちらも喧嘩したまま別れたくなかったので、仲直りを急ぎ、感情に身を任せ行為に至った。

 その数日後、カルノはンバルの実家に滞在していた。彼はそこで生まれて初めて電気のない生活を体験した。

 村の家はどれも竹製の高床式住居で、入るには長いはしごを登らなければならない。中は広々としているが、個室がなく、みんな同じ部屋で寝食を共にする。屋根はヤシの葉で葺いたものだがめったに雨漏りしない。日中は窓から光が漏れるだけで薄暗く、蒸し暑さを少しだけ和らげてくれる。夜は油皿に火を灯し、飛んで火に入る虫を眺めながら、家の長者の物語を楽しむ。

「なんにもなくてびっくりするだろう? おれは外の世界を見たくて、学問がしたくて、村を飛び出したんだ」と、ンバルが言った。

 ンバルの家族はカルノを歓迎した。父は彼に村の仕事を教え、母は毎日おいしい料理を作り、妹は遊び相手になって欲しいとねだり、祖母は親たちの世代から聞いたという戦争の話をしてくれた。ありふれた日常生活とは、そこで暮らす当人たちがそう思っているだけで、実際には人々の知恵が凝縮されており、外部の人間に多くのことを教えてくれるものだ。カルノはスポンジのようにそれらを吸収し、マコパン人たちのよき理解者になろうと努めた。

 翌日、カルノはンバルと共に村の中を歩いた。数十世帯しかない小さな村で、人々は助け合いや物々交換で暮らしていた。食料は森の獣、木の実や果物、川の魚、畑の作物と豊富だ。生活の余裕は文化を生む。村人の多くが歌、踊り、打楽器などを得意とするが、ポカティを吹けるのはほんのわずかだった。

 ンバルが紹介してくれたのはブウロというポカティ演奏家だった。年齢はもう六十を超えているそうだが、髪が黒々としているのでもっと若く見える。彼はブルーランドからわざわざ笛を習いに来たカルノを気に入り、自分が昔使っていたという楽器を貸し、朝早くから夜遅くまで練習に付き合ってくれた。独学にはありがちな勘違いを指摘し、適切な助言によりカルノの笛の音を大きくし、指使いを滑らかにした。カルノは上達する日々が楽しく充実し、ミシャナのことをあまり思い出さなかった。

「おれなんかすぐに抜かれそうだな」と、ンバルが驚いた。

 ブウロはカルノに吹き方だけでなく、ポカティに関する知識を教えてくれた。彼によると、今やこの特別な笛を作れる人は吹ける人よりもさらに少なく、数えるほどしか存在しない。そもそも霊木ポカトゥフに近づく資格を持つ人、つまり笛の名手であり、かつ密林の祖先の血を引く人がめったにいないせいだ。

「じゃあぼくも近づけないんですね」

「残念だが、そういうことだ」

 ブウロが今使っている笛を作ってくれたのは、密林で最も有名な職人とされるクボッテという男だが、その彼であっても多くは作らないという。

「注文が少ないし、作るのには手間暇がかかり、割に合わないそうなんだ。このままではポカティは消滅するかもしれんな」

 消滅なんかさせない、このぼくが。カルノはそう強く思った。

 カルノはこの一カ月半ほどで多くの収穫があった。特に今後ポカティの独学を続けていくための確かな基礎を固めることができた。彼が本気で続けようとしていることを知ったブウロは、彼に貸していた笛と、師からもらった演奏技術に関する秘伝の書を与えた。

「分からないことがあったら、またそのうち習いに来てくれ。成長を楽しみにしとるよ」

 密林から戻ったばかりのカルノは、留学生寮の人々を仰天させた。ずっと風呂に入っていなかったので薄汚れ、髪の毛が鳥の巣のようになっていたからだ。

「カルノ、いったいどうしたの!?」と、エイレンが聞いた。

「ちょっと森まで笛の練習に行ってて……」

「早くシャワーを浴びてきたら。後で詳しく話を聞かせてね」

 カルノは新しい友との付き合いにより、古い友のことを忘れかけていた。この国に来たばかりのころ、エイレンと毎日のように食事していたとは、もはや信じられないほどだった。

 彼はその夜、久しぶりにエイレンと屋台街でビールを飲みながら、近況を報告しあった。

 エイレンも友達をたくさん作っていた。彼女はマコパンにはあまりいない、メガネをかけた清楚なイメージの女性で、多くの男性から好意的な目を向けられていた。カルノも他の留学生から、彼女が現地の男子から告白されたという噂を聞いていた。

「断ったんだってね。でもどうして?」

「だって留学が終わったら帰国して会えなくなるでしょう。なかなかその気になれないの」

「エイレンは真面目で堅実だね。それに比べてぼくは……」

「カルノは私よりも一途で情熱的なのよ。本当に好きな人ができれば、後先を考えられなくなるんでしょう」

「そう、そうなんだ。ポカティだってそう。あんなもの吹けるようになったところでお金にならないし、すぐに誰かの役に立つわけでもないのにね」

「彼女とはこれからどうするつもり?」

「まだ分からない。でも留学終了と同時に別れようなんて考えではないよ」

 久しぶりのビールでカルノはだいぶ酔ってきた。いい気分になった彼は、聞いてもいないことを自ら語り出した。高校時代に初めて失恋したこと。ミシャナが初の交際相手であること。できれば卒業後はマコパンに移住し、現地社会の一員として一家を構えたいこと。

 エイレンは何度もうなずき、自分の意見を挟まなかった。最後に彼女はこう言った。

「でもこれからのことは誰にも分からないから、焦らず慎重にね」

 後期の授業が始まった。大学の施設、サポート、価値観に守られる学生生活は快適で、あっという間に時が流れていった。

 カルノとミシャナの関係がいよいよ煮詰まってきた。ある土曜日の夜、彼はついに彼女の実家を訪問した。

 それは大学から自転車で十五分ほど離れたスラム街にあった。狭い道は舗装されておらず、足跡や轍で凸凹し、自転車を押して歩くしかない。屋台街と異なり、焼肉や果物の香りがなく、生ゴミと排便の悪臭が直接鼻を突く。ハエがブンブン音を立てて飛び回る。不気味に明滅する街灯に虫が集まり、光を余計に頼りなくする。

 折悪しく雨が降ってきた。マコパンにしてはさほどの雨量でもないが、どの建物もトタン屋根なので実に騒々しい。雨の夜は、この音と闇に紛れ、犯罪が増えるらしい。今までマコパンの良い面しか見てこなかったカルノは、交際相手の実家が悪い面の方だったことを知った。

 廃材を組み、ビニールシートで壁を作った家の中、カルノは小さい椅子に座りミシャナの両親と対面した。彼らはカルノに、ブルーランドにおける暮らしぶり、親の仕事、家庭の経済状況などを根掘り葉掘り聞いた。満足できる答えが得られると、彼らはこわばっていた表情を緩め、夕食の準備を始めた。

「ごめんね。きょうだいがあと五人もいるから貧乏で、余裕がなく、どうしても現実的な話になっちゃうの」と、ミシャナが言った。

 その五人も加え夕食になった。珍しく豪勢だからか、小さい子供たちは次々と料理に箸をつける。

「こらこら、お客さんに少しは遠慮しなさい」と母が叱った。

 安い蒸留酒を飲むと、父はようやくカルノに私生活についてたずねた。娘と付き合い始めてどのぐらいになる、もうアレはやったのか、やったのなら大変だ、まさか娘を慰みものにするつもりじゃないだろうね、これからも娘のことをよろしく頼むよ。

 翌朝、スラム街を出て新鮮な空気を吸うと、カルノはようやく頭がすっきりしてきた。彼はミシャナと共に浜辺の道を歩き、朝の海に目を細めながら話をした。

「家でのこと、ごめんね」

「うん?」

「うちが貧しいからって軽蔑しない?」

「そんなことするものか。きみはたまたまそういう家庭に、ぼくはたまたま恵まれた家庭に生まれただけで、誰も悪くないよ。そんな貧富の差、国籍の差なんかは、ぼくらが愛し合う妨げにはならないはずさ」

「ありがとう。愛してるわ」

「ぼくもだよ。きみを愛してる」

 カルノはンバルとも多くの時間を共にした。彼らはよく、例の崖で笛を吹いた。それが殉死者たちの霊にとって何よりの供養になると思ったからだ。カルノはここでンバルと吹くと心が研ぎ澄まされ、精神的にいっそう高められるような感覚を得た。彼らは大海原と大空に包まれ、時の流れを全身で体感しながら、何時間も吹き続けた。

 自転車での帰り道でも、カルノはンバルに積極的に話しかけた。ポカティの演奏方法について細かいことを聞いておきたかったからだ。彼らはこれまで、お互いのプライベートについてあまり話したことがなかったが、この日のンバルは違った。

 彼は自転車を下り、カルノにも同じようにするよう目で促した。

 二人は崖から大学の方に戻る細い道を下りていった。夕日が周囲の草地をオレンジ色に染め、彼らの影を後ろに長く伸ばしていた。この時間帯になると島は急に肌寒くなり、風が冷たく感じられる。カルノは両手で二の腕をさすりながら「どうしたの?」と聞いた。

「ずいぶん前からミシャナと付き合っているそうだな」

「うん、実はそうなんだ」

「実はと言えばおれの方なんだけど、実はおれ、むかし彼女とちょっとだけ付き合っててさ」

「そ、そうだったんだ」

「いやでも何回かデートしただけで、べつに何もしなかったからそこは気にしなくていいんだけど、彼女のこと、どう思っている?」

「やさしくて気が利くいい子だと思うよ」

「そうか……本当はあまり言いたくない、ただきみのためを思って言うんだけど、彼女についてはあんまりいい話を聞かないぞ」

 大学時代だけでももう何度も交際相手を取り替えている、マコパンの若者は割り勘が当たり前だが彼女は必ず男に奢らせる、高校生のころ彼女にいじめられていたと訴える女子がいる。

「でも、ぼくにはとっても良くしてくれるけど」

「はっきり言えば、それはきみと結ばれて、ブルーランドに移住するためだ。彼女いつも、マコパンが嫌いだ、外国に行きたいって言ってたし」

「それだけでそんなふうに決めつけるのは彼女に失礼じゃないか」

 いつも温厚なカルノが珍しく声を尖らせたため、ンバルはそれ以上なにも言えなくなった。

「彼女はぼくを愛している、だからぼくと付き合う、それだけさ。ぼくたちは分かり合っているんだから勝手なことを言わないでくれ」

 カルノもきつく言い過ぎたと思い、すぐに話題を変えた。彼らの間に初めて一つの隔たりができた。

 後期の授業も終わりに近づき、留学生たちはそろそろ帰国を意識し始めてきた。

 寒い国から来た学生は、この南の島の自然環境を今のうちに満喫しようと、意欲的に海に出た。もっと暑い国から来た学生は、比較的涼しいこの島にいるうちにスポーツで汗を流そうとした。ブルーランドのような先進国から来た学生は、まだグローバル化の手が届いていないマコパンの文化を楽しもうと、島中を旅して回った。

 それなのにカルノはあまり大学の外に出なかった。彼は今から、帰国後の卒論の計画を立てていた。学校の教授に助言を仰ぎ、貴重な本を貸してもらい、さらには書店で購入できる参考図書を教えてもらった。将来必ずマコパンに戻ると決めている彼にとっては、今の時間を惜しむよりも、ブルーランドでの残りの大学生活を充実させることのほうが大切だった。

 不安だったのはミシャナの方だ。彼女は彼が祖国の快適な環境に慣れ、またそこで自国民の魅力的な女性にでも出逢えば、自分など捨てて知らんぷりするだろうと思った。彼女は彼を手放したくなかった。

 後期の試験が終わり、大学はまた長期休暇に入った。現地の学生が大学を去った。この島で長く休暇を楽しむつもりのない留学生が帰国を始め、連日のようにお別れ会が開かれた。

 人が減り静かになった留学生寮の一室、そこはとある現地人と外国人が営む仮の愛の巣になった。ミシャナが自宅に戻らず、カルノの部屋に住み込むようになったのだ。彼女はエアコンもシャワーもあるこの部屋で彼と毎日のように戯れた。彼も疲れた頭を休めようと、肉体的な疲労による精神的な息抜きを求めた。学業と遊びを両立する十分な時間があり、学業と遊びが相互促進する好循環により、短い同棲生活は至極円満だった。

 それでも別れの時はいつか必ず訪れる。ついにカルノたちの帰国の日になった。

 空港にはミシャナとンバルが見送りに来てくれた。この日も、これで空港の経営が成り立つのかと不安になるほど、旅客の姿がまばらだった。同じ便で帰るエイレンは出国審査の時間を待つあいだ、カルノから離れた場所に立ち、彼ら三人の別れを見守った。

 彼女から見て、三人の中で最も陽気なのはンバルだった。やたらとカルノの肩を叩き、何か冗談を言い、無理にカルノとミシャナを笑わせようとしている。ミシャナが泣きそうな顔でカルノの手を取り、それを何度も上下させると、カルノも頭を何度も上下させる。この無言芝居はしばらく続いた。やがて搭乗時刻が迫ると、カルノは泣く泣くミシャナの手を振りほどき、最後に熱い抱擁と誓いのキスを交わし、保安検査のドアの奥に一人消えていった。

「いけない、私もそろそろ行かないと」

 よく揺れる小さい飛行機の中で、カルノとエイレンは隣り合って座った。どちらもほとんど無言だった。これまでの留学生活をゆっくり噛み締め消化し、また祖国のしがらみに囚われる心の準備をするため必要な無言だった。だが、いつまでも黙っていられるものではない。これからしばらく、彼らは同じ国に留学したという連帯感で結ばれるだろう。同じ経験を共有した人間として、同じ話題で大いに盛り上がることだろう。

 窓の外、海の向こうに、人工的な凹凸した輪郭を持つ陸が見えてきた。近づくにつれ、その凹凸がより大きく鮮明になった。港、ビル、繁華街。きっとそちらから見ればこの飛行機はいっそうちっぽけに見えることだろう。その中で息をして暮らす個々に無数の人間模様があるとは想像しがたいことだろう。

「さぁ、これからね」とエイレンが言った。

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