謝罪
マコパン共和国はブルーランドから南東に約二千五百キロ離れた単一民族の島国だ。面積はおよそ四百平方キロメートル、人口は十万人弱。島は沿岸部と山間部に分かれ、平野部はほとんど存在しない。森林率は七十パーセントを超える。亜熱帯気候で、年間平均気温は二十六度ほど。島のほぼ中央に位置する霊峰キリパトの山頂付近はカルデラ湖になっており、その中央にある「マコパンのへそ」と呼ばれる湖島には、国旗にも採用されている霊木ポカトゥフがそびえ立つ。
カルノとエイレンは九月のある日、島の北部にあるマコパン国際空港に降り立った。国際空港と言っても小さく粗末で、旅客の姿もまばらだ。留学前の説明会で聞いた情報によると、この国を訪れる観光客は年間で一万人をやっと超える程度で、各国からの留学生数も今のところ三、四十人と寂しい。
初のブルーランド人留学生である彼らを出迎えてくれたのは、留学先「マコパン国立大学」の国際課の職員さんだった。見た目はマコパンの典型的な中年男性で、全体的にふくよかだが弛みはなく、多くの筋肉を内包していることが分かる。短く切った髪の上に椰子の葉で作った涼しげな帽子を乗せ、人懐っこい笑みを浮かべている。
「マコパンへようこそ!」
二人は職員さんが運転する車の窓越しにマコパンの風景を眺めた。空港は一面の緑の大草原に包まれ、白いヤギ、赤い牛、黒いニワトリが点々としている。草原に引き立てられるからか、あるいは島国だからか、空がより青く、雲がより白く見える。海は真上に昇った太陽の光を穏やかに反射している。陸にも海にもまだ人の姿が見られない。白っぽい道路が草原を真っ二つにするように先に延びていくばかりだ。
空港から一路南下し、初めての交差点を通過すると、道路沿いに徐々に建物が見えるようになった。ほとんどが木や竹だけで作った平屋の粗末な家屋で、車が通るのがよほど珍しいのか、老人と子供が玄関先に出て、先進国から輸入された中古のミニバンに目を向ける。その多くが、男女を問わず上半身裸だ。エイレンは思わず目を背けた。カルノは目を輝かせた。ここにはネクタイやハイヒールのような人を束縛する衣服や履物がないのだろう、それならば人々はもっと自由に生きていけるのだろうと思った。
この国でただ一つの大学は人々の喧騒の最中にあった。落ち着いて学習に励める静かな環境を整えようという発想がそもそもないらしく、大学は島民の生活に完全に溶け込んでいた。校門から一歩外に出れば、そこには市場があり、屋台街があり、地域社会があった。さらに朝昼晩の食事時になると物売りが校内に入り込み、学生相手に食べ物や飲み物を販売する有様だった。学校側も彼らを追い払おうとはしない。人に干渉し、人に干渉されるのが当然だからだ。
カルノたちが乗る車は留学生寮の前に停まった。新しく建てられたばかりの、大学で唯一の寮は、別の校舎と比べやや浮いていた。四階建てで、この国では珍しい先進国基準の鉄筋コンクリート造のため、冷たく無機質に見えた。職員さんは二人を寮に入れ、寮母さんに紹介してやると、「また明日」と言い残しどこかに行ってしまった。
二週間もすると、カルノとエイレンはこの新しい環境に深い愛着を抱くようになった。
彼らは授業に慣れ、生活も落ち着いてきた。教室では日本と同じく、主にマコパンの言語と文化を学んだ。授業は午前八時から昼までで終わる。現地人が昼食後、長い昼寝の時間に入るからだ。カルノも真似して軽く昼寝をするようになったが、これが合理的であることが分かった。三十分ほどまどろむだけで、頭がしゃきっとし、午後の時間を濃密に過ごせるからだ。
カルノとエイレンは他の留学生とも仲良くなったが、やはり同じ国の同じ大学から来たからか、特に親しかった。彼らはよく寮の共用スペースで談笑し、夕食も共に外で食べることが多かった。二人ともお金がなかったわけではないが、高級なレストランよりは屋台街を好んだ。
そこには現地人の生活の匂いが凝縮されていた。ハーブや香辛料、南国の熟れたフルーツ、とれたての海産物、血が滴り落ちる生肉、串焼きや揚げ物の香りが漂う屋台、路傍の生ゴミとそれを漁る大きな犬、清潔とは言い難い公衆トイレ。それらが一つになると、マコパン人が常に帯びる、なんとも形容できない深く濃厚な体臭になる。
大陸から来た彼らは魚介類の揚げ物が気に入っていた。新鮮な海の幸をカラッと揚げ、塩とハーブパウダーを振りかけるだけの料理だが、飾り気も混じり気もない原材料そのものの味を楽しめる。これに現地でおなじみの、薄味で度数も低くゴクゴク飲める「マコパンビール」がよく合う。国ではほとんど飲まない彼らも、南国の開放的な雰囲気に浸り、毎日のように酒を飲んでいた。
「いやあ、まさに天国だね」
「ブルーランドでの面倒なしがらみがなくなって、最初はちょっとだけ寂しかったけど、今は身も心も軽くなったみたい」
「でもこっちでも新しい人間関係を作らないと」
「そうね。実はもう何人か、マコパン人のお友達ができたの。みんなとっても親切にしてくれるわ」
「それで最近マコパン語の会話が急に上手になったのか。ぼくもうかうかしてられないな。ぼくはぼくで計画を実行に移してはいるんだけど」
「計画ってどんな?」
「これだよ」とカルノは言い、ポカティを持つふりをした。
「近くの市場で探しても、ぜんぜん見つからなくて。しかも店の人にぼくが持っているポカティを見せても知らないって言うし」
「私たちだってブルーランドの民族楽器のことなんて知らないんだから、無理はないわ。大学の音楽の先生にでも聞いてみたら?」
「なるほど、そうしてみるよ」
翌日の午後、彼はさっそく音楽室を訪れ、他の学生に混ざり聴講した。正面にグランドピアノが置かれた広い教室で、学生が雑談してもそれほど目立たなかった。カルノの隣に座っている女子は、肌の色、何より雰囲気が異なる留学生の彼に興味を持った。
「あなた、どうして私たちの授業に参加してるの?」
「ちょっと授業が終わった後、先生に聞きたいことがあって」
「ポカティ? 変なことに興味を持つ外国人がいるのね。そんなことよりも……」
そのミシャナという女子はカルノにさまざまな質問を浴びせた。彼がそれに一つ一つ答えているうちに授業終了の鐘が鳴った。ミシャナは席を立ち先生の方に向かおうとするカルノを引き止め、ようやくこう言った。
「聞きに行く必要はないわ。私の知り合いで、吹ける人がいるから」
「ぜひその人に会わせてくれ!」
「そんな急には無理よ。今度会った時に話してみるから待ってて。ところであなた、今夜は時間ある? よかったら一緒に食事に行かない?」
「いいよ、行こう」
ちょうどカルノも現地人の友達が欲しかったところだ。ミシャナを相手に食事すれば、異文化交流と同時に、マコパン語の会話とリスニングの練習にもなるだろう。最初はそのぐらいの気持ちだった。
大学の外に出たミシャナは屋台街ではなく海の方に向かった。海沿いの道には現地の若者や観光客が好みそうな洒落たレストランやバーがあった。時間は夕方で、太陽が西に沈み水平線に近づくにつれ、海の色が青、橙、赤、黒と目まぐるしく変わっていった。太陽が完全に沈み、雲から月が顔を出すと、夜空はむしろ夕方よりも明るくなった。月明かりと星明かりが降り注ぎ、夜空を背景とするヤシの木の輪郭を黒く、くっきりと浮かび上がらせる。浜からは波が寄せては返す音しか聞こえてこない。
「この国で退屈していない?」と、ビーチの遊歩道を先に歩くミシャナが振り返り、言った。
「いや、ぜんぜん。毎日新鮮な体験の数々だよ」
「そうなんだ。ブルーランドからわざわざ来るなんて変わった人だと思って」
「確かに普通のブルーランド人ではないね。自由意志で国を離れる外国人なんてみんなそうだと思うよ」
ミシャナは高級レストランに入った。ここはマコパンでもかなり有名な店で、外国の本格的な料理を楽しめ、外貨まで使えるということだった。店内は、この島のどこからこんなに集めたのかと不思議になるぐらい、多くの外国人が集まっていた。大人ばかりで、学生は彼ら二人だけだった。
テラス席に案内されると、ミシャナはメニューをカルノに渡した。
「あなたの国の料理を注文して」
カルノは、故郷の味が恋しいであろう自分を気遣い、わざわざこの店を選んでくれたのだろうと思った。しかし彼にとってはややありがた迷惑だった。たった一年しかない留学期間中に、なるべく現地の料理を味わおうと思っていたからだ。
彼はメニューにあるブルーランドの定番料理を注文した。ミシャナはそれを食べ、大げさに「美味しい」と喜びながら、やはりカルノにさまざまなことを聞いた。
「へぇ、お父さんが外交官で、小さい頃にマコパンに来たことがあったのね」
ネイティブと外国人の会話では、一方的な一問一答形式になりがちだ。カルノはミシャナにあまり質問できなかった。そうするうちにあっという間に時間が過ぎていった。
「あらもうこんな時間? 今日は美味しかったわ、ごちそうさま!」
二人は学校に戻った。さっき校門を出る時は前後して歩いていたが、今や彼らは横にぴったり並んでいた。留学生寮の前で、彼らはエイレンとすれ違った。
「やぁエイレン」
「そちらの方は、お知り合い?」
「ミシャナよ。よろしくね」
彼女はもう一度カルノに「今日はごちそうさま」と言うと、駐輪場の方に歩いていった。これから自転車で帰宅するらしい。
「エイレンは食事した?」
「えっと、ちょっと勉強が長引いちゃって、今から食べに行くところ」
ミシャナはその半月後、カルノにようやくンバルを紹介した。午後、彼らは学校の食堂で話をした。
ンバルはカルノと同い年の男子だった。幼いころ、霊峰キリパトの麓にある父方の祖父母の家で育てられ、人間国宝として知られる祖父にポカティを習った由緒正しき継承者だ。とは言え彼の外見は、民族楽器の演奏家というよりは、むしろダンスやスケボーが得意そうな、活動的でおしゃれな若者だった。ンバルは気さくにカルノに話しかけた。
「きみが持っているっていうポカティを見せてくれるかい?」
ンバルはそのボウリングボールより一回りほど小さい楽器を手に取ってくるくる回し、試し吹きをした。いくつかの難しい音が出ないと、「うん分かった、ありがとう」と言いあっさり笛を返し、それから腕を組み考え込む様子になった。
「ちょっと、なにもったいぶってるのよ? どうだったの?」とミシャナは言い、ンバルの二の腕を肘でつついた。
「こんな粗悪品をプレゼントするとは、その外交官はわが国の恥だな」と、ンバルはきつい調子で言った。
「これではどんなに練習しても上達しないよ。いい笛はね、吹く人の能力を存分に引き出し、より高みに押し上げてくれるんだ」
カルノは昔の良き想い出、自分のこれまでの努力を否定されたようで悔しかった。彼は返してもらったポカティを使い、マコパンの国歌を演奏した。徐々に、ンバルの眉間からしわが消え、目元と口元に笑みが浮かんでいった。
「独学でこんなに吹けるなんて驚きだな!」
「あなたより上手なんじゃないの?」
「環境さえ良ければ、とっくにおれなんかより上手になってるさ」
カルノはそれが下手なお世辞だと思った。ンバルの態度に余裕があったからだ。
「差し支えなければ、きみの演奏も聞いてみたいんだけど」と、彼はンバルに提案した。
「もちろんさ! でも、ここではなんだから、外に吹きにいこう」
三人は自転車に乗り、午後の日差しを背負うようにして、東の崖を目指した。
崖からの眺めは絶景だった。崖下は浅瀬で、薄緑色の海水が透き通り、変わった形をした岩の隙間を色とりどりの魚が出入りするのが見えるほどだった。海の色は崖下から遠くに向かうほど緑から青へと濃さを増し、水平線に達すると空の色と交わり、白くぼんやり霞んだ。近くの海面に浮かぶ黒い岩には白い水鳥が集まり、風景全体のアクセントになっている。崖の先端には白い人物像が立っている。
「さぁ、ここで風を感じながらポカティを吹こう」と、ンバルが言った。
彼は小さなケースに入れていた自分の楽器を取り出した。それは海の照り返しを受け黒光りし、重々しい風格を漂わせている。カルノは一見しただけで、そこに込められた職人の魂を感じ取った。さっきのンバルの「粗悪品」という指摘が嘘ではないことが分かった。
ンバルは無造作にポカティを手にし、肩の力を抜き膝を自然に曲げ、演奏を始めた。それはカルノの知らない古典名曲の一つだった。
カルノはまったく芸術の迫力に魅せられた。ンバルの笛の音は伸びやかで、芯が通り朗々とし力強いのに、棘がなく丸みを帯びまろやかだった。カルノはポカティからこんな音が出るとは知らず、自分も独学ながら頑張ってきたという誇りを完全に捨て去った。
カルノが呆然としている間にもンバルの演奏は続く。彼はもはやそこにカルノやミシャナがいることなど忘れたかのように自然と一体化していた。波が砕けると全身を総動員し、躍動感あふれる動きで荒々しく吹き、風が収まると憑かれていたような体の動きを休め、柔らかくしめやかに曲を締めくくった。カルノは感動のあまり声も出なかった。
「久しぶりに吹くけど、心の中のもやもやがすっきりしたよ」と、ンバルは気持ちよさそうに言った。
三人は崖沿いを歩きながら話をした。カルノは、ぜひンバルの弟子にして欲しいと言ったが、まだ弟子を取る資格はないと断られた。ンバルはその代わりに、後期前の長期休暇に入ったら、密林の中にある実家に招待すると約束した。
「じいちゃんは亡くなったけど、一番弟子だった人に教えてくれるよう頼んでみるよ」
「ちょっといつまでポカティの話ばかりしてるの?」
「ごめんごめん」
ンバルはミシャナと一緒に、カルノにブルーランドの文化について聞いた。カルノはあまり答えられなかったが、それを恥ずかしいことだとは思わなかった。ブルーランド人ならば誰もが知っている常識よりも、マコパンに関する珍しいことの方が知りたかった。
彼らは白い像の前にやって来た。遠くからだと気づかなかったが、それは子を抱く母の像で、悲しげな眼差しで海を見つめていた。カルノは二人に、これは何かとたずねた。
「ここは別名、殉死崖って呼ばれるんだ。どうしてだか知ってるかい?」
「ううん」
「ちょっとやめなさいよ」とミシャナは言い、ンバルの袖を引いたが、彼は話を続けた。
「昔の大戦で、連合国側だったブルーランドの兵隊がマコパンの一般人をここに追い詰めたとき、捕虜になることを拒んだ彼らは、次々とこの崖から飛び降りていった。その中には年寄りも、女の人も、赤ちゃんもいた。そのことを忘れないよう、彼らの犠牲の上に成り立っている平和に感謝するよう、ここにこんな像が置かれたわけさ」
カルノは再び崖下を見下ろした。西日のせいか、さっきあれほど美しく見えた浅瀬が血に染まって見える。多感なカルノは両手で目を覆い、全身をわななかせた。彼はふと顔を上げ、ンバルとミシャナをまっすぐ見据え、深々と頭を下げた。
「やめてくれ。もう何世代も前の話だ。きみは加害者ではないし、おれたちも被害者ではない」
「そうよ。私たちとはもう、なんの関係もないことよ」
「それでは済まされない、ぼくが愛したマコパンに申し訳ない。あぁ、ぼくはいったいどうしたらいいんだ……」
ミシャナもンバルも何も言わずカルノを見守った。カルノは白い像に向かい黙祷し、それからンバルにこう提案した。
「さぁ、ここで一緒にマコパンの国歌を吹こうじゃないか。ぼくたち新しい世代が仲良くなることが何よりの罪滅ぼしになると思うから」