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成熟する情熱

 カルノは最後の決別のためにマコパンを訪問した。十年ほど前に留学したころと比べ、島には大きな変化があった。

 空港はやや国際空港らしくなっていた。各国からの個人客や団体客で賑わい、お土産などを売る新しい店も増えた。外にはバス停ができ、空港と市街地を結ぶ便利なシャトルバスが運行していた。カルノは他の観光客と共にバスに乗り込んだ。

 車内は世界共通語で溢れ返っていた。人々は談笑しながらスマホをいじり、まだ殺風景な窓外の景色に目を向ける人は少ない。黒いフィルムが貼られているからか、空も海も原っぱも輝きを失い、くすんで見える。カルノはどうしても初めてここを訪れた時の感覚を取り戻せなかった。

 バスは彼を一度だけ来たことのある観光街で降ろした。そこには彼が恐れた変化の兆しがすでに現れ始めていた。

 先進国の人々がマコパンに求めるものと言えば、珍しい食べ物や商品、新鮮な体験だ。観光街はそのすべてを取り揃えていた。

 土産屋にはどのリゾート地でも見かけるような画一的な商品が並んでいた。飲食店では「マコパンの若者に人気」というドリンクやスイーツが出された。カフェ併設のおしゃれな書店では、読書習慣のない現地人が絶対に読まない世界共通語のファッション誌などが売られていた。これらの店の物価は現地人が暮らすエリアの倍以上だった。

 島でのアクティビティはやはりスキューバダイビングやサーフィンが人気のようで、それらのショップが建ち並んでいた。カルノは、窓に貼られたポスターのダイビングスポットに見覚えがあった。あの白い像は殉死崖ではないか! ところが説明文を読むと、その一帯は今や「平和祈念公園」と名を変えていた。平和な世の中に人々が悲惨な歴史を忘れ、そこが楽しく水遊びをする場所になったのは本来めでたいことなのだろうが、カルノは複雑な気分だった。

 崖であったことを思い出すとポカティの音が聞こえてきた。幻聴ではなく、観光街にはポカティ体験教室もできていた。開け放たれた窓から中を見ると、髪や肌の色が異なる外国人が集まり、現地人の若者から吹き方を教わっているところだった。その若者はメタルポカティを手にし、客を前に有名な古典名曲を吹くが、やはり覚えたてなのか上手とは言えない。カルノは、代わりに指導してやろうかと思ったが、やめた。もう彼の出る幕ではなかった。

 どの店の店員も活き活きと働いていた。密林の村やスラム街で生活していた彼らは、お辞儀というこの国にはなかった礼儀を覚え、片言の世界共通語で客を熱心に呼び込み、丁寧にサービスや商品の説明をしていた。彼らは観光業のおかげで豊かになり、いい暮らしを送れるようになった。それなのにカルノは彼らのために喜べなかった。

 民族の誇りを忘れたのか? それは彼自身にも向けられた問いかけだった。

 彼は観光案内所で自転車を借り、大学に向かった。庶民生活の真ん中にある大学周辺には開発の手が届いていなかった。彼は変わっていない風景を懐かしみ、感激しながら大学に入った。

 いつものように寮に宿泊するつもりだったが、できなかった。学生時代にお世話になった寮母さんの話によると、それは留学生で満室になったからで、現在は校内の別の土地でもっと大きな寮を作っている最中だという。確かに寮内は賑やかだった。誰かの誕生日パーティーが開かれているらしく、留学生が一階の大部屋で大騒ぎしている。昼間から酒を飲み、顔が真っ赤だ。カルノは部屋を出入りする若く、快活な、ペース配分を考えず飲み食いしている彼らを見ると、ここにももう戻れないのだと自覚した。

 仕方なく、彼は一観光客としての立場にふさわしい、リゾートホテルの一室に身を落ち着けた。携帯電話を使い、エイレンと大学に近い屋台街で会う約束をすると、彼はベッドに横になり放心した。体全体がぐらぐらと揺れ動く感覚があった。久しぶりに自転車を長く漕いだせいだろうか。部屋はエアコンの音しか聞こえない。浜辺の潮騒、庶民の喧騒、観光客の熱狂から隔離された彼は、じっと動かず目をつぶることで新しい現実に適応しようとしていた。

 やっとのことで夕方になった。彼は昔のように自転車を漕ぎ、待ち合わせ場所、屋台街の串焼き店にたどり着いた。そこはあのころとちっとも変わっていなかった。店主と女将が店と共にやや古くなっただけで、客層、料理の内容、その量と質、価格などは同じままだった。

 この一帯はどの店も騒がしいが、屋台なので音が内側にこもらず、気兼ねなく大声で話ができる。カルノは店の端の方の席にエイレンを見つけた。

「お久しぶり!」

「エイレンはちっとも変わってないね!」

「カルノも。留学生のころにタイムスリップしたみたい!」

 大人になり自由に支配できるお金が増えたが、やはり庶民的な店で安いマコパンビールを飲み、気の置けない友人と話をするのが一番だ。注文した串焼きを持ってきた店主は、当時としては珍しかった留学生の二人をよく覚えているようで、「うちの味が恋しくなったのか?」と聞いた。二人とも笑顔で、大きくうなずいた。

「今日はどんな一日だった? 懐かしかったんじゃない?」

「心から懐かしいと思えるのは今だけさ。いろいろ変わっていて虚しかったよ。島も、ぼく自身も」

「そうだったんだ。私は就職してからずっとマコパンで暮らしているから、変化には気づきにくいのかもしれないわね。もしブルーランドに帰ることがあれば何か気づくことがあるかもしれないけど」

「帰るつもりはないの?」

「ぜんぜん」

「きみはいいなぁ」

 二人はまた乾杯し、カルノだけが夜空を見上げた。星々がゆっくりと弧を描いている。見ていると不思議に心が落ち着くものだ。ちっぽけな自分は何を生き急いでいたのだろうか。

「離婚、したんですってね」

「もう過ぎたことさ」

「奥さんが今どうしているか知ってる?」

「いや」

「悪い男にお金を騙し取られて、貯金がすっかりなくなったみたい。今は観光街のどこかのお店で働いている。世界共通語が上手だから」

「そうだったのか」

 カルノは特に何も感じなかった。どうせそんなことだろうと思ったし、もはや自分とは何の関わりもなかった。エイレンはすかさず話を変える。

「でも私、あの時は許せなかったなぁ」

「あの時って?」

「ンバルって人がプラスチックのポカティを我が物顔で発表した時。我慢できなくて、つい強い口調で質問しちゃった。あなたが本気で情熱を傾けて作った物を奪うなんて。しかもあの人、あなたの友達だったんでしょう? 信じられない!」

 義憤に駆られるエイレンの姿を見ると、カルノが今の今までこらえていた涙がどっと溢れ出し、止まらなくなった。彼女も少しだけ涙を流した。

「今だから言うけど、私、あなたのことをずっと尊敬し、慕っていたのよ」

「そ、そうだったんだ」

「もちろんあなたは気づかなかったでしょうね。何かに熱中すると周りが見えなくなる人だったから。でもそんなあなたを好きになったんだから、文句は言えなかったわね」

「確かきみにはこっちで交際している人が」

「あの人とは別れちゃった。マコパンで数年働いて十分楽しめたから帰国したい、だなんて。今はマコパン人と付き合っているの。性格は決していい方じゃないけど、根はとってもやさしい人だし、自分たちの国や文化に誇りを持っている。立派な男性よ」

「それは良かった。きみにはぴったりだと思う。幸運を祈るよ」

「私のことよりも、あなたはどうするの?」

「実際どうしようね。情熱がすべて空回りして、その情熱さえ失ってしまった。歳も三十代になり、若くないし」

「そう言えば私、預かっていたものがあるの」

 彼女はバッグから汚い紙切れを取り出した。二年前に亡くなったクボッテからの手紙だった。

「どうしてきみが、これを?」

「フリーペーパーの特集で密林の村を取材した時、笛作りの職人の最長老から預かったの。私があなたの友達だと知ると、いつか渡してほしいって」

 カルノは手紙に目を落とす。そこにはひたむきに自分から何かを学び取ろうとした若者への感謝など、当時面と向かって言えなかったことが率直な言葉で綴られていた。ポカティ産業を活性化させるため一石を投じた功労への賛辞もあった。誰よりも彼のことを理解していたのはクボッテだったのだ。さらに、最後の愛弟子、正統後継者であるカルノに、自分の工房を譲り渡すと書かれていた。

「ありがとう師匠、でももう遅いんです、おれはポカティを失ってしまいました、おれにあなたの仕事を継ぐ資格はありません……」

 カルノはエイレンと別れ、自転車をゆっくり漕ぎながらホテルに戻った。西海岸の道路にはバスのほか、マイカーも走るようになった。岬には観光街とつながるホテルが建ち並び、夜だというのに照明が眩しく、夜空の星の輝きを奪っている。カルノは、自分は夜空に属する者なのだと思った。

 彼は翌日、マコパンを永遠に後にした。一人で空港の保安検査を通過し、他の観光客から離れた椅子に座り、帰国する便を待つ。今の彼はそれほど寂しくなかった。エイレンが自分なんかを愛していてくれたことへの感謝で心が温かかったからだ。

 彼女に愛されたあのころの輝きを取り戻すことはできない。でも、今の自分にだって何かできるはずだ。こんなに満ち足りた思いになれたのだから、人生そのものへの情熱を失ったわけではない。今度は歳相応の冷静で成熟した態度で新しい生き方を模索すればいいではないか。きっとポカティにしか目が向いていなかったころとは違った楽しみが見つかるはずだ。

 彼はそんなことを考えながら飛行機に乗った。大型空港と違い、迂回することなく、すぐに離陸した。窓の外でぐんぐん小さくなる島。今もエイレンが暮らす国。別れを告げた過去と想い出。時間は無情に過ぎていく。過去にはしがみつけない。

 クボッテからもらったポカティは今もカルノの家に大切にしまってある。その存在をふと思い出し、何気なく手に取り、自分の楽しみのためだけに吹ける日は、そう遠くないはずだ。

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