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旅立ち

 ブルーランドとマコパン共和国が正式に国交を結ぶ前、カルノは外交官の父に従い後者を訪れた。彼は浜辺で開かれた歓迎会を昨日のことのように覚えている。

 彼にとってはすべてが新鮮だった。見たことのない踊り、聞いたことのない音楽、食べたことのない料理。子供を喜ばせる非日常がそこにあった。彼はハーブが香ばしい肉料理に舌鼓を打ちながら、踊りを披露してくれた半裸の男女に誰よりも大きな拍手を送り、リズミカルで神秘的な曲を演奏してくれた老人たちを褒めちぎった。

 彼のおかげで緊張していた場の雰囲気が和んだ。父の相手をしていたマコパン側の外交官は救われたように微笑み、こう言った。

「おぼっちゃんはわが国の文化に興味があるようですね。いつか両国の友好の使者になってくれることを願い、私から素晴らしいものをプレゼントしましょう」


 中学生になったカルノは、久しぶりにベッドの下からトランクを引っ張り出し、あの時もらった品々を手にとった。世界共通語に翻訳された「マコパン概要」という本の「民族音楽」にはこう書かれていた。


 ・ポカティ


 マコパン共和国の霊木「ポカトゥフ」から採れる聖なる実「ポカタル」の中身をくり抜き、八孔から十孔の穴を開けて作る気鳴楽器。息を吹き込む穴の選択、指で押さえる穴の数、息の角度や強さによって様々な音を出す。古くは宗教音楽に用いられたが、習得が極めて困難なこともあり、現在は継承者不足で消滅が危惧されている。


 カルノはポカティを手に取った。ずっと日陰にしまわれていたのに、それはほのかな温もりを持ち、彼の手を汗ばませた。適当に穴を選び、唇を近づけ、息を吐く。鳴らない。カルノは首を傾げ、両手に持ったポカティをくるりと回し、別の穴に口をつける。やはり鳴らない。彼はふと思い出し、本の山の中から「ポカティ入門」を取り出した。残念ながらマコパン語で理解できないが、少ないイラストを参考に、見よう見まねで吹いてみる。かすかに風が擦れるような音がした。指で押さえる穴を変えてみる。今度はもっとはっきり、風が切れるような音がした。彼はうれしかった。あの国に一歩だけ近づけた気がした。それがこんなに幸せなこととは今の今まで気づかなかった。

 どうしてマコパンのことを忘れていたのだろう。中学三年生の彼は今、高校受験に直面していた。

 彼の両親は放任主義者だった。忙しい仕事をし、常に海外を飛び回っている父は、息子にはもっと余裕のある楽な生活を送ってほしいと考えていた。専業主婦の母は夫の不在をいいことに、友人との交際に忙しく、一人息子にあまり関心を寄せなかった。カルノもまだ特に人生に目標を持っていなかった。同級生たちには、立派な社会人になり大金を稼ぐため、まずいい高校に入るという具体的な目標があったが。

 以前、久しぶりに家に帰ってきた父はカルノにこう言った。

「金ならあるんだから、受験なんか心配するな」

 彼には相談できる相手がいなかった。一般的な社会のレールから外された彼は、まだ子供なのに、自分で自分の道を模索するしかなかった。

 トランクが出しっぱなし、開きっぱなしになった。彼は一人でマコパンと共に生き始めた。

 カルノは私立の高校に進学した。彼は学校が教えてくれることにまったく興味を示さず、赤点を取らない程度に勉強するだけで、後は自分で好きなことを学んだ。「マコパン概要」を暗記するほど読み込み、「ポカティ入門」を見ながら笛を鳴らそうと懸命に努力し、木彫りの人形を部屋に飾り彼の国に思いを馳せた。それが将来、自分の何の役に立つかという功利的なことは考えず、ただ今の楽しみに浸ろうとして。学校の勉強や大学受験は彼にとって非現実的であり、異文化への傾倒という現実逃避こそが現実だったのだ。

 高校一年の後期、非現実が現実になった。

 ある日の朝、カルノは自宅のリビングのテレビをつけた。ブルーランドの総理大臣とマコパン共和国の大統領が満面の笑みを浮かべ、両国の国旗を背景にがっちりと握手を交わし、平和友好条約に署名する様子だった。

「マコパンとの国交が結ばれたみたいね」と、母が気の抜けた声で言った。

 テレビのアナウンサーは、国交樹立による双方のメリットを紹介した。初めに自由な往来。観光客が相手国を旅行できるようになる。次に経済協力。貿易により両国の商品が相手国の一般人の手に届く。それから文化交流。早くも両国の政治家と著名人が相手国を訪問し、イベントを催す予定があるという。

 カルノはなぜか、自分の秘密が明るみに出たような、こそばゆさを覚えた。甘酸っぱい嫉妬もあった。今までマコパンのことを知らなかった人々が自分よりも先にあの島を訪れ、踏み荒らすことを心配し、居ても立っても居られなかった。

 彼は自分がマコパンにただならぬ関心を寄せていることを誰にも告げていなかった。だが、憧れの国が馬鹿にされれば黙っていられなかった。

 高校でも両国の国交樹立が話題になった。ところが同級生の間では、マコパンへの好意的な見方は皆無だった。かつての大戦で敵側につき負けた国。文化的に立ち遅れた貧乏な国。共和国大統領による独裁政権下、言論が厳しく統制されている不自由な国。

 カルノは立ち上がり、「マコパン概要」の知識だけで必死に反論した。同級生たちはいつも寡黙な彼が急に多弁になったことに唖然としたが、突拍子もないことを言うので、こらえきれず大爆笑した。

「きみはマコパンを哀れみ、正義ヅラして、そんな自分に酔っているだけなのさ」という、クラス一の秀才の言葉が最も癪に障った。カルノほどマコパンを敬愛している人が、この国には他にいなかったからだ。それが彼の未熟な自我でもあったからだ。

「ぼくはマコパン語を学びたい。あの国の言葉で、あの国のことをもっと深く理解したいんだ」と、彼は珍しく両親が揃った日に宣言した。

 何も知らないように見えた両親だが、薄々察していたらしい。父は彼にこう言った。

「海外に目を向けるのは父親譲りだな。昔お前とマコパンを訪問したとき、将来こんな日が来るのではという予感があったよ。幸い首都のある私立大学でマコパン語学科が開設されるそうだ。とりあえずそこを目指してみたらどうだ?」

 それは全国的に名を知られていない学力が低レベルの大学で、しかもマコパン語を学ぼうとする若者があまりいないため、学費さえ払えれば誰でも受け入れてくれそうだった。大学にステータスを求めず、受験勉強もしたくないカルノには好都合だった。彼は他の同級生が勉強に明け暮れるなか、徐々に増え始めたマコパンの旅行本を購入し、あの国に留学し生活する未来を思い描いた。

 彼は自己推薦で志望校に早々に合格した。彼は自ら合格を祝うため、また故郷に別れを告げるため、家の裏山に登った。

 山腹には子供のころ良く遊びに来た公園があった。時間はまだ午前十一時頃で、小中高生が学校で勉強している時間帯だった。彼は一人でブランコを漕ぎ、サビつきペンキが剥がれ落ちたジャングルジムに登り、そこで笛を吹いた。始めたころよりも狙った音が出るようになり、簡単な民謡などを吹けるようになっていた。山腹の涼しい風を浴びつつ、ブルーランドの胸が高鳴る勇ましい国歌を吹き、次にマコパン共和国の暗く難解だが味わい深い国歌を吹くと、自分は咲く場所を間違えた花だと思った。だが、まだ間に合う。この曲と風に新しい種を託し、彼の国に届けてもらえばいいではないか。

 大学は首都郊外の自然豊かな場所にあった。彼のマコパン語学科の学生は十数人しかいなかった。

 カルノは大学の勉強が楽しすぎて罪悪感を抱くほどだった。着任したばかりのネイティブの女性講師が眠気を誘う美しい声で発音を指導し、この国随一のマコパン文化の権威とされる教授が持てる知識を余すことなく学生たちに注いでくれる。ランクDの大学とはいえ、マコパンについて学ぶ者にとっては最高の環境だった。

 わざわざ少数言語のマコパン語を学ぼうとする学生たちはある意味、「普通」ではないと言える。周囲の目をあまり気にせず、もっぱら自分の世界に浸って生きてきた人たちばかりだ。ここで彼らは水を得た魚になった。彼らは自分と同じように、この国の一般的な価値観に反しこの学科にたどり着いた学生に対して仲間意識を持ち、積極的に話しかけようとした。毎日顔を合わせる十数人の同級生たちは強い絆で結ばれた。

 人は自分と同じタイプの人間を嗅ぎ分ける嗅覚を持っている。カルノはどの同級生とも親しく付き合えたが、特にエイレンと話が合うことに気づいた。

 エイレンは眼鏡をかけた小柄で目立たない女子だった。普段は声が小さく、もじもじしているが、マコパン語会話の時間になると急にはきはきし、声も大きくなる。カルノには、彼女が大学からは今までと違う自分になろうとしていることが分かった。

 入学してから一カ月後、カルノは初めて彼女と二人きりで話をした。午前の授業が終わると、彼らは食堂に行き、自然と同じテーブルの席に座った。

「エイレンはどうしてマコパン語を選んだの?」

「なんとなくマコパンという国に親しみを感じたの。この国とは違い、あの国の人ならば私を笑わず、細かいことを気にせず受け入れてくれそうって」

「そうそう! マコパンについて勉強してるなんて言えば、ブルーランドの人には絶対に変な顔されるよね。だからこの大学だけは居心地がいいよ」

「カルノはどうして?」

「ぼく? 実はまだよく分かってないんだ。でもあの国に強く惹かれるのは間違いない。例えばこれ……」と彼は言い、かばんからポカティを取り出した。

「なにそれ?」

「彼らの民族楽器さ。素朴だけど神秘的で、片時も手放したくない。これを自由に吹けるようになれば、ぼくはもう一つ高い所に上がれる、自信がつくって気がするんだ」

「笛でブルーランドの人たちにマコパンの素晴らしさを伝える、音楽で両国の友好を促進する。素晴らしいことね」

「そうか、そんなことにもつながるんだな! 自分のやっていることにそんな立派な意義があっただなんて」

 カルノの全身を感動が貫いた。彼は使命感に燃えた。自分に火をつけてくれたエイレンに感謝した。

「きみはクラスでマコパン語の発音が一番きれいだね。羨ましいよ」

「ありがとう。でも実際にマコパンに行ってみないと会話が上達しないし、現地の人のことも分からないし、それならばここで言語や文化を学んでも意味がないのかなぁって悩んでいるの」

「だったらマコパンに行けばいいじゃないか。三年生になったら学校の制度を利用して留学できるんだし。ぼくは行くつもりだよ。エイレンも一緒に行こう!」

 エイレンは、留学するほどマコパンに興味があるか不確かだったが、留学を当然のように考えている向上心ある男子を見ていると、こんな簡単な問題で悩むのが馬鹿らしくなった。

「うん! 一緒に留学しましょう!」

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