第3話「聖水」
──なんのために、生きてるんだろ。
なにかを叶えたいってわけじゃなかった。
でも、「これでいい」って思えたこともなかった。
きっと、それなりに、幸せになれるはずだって。
そう思ってた。思い込もうとしてた。
でも、本当は。
もっと、なにか。
※ ※ ※
「おはようございます。どうやら、夢ではなかったようですね」
目覚めは、ザズの声から始まった。
「……おはよう。なんかこう……もうちょい、優しく言えんのか」
「申し訳ありません。では明日からは”新婚さんモード”でご挨拶を」
「いや、いらんいらん……」
いつの間にか日常になりつつあるやりとりが、朝の空気に溶けていく。
空は異常なくらい青かった。木漏れ日はきれいで、風は優しくて。
……全然、実感ねぇな……。
視界の端で、白い外套が静かに翻る。
ザズが昨日と同じ木の実を取ってきてくれていた。
「……贅沢言えんけど、もうちょいマシな味、なかった?」
「ご安心ください。今日は苦味が0.5%減です」
「あまりにも誤差だわ……」
ぼんやりした頭で、目の前のものを咀嚼しながら、思考は宙をさまよっていた。
「……どう反応すりゃいいんだろうな、こういう時」
失ったものの名前も思い出せないまま、新しい現実だけが──もう前に進み始めている。
悠真は、草の上でしばらく空を見ていた。
そして、ひとつ深く息を吐いたあと、
「……よし」
小さくつぶやいて立ち上がった。
「スキルって、俺も使えるのか?」
結局、こいつを頼るしかない。
……今は、信じるしかない。
「はい。ただし、まず“光帳”を導入する必要があります」
「ひかりちょう?」
「この世界の人間が生まれて最初に与えられる、生体端末のようなものです。
これがないとスキルも使えませんし、施設も使えません。身分証のようなものですね」
「つまり、ないと無職で無戸籍でスキルも使えない、と」
「端的に言うと、はい。……こちらが、その導入物です」
ザズが懐から取り出したのは、薬瓶のような小さなガラス容器だった。
中には、金色にわずかに光る液体。
どこか金属のような、そして冷たさを感じさせる不思議な気配。
俺は思わず一歩引いた。
「え、待て。まさかこれ、飲むの?」
「はい。“光帳”は口腔から導入されます。旧式ですが、問題はありません。
人類の99.97%が無事に処理を完了しております」
「……残りは?」
「記録がありません」
「そういうのを“問題あり”って言うんだよ!」
思わず瓶を覗き込む。
見た瞬間、金属の味が口の中に広がった気がして、思わず胃が縮こまる。
「これ……“神様と繋がる”やつなんだよな……?」
さっきしたばかりの決心が、早くも崩れ落ちそうだった。
「はい。あなたの存在が、今後は神に管理されることになります」
「その言い方、めちゃくちゃ怖いな!?」
返事を待っても、ザズは黙ったままこちらを見ている。
風が、草の上をかすめた。
瓶を持った手がわずかに揺れた。
──これを飲んだら、もう決定的に戻れなくなる。
この世界がなんなのかも、神様が何者かも、何ひとつ知らないけど。
でも、立ち止まってるほうが、もっと怖かった。
「…………くっそ……」
小さく吐き捨てるように言って、ぐいっと瓶を傾けた。
液体が喉を通ると、熱がじわりと内側から広がっていく。
胃のあたりに、まるで金属を流し込んだような異物感。
目の奥がちかちかする。
「……う、わ……あっつ……なにこれ、体の中が……」
その瞬間、視界の端に走った一筋の光。
空間に、読み込みバーのような線が現れ、すぐに消えた。
「導入完了です。これで、あなたは正式な登録者になりました」
「……もう二度と飲みたくねえ……」
喉の奥にはまだ熱が残っていた。
「……これで、スキルも使えるようになるのか?」
「はい。まずは光帳を呼び出します。……たとえば、手のひらをダブルタップしてみてください」
ザズの声に従って、掌に軽く指を二度、打ちつける。
──次の瞬間。
空中に、ふわりと淡く黄色い光のパネルが浮かび上がる。
「これが……」
「はい、光帳です。基本は指で操作するのが便利ですね」
言われるまま画面をなぞってみると、淡く光って、いくつかの“マーク”が並んだ。
手紙のマーク、光の玉のマーク、掲示板のマーク──。
スマホのアプリアイコンと、そんなに変わらない気がする。
(……むちゃくちゃゲームっぽいな)
「この丸いマークが、スキル欄です。登録後八歳なるとに与えられる基本スキル、≪ホーンラビット≫がすでに付与されています」
「……ずいぶん可愛い名前だな」
「この世界では、移動手段として使うのが一般的です。実用性は高いですよ」
「……このFPってのは?」
画面には FP:10/10 という数字が表示されていた。
「“不思議ポイント”です。スキル使用時に消費されます。0になると発動できません。0時に全回復します」
「やっぱりゲームじゃねぇか! ていうか、昨日から思ってたけど、不思議ってなんだよ。適当かよ」
「えっ、でも悠真さんの世界にもあるじゃないですか。“ダークマター”とか、“ストレンジクォーク”とか」
「真面目な科学と一緒にすんな。……でも、ぐうの音も出ねぇ」
そう言いながらも、好奇心は別の方向へ引っ張られていた。
「……これって、パワーアップとかもできるのか?」
「基本的には、はい。モンスターから採取される“不思議結晶”を取り込めば、スキルの強化や新規付与が可能です」
「取り込むって、まさか、また飲むのか?」
一瞬で蘇った金属の味と異物感に、反射的に口を押さえる。
「ご安心ください。それは私が行います。本来は奉納塔を経由する処理ですが、私はその中継機能を代替できます」
「お前、なんなんだよほんと」
でも、少しだけ思ってしまった。
つまり俺、レベルアップできるってことか?
胸の奥が、ほんのわずかにざわめいた。
スキル。
この世界の人間が神と契約し、力を得る方法。
「ホーンラビット、だっけ。脚が速くなる……ってことは、ジャンプとかもできんのかな?」
ふと想像して、ほんの少しだけ口元がゆるむ。
思ってたより、ちょっとだけワクワクしてる自分がいた。
──でも、それが“力を得た”ことの喜びなら。
その力は、いったい何から生まれているのだろう──。
「まあ……試してみるか。スキル:≪ホーンラビット≫」
つぶやくと、一瞬、両足に模様のような光が走った。