第2話 「帰れるとか帰れないとか、そういう次元じゃなさそうです」
「……お前、無敵かよ」
崖際の一連の出来事がまだ頭のどこかで処理しきれず、思わずそんな言葉が漏れた。
「ありがとうございます。ですが、今回のような対応が今後も可能かは、怪しいです」
「え?」
「今回の“叫ぶ霧”は、私の起動時に想定されていた初期対応パターンに該当しました。つまり、“最初から倒し方を知っていた”ケースです」
「チュートリアル用ボスってか……普通に死にかけたぞ?」
「非常に効率的な設計ですね」
「あのな……」
額に手を当てて、深く息をついた。
ビビってただけのはずなのに、全身に変な疲れだけ残ってるの、ほんと意味わからん。
靴についた泥を払いながら立ち上がる。
「……で? 俺は、どうしたらいい?」
すがる気持ちを飲み込んだ分、声は乾いていた。
「人里を目指すのが妥当です。徒歩で四時間ほどの場所に、ナクセリという町があります」
「遠っ!」
「ただし、森を抜けることになりますし、日没前の到着は難しいかと」
「……野宿したほうがいいのか、頑張って歩いたほうがいいのか、どっちだよ」
「一旦、野宿を推奨します。ある程度ならサポート可能です。たぶん」
「たぶん、て。……お前、そういうとこだぞ」
俺はぶつぶつ言いながら、森の中へと足を踏み出した。ザズは静かに先導した。
ポケットに手を突っ込んでみたけど、やっぱり何も入ってない。……スマホも、財布も、何も。
想像以上に、それが不安だった。
少し黙ったまま歩いたあとで、気になっていたことを口にする。
「なあ……さっきのアレ、結局なんだったんだ?」
すぐに返ってきた答えは、やっぱりと言うか、案の定というか。
「未確認の、叫ぶ霧型構造体です」
「名前だけで二度と会いたくねえわ」
「現地では“悪魔”と呼ばれているようです」
「出た、“悪魔”。ベタってレベルじゃねえぞ。終末映画だったぞ?」
「ですが、構造は観測不良。記録にもログにも残っておらず、分析不能でした」
「え、ブチのめしたあとで“実はよく分かりません”って……お前……」
「納得がいかないお気持ちはよく理解できますが、事実です。
……そもそも悪魔と呼ばれる個体の多くは、遭遇すること自体が稀です。
そのため被害に遭っても、“わからないけど運が悪かった”で処理されているようです」
「ひでぇ……。命の問題だぞこれ? “出会っちゃったら仕方ない”って……」
「人類が“よく分からないもの”を前にしたときの、代表的な対処方法です」
「……それ、対処って言えるのかよ」
──そういうものなのかもしれないが。
納得しかけている自分がいるのが、逆に嫌だった。
怒る気にもなれず、ため息まじりに歩き出す。
湿った土の匂いが靴紐にまで染みついて、歩くたびに鼻をついた。
ザズは平然とした顔(というか常にそう)で、とことこと前を歩いている。
ついさっきまで霧に包まれ、謎の災害に襲われていた場所とは思えないほど、森は静かだった。
木漏れ日が差し、少し赤みを帯びた空が枝の間に見える。
しばらくして、ザズが足を止める。
「このあたりが適しているかと。地形は平坦で、風も穏やかです」
「野営……俺、そういうのやったことないけど」
「サポート可能です。安全そうな実と、毒性の低い草を探してきます」
「“低い”って時点でちょっと怖いんだが」
口では突っ込んでるが、正直かなり助かった。数分後、ザズは赤い実と山菜のような葉を手に戻ってくる。
そして──ぽん。
空間に、小さな火球が灯った。
「え、火?」
「スキル:≪サラマンダー≫です。調理に必要な火力を発生させます。安心してください、家庭用モードです」
「何と比べてだよ……」
火をぼんやり眺めながら、渡された実と草を焼く。焦げた。
疲労のせいでぎこちなくなった手つきで、それでも火の力でかすかに温まった何かを口に運ぶ。
苦い。やたらアクが強い。薬草っぽい甘みが後から舌に残る。
でも、あたたかい。
それだけで、不意に目頭が熱くなって、歯を食いしばった。
……帰りたいとか、思ってないわけじゃない。
……けど、考えても意味ないよな。
目の前の火が、ただ現実っぽすぎて。
「……俺、こう見えてもさ、一応、普通に暮らしてたんだよな」
思わず、火の揺らぎに向かって呟く。
「“普通”とは?」
「朝起きて、電車乗って、働いて、帰って……まあ、そこそこ適当に」
……がむしゃらに何かしてたわけじゃないけどさ。
それでも、ああいう場所にいれば、いつかは馴染めると思ってた。
……思ってたんだけどな。
ザズはこくりと小さく首をかしげる。
「なるほど。おそらくこちらとは、都市構造も文化設計も大きく異なる世界ですね」
「……やっぱ……異世界なんだな、ここ」
「はい。“不思議粒子”が観測できる時点で、確定です。あなたの世界では未発見のはずです」
「粒子の話で異世界認定される世界って、すごいな……」
虫の音が遠くから聞こえていた。火の温度が、手のひらにしみる。
「なあ、ちょっと変なこと聞くけど……俺、なんでここにいるんだ?」
ザズは少し間を置いてから答える。
「私のログによれば、あなたは“出現した”状態でした。転送とも転生とも異なる現象です。
しかも……あなたを観測した瞬間、私の一部メモリが破損しました」
「……俺のせい?」
「たぶん、異なる世界の情報負荷ですね。あなた、想定外すぎました」
「……つまり?」
「ドラえもんにWindowsをインストールしたような事故です」
「……俺の思い出、もうちょっと丁寧に扱ってくんない?」
言い返したところで、眠気が波のように押し寄せる。もう、どうでもよくなって、地面に転がる。
「……明日になっても、夢じゃなかったら……その時は、ちゃんと覚悟決めるよ」
ザズはわずかに表情を和らげ――たように、見えた。
「では、ゆっくりお休みください。可能な範囲で、監視は続けますので」
目を閉じる直前、森の奥で、小枝がぱきりと折れる音がした。
「……さっき悪魔に使ったスキルは、もう使えないのか?」
「“再演算プロトコル”には冷却期間が必要です。次に現れた場合、初動対応は困難になる可能性があります」
それだけ言うと、ザズは再び静かになった。
冷たく正確な声だった。
でも、そんな言葉にすがってしまっていた。
……いやだな。
火のはぜる音か、遠くのフクロウか──
不安と、疲労と、火のぬくもりが、ぐちゃぐちゃに混ざったまま、意識が、深い水の底へと落ちていくようだった。