第一章 第1話 「無双するのはAIで、震えてるのが俺」
「うわっ!?」
洞窟の出口を抜けた瞬間、足元がなくなった。
地面が、途切れていた。
崖。それも、ビル五階ぶんはあろうかという高さだ。
思わず踏み出しかけた足を、慌てて引っ込める。
「いや、怖すぎだろ……!」
膝が震えた。その背中に、ザズの無機質な声が届く。
「悠真さん、こちらをご覧ください。本日、奉納塔がよく見えます」
「いまは足元を見させてくれ……!」
そう言ったはずだった。
でもなぜか、気づけば空を見上げていた。
そして、見た。
──視界が、持っていかれていたことを、あとから理解した。
「……は?」
遥か視線の先、空の向こう。
雲を突き抜け、地平の彼方に、それは”立っていた”。
塔。
……もはや、もう塔と呼んでいいのかどうかも怪しい。
地表から、雲の層、そしてそのさらに上まで。
ひとつの線で、大気を貫いている。
まるで、世界を上下に縫い止める“針”だった。
それが、動かず、揺れず、ただそこに立っていた。
呼吸を忘れる。
はるか遠くにあるはずなのに、目の前にあるような。
月を見上げるときみたいに、その大きさをうまく掴めなかった。
そしてその最上部。空の上、さらにその上。
球体が、空の上に浮かんでいた。──なんの支えもなく。
形が定まらない。色も輪郭も曖昧で、見れば見るほど、意識が吸い込まれそうになる。
空に空いた“眼”──そんな印象だった。
「……なんだよ、あれ……」
「奉納塔と呼ばれています。この世界の神、アイオーンに通じる架け橋──と、信じられているようです」
「神、って……マジで?」
「“神”という語義には幅がありますが、少なくともこの文明では、そう解釈されてきたようです」
ザズの声は、相変わらず淡々としている。
理屈で割り切ったようなその言葉が、あまりにも飲み込めなかった。
何が起きているのか、まだわかっていないのは――俺だけなんじゃないか。
その言葉を口にしようとするだけで、意識が遠のいた。
「……神ってなんだよ? なぁ、ここって──」
風が止んだ気がした。
そのときだった。
耳の奥を、かき回されるようなノイズ──。
電波? 金属? 獣の悲鳴?
言葉にならない、耳を裂くような音が、空気ごとひしゃげて流れ込んできた。
「……な、なに今の!?」
「解析中。あー……やっぱりちょっと嫌な予感がします。早めに移動した方が良さそうです」
「そういうのは先に言えって!!」
咄嗟に逃げようとしたその瞬間、逃げ道がないことに気づいた。
崖。岩壁。切り立った地形。進めない、戻れない。
そして――音の方から、何かが“這い寄って”くる気配。
「これ、詰んだんじゃね……?」
本能が告げる。これは、ピンチだ。
崖の下から、風が吹き上げてきた。
……風じゃない。
“音”だ。
悲鳴をかき混ぜた“音”が、這い上がってきていた。
「《叫ぶ霧》、ですね。早めに逃げましょう」
「これ、霧なのかよ!?」
視線を落とすと、崖の下で、生きてるみたいに霧が動いていた。
粒子がもやもやと揺れて、時折、人の形にも見える。
「っ……あれに、飲まれたら……!」
「分析不能ですが、悪魔と呼ばれる存在です。人体への好影響は期待できません」
「悪魔!?」
叫びながら後ずさったそのとき、ザズがすっと俺の前に出てきた。
「では、飛び降りましょう。」
「飛び…!? 待っ、おい!!」
抱えられた。
細い体に見えたのに、軽々と俺を持ち上げている。
「不安な表情ですね。わかります」
「何がわかるんだよ!」
「落下時の人間の不安値は、体重×高度×自意識過剰度に比例すると掲示板に書かれて──あ、余計でしたね」
「余計すぎるわバカかお前ええええええ!!」
その叫びが終わる前に、重力がひっくり返った。
世界が、真下に滑り落ちていった。
風が肌を削る。
視界がぐるぐる回る。
落ちている。とんでもない速度で。
「スキル:≪ワイバーン≫、発動します」
「スキル!? 飛べるのか!?」
「いえ。“ワイバーン”とは、厳密には“滑空型飛行模倣体”です。垂直上昇力はありません」
「飛べねぇのかよ!!」
一瞬、浮いた。
ザズの背中から展開された、まるで骨と光の羽のようなものが、空を切る。
だが上昇はしない。真下への落下に、わずかな“制御”が加わっただけ。
「っく、うわあああ!!」
「落ち着いてください。感情値が跳ね上がってます」
「落ち着けるかァァ!!」
遠くから、地面が迫る。
「着地します。失敗したら、原因はあなたの重心移動です」
「なんで俺のせいなんだよ!?」
地面すれすれで、スレスレに滑空。
ザズの足が地面を蹴り、転がるようにしてブレーキがかかる。
土煙が巻き、ようやく停止した。
「……あぶな……」
「ふぅ。人体の柔軟性に感謝です」
「もう、今日、2回くらい死んだ気がする……」
けれど、息をつく間もなかった。
目の前の木々が、吹き飛んだ。
ザザザッ、と土が削れ、空気がビリビリと震えだす。
「よくないですね。この悪魔が町に到達したときに予測される平均損壊率は18.7%です」
「よくわかんねぇよ! 体感で言ってくれ体感で!!」
「体感:かなりやばいです」
「よくわかったよ!!」
空が揺れる。大気が重い。
……近づいてきてる。
叫ぶ霧。さっき崖下にいたそれが、風に乗って地面を這い、地形すらねじ曲げながら、這い寄ってきていた。
「おいおい、こっちに来るのかよぉ……!」
「収束信号を試してみます」
ザズが手を掲げる。
彼(彼女?)の掌から、光の帯が放たれる。音はない。ただ、まっすぐ、宙に吸い込まれる。
「あっ、うまくいきましたね」
「は?」
叫ぶ霧が──止まった。
わずかに歪んだ空気が、光を透かし、崩れるように“消えた”。
風も。
揺れも。
あの耳をつんざく音も、もうない。
世界が、しん……と静まりかえる。
「討伐……成功、です。悪魔の“消滅”という報告例は、過去に存在しません。
前代未聞ですよ、悠真さん。英雄になれますね」
ザズの声は、いつも通り。
笑うような軽さで。
まるで俺が、何か偉業を成し遂げたかのように。
「……いや、俺は……震えてただけなんだが……」
口から漏れる掠れた声が、誰のものかも、わからなかった。
乾いた風が、頬を撫でていった。