「タナトス」 第一章:トマトジュースと“死の神”
人生に挫折したことはない。
なぜなら、挑戦すらしたことがないからだ。
部屋のカーテンは二年前から閉じたまま。
世間が愛する“太陽”とは絶縁して、730日と少々。
敷きっぱなしの布団はひっくり返すのも怖い。
ろそろ“地雷”認定されそうなそれに、今日も寝そべってスマホと睨めっこ。
「生きることに、意味などない」
そして、ポチ。
今日もSNSに「死にたい」とつぶやく人へ、神妙なリプを送る。
《その願い、私が寄り添いましょう》
──名前: “Th@n@tos_†本物”。
誰がどう見てもイタい。痛すぎる。
けれど、本人は本気。だからこそ余計にタチが悪い。
しばらくして返事が来る。
《え、誰? 怖すぎ 通報するわ》
「ふぅ……また、生を与えてしまった」
悲しげにため息をつきながら呟く。
“死の神”として人を導くはずの自分が、生きる意味を押しつけてしまうとは──。
「やはり俺は…死そのものではない。“死”の擬態に過ぎぬ偽りの存在か…?」
そんな痛すぎる“闇の自己分析”をしていた彼だが、今日は外出しなければならない。
目的はただ一つ。
トマトジュースを買いに。
「赤き液体…血のごとき果実の精髄…今宵も飲み干してやろう」
近所の24時間営業のスーパーで98円セールの紙パックを3本買い、誇らしげに帰る途中──
ドンッ! バァンッ!!
道路を挟んだ向かいで、衝突音が響いた。車がぐしゃりとひしゃげ、煙があがっている。
子どもが一人、道路脇に転がっていた。
彼はぼそっと呟いた。
「…またか」
彼はこれまでも幾度となく死の現場を見てきた。祖父の死。祖母の死。そして、小学生の頃飼っていた愛犬のヒョードル。そんな死を見てきたからこそ、自分自身がタナトスの生まれ代わりであると信じて疑わなかった。
とっさに駆け寄ると、幼い女の子が震えていた。顔に血、手がかすかに動く。
「…父親と母親は、もう…」
生きていないと察するには、十分すぎる状況だった。
彼はしゃがみ込み、冷たい声で尋ねた。
「…君は、彼らと一緒に逝きたいのか?」
女の子は泣きながら首を縦に振った。
「パパとママと…ずっといっしょが、いい…」
彼は、そっと目を閉じ、少女にそっと囁くように言った。
「なるほど…そうか……」
「……」
…で?
殺せるわけがない。
包丁も持ってないし、そもそも殺人は人として駄目だ。
厨二病でも常識くらいある。
「いや、その…えっと…すまん…」
女の子を抱きしめるわけにもいかず、説得するわけにもいかず、なぜかその場で“それっぽいポーズ”をとる。
「命とは…えーっと、運命の悪戯…いやえーっと、儚き螺旋の、ちがうな…えーと…」
泣いていた女の子はその訳の分からない謎ポエムを前に呆れて泣き止んだ。一時の“悲しみ”という感情は飛んでいったのだろう。
やがて救急隊と警察が来て、女の子は保護され、彼は「付き添い人」として病院まで同行する羽目になる。
なんやかんや事情を聴かれるが、一切なにも知らない彼は必要なしと判断され、即座に開放された。
うっすらと空は明るくなりつつあった。
そして、その日は静かに終わる。
部屋に戻り、トマトジュースを飲み干しながら、彼は思った。
「……あの子。生きてて、ほしいな」
数日後。
外はじめじめとした梅雨空。
彼は例によって布団に寝そべりでSNSを巡回していた。
“死にたい”とつぶやく者は日々変わるが、その言葉に飽きることはない。
「死にたい…死にたい…死に…ふむ」
彼はふと、あの女の子のことを思い出した。
事故の後、警察に軽く事情を聞かれ、病院に付き添ったきり。
連絡も何もないが、ニュースで名前だけは見かけた。
【通り魔事件。幼い命を奪った卑劣な犯行。被害者は事故で両親を亡くしたばかりの──】
その文面を見た瞬間、脳の奥が“キュッ”と鳴った。
「………………は?」
読み返す。三回。いや四回。間違いない。
「………え?」
背筋がじっとりと冷える。
「………えぇ……?」
彼は布団の中で硬直したまま、放心する。
言葉が、出ない。
叫ぶべきか、泣くべきか、怒るべきか。
どれを選んでも彼の中では“厨二病っぽくない”気がして、何もできなかった。
そして──
バンッ!!
突然、クローゼットが開いた。
「ど~~もぉ~~~~~~!」
目をまん丸にビクっクローゼットの方向に目をやる。
本当に驚いた時、声も出ないと実感するにはやや時間がかかった。
派手な登場音と共に、テンションMAXの黒スーツの男が現れた。
スーツは着崩れもなく、手にはタブレットを抱えている。髪型もしっかりと決まり、いかにも仕事ができそうな男だった。
「……は?え?誰?何?」
彼はフリーズする。
男は勝手に室内に踏み込み、どかっと布団の端に腰かけた。
「やあやあ、ついにお会いしましたねぇ!」
「…だ、誰?」
「やだなぁ、初めましてじゃないじゃ~~ん! ……って、初めましてか!」
「…は?」
「いやさ~、いつも俺の名前かたって変な活動してるじゃん?“死にたい人に寄り添う”とか、“我こそ死神”とか、“タナトス様の化身”とかさァ~~」
「……え、なんでそれを」
「やめてくんない!? 迷惑だから!! 俺、そんな地味なボランティアやってないの!!」
「…地味?」
「地味だろ、めちゃくちゃ地味!! しかもお前さ~、勝手に“生きる希望”とか与えちゃってんの!!」
「…………いや、あれは“死の導き”のつもりで」
「めっちゃ間違ってんのよ!!」
男は名刺を取り出した。差し出してきたので受け取る。
TAMATOS(職業:死の管理担当、エリア7-G)
「……タ、タマトス…?」
「印刷ミスなんだよ!!! 本当は“タナトス”だから!! いや、マジで恥ずかしいったらありゃしない」
「……そんなの、本当にいる?」
「いるんだよォ~~!! 死ってのはね! システムで動いてんの!! 神話とかの時代と違って今はね、人手が足りてないの!!」
「人手…足りてない……?」
「そう!でね、お前みたいな中途半端な“死モドキ”が勝手に動いてると困るわけ! ルール的に!!」
「……俺は、死の体現者……タナトスの生まれ変わり……」
「違います!!!」
「……ぐっ……!」
ズバリ否定されて、彼の中二心バッキバキに折れた。
「でもまぁさ、実際お前のおかげで“生きたい”って人、何人か出てんのよ。意外と善行してんの」
「…………」
「だからね、今回ちょっとお礼がてら──いや、“警告”がてら来たの」
「け、警告……?」
「そう。お前、このままだと──」
“ほんとの死”に、巻き込まれるよ?
男──タナトスは、不意に声のトーンを下げて言った。
室内の空気が一瞬で冷え込む。
「ふざけてるようで、ふざけてないってことも……あるんだよね~~~!」
再び軽くなった口調で、彼は頭をぽんぽんと叩いた。
「じゃ、また来るわ! もしくは、迎えに来るわ!」
「あっ!そうそう、君さ本当の名前はなんて言うの?一応さ、聞いてくるように頼まれたのよ。」
「名乗る名などとっくの昔に捨て…」
「だ~か~ら~!そういう寒いのって。マジで引いてるの分からない?友達いる?多分いないよねぇ。俺が友達になってあげるから、ほら早く言いなって。」
「…ヒノ、ヒノ……ヨウヘ・・・イ」
「ふぅ~ん、ヨウヘイ君ねぇ。漢字は?どんな字よ?」
「日本の“日”、野原の“野”。太陽の“陽”にたいら。」
「日・野・陽・平…」
「日野陽平っていうの君!?」
「!!!!!って!ひゃ~~~っはっはっはっはっは!!あっはっはっは…ゴホッ!ウェッホッ!!ヒュ~・・・フ…。ハッハッハハァハァ・・・!!!!」
タナトスが床に転がって笑い始めた。かつてこれほどの爆笑を陽平は見たことがない。もちろん実力で笑いを取った事もない。しかし、この笑いの意味は分かる。侮辱的な笑いだ。明らかに名前を聞いて笑っているこの男に対し、敵意をむき出しに睨んだ。
「いやぁ、ごめんごめん。ごめんティッシュちょうだい…」
泣きむせぶ程笑うって……。
涙をぬぐいながら、タナトスはようやく息を整えた。
「君さ、こんなにも名前負けする事ってある?そこまでよ?日野でしょ?陽平。うんそんな珍しくないじゃん。だけどさ、君のキャラと相まってまさに“完敗”してるね。」
「はぁ、疲れた。」
タナトスは少しやつれた様な感じで言葉をつなげた。
「ほら君の気味の悪い活動、ずっと見ていたけどさ、名乗る事なんてなかったじゃん。接点ないし。親からも諦められてるし。名前すら呼んでくれないじゃん。」
親の事は正直言ってほしくなかった。迷惑をかけているという自覚もある。親が起きている時間はひたすら息を殺して寝るかこの布団の上にいる。逆に親が寝静まった時間に多少の外出をする程度。スーパーも24時間やっているとこしか行かない。だってコンビニは陽キャの奴らがたまにいるじゃん。特にそんな時間は。深夜のスーパーは良い。誰も俺に興味もなく、セルフレジを通すだけ。ただそれだけで外出が終わる。一回社会との断絶を選択した以上、親に会わせる顔もない。
「
「まぁ!またね陽平君!」
言うなり、タナトスはクローゼットにダイブ。
バタン。
クローゼットは静かに閉まった。
沈黙。
陽平はしばらくの間、床に落ちた「TAMATOS名刺」を見つめ続けていた。
「…………なんだったんだ、今の」
だが、部屋には“かすかに”残った黒スーツの香水の香りが異様な余韻が残っていた。
土足の足跡は“くっきり”と。
「……死の神って、もっと神秘的だと思ってたのに……」
──でも、また来るらしい。
彼の静かな日常が、静かじゃなくなるのも、そう遠くなさそうだった。
バンッ!!
「あっ、そうそう!ちなみに俺、紀元前生まれね。つまりめちゃくちゃ年上。陽平君、言いたい事分かる?」
「……タ、タナトス…さん……?」
「は~いよくできましたぁ!」
バタン。