チーズ : 今のうち
「梅酒ロックと、トマトのチーズ焼き。お願いします!」
長い黒髪を耳にかけながら、佐倉先輩は関西訛りで、元気よく追加注文をする。
二年前、俺が初めて部活の飲み会に行ったときからそうだった。佐倉先輩は、よく飲んでよく食べる。そして大体、梅酒ロックとチーズ料理を注文する。
「佐倉先輩、チーズ好きっすよね」
俺はさりげなくそう言ってみる。ほんとは、先輩のことをよく知ってるんだとアピールするつもりで。それと、一、二年の後輩たちにマウントを取る意味も、なくはなかった。
「うん、大好物やねん。家でもグラタンとかチーズ入りオムレツとか、そういうんばっかり作ってる」
「彼氏さんに作ってあげたりするんですか?」
二年の女子が問いかける。
少し気持ちが重くなる。先輩の彼氏の話は、あまり聞きたくない。
「それがな。圭吾、チーズ苦手やねん。だから、一緒におるときは食べられへん」
「えー、困っちゃいますね。好きなの食べれないのは」
そう言いながら、二年女子はカシオレの入ったコップを両手で持つ。あざといなあ、と思う。
「でもほら。私、基本なんでも好きやし。好み合わへんのもチーズくらいやから、全然平気やで」
佐倉先輩は、レモンサワーのジョッキを片手でグビっと飲み干す。先輩の自然体なその感じが、やっぱりいいなと思う。
だけど、先輩は嘘つきだ。だって全然平気なら、どうしてここで、こんなにチーズばかり食べるんだ。
「先輩の彼氏って、どんな人なんですか?」
一年の女子が尋ねる。入部したばかりの彼女は、先輩の彼氏を見たことがない。
「身長は、私とあまり変わらないかな。色白で、どちらかというとインドアな感じ」
「そういう人がタイプなんですか? なんか意外です」
「ちゃうちゃう。ほんまは背が高くて、外でスポーツしてるような人のんがタイプやねんで。不思議やね」
先輩はチラッと俺を見た。どうして、俺を見るんだろう。
期待なんて、させないでほしい。
「お待たせしました。梅酒ロックと、トマトのチーズ焼きでございます」
店員が、コトン、コトン、とコップと皿を置く。俺はそれを、先輩に手渡す。
「ありがとう。あ、あの、カリカリチーズもお願いします!」
先輩は俺にお礼を言ったあと、店員にまた注文する。
グツグツと音を立てるチーズ焼きから、香ばしい匂いが立ち上っていた。先輩はそれに、嬉しそうに目を細める。
よっぽど、普段からチーズを食べ足りないみたいだと思った。
店で飲んだあと、希望者だけで二次会としてカラオケに行くことになった。
俺は基本二次会には行かないが、佐倉先輩が行くと言ったので参加した。
先輩は、カラオケでもよく飲んだ。きっと、就活のストレスが溜まっているのだ。
それか、彼氏とうまくいっていないのか。
カラオケを出て解散した頃には、もう日付は変わって、終電もなくなっていた。
「佐倉先輩。どうやって帰るんすか?」
「んー? 歩いて帰ろかな」
佐倉先輩は、少しふらふらしているように見えた。
「俺、送って行きますよ」
「大丈夫大丈夫。川沿い歩いていけば着くし」
そう言いながら、先輩は歩き始めた。俺は、その横に並んで歩き始める。
「でも、夜遅いし。先輩、ふらついてるし」
「ほんまに大丈夫やって。黒田くん、方向逆やろ?」
先輩は、ふにゃっと笑う。どこか少し、申し訳なさそうに。
「迷惑ですか?」
「そんなんちゃうけど」
「なら、送って行きます。心配なんで」
「……そう。ありがとう」
先輩は、観念したように言った。
もしかしたら、分かっているのかもしれない。俺が、先輩のことを好きだって。
夜の川には、別世界に来たような美しさがあった。意外にも人がいる。大体が、俺たちみたいな飲み会終わりの大学生だろう。
「さっきより、だいぶ足取りしっかりしてますね」
俺は佐倉先輩を見て言う。彼女はさっきと違って、まっすぐ歩いている。
「バレた?」
先輩はイタズラっぽく笑った。
「ほんまは、そこまで酔うてへんねん。けど、酔ったフリしとかんとみんな飲ませてくるから」
「結構飲んでましたけどね、先輩」
「私、お酒には強いねん」
川のせせらぎが、心地よい。少し冷たい風も。
「こんな遅くまで飲むのは、圭吾さん、怒らないんですか?」
俺が問いかけると、佐倉先輩は少し困ったような顔をした。
「バレたらきっと怒られる。飲み会自体、あんまり行ってほしくないっぽくて。心配なんやろうね」
「それでも佐倉さん、大体来ますよね。飲み会好きなんすね」
「こういうことできるの、今のうちだけやから。大学卒業して同棲始めたら、きっともうできひん」
「相変わらず、仲良いんですね。付き合って五年目とかですか?」
「そやね。ついこないだ、四年記念日やってん」
四年記念日。その響きは羨ましくて、恨めしい。だって四年前は、俺はまだ、先輩に出会ってすらいないのに。
「結婚とか、するんすか」
「たぶん、するんやと思うよ。特に何もなければ」
佐倉先輩は、当たり前のように答える。彼氏との未来を、もう見据えている。
「そうすか」
俺たちは歩く。黙って歩く。
歩道を照らす街灯がぽつぽつと続いていて、その下を時折、夜の風がさらりと通る。
「……好きです」
俺は、沈黙を破るようにそう言った。先輩は、何も言わない。
「俺、先輩のこと、好きです」
俺はもう一度、言う。
「……うん、知ってる」
先輩はそう言った。
「なんで、彼氏いるんすか」
つい、口調がキツくなってしまう。
「高校で、出会ってしまったからね」
「高校からなんて、そんなの、最初から俺にはチャンスないじゃないですか」
もはや八つ当たりのようなものだった。違う。こんなこと、言いたいわけじゃないのに。
「……残酷やな」
先輩は、申し訳なさそうにそう言った。
俺は、深呼吸した。今しか、言えないと思った。
「俺、チーズ好きっすよ」
「うん、知ってる」
「飲み会も、いくらでも行ってもらって大丈夫っすよ。心配なら、俺が送り迎えしますし」
「うん」
「だから……だから、俺にしませんか。俺の、彼女になりませんか」
俺は佐倉先輩を見る。いつも目を合わせてくれる先輩は、顔をあげてくれなかった。
「ならへんよ」
「なんでですか。さっき言ってた佐倉さんのタイプ、俺まんまじゃないですか。だったら、俺の方がいいじゃないですか。チーズが好きで、束縛もしない、俺の方が」
「確かに、黒田くんは私のタイプ。カッコええなっていつも思ってるし、優しくて真面目な性格もめっちゃ好み。やけどね」
先輩は、やっと顔を上げた。
「四年も付き合ってるのには、やっぱり理由があんねん。笑いのツボが合ったり、抱きしめた時にしっくりきたり、首筋の匂いが好きだったり。そういう一つ一つが、他の嫌なことを上回ってるんよ」
「だけどそれは、付き合ったから分かることでしょう? もしかしたら、俺だって付き合ったら……」
俺は先輩の話を遮るように言った。だけど、先輩は首を振る。
「私はきっと、ちゃんと圭吾のことが好きなんや。だって今、黒田くんに告白されても、一ミリも圭吾と別れようなんて考えてへんもん」
胸がギュッと締め付けられた。分かってたのに。俺の気持ちは届かないって、ずっと。
「でも、ありがとう。嬉しかったよ、ほんまに」
先輩は控えめに微笑む。
本当は、大学ではサークルに入るつもりだった。でも、部活のテニスコートに立つ先輩を見て、そのプレーを見て、一目惚れをしてしまった。
この部活に入るしかないと思った。佐倉先輩に、近づくために。
彼氏がいるなんて知ってたら、こんなに近づかなくて済んだのに。
憧れのまま、こんなに好きにならずに済んだのに。
「ここまでで大丈夫。もう、すぐそこやから」
先輩は立ち止まり、そう言った。俺は両手を握りしめ、それから、笑って見せた。
「佐倉先輩。また、来てくださいね。部活も、飲み会も」
「うん。就活落ち着いたら、また行くわ」
先輩はそう言って、背を向けた。
先輩が卒業するまで、あと十ヶ月。たくさん飲み会を計画しよう。チーズが美味しい居酒屋を調べよう。
彼女が、今のうちにしかできないことをできるように。
心置きなく、彼氏と新生活を始められるように。
俺ができる最後の“好き”の形が、それなんだと思うから。