第3話 ダムと幽霊さん
抗呪術エンジニアの助手にしてIT部門の失葉が、彼らしくもないほど唖然として見開いた目で、エンジニアその人である安倍晴明の顔を見つめていた。
「あ、安全標語……っすか」
「うん。ほら、ウチは仮にもエンジニアってことでしょう? だからね、そういうの、あった方がいいかなぁってねぇ」
時は冬。枯葉と晴天の季節で、風邪と確定申告が怖い時期だ。
ところは事務所。貧相な風景……ではなく、豪華絢爛な絶景……でもなく、特筆するべき点が何もない、ただの事務所だ。中年である以外に特筆できない外見である安倍と同様に。
安倍のデスクは整理が行き届き、直前に四苦八苦していた確定申告に関するページが開かれたノートパソコンとコーヒーが一杯のみ。
失葉のデスクにもノートパソコンがある。他には、読みかけた漫画や、なにか不明な組み立て中らしき機械が散乱しているばかりだ。
失葉がロクに仕事をしていないように見えるが、その実、安倍はパソコンに苦戦していて仕事が終わらず、失葉は当てられた仕事をあっという間に済ませて暇になっているのだった。
しかし安倍を手伝うことはない。安倍が嫌いなのではなく、こういうことを手伝うと、今後それを仕事として任されるだろうことを危惧してのことだ。助けるほど自分の首を絞める羽目になるのはごめんだった。
「いや、別によくないですか? なんの事故に気を付けるんすか」
「呪術のなにか……だねぇ」
「なにかって」
「うぅ〜ん。そこですよねぇ。昔は色々失敗したはずなのに、こういうときに思い出せないんだもの」
なにも決めずの見切り発車。呪術のことならこれ以上にないほど頼れるというのに、それ以外だとこの通りだ。
失葉は安倍から色々と学んでいた。どんな素晴らしい偉人でも、専門外のことはただの凡人であるということも。
「なにか失敗したら、それに気を付けようってできるんだけどね〜」
「じゃあ、『行動するとロクなことにならない』とか」
「こらこら〜……ってね。呪う側ならいいかもしれませんけど、こっちは呪われた人サイドのお仕事ですからね」
「安倍さんはどうなんすか」
「思いつかないねぇ……」
「指さし確認、とか?」
「ヨシ! ってヤツね? 駅員さんがやってるやつだ。でも、呪術でか〜……」
聞くだけ聞いて文句しか言わないじゃん。と失葉は思い思い、両手を後頭部で組んで、椅子によりかかった。
「そーゆー指さし確認も、集中するのにやると思いますけどね」
「うーん。じゃあ『人を呪わば指さしヨシ!』とか」
失葉は咳き込むところだった。あれを真剣に言っているのだから、恐ろしいものだ。
「そんな指さしに拘んなくてもいいんじゃないっすか?」
「いやいや、対面だとかなーり強力なんですよ? あれって。自分が集中するだけでなく、相手に集中させられるのがいい」
安倍は腕を組んで、自らの発言にウンウンと頷いた。
「集中、という言葉を使っていますが、やっていることは開門と言ってもいいでしょう。自分が相手に集中するとき、まず自分の門が開いて呪いが飛び出すんです」
「でも、相手からしたら身構えるんじゃないっすか?」
「確かにそうです。でもそれ以上に、相手は『何かやられた!』って思っちゃう。そこが大事なんですね」
安倍は人差し指をピンと立て、失葉へ見せた。
「指をこう、挟んじゃったりしたとき、どうします?」
「どうって……まぁ、絆創膏とか?」
「それより前ですよ。まさに挟んだ瞬間です。その次には『いって〜』とか言って、指を確認するでしょう」
「そりゃ、そうでしょうね」
「そう。その瞬間が、自分の指に集中している状態です。なにかをやられたと思った人は〝自分に集中する〟んですよ。そうさせることが相手の門を開いてしまうことであって、呪いがそこからスルスル〜っと入っちゃうんですねぇ」
失葉は「ん?」と鼻を鳴らし、天井を見上げた。
「それって、『食らったと思った』から、呪いを食らうってことっすか?」
「そうそう。怖がるほど霊が寄るだなんて、言うでしょう?」
「へ〜。あれ、でも青井さんだったかの時は、安倍さん知らぬ間に呪ってましたよね。ってか、祝ってか」
呪いと祝いは共に同じ『呪い』であり、悪いものなら呪いで、善いものなら祝いと呼ばれる違いしかないそうだ。
それを教えてくれた安倍は、ちょっと照れくさそうにしていた。
「知らぬ間にって言っても……うん。まぁ、ぼくはね?」
「えぇ……」
やはり呪術の話では頼れるものだ。
「しかし失葉くん。この話を知らずに、どうやって追跡アプリなんて作れたの? 呪術に詳しくたって、スマホで何かしようなんて難しいって思うけれど……」
「呪いに特有の値を探しただけっす。温度はどうだ、磁気はどうだって色々調べてると、見つかるんすよ。結局は精神も物理なんで、物理的に干渉できた以上は何かが起こるんです」
「ほぉ〜。こう、『ここだけ寒いから呪いがあるっ』みたいな? でも、どうしてアプリにしようって? ぼくのような古い人間だとどうしても、ほら、エマニュエルにしちゃいたいといいますか」
「マニュアルっすね。なんか、あんま詳しくないオレが言うのもなんすけど、人間がやる呪術って機械の方が得意なんじゃないかって思ってるんすよ」
「そうなの? どうしてですか?」
「機械は簡単なことしかできないからっすね。難しい機械だって、簡単な処理の組み合わせなんすよ。レンズは見ることしかできないし、マイクは聞くことしかできない。見たものを記録する装置や、聞いたものを解釈する装置と組み合わせて、やっと意味があるんです。その装置だって、結局は簡単なものの組み合わせっすよ」
「そうなんだ……。スマホとかって、じゃあ、なんだろうな……1+1だけで出来てるみたいなことですか?」
「まさにそうっすね。で、呪術って、簡単なことしかやっちゃいけない《・・・・》ことが多いじゃないっすか。相手を思い続けるとか。そこに、他のことを考えたりとか難しいことをやっちゃうと逆にダメ。っすよね」
「その通りですね。できれば少しも邪念が入っちゃいけない」
「機械には、邪念がないんです。人間が意図的に作らない限りは。裏を返せば少しも融通がきかないってことですけどね」
すると安倍が、ふと真剣な表情になった。
「それって――呪いを作れるマシンが作れるってこと?」
「どうなんすかね……。呪いのメカニズムが解明されちゃったら、そうなるかもしれないっす」
「じゃあ、呪術のターミネーターだ。呪術……ジュージュネーター……」
最優先で考えるものが、もじりなのか。と失葉は天井を仰ぎそうだった。
「う〜んこわい。それなら原理的に、呪いじゃなくて、祝いを世界中にぶち撒けるマシンとか――――」
そのとき、ふと、安倍の仕事用のスマホが鳴った。仕事開始の音楽。安倍はドラマみたいなこんな瞬間が好きだった。
失葉が上着を取りに行くのと、安倍が電話に出るのは同時だった。
「はい……はい、分かりました。場所は……はい。緊急ですね。すぐ向かいます」
「タクシーっすね?」
失葉が言うと、スマホを耳に当てたままの安倍が細かく頷いた。
現場へはタクシーを使った。急ぎ目で、と安倍がオーダーすると、安倍くらいの中年が露骨に嫌そうな顔をした。
「あのダムに急ぎねぇ……。イヤですよォ? 送ったあとで警察のお世話になるの……」
「あ、私たちじゃなくて、今にも飛び込みそうな人がいるそうなんです」
「えっ! それこそ警察では!?」
「急いでください! アクセル!」
「は、はいぃ……」
タクシーは飛ぶ勢いでダムへ向かう。途中で警察に止められないか、不安なくらいだった。
果たして足止めを食らうことなく、ダムの入口まで来た。いつもにない真剣な表情で財布を取り出す安倍だったが、ふと、顔がこわばった。
「な、なんすか? お金忘れたとか言わないでくださいよ?」
「……お金はあります。とりあえず渡すのでお釣りは後でで。ドア開けてください」
らしくもなく安倍が紙幣を押し付けるようにして、運転手が開けるのとほとんど同時に外へ飛び出した。失葉も転がるように出て、登坂で安倍の背を追う。
「どうしたんすか一体」
「強烈な呪いを感じたんです。ダムは残念なことに、幽霊が多いところです。なので呪術に覚えがあれば、呪いを色濃く感じてしまうイヤなところでもあります」
いつかの安倍の話では、幽霊とは人という器から零れた呪いなのだという。
「それだけじゃないって感じっすね」
「ええ。今までの中でも五本の指に入りそうな、とんでもない呪詛ですよ。ただ、強力な『祝い』もあるので、恐らく……」
「さっき電話してきた人っすか?」
呪術の世界に来て短いとはいえ、推理で分かる事だった。
緊急の段階で呪術師の安倍に電話をしたということは、同じく呪術に覚えのある者だ。呪いに対抗しようと祝いで打ち消そうとしたが、一人ではどうしようもできないと判断して助けを仰いだのだろう。
「たぶん、そうです。馴染みの、サメ神社の神主さんですよ」
呪術のことだというのに、安倍はなぜか歯切れが悪い。珍しいこともあるなと失葉は思った。
「あぁ。あの。道具もない時に出くわしちゃったんすね、きっと」
神社における呪い――神道では『穢』として解釈されるもの――の対策方法は、大麻と呼ばれる道具などを用いた祓いと、主に水を用いた禊の二種類に大別される。そしてサメ神社においては禊に重点を置き、人型に呪いを移して川や海へ流す儀式を行っている。
つまり、じかに人の呪いと干渉する呪術エンジニアの安倍とは対応の仕方が違うのだ。安倍たちが心霊写真を神社へ託すのと同様に、神主も安倍を頼ることは珍しくない。
安倍は少し息を切らせるほどの早歩きを、急に緩めた。何かと思えば、向かい合う二人がいた。ひとりは洋服なので分かりづらいが例の神主だ。
そして、遠い水面を背にして柵に腰掛けた男が一人。遠くとも、失葉でさえ呪いを感じてしまいそうな暗い雰囲気を纏っているのが分かる。
「きっと、途方もなく我慢強い人なんですね。人に耐えられるとは思えない呪いを背負ってるなんて」
「誰がそんなものを……?」
「あれは、自分で作ってしまったものですよ」
「自分で……?」
刺激しないよう、できる限りゆっくりと近づく。まるで通り過ぎるなんでもない人のように。いま彼は地面ばかりを見つめているが、不意に目が合うのはよくない。
飛び降りそうな人がいるとき、自分に無関係な人間がいるときはやめておこうと思い留まり、自分のために来た人がいれば『人が増える前に』と早まった決心をつけてしまうことを、安倍は知っていた。故に正体は、不意打ちで明かすのがよい。
「負の感情があり過ぎれば、呪いにすると決めずとも成ってしまいます。成ったために起こった不調が悪い感情を生み、また、成る」
「呪いの悪循環……ってことっすか」
「その通りです。コホン……吉田さん!」
安倍はまず、神主にいつも通りの挨拶をした。
すると彼は、ちらりと安倍を見て、また淵の男に目を向け直した。認識し続けなければ、ふと、本当にふと目を離した隙に落ちてしまうことがある。それを知ってのことだろう。
相手を肯定し、寄り添い、否定してはならない。まるで警察の交渉人かなにかのような知識がついてしまうのもまた、呪いに関連深い職業の特徴であった。
「安倍さん。来てくださいましたか」
「えぇ、えぇ。それで、この方は?」
そう言うと、初めて地面を見つめていた顔が上げられた。ただ無言で、安倍を見つめている。
「どうもどうも。きっと初めましてですよね?」
人畜無害の顔で、ペコりと一礼した。
「安倍晴明と申します。このね、吉田さんにお呼ばれして来ました。どうです? お名前を伺ってもいいでしょうか?」
「…………」
返事は長めに待つ。多くの場合、生きる気力を失った上で、最後の気力を振り絞ってここまで来ている。返事ひとつするのにも時間がかかるのだ。それを一方的に喋ると『もういいや』と興味を無くされてしまう。
呪術師的には、この無言の時間で『祝い』を施してしまえる機会でもある。間を大事にせねばならない。
「……尾竹……」
「尾竹さんですか。ありがとうございます、教えていただいて。それで、あぁ、難しいことを聞いてしまうかもしれませんが、どうでしょう? どうして飛び降りようって決断したのですか? なにか、きっかけがあったとか……」
「…………」
まず、こういう状況まで陥ってしまった場合、決して『呪いのせいである』とは言ってはならない。相手としては自分の感情で死を選ぼうとしている――というか、呪いの原因が自分であれば全くその通りなのだが――ため、それを外的な要因のせいだと言ってしまうと、相手の行動を否定してしまうことになる。
さらに、世の中において呪術は、主に詐欺で騙られるものであって、本当にあるとは信じられていない。自分がまさに死のうという時、インチキ霊能者を呼ばれたとすれば、憤慨して見せしめに飛んでしまう。
わずかに、彼の肩が降りてきた。祝いが効いているようだ。
「……亜美が……」
彼は、いったい何度流したかも分からない涙を湛えた。
「…………恋人……だったんです……。長くないって……知ってたのに…………」
安倍は頷いていた。恋人だった。長くないと知っていた、そういう言い方をしたということは、きっと亡くなったのだろう。その覚悟は出来ていたはずなのに……と言葉が続くのは容易に想像できた。
「もしかして、亜美さんは……?」
尾竹はごく小さく、細かく頷いた。
「あぁ、そんな最悪なことが……。どれほど深く傷ついたか想像もできません」
「…………」
彼はまた、地面を見つめた。その隙にと、失葉がごく小さな声で後ろから安倍に囁いた。
(安倍さん。幽霊が多いなら、かなりヤバいんじゃないっすか)
(えぇ。そういう意味でも、ダムは危険な場所ですよ)
(カメラ、あります)
安倍は目前の男を見つめる。水面は遠いが、ここまで強烈な呪いだと霊が引き寄せられ、尾竹という器に入ってこようとするかもしれない。いつ『引っ張られて』もおかしくない状況だ。
失葉に呪術の感覚は分からないが、道理はなんとなく読めてきていた。
(分かりました。少し遠くからお願いします)
失葉がそっと離れていく。足音すら聞こえないよう、そっと忍んで道を戻っていく。
「それはいつのことですか?」
「……二ヶ月前です」
「二ヶ月。二ヶ月もその痛みに耐え続けたんですね――」
話している隙に、シャッター音が聞こえない位置まで移動した。気付かなかったのか、気にしていないのか、尾竹は少しも失葉の方を見なかった。
失葉はカメラを構えた。ファインダーで覗く景色の中心に、尾竹を捉え、シャッターを押した。
失葉のシャッター音は届いていない。
はずだった。
尾竹が目を見開くのと、安倍と吉田が彼へ踏み出したのは同時だった。
重力の方向が変わったように、尾竹の身体が後ろへ倒れていく。その足を、安倍と吉田が捕まえ、抱き着くように引き止めた。
それから、やっと失葉が反応してカメラを取り落としながら駆け出し、尾竹のベルトを掴んだ。冷静に考える暇などなく、頭には『なぜ?』という思いしかなかった。
「無……理……もう無理……!」
「ダメです! 落ち着いてください!」
「耐え……ら……れ……」
「しっかりしてください! 戦って!」
3人がかりで暴れる男を押さえ付け、やっと収まったところで失葉が安倍を見る。
「な、なにが起こったんすか!?」
「祝いの、ほとんどの部分が急に消えたんです!」
「急に消えた――?」
失葉は眉を潜め、それから、ゆっくりと自分の落としたカメラを見た。
「――分かりました。ちょっと、このままで!」
失葉は安倍と吉田に任せて駆け出し、カメラを拾った。
このカメラで対応できるのは、人という器に収まっていない呪いだ。で、あれば……。
カメラのスリットから飛び出ている現像されかけの写真を見て、失葉は頷いた。
走って戻り、その写真を尾竹に見せつける。
「これ、見てください! 知ってますよね! この人のこと!」
柵に座る男を横から撮った景色。それと尾竹の背に手を伸ばしている、女性の姿もあった。
輪郭がハッキリとしすぎていて、もはや幽霊ではなく実在の人間のようだ。しかし柵の向こう側に地面はなく、もちろん立つことなど不可能だ。
「あ、あぁ……! 亜美ぃ……!」
尾竹は顔を歪めた。そしてまた、力を込めた。
「亜美が、きっと亜美が呼んでるんだ! 連れてこうとしてるじゃないか! 離してくれッ!」
「違います! もっとよく見てください!」
「だって――」
「後ろから引っ張ってんじゃないっすよ、後ろから押してんです!」
尾竹は一瞬呆気にとられ、失葉の写真を覗くように見つめた。
「…………亜美……?」
「説明すると長いんすけど、いま、亜美さんの幽霊がこの写真の中にいます。少し時間が過ぎたら、また出てきます」
幽霊は『人から零れた呪い』だという。
呪いと祝いは同じ『呪い』だという。
ならば原理的に、『人から零れた祝い』もまた幽霊になるはずだ。
そしてカメラには、善い幽霊と悪い幽霊を区別できない。
「うぅ……く……」
尾竹は歯を食いしばり、うなだれて、痛みを堪えた。安倍がその背をそっと撫でる。
「亡くなった方が生きてほしいと願ったか、なんてお話がありますけれど、この写真は、亜美さんが間違いなくそう望んでいた証拠、ですね?」
失葉は安倍を見る。いまはどれくらい、尾竹を〝祝って〟いるのか。目に見えず、どれくらい効果があるか第三者から分からない呪術に、ときおりどうしようもなく不安になることがある。
だが、安倍を信じるしかない。
やがてそっと離れた。安倍も、神主も。
尾竹はただただ、「すみません」と言葉を繰り返していた。
「だいぶ、落ち着いてきましたか」
「……はい。……お騒がせ、しました」
尾竹は疲れ切ったように、柵に背をもたれさせて座った。
「もう、大丈夫ですか?」
「……はい。生きようと思います。亜美が、ついてくれているんだから……そうしないと」
「よかったよかった。それで、どうします? タクシーは近くにいますけれど」
「……もう少し休んでから、帰ります」
「分かりました。それと、またひどい気持ちになって困ったなら、ここに」
安倍は名刺を取り出し、尾竹に手渡した。
「……抗呪術エンジニア?」
「分かりやすく言うと、呪術師です。暗い気持ちが固まってできた呪いと、戦う人ですよ。なにか切っ掛けで、また、強すぎる気持ちが襲ってきたら、連絡してくださいね」
「…………はい」
そっと肩に乗せられた安倍の手を見ながら、尾竹は深くうなずいた。こうして全てが済んでから、やっと、安心して自己紹介ができる。そう考えると不思議なものだな、と安倍は思っていた。
「では、吉田さん」
呼ばれた神主は安倍のように優し気に微笑んで、うなずき、尾竹の傍についた。
「それじゃあ、行きますか。失葉くん」
しかし失葉は待ってくださいと写真を取り出し、それに、カメラを向けた。
「それは?」
「幽霊はいつか、写真から出てきます。そしたら消えちゃうんですよ」
そしてシャッターを押した。元の写真を尾竹へと手渡す。
「でも、心霊写真のコピーには影響がない。ずっと、写ったままです」
そしてカメラから出てきた真っ黒な写真を、そのまま尾竹へと渡した。
「これ、元よりは画質悪くなりますけど。……お守りにでも、してください」
「…………ありがとう……ございます」
そして失葉の方がスタスタと、タクシーの方へと向かった。
安倍は改めて二人へ一礼して、少しの小走りで失葉に追いつく。
「ふぅ。道理で、ものすごい呪詛を抱えて生きてこられた訳ですよ。亜美さんが、ずっと守っていてくれてたんですねぇ。守護霊、といいますか」
「そうっすね。それで、呪術の処置ってどれくらいできましたか」
「そうだねぇ。祝いはある程度したけれど、それよりも呪いをだいぶ削りました。再出発するには十分だと思いますよ」
「の、呪いを削る?」
そんなに多くの時間があったとは思えない。さらりと、とんでもないことをやってのけたというのに何でもない顔をしている。
つくづく恐ろしい人だな、と失葉は畏怖していた。
「いやぁ失葉くん。しかしよく分かったね、何を撮ったかみたいな」
「理屈はなんとなく分かるんで。なんとなく、ですけど」
「成長してるってことです。ぼくも、尾竹さんについていた『祝い』がまさか幽霊のものなんて想像だにできませんでしたよ」
彼は何でもないことのように笑った。
「でも、まだ分からないところがあるんすよ」
「というと?」
「写真の亜美さんが呪いであったなら、なんで尾竹さんの外にいるのか。だって、亜美さんが尾竹さんを想っていたなら、尾竹さんの中に生まれたはずっすよね?」
「そこは、色々と解釈できそうなところ、ですね。経験則で言うと、きっと、人間という器には限界があるからじゃないでしょうか」
「限界……容量のってことっすか」
「そう。呪いで満ちたコップに、入られる余地がなかったんでしょうねぇ。……ところで」
そして安倍は、少し困った顔になった。
「どうして、まだ浮かない顔をしてるんですか?」
失葉は少しだけ、尾竹を振り返った。
「幽霊ってことは、人の中の呪いを吸収して生き延びてるんですよね」
「そうですね」
「そのこと、尾竹さんに言わなくてよかったんですか」
「というと?」
「いつか、強く生きていって、呪いをため込まない人生になれたら、亜美さんはいなくなってしまうって……」
安倍は思わず笑ってしまった。もちろん嘲笑ではない。
失葉はツンケンとしているけれど、思ったよりずっとロマンチストなのかもしれない、と。
「きっと、それが〝成仏する〟ってことですよ」
「……そう、ですね」
失葉も、微笑んだ。
時は冬。ところは事務所。ダムの一件でどっと疲れた二人が、夕方のコーヒーを飲んで、特に仕事をするでもなく過ごしていた。
一日が、何でもなかったような顔をして終わろうとしている。
「……安全標語、思いつきました」
ふと呟いたのを聞き、安倍が椅子を鳴らして姿勢を正した。
「お。どんなのかな?」
「行動するとロクなことにならない、で」
やはり、自分の失敗を気にしているようだ。安倍は苦い顔をした。
「あ〜……それじゃあ、こういうのは?」
安倍は人差し指を立てて、何もない前をさした。
「呪いもカメラもいつでも確認、指さしヨシ!」
「……ダムのふちに座ってる人に、ヨシってやるんすか?」
安倍はその状況を想像したようで、思わず笑い出し、後頭部を掻いた。
「あー。あ〜……違うの考えよ……」
「ってか、確定申告終わんないんすか? ずっとおんなじのやってません?」
失葉が言うと、安倍がなにか攻撃を食らったように痛そうな顔をした。
「難しくって、この……数学式?」
失葉は口をまっすぐに結んだ。やはり、呪術以外はてんでダメのようだ。
少し考え、迷い、少しためらいがちに失葉は立ち上がる。
「…………まぁ、ちょっと、手伝いますよ」
すると安倍が子犬みたいな顔で失葉を見た。
「ほんとう? いいのぉ?」
「まぁ……」
二の句をつげず、画面を覗く。
間違っている式。空欄を見つけ、ここはこうだ、と直し、あっという間に終わらせた。なんだかんだ、安倍はあと少しのところまで来ていた。
「――これで終わりですよ」
すると安倍は溶けたように椅子にもたれた。
「はぁ~よかったよかった。おかげさまでやっと終わりましたよぉ~。何度この画面に『指さしヨシ!』ってやりたくなったか」
「確定申告を呪わないでくださいよ……」
失葉は戻って椅子に座る。すると安倍が前のめりになって、机に両腕を乗せた。
「ありがとうねぇ。失葉くん」
さぁくるぞ、と失葉は思った。仕事を任せるか、よしみで酒に誘うか。
「うす」
「今日はもうお仕事ないし、上がりにしちゃおうか」
「……うす」
帰り支度を始める。そして――。
――それで終わりだった。特に誘われるでもなく、任されるでもなく、そのまま解散した。
「…………」
夜道ひとりで、『自分の方が期待していたみたいじゃないか』と頭を掻く失葉の姿。
次の日、確定申告は自分がやると言うと、子犬の顔に「いいのぉ?」と返されたのだった。