82話 生きろ
「アルシュ!だめ!」
「どけ!」
看守に連れられ、サイードの姿が小さくなって行く。
少女はアルシュの腕を必死に掴もうとするが、少年とは思えない凄まじい力によって、押し除けられ、バランスを崩して床に座り込む。
今のは少しやりすぎた。いや、今はそんなことを考えている場合ではない。看守に呼ばれたサイードがネルブガルドのいる闘技台へ向かおうとしている。
止めなければあのサイードが、親友が奴に殺されてしまう。
ダメだ。絶対に助けるんだ。絶対に、死なせはしない。
「サイードォッ!!」
「き、貴様!一度ならず二度までも騒ぎを起こす気か!」
必死にサイードを救おうとするアルシュが猛り、その名を叫ぶ。戦士たちは何事かと、必死になるアルシュに目を走らせる。
その姿に看守が気圧されるが、ここでまた脱走を許せば罰が下されるのはこの奴隷戦士だけではないと、焦燥しながら槍を構える。
「いい加減にして!」
アルシュの力によって薙ぎ倒されたスピカだったが、諦めまいと立ち上がり、再び待機部屋の出口へ向かおうとするアルシュの腕を掴む。
「離せって言ってんだろ!」
「離さない!アンタ、何考えてんのよ!いつも誰かの代わりに犠牲になろうとして、結局目標とやってる事がアベコベじゃない!」
前回のガルスターとの戦いの時に生きて帰ってきたのは奇跡だ。
サイードを救う。それはアルシュの死を意味するのだと考え、スピカは必死に止めようとする。
アルシュはその制止を振り払おうとするが、スピカの説得を聞き、その慌ただしい動きを止める。
「でも、救わなきゃいけないんだ…!俺はサイードを…!」
アルシュは背後にいるスピカに痛切に歪めた表情を向け、声を震わせながら発する。
それは今のアルシュにとっての最優先事項。ヴォルロフの時のようにタウフィクに相談し、ネルブガルドと戦う。
大丈夫だ。力のコントロールは結局上手くいかなかったが、なんとかなる。
「俺ならきっと…きっと…っ!」
勝てるビジョンが思い浮かばない。嘘であっても口にする勇気すら持てない自分に、アルシュは愕然とする。
ネルブルドは強い。マシールを除けばこれまで出会ってきたものの中で最も強大な力を有していると言えるだろう。
その場限りの力ではあの男に切り伏せられて終わりだ。アルシュの体の力が弱まるの見ると、スピカはその腕にしがみつく力を一気に強めた。
「私だって...」
気付くと、スピカは顔に悲愴を浮かべ、目には涙を浮かべていた。
その様子から、ただ自分を止めようと必死になっているわけではない事が分かる。
「私だって、今まで助けたい命なんていっぱいあったわよ!でも死ぬわけにはいかない!生きなきゃいけないの!どうしても諦めなきゃいけない事は必ずある!生きるって、そういう事でしょ!」
思えば、アルシュはこれまでに多くの屍を踏み越えて来た。
父から始まり、ザッケス、ニルバ、夜明けの団のみんな、そしてキルガ。
それらは決して救うことのできない命だった。そう、全ては、
「俺が、弱いせいで...」
アルシュは看守の前で膝をつき、悲しみという感情が湧き上がり、その雫が石床を濡らす。
その滂沱は止まることを知らず、もはやアルシュの中でサイードを救い出そうという目標は霧の中に消えていた。
「何が、何が強いだ!いい加減な事を言いやがって!結局、俺はアンタを救えないじゃないかっ!」
最後に話した時、サイードはアルシュの事を強いと言った。だが結局、これまでと何も変わらない。父さんを助ける事ができなかったのと同様、自分が弱いせいで、サイードはこれから死ぬのだ。
「確かに...アルシュにはサイードを救えない。でも、それでもまだ時間は残されているし、アンタは生きている!強くだってなれるし、ここから出られる!」
悲しみに打ちひしがれる中、スピカの言葉に動かされるように、その震えは徐々に止まっていく。
どれだけ涙を流そうと、アルシュは生きている。別に生きる意味を失ったわけではないし、むしろこれからやらなければいけない事は山積みなのだ。
「そうだ...俺は...強く、なるんだ...」
アルシュはそう自分に言い聞かせて、なんとかその重い体を持ち上げるように起こした。
「む、向こうへ行け!」
看守はその姿に動揺して再び身構える。しかし、アルシュは背を向けて、ふらついた体で鉄格子の方へと向かって行った。
「アルシュ?」
「見るんだ...サイードの、最期を...!」
もう悲しみなどしない。そんなものは邪魔だ。いつか戦うであろうネルブガルドへの殺意を強固にするため、親友の生き様をこの目に焼き付けるため、アルシュは鉄格子に貼り付くようにして外の闘技台を注視する。
すでに闘技台には二人の姿があった。サイードの小さな体には、その丈に合う革鎧が装備され、ナイフのような短さの剣を構えている。
死を覚悟していても、その装備は万全だった。微かな勝率に期待しているのだろうか。
当然だ、サイードとて死にたくはないはずだ。たとえ勝算のない戦いであったとしても、全力で生き延びようとするはずだ。
「でかいな」
サイードは額から汗を垂らす。
小柄な体を持つ老人にとって、ネルブガルドは巨人と言っても遜色はない。
見上げると、鉄柱にも似た矛の先は天を突き、眩い陽の光を遮る。
ネルブガルドから放たれる異様な魔力の瘴気がサイードの体に触れる事で、その小さな体が闘技台にいる事を拒んでいるようだ。
さすがはガルド族、世界最強と呼ばれる戦闘種族と呼ばれるだけの事はある。諦めたはずなのに、恐怖が纏わりついて離れず、体の震えが止まらない。
「案ずるな、全力で来るならば苦しみなく送ってやる」
そんなサイードの恐怖を察してネルブガルドが宥める。震えは止まらなかったが、心が少しだけ軽くなったような気がする。
「ああ、助かるよ。ワシも痛いのは苦手でな」
それからサイードは銅鑼が鳴るまでの間、構えながらこれまでを思い出す。
息子と妻を失ってから、人生は散々なものだった。だが、嬉しかった事がある。それはアルシュに出会えた事だ。
あの少年に出会えた事で息子を、ダイフを思い出す事ができた。少しの間だけ希望を持つことができた。
「でも...ああ、残念だ」
本当はもっと生きたかった。アルシュを酒場に連れて行って潰れるまで飲ませてやる事が楽しみだった。それから墓に行けば、久しぶりに泣く事もできただろう。
だが、それは決して叶わない。ネルブガルドによって最期を迎えるのだから。
『無理じゃねえ!やるしかねえんだ!アンタに死なれたら困るんだ!だって、約束、しただろ...!』
サイードは昨日のアルシュの言葉を思い出して目の色を変える。確かに、勝算は皆無に等しい。だがそれでも、もしここで生き延びる事ができれば或いは、
「来い」
サイードが心のうちに希望を浮かべた時、無常な銅鑼の音が鳴った。
「う、うおおおお!」
その直後サイードは地面を全力で蹴った。何をやっているのだろう。勝てるわけがないのに、死ぬしかないのに希望を、夢を諦められない自分がいる。
生きたい、死にたくない。だから、やるしかない。ネルブガルドに勝たなければいけない。
ネルブガルドは飛び掛かるサイードに対し、構えもせずに、立ち尽くしたままだ。
勝てる、勝てる。このまま飛びかかってあの鎧の隙間から喉元に剣を刺しこめれば生き延びられる。
そうすれば、夢が叶う。アルシュを酒場に連れて。
「....っ!」
リング上を見た観客たちは声を上げた。石畳の一部は血溜まりとなって赤黒く染まる。
スピカは矛で串刺しにされているサイードに顔を背け、瞑目した。
人見知りのスピカは老人とは距離を置いていたが、それでも自分を陰ながら思ってくれていた事に最近になって気付いていただけに、その最期を見る事ができなかった。
しかし、アルシュは視線を変えなかった。貫かれ、風前の灯となった命を注視し、歯を軋ませる。
ネルブガルドは矛に突き刺さるサイードを空高く掲げて、日の光を浴びせ、
「汝、常世を去った後、冥府にて光を見出さん事を」
オーク族より伝わる葬送の儀式を行った後、その体を地に下ろし、矛先を引き抜いた。
もはやその血に塗れたその体は立ち上がる事はないだろう。
ネルブガルドは地面で仰向けになるサイードに踵を返し、ゆっくりとその場を後にする。
試合は終わった。サイードは負けた。しかし、まだ死んではいない。
虫の息であっても、意識はまだ残っていた。
「やっぱり、ダメ...か」
口から血を吐き出しながら、体が冷たくなって行くのを感じながら、サイードは生きられない事を残念に思う。
だが、その顔は苦痛に歪んではいない。後悔はなかった。やる事はやったし、それでダメだったなら仕方がない事だと、サイードは受け入れる。
『父さん!』
『あなた!』
ふと、どこからか声が聞こえてくる。とても懐かしく、この痛みを和らげてくれるかのような調べ。
やがてその声は近づいて来て、仰向けになるサイードの視線を覆い隠すように、二人の影がその小さな体を包みこんだ。
「ダイフ...?イーシャ...?なんでここに?」
息子のダイフ、妻のイーシャ。二人は20年も前に死んだはずだ。
驚きを隠せないサイードはつい勢いよく体を起こす。気付けば貫かれたはずの腹部の傷は消えていて、痛みもない。
それに、周囲の景色も変わっていた。そこは闘技場ではなく、ヤジを飛ばす民衆もいない。赤、黄青、桃色といった色とりどりの花々が咲き誇り、それが地平線まで続いている。それとオレンジがかった空とのとのコントラストが美しかった。
「なんでここに...って、俺たちずっと父さんを待ってたんだぜ?」
「そうよ、あなたって本当に来るの遅いもんだから、待ちくたびれたわ」
二人はサイードを呆れたように、優しげに笑っている。
「そうか、お前たちはずっとワシを待ってくれっていたんだな。すまないな」
「いいのよ、あなたは今まで一人で頑張って来たもの。私たちの誇りよ」
「そうだよ。もう一人じゃないんだ」
「そうか、ワシは...この日のために...」
サイードはダイフとイーシャに溢れ出る涙を見せまいと、腕で覆い尽くす。
「ははっ、なんだよ父さん、泣くことないじゃないか」
「う、うるさいっ!」
「ふふふ、さぁ行きましょ。話ならたっぷりと聞くから」
イーシャがそういうと、3人は地表を覆い尽くす花々を掻き分けて、これまで抱いて来た恐怖や、悲しみといった泥を落としながら、遥か彼方に向けて歩みを進めて消えて行った。
ゆっくりと、安らかに。
◆
アルシュはサイードの亡骸に背を向けるネルブガルドの背中に燃えるような殺意を向け、それが自分の原動力となって行くのを実感していた。
「殺して、やる....‼︎」
アルシュは顔を歪めに歪め、怒りの爆発を必死に抑え込むように、強く決意を決める。
「逝ったか、あの爺さん。まぁ逆によくここまで生きて来れたもんだ」
そんな決意とは裏腹に、背後からグレンが近付いて声をかける。アルシュは振り向くと、強く睨みつけ殺気を剥き出しにした。
「お、おい...!悪かった、悪かったよ!別にそういう意味じゃねえんだ!」
不器用なりに、グレンはアルシュを慰めようと声をかけたのだろうか。だがその言葉はアルシュの燃える大火に油を注ぐことに他ならなかった。
この男はどこまで腐っているのか。今までのみならず、その死までも侮辱した事でアルシュの思考は停止し、ただグレンの胸ぐらを掴み上げた。
「ぐっ...また、これかよ...!」
ダメだ。今回ばかりは抑えられない。この男を殴らなければ、気が済まない。
「もう、どうでもいい...」
アルシュはゆっくりと、拳を力いっぱい握りしめて、それを自分の頭の背後に翳した。
そんな怒り狂う少年に向かって、少女が床を蹴った。
「アルシュ!」
「...っ!」
その衝撃で、殺意は消えた。スピカは感情を制御できなくなったアルシュを後ろから抱擁する。
必死に力強く、そして優しく。
「大丈夫、私がついている!アナタは一人じゃない!」
スピカが自分よりも少しだけ背の低いアルシュを抱きしめていると、少年の体は力を失い、グレンを離した。
「な、なんだよ..!」
グレンには何が起こったのか理解ができない。ただ、今のアルシュが危険である事とスピカに救われた事を理解して、速やかにその場を去った。
「なんで...お前はそこまで、俺に優しくしてくれるんだ...?」
「だから、前から言ってるでしょ?アンタが強いからだって...」
「俺は...強くなんか...」
後ろから抱きつくスピカの顔が見えないが、声に力はなく、今にも泣き出しそうだ。
サイードを救えなかった自分にはあまりにも的外れな返答だった。
「いいから、そこは、受け入れてよ...じゃないと体を張った私がバカみたいじゃない」
やがてスピカの声は涙声になり、鼻を啜る音が耳をつく。彼女もようやく心開いた友を失ったのだ。辛いのは自分だけだと思っていた事が恥ずかしい。
アルシュは静かな声で「ごめん」と謝り、しばらくスピカの温もりに触れて俯いていた。
結局、サイードが死んだ以後、タウフィクの戦士は誰も死ぬことはなかった。
スピカが無事であれば誰がいなくなっても構わない。
皆、グレンやロメオ同様、誰かの死を見て笑うような連中ばかりだ。そんな奴らの命に懸念など浮かべるはずもない。
サイードがいなくなった今、この場でアルシュにとって大切な存在はスピカだけになってしまった。
実力はあるが、おそらくあのネルブガルドには敵うまい。なんとか彼女の番が来る前に奴を倒さなければ。
アルシュはその夜も牢屋にて修行を行う。胡座になって体に流れ込んでくる力の熱に意識を集中する。
そして、思い起こす、マシールから向けられた殺気、ヴォルロフに貫かれた時の感覚。
そして、サイードを失った悲しみ。
「....っ!」
すると、全てのピースが揃ったかのように、安静を意識するアルシュとは対照に、その体に纏う微かな光は大きくなり、琥珀色の輝きを放つ。
今までにない充足感、解放感がアルシュを包み込む。今の自分なら何でもできるかのような自信と
膨大な力が湧き上がり、濁流となって体内に流れ込んで来るのが分かる。
「なん、でだよ。なんで、今日なんだよ...!」
アルシュは顔を歪める。嬉しさよりも悲しさの方が強かった。この力が、1日、あと1日早ければ変わっていたかもしれない。そう考えると悔しさがとめどなく溢れて、アルシュは地面に拳を叩きつける。
「...!」
何か妙に地面が凹んだような気がした。それに、なにか甲高い、バキッという音が手元から鳴り響いたような気がする。
アルシュはとりあえず、藁を掻き分けると開いた口が塞がらない。
藁の下に隠れていた石床が割れている。ちょうどアルシュの握り拳の大きさに凹んでいる。
気のせいだと、以前から割れていたのだろうと思った。そもそもいくら膂力に優れているとはいえ、魔力のない少年に石床を叩き割るなど出来るはずもない。
だが、これほどの穴があれば、藁で覆われていたとしても、この牢に初めて来た時にすぐに気付くはずだ。
「なんだ、これ。俺が、やったのか...?」
「おい!何だ今の音は!」
「まずい...!」
看守の鎧の金具音の混じった鈍重な足音が近づいてくる。アルシュは必死に藁で割れた地面を覆い隠し、体に纏う光を消した。
「何だ?気のせいか?」
アルシュの放つ力を感知する事すらできない看守は、まさか少年が牢の部屋の床を叩き割ったなどと想像できるはずもなく、周囲を見渡し特に変わった様子がないかを確認する。
それからアルシュが横になって寝ているのを見て、槍をもっていない方の片手で後頭部を撫でながら先ほどいた場所へ戻って行った。
「危なかった...もしバレたら大変だ」
アルシュは深く吐き出される息と共に安堵を呟いた。
次の朝、朝食の際に広間へ連れて行かれると、いつもよりも暗澹とする空気が漂っている。
活気はなく、皆がヒソヒソと談話しながらこちらを見て薄気味悪い笑みを浮かべている。
それはいつもとは違う景色。何かが変わった。何か、あって当たり前だと思っていた、無くてはならないものが足りない気がする。
「そうか、サイードはもう...」
アルシュは思い出した。いつもであればしつこいほどに話しかけてくるはずの老人の姿はそこにはない。昨日、サイードは死んだのだ。
「今日はここに座れ!」
衛兵は無防備のアルシュを席に座らせると、手首の錠を解く、周囲には老人の死を悲しむ者などいない。
「ヒッヒッヒ...おいアルシュ、残念だったな。お前のお守りがいなくな....ひっ!」
隣から侮蔑を吐き捨てようとしたヒョロガリで出っ歯の戦士に琥珀色の鋭い視線を向けると、体を強張らせ、命を捨てまいとその煩わしい口を閉じた。
すると、その恐怖が伝播したのか、戦士たちの談笑は止み、皆が黙々と食事に集中する。
それを確認すると、アルシュもまた、まずい飯を食らう。
そんなアルシュを、スピカは遠くの方からひたむきな眼差しで眺めていた。
食事の後、アルシュを含めた戦士たちは中庭へと引き連れられる。
その日は稽古の日だった。ネルブガルドと戦うことを待ち望んでいただけに、アルシュの肩が下がる。
「今日は鍛錬の日だ!少なくとも昨日無様に死んだ老人のようにはなるな!」
戦士たちだけではなく、看守までもがサイードの死を罵った。
自分達の意にもそぐわないサイードはどこまでも嫌われていたようだ。
しかし、アルシュは憤る事に疲れていた。体力の無駄だ。今はそれどころじゃないだろう。
ネルブガルドを倒すためにも、ここから出るためにも、今日与えられた一日を無駄にするわけにはいかない。
アルシュはとりあえず、木剣を手にした。そんな少年の姿に戦士を6名ほどの戦士が睨みつけていた。
昨日、アルシュは気を失う事はなかったあたり、魔力ではない力をコントロールする事には成功したと確信した。
床を殴れば石床が割れる程の威力には驚愕したが、アルシュはまだまだこの力でどこまでやれるか試していない。
とりあえずこの力を使って木剣を振るえばどうなるか、アルシュは標的を使って試してみる事にした。
「アルシュ!」
そこへ、獣族の少女、スピカが駆け寄る。
「スピカ、なんの用だ?俺は今忙しいんだ」
「フフッ、忙しいって、稽古でしょ?」
スピカはアルシュの主張に苦笑いを浮かべる。いくら実力のある戦士といっても、そんな顔をすれば、村などによくいる少女と何ら変わりはない。
「私も手伝うわ。実践稽古、やってみない?」
「実践、稽古?」
少女の言動に、アルシュは逡巡する。昨日、アルシュが自分の弱さに嘆く姿を見たからだろうか、随分と乗り気な様子でアルシュに提案する。しかし、
「断る」
「な、なんでよ!」
「俺には俺の鍛え方があるんだよ」
「あんたの鍛え方って何よ。どうせそのしょぼい的に木剣をビシビシ当ててるだけなんでしょ?」
「それをやるにも重要な意味があるんだよ」
「へぇ、そう。無駄に時間が過ぎて行くだけだと思いますけどねぇ」
スピカは肩をすくめてアルシュへ向ける目を細める。善意で誘っていただけに、あっさりと切り捨てようとする事に苛立ち、すら覚えてムキになっている事に少女は気づかない。
「ハァッ、そうかよ分かったよ。じゃあ一回だけこの木剣でその的を叩いたら、お前の実践稽古に付き合ってやるよ」
「まぁいいけど一回だけって、それってますます意味ないんじゃないの?」
スピカの感情の変化を感じたアルシュは大きく息を吐き、スピカの提案を受け入れる代わりに一度だけ、木剣で的を叩かせてくれるように頼む。
スピカはそれを受け入れるが、一撃のみ的を叩く事になんの意味があるのか理解に苦しむ。
特に魔力がある訳でもないから魔術を使えるわけでもないし、木剣の威力を高める事もできないその一撃になんの意味があるというのか。
そうやって話し合う二人に、六つの影が忍び寄る。その中にはアルシュに気押されたヒョロガリの男も含まれている。
「さっきはよくも恥をかかせてくれやがったな?」
「やめとけよリューゲル。相手はスピカにヴォルロフを倒したアルシュだぜ?」
グレンは5人を引き連れてアルシュとスピカの元へ行こうとするリューゲルという、衛兵にすら名前を覚えてもらえない男を止めようとする。
「大丈夫さ。勝算ならある、こっちは6対2だ、スピカは数に弱い。分断させて武器を取りあげれば人質の出来上がり。アルシュは手も足も出せねえって訳だ!」
「6対2って...俺まで含めんじゃねえよ。お前の憂さ晴らしに参加すんのはゴメンだからな?」
「へん、臆病者が!いいさ、5対2でも俺たちの優勢に変わりはねえっ!」
リューゲルは参加者が一人減っても意気揚々と前方に見えるアルシュに歩みを進める。
グレンは肩をすくめる。なぜ勝てない戦いに挑もうとするのか。その心理は一生理解できないだろうとため息を吐いた。
「へっへっへ...待ってろよアルシュ?朝食の時の借りは必ず返して....、!?」
「あ....」
アルシュとスピカに復讐しようと画策した5人の歩みと思考は止まり、前方の景色が夢ではないかと疑った。
「なによ...それ...」
傍にいたスピカもアルシュの様子を見て驚きを隠せず、目を白黒させる。
信じられなかった。魔力もないはずのアルシュが、体からオレンジ色の輝きを放っていた。
その光はどう言うわけか魔力感知には反応しない。
「なんなのよ、その力は...!」
「さぁな。力である事には変わりないんだろうが、正直俺にも、わからねえっ...!」
アルシュにも、その未知なる力の全容を理解できた訳ではないが、少なくとも自分にとっての大きな武器になり得る事は分かっているつもりだった。
説明を飲み込めず、驚愕するスピカの傍で、アルシュは木の丸太でできた的に向かって力強く、光の纏った木剣を叩きつけた。
その剣筋はもはやスピカの肉眼でも捉えることができず、その一振りは放たれた瞬間に空気を勢いよく弾き、それから木剣が丸太の的に向けて叩きつけられると、突如として襲い来る凄まじい衝撃によってその原型を留められず、刀身ごと爆散し、木屑となった。
その爆発にも似た衝撃音は鍛錬に励んでいた戦士や衛兵の視線を奪った。
「なんの音だ?」
「おい、見ろよ、的が一つ足りない、あいつがぶっ壊したのか?」
「そ、そんな訳ねえだろ」
周囲の者たちはアルシュを取った行動に愕然とする。いくらアルシュの力が人一倍があるからと言っても、もはやそれは人の為せる技ではない。
「え?おい、今あいつ、丸太を粉々にしなかったか?」
「あいつが、そ、そんなわけ無いだろ?いくらアルシュのパワーがすごいからって...そんなわけ」
二人の衛兵は目で得た情報を処理する事ができない。少年が木剣を振るった事で丸太が破壊されたなど、容易に信じられる光景ではないが、いつもは5つの丸太が横に並んでいるはずなのに、1つだけ、アルシュの前にだけ存在していない。
「あ....が....」
「や、やめとこうぜリューゲル?俺、やだよ。あんな奴に喧嘩なんて売ったら死んじまうよ...」
「そ...そう、だな....いつまでも意地なんて張ってたら、かっこ悪いよな?大人として...うん」
リューゲルは自分に言い聞かせながら引き返した。腕を組んで後ろから見ていたグレンはアルシュの力に目を大きく見開いた後、大きく息を吐き、
「ったく、バケモンかよ。これじゃあ、あの人とどっちが強いか分からねえ」
と、薄く笑みを浮かべ、アルシュを何者かと比べるふうに呟いた。
「す、すげえ威力だ。丸太が木剣と一緒に粉々になっちまった...!でも、これなら!いや、待てよ...」
これならネルブガルドに通用すると思い、アルシュは表情を明るくしたが、すぐに熟考する表情を浮かべる。
これで本当に勝てると確信していいのだろうか。まだやつの全力をこの目で見た訳ではないと言うのに。
「あぶない、慢心して命捨てる所だった...!」
これでまだ、あの男と対等に戦えると決めつけるのは愚かだと、アルシュは考えを改める。
強力な力を得たものの、まだ体力の消費が激しく、何度もこの状態で振り続ける事はできない。
「改善の余地あり、か。....あ」
まだだ、まだ奴に勝てるとは言えない。もっと、大きな力をコントロールしつつ、なおかつ何か決定的な技なんかがあれば勝算も見えてくるのだろうと、アルシュは思考しながらふと横に顔を向けると、自分の世界に入り浸りで、傍にスピカがいる事を忘れていた。
「悪かった、実践稽古だったよな」
「あ、あの...えっと....」
スピカは変な汗を流し、その体は強張っている。アルシュから目を逸らして両手の人差し指の先をツンツンとくっ付けては離すのを繰り返していた。
「す、すごいじゃない。そ、それくらいの力があったら実践稽古なんていらな...」
「いや、やろうぜ実践稽古。大丈夫だよ、さっきみたいな技は使わないから」
「べ、別に使ってもいいけど?アンタがどうしてもって言うなら付き合ってあげる!」
アルシュが先程見せた力を使わないと言った途端、安堵を見せたスピカは言葉に辿々しさを残しつつも、鼻から息を漏らし、腰に手を当てて強気な態度を取って見せる。
「変なやつだな」
「...!」
アルシュはスピカに首を傾げると、少女の額に青筋が浮かんだ。
アルシュがまさか、あれほどバケモノじみた力を有しているとは想定していなかっただけに、その動揺は大きかった。
そんな背景を知ろうともせずに、疑問を浮かべるその表情が腹立たしく、木剣の握る拳に力を入れるのだった。