79話 出るんだ
「どうだぁああ!!」
激闘の末、ヴォルロフに勝利したアルシュは空を見上げ、腹から声を高らかに上げる。
アルシュは証明した。父から受け継いだ意思は決して呪いではないのだと。これが強さなのだと。
大きな一歩を踏み出す事ができた。それが気持ちよくて、感情を昂らせる。
『ワアアアアア!!』
数秒の静寂の後、英雄を葬った新入りに対し、観客たちは狂ったかのように声を上げ、闘技場を正と負の感情が入り混じり、飲み込んでいる。
「やった...やったぞ!マシール!ヴォルロフを倒したぞ。これでたんまり金が入ってくるぞ!」
「だから言っただろ?」
「ああ、お前に間違いはなかったよ。こんな事ならもっと早く手を打っておくべきだったな」
タウフィクはアルシュが異例の快挙を成し遂げた事で、多額の報酬を得ることになった。
5千万ゴルト、それはこのプーティアで屋敷を一つ建てられる程の金額。
もっと早く決断すればよかったと後悔しながらも、マシールの英断に頷くほか無かった。
しかし、アルシュに対する賞賛はない。所詮、奴隷はタウフィクにとっても道具でしかなかった。
「嘘だろ...?あのヴォルロフが...!」
「そんなわけないだろ?だって、ははは...英雄だぜ?」
「何もんなんだよあのガキ!」
英雄ヴォルロフの突然の死に、観客達は狂乱する。新たな戦士の登場と歓喜する者もいれば、受け入れられずに脱力する者や野次を強め、アルシュを強く非難する者も少なくなかった。
「ヨセフ様!しっかりしてください!」
「どうかお気をしっかり!」
四階のバルコニーのタウフィク達と対角線状に位置する特別席に座る、丈の長いローブにネックレスで着飾った白髪の老人が失神し、召使の者が慌てふためく様が目立ち、アルシュの瞳に映る。
ガルスターの飼い主だ。あの動揺ぶりから見ると、ガルスターに持ち金の全てを賭けていたのだろうか。
「いい気味だ」
本当ならその首を掻っ捌いてやりたかったが、手駒も金も全て失ったあの老人には同情すら感じてくるから止めておいてやる。
アルシュがバルコニーの哀れな老人を見て含み笑いをしていると、何やら赤く柔い物体が顔に直撃し、赤い汁と共に弾け、アルシュの腹部の傷口をより一層痛々しく見せる。
「薄汚いガキが!いったいどんな卑怯な手を使いやがったんだ!」
「よくも英雄を殺しやがったな!」
「ばっちい!」
アルシュの体を濡らすその赤い液体からは甘い香りを漂わせている。果物なのだろうが、そのベタついた感触が不快感をもたらす。
彼らはアルシュを恨んではいたが、別にガルスターの死を悼んでいるわけではない。
決闘でのルール上、ガルスターに金を掛ければ確実に勝てていた。
故に、今日もガルスターに有金のほとんどを投資していた者は少なくない。彼らの掛け金の大部分がタウフィクの元へ支払われて行く。
飼い主と同じく有金を失った観客はアルシュを呪い、誹謗する。
「食らえ!」
「ちょっ、そんなもん投げんな!」
観客達は果汁で汚れた衣服を気持ち悪そうに触っている少年に向けて、追い打ちをかけようと次々に手に持っていた果実を投げつける。
それに気付いたアルシュは慌てて小走りで待機室へ戻る。
「おい、アルシュが戻ってきたぞ?」
「マジかよ、あいつには関わらねえ方がいいな。怒らせたら何されるか分からねえ」
戻ると奴隷達が畏怖の表情をアルシュに向けて、よそよそしい態度を向ける。
無理もない。いきなり待機部屋を抜け出した上、あのヴォルロフを倒したのだ。
いずれは誰もがあの鉤爪の餌食になっていたに違いなかったが、目の前の少年は激闘の末に討伐したのだ。
故に、アルシュの存在はヴォルロフと同義だと感じた彼らはその存在をまるで化け物でも見るかのように恐れ、ざわつきながら近寄ろうとはしない。が
「アルシュ!お前すごいじゃないか!」
「あ、あぁ...なんとかな」
その中で、サイードはアルシュの奇跡的な生還に歓喜する。そのあまりの昂りに、アルシュは困惑気味な顔を見せる。
「怪我は大丈夫なのか?」
「まぁ、なんとかな。もう傷も塞がってるし」
「嘘だろ?だってお前、あの時あれだけ切られてたじゃないか?」
「全く、どうなってんのよその体」
不意に少女の声がアルシュの耳を突く。横を向くと桃色の髪のスピカが腕を組み、アルシュのズタズタの服の中に見える浅い傷跡のみが残る体を不思議そうに見つめていた。
「スピカか。よかったな、アルシュが無事で。さっきなんか泣きそうだったのにな」
「な、泣かないわよそんな事で!」
「そうだったかな〜」
スピカはサイードのおちょくりに動揺を見せ、顔を赤くした。現にアルシュの腹部をガルスターの爪が貫いた時は、なんとか涙を堪えていたが、それを頑なに受け入れようとはしない。
「そ、それより、アルシュ...!私に何か言う事あるんじゃない?」
「言う事...」
スピカはサイードの揶揄に青筋を浮かべながらもなんとか受け流し、アルシュに問いただす。
少女の求める返答はすぐに浮かんだ。当然だ。一緒に戦おうとまで言ってくれたにも関わらず、その命を投げ打ってまでガルスターと戦う道を選んだのだ。
その自分勝手な行動には後悔はしていないが、少なくとも目の前のスピカやサイードを酷く傷つけてしまったかもしれない。
「一緒に戦おうって言ってくれたのに、仲間だって言ってくれたのに、いきなり危ない橋を渡ろうとして、すまない」
アルシュはスピカとサイードに頭を下げた。
「当然でしょ?私はアンタに助けてもらったの。だから恩を返さなくちゃいけないの。それなのに、なんですぐに死のうとするのよ!もう少しは私の事も考えてよ...」
「すまない。もうあんな危険な真似はしないって誓うよ」
スピカは涙ぐむ。始めて見せた少女の泣き顔に、アルシュは気圧されてただ謝罪の言葉を口にする事しかできない。
「ま、まぁ良かったじゃないか...アルシュが無事に戻ってきたんだ」
先程まで泣きそうだったスピカを笑っていたサイードもいざその顔を見ると、揶揄う事などできない。代わりに、宥めようとする。
「よくない!」
ようやく心を開けると思ったアルシュが自ら死を選んだ事をスピカは許せなかった。許せるはずがなかった。
「でも...」
しかし、アルシュは生きてこの場に戻って来た。これからは新たな友人として、共に笑い合える。共に怒り合える。
だからスピカは涙声で呟いた。
「よかった...!」と。
闘技場での1日が終わり、アルシュを含めた奴隷たちが鎖で繋がれて練兵場へ戻る時、スピカは不思議そう表情を浮かべる。
あの脆弱な魔力量であの反則的な治癒速度はどのような理屈なのか。
現に、待機室に戻って来た頃にはアルシュに刻まれた体中の擦過傷はすでに塞がっている。
考えれば考えるほど、少年への興味は膨らんで行く。
スピカはアルシュの事をもっと知りたかった。人見知りな性格が邪魔をしてアルシュに声をかけ辛い事が歯痒い。
不意に、アルシュは後ろを振り向くと、スピカはは顔を不自然に横に向けていたが、ずっと見られていた事に気づかず、彼女に怪訝な表情をしてから前を向き直す。
アルシュは今日のヴォルロフとの戦いの事について考えていた。
今日はプーティアに来て初めて全力で戦った事で体がガタガタで手足を動かすのがやっとだった。やっぱりあの妙な力は窮地に陥ると発動するようだ。途轍もない力を発揮して、ヴォルロフのような強敵を圧倒する程の力を発揮するが体力が奪われるのはネックだ。それに、
「あれ....っ」
そしてアルシュはふと、ある事に気付く。勝利に酔いしれてすっかり見落としていた。以前まであの力を使えば必ず気を失い、気付けばベッドの上か牢屋の中だった。しかし、今回はそれがない。
「どうなってんだ?」
アルシュは自分の体の変化に首を傾げる。もしかすると、あの状態に慣れてきたのだろうか。だとすれば、完全にコントロールできる日が来るのもそう遠くはないのか、だとしたらマシールを倒してここから出られるかもしれない。
アルシュは心中に微かな期待を抱く。
そして、夕食を終えた後、監禁部屋の藁の上で、自分の力をどうやったら自在に引き出せるの考えた。まずはガルスターとの戦いの際の事を思い出す。力を引き出すきっかけは、窮地だった。
『嫌だ、こんな所で死ぬわけにはいかないんだ』
ガルスターに腹部を刺された刹那、アルシュは自分の終わりを予感していた。
その度に浮かぶのは玉座に座るヨルムの冷ややかで厳しい表情だった。
アルシュは希望に手を差し伸ばす度に、それらを踏み躙ったヨルムの笑みが浮かぶ。そして心に憎悪の泥が遍いていた。
「あの時の事を思い出せば、もしかしたら力を引き出せるんじゃないか?」
恨み、憎しみ。それが力の動力源だと感じたアルシュは、とりあえずマシールの顔を浮かべて、ベッドの上で縮こまり、体全体に力を入れてみた。
「ダメだ。全く出て来てない」
数分もの間、その記憶を思い起こすことに集中してみたが、特に変わった様子はない。
力む力が弱かったのだろうか。否、そんなはずはない。何せ、あの時は腹部を貫かれているのだ。
「なんでだ?一体あの時と何が違うんだ?もしかして力の動力源って憎しみじゃないのか?」
だとしたら恐怖だろうか。確かにあの時は痛かったし、本当に死ぬかと思った。
今度は恐怖の記憶を思い起こすことにしたが、やはりうまくいかない。今回の経験は十分アルシュにとってのトラウマになってもおかしくない程のは体験だったが、それでも不十分らしい。
だから今度はアルシュにとって、最も思い出したくない記憶を呼び起こすことにした。
クモレイア村の惨劇を脳裏に浮かべる。気分が悪く、嗚咽しそうだ。
マシールが大勢の団員を塵紙のように切り捨てて行く姿を思い出したくはなかったが、その記憶は鮮明に残っていた。
体の傷は治れど、あの時受けた精神的な傷は治る兆しが見えない。
「...っ!」
微かに、胸の奥に熱を感じると、その熱が体全体を帯びているのが分かった。
温かく、気持ちが良い。鉄格子から見える衛兵の歩く姿が見えた。あまりにもゆっくりで、その異常な動きにアルシュは確信する。
「やった...!」
力を引き出すのに成功した。初めて力を引き出す事に成功した。これでマシールに挑むことができる。そして、自由への一歩を踏み出せる。
「あれ...」
そう感じた瞬間、糸が切れるように、アルシュの意識は崩れて行き、埋もれていった。
「おい、時間だ。起きろ」
その聞き慣れた、不愉快な声に応じるように、アルシュは目を覚ます。牢の窓から日差しが差し込んでアルシュを照らしていたが、それよりも裾の破れた黒衣を纏うマシールが牢の入り口付近に立っていた事に身じろぎする。
「何しに来たんだ?いつもなら看守がラッパを鳴らしに来るはずだ」
「ああ、看守は後から来るが、その前に昨日についての事を話しに来た。ヴォルロフとの戦いは見事だった。どうやら俺の判断は間違ってなかったみたいだな」
「ふざけるな、俺はあの時お前が口を挟んだ事に何も感じていない。お前は俺から全てを奪ったんだ...」
「あぁ、それでいい。だが、元々あの時俺が前に出なければお前は間違いなく処刑されていた。無論、俺にな」
マシールが不意に見せた殺意の片鱗にアルシュの体は硬直し、言葉を詰まらせた。そして以前の広間での出来事が脳裏をよぎり、思考を鈍らせる。
「だが、今回はお咎めなしだ。ヴォルロフを倒し利益を生んだ。よくやったよお前は。だが、もし次に同じような事をして見ろ。次は迷う事なくお前を斬る。俺が伝えに来たのはそれだけだ」
アルシュの体が強張ったが、息を深く吐き出す事でなんとか気持ちを落ち着かせる。一度は恐怖に屈したが、もうこの男の思い通りにはならない。
「それがどうした」
「...?」
少年が呟いたその一言によって、出口へ向かうマシールの動作が止まる。
「いつまでも俺を見下せると思うな。俺はまだ刃を研いでる最中なんだ。お前に向けるための刃をな」
その時、アルシュはマシールに恐怖を抱いておらず、体の震えは止まっていた。
この男への勝ち筋が、ここへ出るための道筋が、ようやく見えたのだ。
その眼に曇りはなく、クモレイア村で唯一最後まで抗った戦士を思い起こす。
もう死を待つだけの少年はそこにはおらず、この死を待つだけの現状を変える事ができると信じる戦士の姿がそこにはあった。
「いつか俺がここを出ればお前は俺を確実に殺しに来るだろうな。だがそれが俺の最後じゃない、お前の最後だ。マシール、首を洗って待ってろ。俺はまだまだ強くなる。その時の俺があの時の俺だと思うなよ?」
アルシュはいつか訪れるその時を思い、自然と笑みを浮かべる。
仲間の命を容易く奪い取ったマシールの苦悶の表情を脳裏に浮かべると楽しみで仕方がない。
その瞳はいつもよりも輝いていたが、マシールは前へ向き直り、それを漆黒のマントを羽織る背中で受けて、薄ら笑いを浮かべた。
「面白い、やれるものならやって見ろ」
そう言って、マシールは看守と入れ替わるように、部屋を後にすると、ラッパの音が鳴り、何事も無かったかのように非情で惨めな一日が幕を開けた。
必ず勝つのだと、マシールに宣言した後、アルシュは衛兵に手錠をかけられて牢屋を出る。
その時に昨日を思い出した。力を使いこなす事に慣れてきていると思ったが、やはりコントロールは全然ダメだ。
ガルスターとの戦いの後だというのもあるのだろうが、昨日は少し感情を揺さぶるだけで、残っていた体力の全てを持って行かれてしまった。
もっと極力抑える事ができれば、とアルシュが考えていると、朝食の時の広間に到着し、手錠を外され、長テーブルの席に座らされた。
隣にはサイードが長椅子の上に立ってすでに食事をしている。斜め前からはスピカが相変わらずこちらを見ていて、何かが気になっている。
「やあアルシュ」
「よう」
サイードは広間に連れて来られたアルシュにすぐに気付き、声をかけると、アルシュはそれを快く返した。
「なんだ?お前随分といい顔するようになったな」
「そうか?」
「ああ、最初なんて今にも死にそうな顔してたのに。いい事だ」
そう言ってサイードはパンを一口齧る。
「あんたやスピカのおかげだよ。おかげで少しは前向きになれた」
聞いていたスピカは二人からは目を逸らし、食事をしていたが、話題の中に自分の名前が入ると、耳をビクつかせる。
運ばれてきた食事に手をつけず、アルシュは口角をあげて礼を言った。初めて見せた少年の笑顔に、自然とサイードの頬も緩む。
「まぁ、スピカの事もあるが、やはりワシの功績の方が遥かにでかいと思うぞ?なんたって得意だからな」
サイードは胸を張って偉そうな素振りを見せると、アルシュは以前抱いていた疑問を思い出した。マシールは確かに言っていた。サイードには息子がいたと。
「得意?そういやアンタって前に...いや、なんでもない」
しかし、サイードに昔の事を聞きそうになり、無闇に詮索するのは良くはないと思いとどまった。
「構わんよ、もう20年も前になる。妻とちょうどお前くらいの年の息子がいたんだ」
ところが、サイードは食事しながらアルシュの中途半端な質問に眉一つ動かさずに答える。
その様子には躊躇いがなく、まるでこの時が来るのをずっと待っていたかのように、サイードは夢中になって話を続ける。
「だが、息子は剣を作るんだって、戦争の拠点に行ったっきり戻って来なくてな。その後、妻を重い病で失って以降は酒に溺れる日々だった。そんなワシにタウフィクが儲かる仕事があるって言うからついて来てみればこのザマだ」
サイードは全てを吐き出した。気さくで明るい性格の老人からは考えられない程の暗澹とした過去にアルシュは息を呑んだ。
「すまない。思い出させてしまった」
アルシュは徐々に暗くなっていくサイードに負い目を感じ、謝罪する。誰よりも明るく接してくれた老人の辿ってきた道は、あまりに暗く、重いものだった。
「良いんだ。むしろ忘れてたまるか。もうワシは墓参りに行くことすら叶わない。故郷に帰る事もな。だが、それでも覚えているだけでいいんだ。それだけで、あの二人の供養になるとワシは信じている」
サイードは全てを諦めていた。ここから出るどころか、夢を見る事すらしない。
「なんでそんなすぐに諦めるんだ?出られるかもしれないだろ!?」
その深い絶望に逡巡する。
サイードだけではない。ここにいる奴隷全員が何かを失い、諦めているに違いない。
アルシュだってここに来た当初は死を待つだけの抜け殻に過ぎなかったのだ。
しかし、それでもサイードだけには前を向いて欲しいと強く願い、アルシュは声を張り上げる。
「分かるだろ。ここから出られた者はほとんどいない。でもアルシュ、お前ならいつかはここから出してもらえるかもしれんが、ワシはお前ほど強くはないし、それにもう年だ」
「だからって...!」
望みを失った小人族の老人に心を痛め、グッと胸を抑えた。
こんな所で終わっていいはずがない。何か、救いはないのか。否、サイードにもあるはずだ。
自由になるための道が。
「それならお願いだ」
「なんだ?」
アルシュは改まってサイードの寂しげな眼を見つめると、その下がり切っていた白い眉が少しだけ上がった。
「それなら、ここで死ぬだなんて言わないでくれ。忘れてないなら諦めないでくれ。いつかここから出られるんだって、また故郷に帰れるんだって、信じていてほしい」
それはサイードにとって最も残酷な願いなのかも知れない。
それでも、アルシュは望みを捨てて欲しくなかった。諦めて欲しくなかった。サイードはこの地獄の中で光を示してくれた数少ない存在だ。
「アルシュ、お前は本当に変わったな、大したもんだよ。ワシもまだまだ負けてられんな。いつかここを出たら酒でも奢ってやる」
「アンタ、酒に懲りたんじゃねえのかよ」
「いやいや、アレばかりはやめられんよ」
サイードの表情に明るさが戻る。
二人は展望を思い描き、笑い合った。いつも殺伐とする広間には珍しく明るい雰囲気が漂う。
「一体どうしたんだ?あいつら、あんなに笑って...」
「気でも狂ったか?」
グレンは怪訝な表情で二人を注視する。いつも、死に怯え、曇りきっていた彼らの表情には恐怖を感じさせない明るさがあった。
サイードがここから出て故郷に帰るためにも、アルシュは今よりも強くなるんだと決意を新たにする。
朝食の後、奴隷たちは闘技場へと移る。ヴォルロフが死んでから、戦いによって鳴り響く断末魔の悲鳴、血が流される事が減っていたが、相変わらずアルシュが罪人の処刑を任されていた。
「お願いだ...!」
「ごめん」
その命乞いに対して、アルシュは心を冷静にする。どれだけ願っても、彼らを救う事だけはできない。
そしてアルシュは生きなければならない。そのためにも、どれだけ辛くてもこの処刑を行わなければならない。
だからせめて、謝罪の一言と共に、刀の一振りによって罪人になるべく苦しみを与えないように終わらせる。
彼らにもここに来るまでの物語があったのだ。
アルシュはヴォルロフとは違い、罪人の命を軽んずる事などしない。
だから、血が地面を伝ってもなお、アルシュは願った。彼らも誰かと笑い合える時があったのだと。
「ハッハ〜!今日もゴミムシが死んだぞ!ご苦労な事だな!おかげでプーティアが綺麗になる」
「やだわ!罪人の血だなんて、穢らわしい!とっとと片付けてちょうだい!」
しかし、観客達にとっては罪人の経緯などどうでも良かった。
ヴォルロフがいなくなってから、奴らは血に飢えていた。故に、処刑が行われた直後の歓声は以前に増して大きくなっていた。
「あいつら...!」
相変わらずあの歓喜の声には慣れることはない。自分を抑えられるか不安になる事もある。
しかし、どれだけ目くじらを立てても仕方がない。どれだけ残酷で惨めな日々が待っていようとアルシュはただ今を乗り越えなければいけないのだ。
「ハァ...!」
とは言え、精神的な消耗は少なくはない。処刑自体はやりたくはないのだが、どういうわけか、タウフィクがどうしてもアルシュを指名するのだ。
アルシュは待機部屋に戻り、壁によしかかり、大きく息を吐き出すと共に座り込む。
「お、お疲れ」
そんなアルシュに獣族の少女が駆け寄ってきて慣れない風に声をかける。
「なんだ、スピカ?」
初めての時なんてまるで煙たがるようにアルシュをだけていたのに、手のひらの返しようが鮮やかすぎて清々しさすら覚える。
「別に?ただ、アンタを労ってやろうと思っただけよ」
「ああ、そうか。じゃあ一人にしてくれ。今は疲れてるんだ」
「そういう訳にはいかないわ。私は決めたんだから。アンタっていつ危ない行動をするか分からないんだもん」
スピカはアルシュが嫌いだ。なぜ誰かのために命を篩にかけようとするのか分からないし、そうやって傷ついていく姿を見るのはもう嫌だった。
だからそんな行動を止めさせるためにも、スピカはアルシュになるべく積極的に関わっていこうと決めたのだ。
アルシュはそんなスピカを煙たがるように突き放そうしたが、しがみついて離れようとはしない。
「放っといてくれよ。なんでそう、前のめりに突っかかってくるようになったんだ?」
「き、決まってるでしょ?アンタがいいやつで、強いからよ。じゃなかったらいちいち声なんて掛けるわけないでしょ」
スピカの口調はどこか辿々しかったが、内面を隠さず、アルシュの予想を裏切る事はなかった。
「もう少し隠そうとか思わないのか?お前...それだと最低だぞ?」
あまりの潔さに、言葉が出ず、戸惑いの表情を浮かべる。
結局実力がなければスピカが歩み寄って来る事もないのだ。
まぁその考えだと、ガルスターと戦わされた時点でこの世には居ないのだが。
「最低じゃないでしょ、嘘をつく方がもっと酷いと思うわ。例えばタウフィクやマシールみたいな奴とかね」
「マシール...?」
スピカの口から唐突に出た宿敵の名にアルシュの中で心が波打つのが分かった。
マシールとの間に何があったのだろう。そんな疑問が脳裏の7割を埋め尽くす。
「そう、マシール。あいつは人をここへ連れて来る時、無理矢理攫うか、嘘をついて連れて来るかの2択だって話よ」
「あいつが、嘘を...?」
アルシュは前者だと感じた瞬間、妙な違和感を感じた。マシールは自分を攫う過程のどこかで嘘を付いているのではないか。
もしそうであればあれからクモレイア村はどうなったのだろう。エリンやマリカはあの時、アルシュを差し出す事に躊躇い、悲しんだだろうか。
「因みに私は後者、ゴロつきに住む場所を奪われて荒野を彷徨っている時にあいつに出会ったの。それで良い所に連れて行くって言われるがままに着いて行ったらここだったわ」
アルシュが疑問を膨らませる最中でもスピカは話を続ける。
スピカは自分の過去に触れるも、涼しげな顔つきで、痛切を浮かべる様子もなかった。
「お前、辛くないのか?」
「別に?住む場所って言っても孤児院でそこの管理人が最悪だったから、いなくなってある意味スッキリしているって言えばそうなんだけど」
「孤児院?なんだそれ?」
「え?あんた孤児院も知らないの?身寄りのない子供を養う所の事よ?ジルドラスにはなかったの?」
アルシュは思い浮かべたが、故郷にはそんな場所はなかったし、第一アルシュには父がいた。
しかし、スピカには家族と呼べる者はおらず、周囲とも打ち解けられずに孤独を抱えながら過ごしてきたようだ。
少女と同じ境遇にいたとしたら耐えられただろうか。そう考えると、胸の内が締め付けられる。
「それで?アンタはなんでここに来たの?」
「俺は...」
スピカはアルシュに問おうとした時
「スピカ!」
突然スピカを呼ぶ看守の声が待機場に鳴り響き、アルシュは逡巡する。
「おっと、私の指名が来たわ。じゃあまたね。もし私が生きて帰ってこられたらアンタの経緯を教えてね」
「ちょっ!」
アルシュはスピカを呼び止めようとしたが、聞き入れないだろうと思い、諦めた。
彼女は縁起でもない展望を匂わせて、アルシュの拒否を聞かずに待機場の出口へと向かって行った。