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78話 内に秘めた決意

アルシュに何ができるのか。その疑問が晴れるのにそう時間は掛からなかった。

スピカ達の激励を受けたその後、アルシュは闘技場の特別席にてタウフィクの元を訪れていた。



「ほう、まさか自分からあのヴォルロフと戦いたいと言い出す者が現れるとはな」



それは無謀と言われても仕方のない発言ではあったが、こうでもしなければヴォルロフとは戦わせてもらえないと考えた。

勿論、ここまでの状況に持って行く事が容易だったわけではない。

待機部屋にて、アルシュは衛兵たちに頭を下げていた。



「頼む!タウフィクに会わせてくれ!」

「ダメだ。タウフィク様が貴様のような奴隷に作る時間などない」

「お願いだ!」

「ダメだと言ってる!諦めろ!」



奴隷という身である以上、アルシュを家畜のように見下す衛兵がその要求を鵜呑みにするはずなどない。タウフィクに合わせるどころか、待機部屋から出る事も許されない。


「話しくらいさせろ!」

「くどい!」


どれだけ願ったところで恰幅の良い看守は少年をまるで相手にしない。何度頼み込んでもその髭に覆われた口から出る答えは同じだった。

しかし、アルシュに諦めという選択肢は浮かばない。なぜならこの現状を変えると誓ったのだ。

マシールによって刻まれた心の傷が癒えたわけではないし、もし下手に抵抗しようとすればどんな目に遭うのかはその身を持って知っている。


それでも可能な限り救いを求める者に手を差し伸べる事は強さに繋がるし、スピカが心を開いてくれた事が嬉しかった。


救えない、終わらせなければいけない命もある。

それは残酷な道でもあるが、それでも生きなければいけない。それが葬ってきた者たちへのせめてもの償いとなる。


何も間違ってなどいなかった。だからアルシュはその場から一歩も引く事はない。

戦士達の無念と屈辱を晴らすためにヴォルロフを倒す。それがアルシュがここへ来てようやく見出した正義であり、強さだった。


「それなら、俺にも考えがある!」

「ちょ、あんた何やってんのよ!さっき言ったじゃない。一緒にここを出るんでしょ!?」

「うるせえ!そんなのお前が勝手に決めた事だろ!」


暴走するアルシュの制止に入ったのは奴隷服に身を包む獣族の少女、スピカだった。

しかし、少女の介入もすでに遅く、アルシュは看守に突進していた。


「どけ!」

「...っ!?」


アルシュの思いがけない体当たりに、看守は防御しきれず、壁に強く叩きつけられ、床に倒れ込んだ。

その隙にアルシュは待機部屋を走り去る。


「あのバカ!」


「一人逃げたぞ!!」


サイードは考えもなしに自分から命を擲とうとする少年に焦燥する。

鎧に助けられ、辛うじて意識のあった看守は大声で叫び、戦士の逃亡の知らせが待機部屋から通路にかけて木霊した。

しかし、仲間の反応はなく、気配も感じられない。今はいないのだろうか。


「アルシュ!戻って来て!」


スピカは必死でアルシュの背中に向けて思い止まらせようとしたが、声を張り上げた頃には少年の姿はなかった。耳には届いていないのが歯痒い。

後先を考えずに、行動するアルシュが何を考えているのか、少女には想像がつかず、ただ少年の勝利を祈るしかなかった。


看守の姿がないのは幸運だと思い、魔力を感じられないアルシュはひたすら細い通路を全力で走った。そして四つ角を通過しようとしたところで足を止める。


「逃げられると思うな!大人しく戻れ!」

「断る...!タウフィク会わせろ!」


左右の道から衛兵が槍先をアルシュに向けていた。そして前方には裾がボロボロの黒いマントの死神が姿を現し、その瞳孔に宿す闇の中にアルシュを写し出して、値踏みするような表情をする。マントの中にある獲物の金属音が鳴った事でアルシュは息を呑んだ。


「どうしたアルシュ。まさかこの期に及んで逃げ出そうとするなんてな。まだ痛めつけが足りなかったか?」

「違う。俺は逃げ出そうとなんてしていない。タウフィクに会わせろ...!」

「ほう、待機所を出たのはあの男に会うためか。それはなぜだ?」

「ヴォルロフと、戦うためだ」


その声は震えていた。マシールがマントの中にある刀に手を掴んでいることに気付いていた。今抜かれれば、避けられない。一瞬のうちに殺される。

しかし、これは賭けでもあった。無理やりにでも待機部屋から抜け出せばマシールが現れる事は分かっていた。この男は看守達でも頭が上がらないため、発言力はタウフィクに近いはずだ。

つまりマシールを通してタウフィクに近付くと言うのが、アルシュが自分なりに考えた作戦だ。


「お前が?ヴォルロフと?」

「そうだ」


マシールは少年を訝しげに見つめる。アルシュの見せたそれは、明らかに図に乗った相手に向ける類の反応だ。

顳顬から汗が滴る。マシールの真意が読めず、アルシュは困惑を表情に浮かべた。

アルシュはマシールの手のひらの上で転がされており、判断次第では今すぐにでもこの命は潰える事になる。


「いいだろう。そこまで言うなら取り合ってやる」

「な...!?」

「マシールさん、そいつは危険だ!こいつをタウフィク様に近づけたら...」

「分かっている。こいつは俺が監視する」


マシールは自分の同行を条件にしてアルシュの提案をあっさりと受け入れた。

看守はその意外な返答に空いた口が塞がらず、動揺する。


「なんでだ?俺なら奴を殺してもおかしくないはずだ。止めないのか?」

「いや、殺さない、その目を見れば分かる。ヴォルロフを倒すんだろ?お前の言葉に嘘偽りはない」


マシールから殺気が消えた。それはアルシュによって思い通りではあったが、まさかここまで簡単に行くとは思わなかった。何かの罠かとすらも思えてくる。


「どうした?ついて来い。タウフィクの元へ行くんだろ?グズグズしてたら斬るぞ」


マシールは呆然とするアルシュを脅迫すると、当然のように背中を向けて通路を進んで行く。

アルシュはその後に恐る恐るついていきながら、ある発想が浮かぶ。

これは思いがけない好機だ。このまま後ろから不意を突けられれば


「試してみるか?」


しかし、アルシュの殺気に勘づいたマシールが階段を上りながら僅かな魔力を揺らめかせる事で思い止まらせる。

やめておこう。やはり力の差の開きは大きい。不意などついた所で無駄なのは目に見えている。奴の振り向く速度がアルシュの反撃を上回れば終わりだ。

アルシュが肝を冷やしているうちに観客達が行き来すると思われる大通りを過ぎ、衛兵達が守護する通路の入り口を抜けると、タウフィクがいると思われる小部屋へと到着した。


「マシールか。なんのようだ?私は今忙しいんだ」

「タウフィク。例の奴隷がアンタと話したいそうだ」

「なんだと?」


マシールが小さな入り口の暖簾をくぐると、ターバンを被った中年男性がバルコニーに体を前屈みにして決闘を行う戦士たちに目を見張っていた。

タウフィクはマシールの声掛けに過剰な反応を見せる。「例の奴隷」、その特別視でもするかのような物言いに、アルシュは首を傾げた。


「気は確かか?奴隷の願いを聞き入れて私の前に連れてくるなど...」

「まぁそう言うなよ。アンタの奴隷なんだ。たまには話くらい聞いてやってもいいだろ?」

「しかし、檻から放たれた猛獣が何をするか分からない訳でもないだろう」

「気にするな。俺がいればあいつは何もできん」

「ぐぬぬ...いいだろう、通せ」


タウフィクはアルシュをここへ連れてきた事を快く思っていないようだった。

マシールの説得にため息を見せつつも了承し、マシールと入れ替わるようにアルシュは暖簾をくぐってタウフィクの前に姿を現す。

アルシュは初めて対面するタウフィクの容姿が広間にあった絵画と全く同じである事に驚く。

頭に巻きつけた白いターバンが目に入る。白地のローブと青いガウンに包まれた体は細く、厳粛な面持ちに見られる細く吊り上がった目つきは冷ややかだ。


「お前がアルシュか、私の名はタウフィク。この闘技場の主催者の一人であり、お前の飼い主だ」

「飼い主だと?笑わせるな。俺はお前のペットになったつもりはない」

「では所有物だ。ここプーティアでは奴隷という者たちと対等に見られるものと言えば、家畜か道具くらいだ」

「てめえ...!」


皆が人間であり、それぞれが生きたいと願っている。タウフィクは首元まで伸びた顎髭を触りながら奴隷達への侮辱を口にする事でアルシュは憤る。

しかし、背後の暖簾の向こうではマシールが目を光らせている。

アルシュはガチガチになった体の力を抜くことで、当然の如く、奴隷を人とすら思わない男への殺意を押し殺した。


「で、何の用だ?何度も言うが、私は試合を見ることに忙しくてな。お前の話にそれを遮る価値があるのか?」


タウフィクは観戦を中断させられ、少し苛立っているようだった。

アルシュは息を飲む。話す内容にタウフィクが落胆すれば、背後の死神がその脇に差す凶刃を振り上げることになる。

しかし、恐れている場合ではない。アルシュは戦わなければいけない。

だからたとえその身を震わせても、声を出して自分の意思を伝える。


「俺を、ヴォルロフと戦わせてくれ」

「なに?」

「ふっ」


礼儀というものを弁える事すら知らないアルシュの物言いに、暖簾の奥にいるマシールが鼻で笑った。

タウフィクは目を白黒とさせる。今まで幾人もの命を奪ってきた戦士に一人の少年が自ら挑みたいと申し出てきたのだ。


「なに、あのヴォルロフと?」

「ああ、俺は絶対に勝たなきゃいけない。あいつの高い鼻をへし折ってやる」

「勝てる保証はあるのか?」

「やってみないと、分からない」


タウフィクは厳粛な面持ちで疑問を投げかける。正直、勝てるかどうかと言われればハッキリと答える事はできないが、切り札はあった。

マシールとの戦いの際に発言した謎の力。このプーティアに来てからアルシュはそれを一度も使っていない。


「ダメだ。お前には引き続き罪人を始末してもらう。死ぬのはまだ早い」


飼い主はあっさりと家畜の提案を切り捨てた。そのあまりの早い返答にアルシュは耳を疑う。


「な、なんでだ!」

「何故かだと?お前は今やってみなければ分からないと言った。つまりは勝てるか分からない、負けるかも知れないと言ったんだ」

「俺は...!」


勝てるとは言わなかった。言えなかった。アルシュはヴォルロフが強い事は分かっていたが、際限を知らない。

思えば、これまで敵の強さを推し量る事などしたことがなかった。

マシールの時だってそうだ。あの時は、ただ死に行く仲間達を助けようとするのに精一杯だった。


「アルシュ、お前がバルザンを倒したのを私は見た。お前を見込みのある戦士だと思っている。だからすぐに失いたくないのだ。これからも戦い、客を喜ばせろ」


タウフィクは肯定的な補足を付け足しアルシュを諦めさせようとする。

この男にはアルシュの戦意などどうでも良かった。価値のある戦士に勝機の見えない戦いはさせず、リスクを避ける。そうやってこれまで姑息にも利益を守り続けて来たのだ。


「ふざけんな...!俺はお前の所有物じゃないって言ってんだろ!お前の損得なんてどうでもいい!黙って俺をヴォルロフと戦わせろ!!」

「聞くに堪えんな。どうやらお前は今の状況が分かっていないらしい」

「...っ!」


なんとか命を賭けてタウフィクと話ができたと言うのに、ようやく得た好機が失いかけている事に焦燥する。

アルシュはつい、感情的になってタウフィクに要求を押し通そうとする。

気付くと、タウフィクは穏やかな口調を保ちながらも顔は憤怒に歪んでいた。その細目から放たれる凍りついたような眼差しを受け、アルシュは逡巡する。


「何度でも言う。私はお前の飼い主だ。そしてお前はここに来てまだ間もない雛に過ぎん。活かす権利も捨てる権利も私にある。それでも足掻くと言うのなら。残念だが処分せざるおえない」


すでに暖簾の奥のマシールは以前アルシュに対して黒瞳を向けて離さない。

今のアルシュはカゴの中の雛に過ぎない。生かすも殺すもタウフィクの自由なのだ。アルシュは顔に痛切を浮かべ、束縛されて身動きすらままならない現状に歯を軋ませる。


「雛だと?違うぞタウフィク。そいつは竜だ。卵から帰り、目を合わせたかと思えばいきなり俺の首に噛みついて来やがった。獣の方がまだ可愛げがあるくらいだよ」


ふと、死神が自らの体験を呟くとタウフィクが険しい視線を暖簾の奥へと向ける。

するとマシールは暖簾をくぐり、部屋の中の主人へと目を合わせた。


「マシール、お前も私の意見に口答えするつもりか?」

「まぁな。アンタが大きな間違いを犯そうとしているように見えてな」

「私が....間違いだと?」

「ああ、確かにアルシュは弱いが、まだ実力を見せた訳じゃない。それに、戦士って言うのは窮地を乗り越えてこそ強くなる。どうだ?それだけでも戦わせる価値はあると思わないか?」

「つまり、お前はアルシュが生き残ると踏んでいるわけか」

「どうだかな。だが、可能性はある」


マシールはクモレイア村での戦いを経験していたから知っている。アルシュが桁外れの実力を秘めている事を。バルザンとの戦いではそに片鱗すら見せていないため、このプーティアでアルシュの力を知る者はマシールを除いて他にはいない。


ギラついた漆黒の瞳を向けられタウフィクはたじろいだ。用心棒風情に指図された事に憤りを感じたが、マシールがここまで強く意見する事などこれまでに無かったのも事実。

それに、数多もの死線を潜り抜けて来たその男のの言葉には並々ならない説得力があった。


「いいだろう...マシール。戦いにおいてはお前が正しい。だがいいか?もしアルシュが死んだらお前に責任を取ってもらう」

「いいぜ、望むところだ」


タウフィクはマシールの説得によって泣く泣くアルシュの願いを受け入れた。


「マシール、てめぇっ...!一体なんのつもりだ!?そんな事で俺に恩でも売ろうって言うのか!?」

「勘違いすんな。闘技場のルール上ではもしお前がヴォルロフを倒せれば、こちらに多額の金が転がり込む。失敗して被る損よりも成功して得られる利益の方が大きい。それに賭け事が好きでな。可能性があれば賭けるべきだと、俺は思っている」


アルシュは意外な助力を受けた事にただただ困惑する。マシールには利益しか見えていなかった様だが救われたのも事実だった為、複雑な感情を抱く。

それでも、全てを奪ったマシールへの憎しみが薄まる事はない。

今回はこの男を利用できたに過ぎない。それは頼らざるおえなかったと言い換えれば悔しさが滲み出すが、今はそれでいい。

いつかはこの男を倒す。アルシュはそう言い聞かせる事で自分の意図を明確にした。




          ◆




無論、アルシュは命を捨てるつもりなどなかった。しかし、他人が苦しみながら、笑い物にされながら死んで行く中、何もせずにただ怯えて生きる事は死んでいる事となんら変わりはない。

それに、戦う事を恐れていては、あのヨルムの首に刃を突き立てる事など到底叶わない。

ヴォルロフと呼ばれるあの狂人が強い事など、分かり切っているし、あの鉤爪を見るだけで手が震える程だった。

しかし、これからを強く生きるためにはあの男を倒し、超えなければいけない。

アルシュはざわつく感情を押し殺し、刀身を肩に乗せて、闘技場へ挑む。いつかここを出るために、そして己に勝つために。



「おい、いつまで待たせるんだ。俺は今すぐ血を見たくてウズウズしてるんだ」


ヴォルロフが苛立ち始め、観客たちは不満を漏らし始めていた頃、鉄格子の扉が開き、獣族の戦士の前に小さな戦士が姿を現すと、観客たちの苦言が向けられた。


「やっとか!遅いんだよ!グズグズしやがって!」

「ヴォルロフにビビってたのか?腰抜け!」

「おいヴォルロフ!さっさとそいつをバラバラにしちまえ!」


観客たちの侮蔑の矢を雨のように受けながらも、素知らぬ風を装い、ただ眼前に立つ英雄という名の悪魔を強く睨め付ける。しかしヴォルロフは動じていない。


「お前はバルザンを倒したガキじゃねえか?見てたぜ。大したもんだったよ。少しここで殺しを多くやったくらいで喜ぶバカは俺が痛ぶってやろうと思ってたが横取りしやがって、代わりにお前を八つ裂きにしてやるよ」


「やってみろよ。負け犬野郎。今日でお前のでかいツラも見納めだ」

「フン!調子に乗るなよ?お前にとってここは処刑場だ。お前は俺に楯突いた、その罪は痛みと死によって償ってもらう!」


二人は睨み合うと、やがて観客席の歓声も弱まりを見せ、闘技場内に緊張が走るのを感じた。

バルザンを倒したアルシュに対する観客達の評価はそれなりに高かった。

そのため、少なからず決闘の行く末に想像がつかない者もいた。彼らは静かに構える二人の姿を見守る。


「アルシュ!?あいつ、なにやってるの!?なんでヴォルロフと戦う事になってるのよ!」

「ワシに聞くな!そんなのこっちが知りたいわ!」


スピカは舞台上に現れたアルシュの姿に驚愕し、サイードに問いかけるが、パニックになりかけていたのは彼も同じだった。

逃げ出そうとしたアルシュに対してタウフィクが与えた罰だろうか。

結局何もしてあげられなかったスピカはこの現状に心を痛める。


「お願い...!生きて...!」


唯一スピカができる事といえば、戦いを見守り、アルシュの生還を祈る事だけだ。

その無力さに行き場のない怒りを感じたが受け入れる他なかった。


戦いは始まる。英雄として讃えられる虐殺者ヴォルロフと、その凶行を止めて勝利を掴もうと彼に挑むアルシュが微動だにしない様子を見て、観客の一人が固唾を飲んだ時、開始の銅鑼が鳴った。


「...っ!?」


その瞬間、アルシュは瞬足によって間合いを詰めるヴォルロフに対し、咄嗟に刀身の側面を縦に向け、身体に寄せて防御を取ったが、鉤爪から放たれる強い衝撃によってアルシュの足は地を滑り、後退する。


「よく防いだな。まずは腕を削ぎ落としてやろうと思ったのによ」


右腕を狙っていたヴォルロフはうまく防御を取られた事に驚きを見せる。

同時に少年も額から汗を滲ませる。

その攻撃の動きはあまりにも速く、肉体と思考の全てを一動作に委ねなければ今の一撃で終わっていたかもしれないと、アルシュは背筋をざわつかせた。


キルガを見ていたから知っている。獣族は素早い動きと敏感な聴覚、嗅覚が特徴だ。

しかし、その速度はアルシュの中の常識を凌駕していた。肉眼で捉えるのがやっとだ。それもまだ実力を隠しているようにも見える。


「どんどん行くぜ!」

「...っ!」


殺すことを楽しむ男を見るたびに、死んだ友人が脳裏に浮かぶのが癪に障るため早く終わらせたかったが、アルシュはヴォルロフの動きに翻弄されている。

四方から変則的なタイミング、位置から飛んでくる鉤爪の蓮撃。アルシュは目で追って防御するだけで手一杯だった。


「ガハハハ!どうした!?強いのは口だけか!」

「言ってろ...!最後に勝つのは、俺だ!」


アルシュはヴォルロフの実力に焦燥しながらも、防戦一方の状況を打破しようと動きを探るが、素早く手数の多い蓮撃に隙はない。


「くそっ...!少しの隙もないのかよ...!」


アルシュは必死に打開策を考えるが、力強い蓮撃はいつまでもアルシュに防御を取らせ続ける。

少しでも手を緩めればアルシュはあの鉤爪の餌食になる。しかし、一瞬ヴォルロフは鉤爪を振るう手を止める。


「ここだ!!」


流石に激しい動きを続けたため、体力にもガタが出てきたか。

ようやく出来たその隙を、アルシュは掴んで離すまいと、すかさず刀身をヴォルロフに向けて振りかぶった。


「バカめ!」

「あがっ...!」


アルシュは剣を縦にに振ろうとしたが、横に逸れる事で軽々と回避され、直後、横腹に太い足が食い込み、地を転がった。


「ク、クソっ…!揺動かよ…!」

「じゃあな、ガキ」


ヴォルロフは鉤爪の刃先をアルシュに突き立て、押し付けるが、顔を横に曲げて回避。そして、腕の力で足元を見下ろすヴォルロフの頭部に足を向けて向けて勢いよく押し出した。


「舐めんな!」

「グッ…!」


ヴォルロフはアルシュの思わぬ反撃に防御が取れず、つんのめる。

次こそは揺動ではないと判断したアルシュはすかさず刃を突き立てたが、ヴォルロフは素早くしゃがみ姿勢をとって、地を蹴る事で後方に退避。


「甘ぇ!」


アルシュの勢いが静止した瞬間を狙い、ヴォルロフはアルシュに鉤爪を振るおうと前進した瞬間、既に刃が腹部に迫っている事に気付く。


「なっ…!?」


ヴォルロフは両手の鉤爪を交差し、格子状にする事でなんとか防いだが、想定外の力強さに弾かれ後退する。


「くそっ!今のは行けると思ったのに」


アルシュは今のでヴォルロフを仕留められなかった事を悔しがる。


「なんだ、今のスピードは?あのガキ、あんな力を隠し持っていたのかよ。ククク…殺してえ」


ヴォルロフは想定以上の力を見せたアルシュに嗜虐的な笑みを向けて口周りを舌で舐めまわした。

久しぶりに楽しめそうな相手を見つけた事で高揚し、狂気に満ちた眼光を爛々と輝かせると、鉤爪を捨て、胴体に纏うレザーアーマーと服を脱ぎ捨てた。


「どうした?頭でもおかしくなったのか?」


アルシュは戦いの場で装備を捨てる姿に疑念を抱かざる終えない。

ヴォルロフが狂っている事は分かるが、その行動になんの意味があるのか検討がつかない。

挑発のつもりにしても、度が過ぎている。なぜなら、この場で武具を捨てるなど自殺行為に等しいからだ。



「お前は知らないようだな。獣族の限られた戦士にのみ許された姿を…!」

「なんだと?」


突如、ヴォルロフは体を力ませると、体内から白い光を放ち、輝きを徐々に強めて行く。茶色の体毛が生えて口元の歯が牙となって鋭くなり、鼻が突き出て筋肉は膨張する。

その姿はもはや人としての原型を止めておらず、アルシュはかつて対峙した魔導士を彷彿とさせた。


『これが獣人化だ。久しぶりに使ったんだ。少しは楽しませてくれ』


歓声はより一層高まる。それは容姿を怪物に変えた男に向けられたものだった。


『ウォオオオオオオォン!!』


ヴォルロフは遠吠えを放つと白い光はより一層輝きを増し、人々の目に強く焼きついた。



「ははっ、冗談じゃねえって…それじゃあまるでバケモンじゃねえか…」



アルシュはヴォルロフが全く本気じゃなかった事を知り、冷や汗がこめかみを伝いながらも、不思議な笑いがこぼれた。刀を構えてガルスター猛襲に備える。



『では、行くぞ!!』



アルシュが息を飲む間も待たずにヴォルロフの鋭く尖った爪が迫る。

アルシュはスレスレで回避するも、防具が砕け、痛々しい爪痕がその身に刻まれていく。


「な、なんて速さだ…!さっきの比じゃない!」


ヴォルロフの膂力は先程よりも洗練されている。

力と速度が圧倒的に上回り、先程までなんとか防ぎきれていた斬撃は致命傷とならずとも、確実にアルシュの体に刻まれ、膝をついた。


『おいおい、弱音を吐くのはまだ早いぞ?この姿になってから、まだそんなに時間が経ってねえだろ!』


ヴォルロフは獣族の特性を最大限に生かし、立ち直ろうとするアルシュに鉤爪を突き立てる。

顔を逸らして回避を試みるが、一本の太い指の先端の鋭い爪ががアルシュの腹部を狙う。


「ぐっ!」


アルシュは腹部をガードしたが、間に合わず、爪の先端がアルシュの腹部を抉った。

爪は深々とアルシュの臓を射抜いており、致命傷と呼ぶには十分な傷だった。


「アルシュ!!」


少女は顔に悲愴を浮かべて鉄格子の向こうから大声で叫ぶが周囲から湧き起こった歓声によってかき消される。


「ワシのせいだ!ワシがもっと、強ければ…!」


サイードは舞台から目を背け、自分の弱さを恨んだ。アルシュにもっとかけてやれる言葉があれば、無理にでも止めれば死なせずにすんだのではないか、と。

しかし、どれだけ後悔しても決着はついた。やはり、ヴォルロフに叶う者はいない。


『なんだよ。もう終わりかよ。つまんねえな。向きになって損したぜ』


ヴォルロフはアルシュの腹部から勢いよき刀身を引き抜き、ため息を吐いて落胆を見せた。そして観客席に向けてアピールをしようと振り返ろうとしたが、アルシュは倒れ込むどころか膝すらついていない事に気付く。


「ククク」

『なんで立ってやがる…?何がおかしいんだ?』


ヴォルロフは横たわるアルシュが息をしているどころか笑い声を出す様子に逡巡する。


「こんな傷で満足かよ。おめでたいにも程があるぜ」

『なっ…!?』


余裕の言葉を放つアルシュにヴォルロフは動揺し、後方に退避して様子を見る。


『一体どうなってやがる?死ぬどころか逆に…!』


気付くとアルシュの傷口がみるみるうちに塞がって行き、瞳は琥珀に輝いている。

容姿は先程とは変わらないはずなのに、雰囲気さえ変わったふうに思える。


「あいつ、死んでないぞ!?」

「なんなの?戦いが終わったんじゃないの?」

「やっぱり、俺の予想は当たってた…!あいつは只者じゃない!」


決着を予感していた観客たちはどよめき、タウフィクには疑念を抱く中、マシールは笑みをこぼしていた。


ヴォルロフは相手の異様な体質に目を見張る。確信した勝利が思い過ごしであった事に対して、苛立ちと喜びが混在して殺意となってアルシュに向けられる。


『お前は一体、何もんだ?』

「アルシュだ。お前を殺す」

『俺を、殺すだとぉ?』


アルシュには先程あった緊張が消えており、ヴォルロフの問いに冷静に答えた。


『ガハハハ!そうでなきゃな!』


ヴォルロフは笑みを浮かべながら周囲をガムシャラに動き回り、アルシュの体に狙いを定めて仕留める。

その速度は先程の比ではなく、僅かに見えた黒い影すら消えて、ただ壁や床が砕ける音のみが僅かに聞こえるだけだった。


『!?』


しかし、先ほどとは違い、力に任せの爪による猛攻を片手に持った直剣だけで傷一つ負わず確実に相殺していく。

そんな状況を目の当たりにすると、ある予感がヴォルロフの脳裏に浮かぶ。それはこれまでの戦いではなかった敗北、死の予感。

そんな考えを拭い去ろうと、ヴォルロフの表情は楽しげな彼の表情から次第に焦りと苛立ちを見せるようになる。


『調子に乗るなよガキ!』


直剣は次第にヴォルロフの猛攻に耐えきれず、刃の先端が欠けた。

それでもアルシュは気持ちを落ち着かせ、心に波紋の一輪すら浮かべる事はなかった。

敵の一挙手一投足が先程よりも遅く感じ、その邀撃で放った斬撃が次第にヴォルロフの四肢に刻まれ、その体は血で濡れていく。


「ちっ!」


このままでは自分が参ってしまうと感じたヴォルロフは一旦後ろに下がった瞬間、アルシュがすでに間合いに入っている事に気づき、青ざめた。


『ガハッ!』


瞬足によって飛びかかったアルシュが溝に蹴りを入れる。それは長らく忘れていた激痛と恐怖だった。ヴォルロフは床に転がり、闘技場の壁に激突。



「どうした、もう少し頑張れよ」

『いい加減にしろよ?ガキが!』



笑みは消えていた。思い通りにいかない状況に苛立ちが感情を支配し、体毛が逆立つ。膝をつきながら、顔をもたげ、その細く黄色い瞳をアルシュに向けようとした時、全身が強張り、汗が滲み出た。


その魔力器官を通じた瞳はアルシュを一介の少年として捉えていなかった。獣、魔物、それらを超える暴悪にして未知なる者。ただ憎悪のままに全てを喰らわんとする程の途轍もない存在をアルシュの力から感じる事で英雄としてのプライドを傷つけられ、怒り狂うはずのヴォルロフの怒りは吹き消され、寒風が背筋を脅かす。



「ちょ、ちょっと待て!こ、こうさ…っぐぁあぁあ!」



身の危険を感じたヴォルロフは血相を変えて、獣人化を解き、人の姿へと戻る。

すると、体中から血が吹き出て、腹部の激痛にのたうち回る。

それはアルシュの攻撃によるものだったが、その激痛は通常の状態となったガルスターには耐え難いものだった。


「ハァッ、ハァッ!」


それでもヴォルロフは落ち着きを取り戻して自身の負けを表明したが、アルシュは片手に持った刀を握る手を緩めるず、足を進める。


「ダメだ。お前は多くの命を弄びすぎた。もう十分だろう。あの世で悔いるんだな」


アルシュに情などなかった。ヴォルロフは大勢の人々の尊厳を踏み躙ると共に、その命を弄んできた。


「な、なんでだ?決闘はただ血を流せばいいってもんじゃないだろ?よく考えて見ろ!俺は英雄って呼ばれてんだぜ?仮に今ここで俺を殺せばお前は大勢から恨まれる事になる。それでもいいのか?」

「恨まれる…?」

「ああ、そうだ!中にはお前の死を願う者もいるだろう...!」


アルシュは壁にもたれ掛かるをヴォルロフを見下ろして数秒の間を置いた。


「俺のように、なっ!!」


それをガは隙と捉え、無駄にしまいと、アルシュの首元を切り裂こうと隠し持った短剣に手をかける。

その時、アルシュが斜めに放った一閃が獣人の体に深々と叩き込まれ、肉を裂き、骨を砕いた。


「知ってるよ。望ところだ」

「ク…ガッ…!」


赤黒い飛沫と臓を撒き散らしながら、もたれる体に力を失い、横転したままヴォルロフの体は動かなくなった。



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