75話 死神の試練
決闘も終わり、夕日が沈みかかった頃、その日を生き延びた9人の奴隷たちは練兵場に戻り、広間にて夕食にありつこうとしていた。
今日は久しぶりに戦った。どのような状況であれ、戦いとは命の駆け引きだ。故に極度の緊張がアルシュの体内のエネルギー奪い、胃の中は新たな熱源を求めている。
どうせ今日もあのまずい血の黒スープだろう。しかし、この腹の苦しみを癒せるものであればなんでもよかった。
「おい、嘘だろ!?」
「これって...!」
しかし、給仕が持ってきたものを見て、奴隷たちは口内から湧き出た唾液を飲んでから騒ぎ出す。そこにあのまずいスープはなく、代わりに大きな鶏の丸焼きと、フカフカなパン、黄金色に透き通るスープと色とりどりのサラダが各々の前に配られた。
「いいか!タウフィク様は機嫌が良い。よって今日は特別な食事が用意されている。心して食え、そして次の決闘に向けて己を磨け!」
「機嫌が、いい?」
バルザンが倒された事が嬉しかったのだろうか。サイード曰く、自分の所持する奴隷戦士が英雄という称号の持つ戦士を倒せば多額の褒賞金が手に入る。
つまり、この食事はその報酬の一部と考えても良いのだろう。しかし、アルシュはその豪勢な食事に違和感を覚える。
この食事の変わりようもそうだが、他の戦士たちがその皿を恐る恐る眺め、テーブルに手をつけない者もいる。
「何をやっている。食え!」
その衛兵から放たれた怒号によって押されるように、1人が肉にがっつくと、他の戦士たちも手をつけ出す。アルシュも釣られるように食事にありつくと、衛兵は「チッ!」と言いながら広間を後にした。
その後、賑わいが戻って行く。先程の抵抗はなんだったのかと疑問に思いつつも、アルシュは空腹を満たすために肉にカブりついた。
別に味や見た目に変わった様子はなく。質も相まって食べ進む速さは昨日よりも早かった。
「よかったな、害がなくて」
必死に羊肉にがっつくアルシュの耳元に聞き慣れつつも不快な音が耳の鼓膜を刺激する。
「お前は...さっきの!」
「おっと、さっきはすまなかった!悪気はなかったんだ、許してくれ」
それは先程サイードを罵倒していた青髪の青年、グレンの声だった。両手を上げて顔に焦燥を浮かべながら握り拳をチラつかせる少年を宥めようと言葉を並べる。
アルシュはこの男が隣に座っている事に気付かなかったが、今グレンを殴った所でこの状況が良くなるわけではない。
アルシュはそう言い聞かせて心を落ち着かせ、深くため息をついた。
「謝るならあのオッさんに言え」
「そ、それは出来ねえよ。ロメオに見られたら俺まで標的にされちまうからな」
「なんだ、結局反省してないな」
「し、仕方ないだろ...少しでも生きる確率を上げるためなんだからよ...!」
アルシュは目を細くして息を吐いた。反省の色を見せずに自身の保身を徹底するグレンに呆れ果て、これ以上の言及を諦める。
「で?あんたさっき、『害がなくてよかった』って言ってたよな。どう言う事だ?」
アルシュには他に聞きたいことがあった。豪勢な食事に対する戦士たちがまるで腫れ物に触る直前のような顔をするのが引っかかって仕方がなかった。
それにロメオやサイード、他の戦士たちは躊躇わずに食事を口にしているにも関わらず、スピカに至っては未だに全く食事に手をつけようとはしない。
「ああ、その事か。ここの食事はたまにこうやって豪華になる事があるが、俺たちの間ではある噂が流れているんだ」
「噂...?」
「そう、噂だ。なんでもタウフィクが豪華な食事を出す際に毒を盛るんじゃないかってな」
「毒だって...!?」
「毒」と言う言葉を聞いたアルシュはテーブルに手をつき、目をギョロッと開けて口の中にあったスープを吹き出す。
「ハハッ、そうムキになるなよ。あくまで噂だ」
グレンはそれを見て、薄ら笑いを浮かべながら誤解を訂正する。
「そ、それにしては、誰も手をつけようとしなかったぞ?て事は前にも...」
「ああ、前に体の不調でろくに体が動かせないまま決闘で命を落とした奴がいる。それでそいつが最後に食べてたモンも焼いた羊の肉とスープだったんだ。その時そいつ言ったんだ。『変な味がする』って。だが、現に証拠はない」
「それでも、味のない毒だってあるんじゃないのか?」
「まぁ、毒の種類も色々あるから味のない毒を使うなんて事もあるかもな。だが、いくらタウフィクだって、毒なんて使えば俺たちが碌に食事をしなくなる事くらい思いつくはずだ。闘技場で俺たちを戦わせたいんならそんな真似はしねえ。そう考えた俺たちは、とりあえず味が良ければ食べる事にしたって訳だ」
タウフィクが食事に毒を盛っているかもしれないという事実がある中で戦士たちは疑う事なく、それらを口に運んでいる。
アルシュは片手に肉を口に運ぼうか戸惑う。食事はすでに五割を平らげていた。
もし毒が入っていたとすれば、もう手遅れだ。
割り切って、残りも平らげようとしたが、その時に再度、食事に手をつけようとしないスピカの姿が目に映る。
「でも、スピカは」
「ああ、あの女は疑心暗鬼だからな。さっき、アンタが言ってたように味のない毒が入っている事を恐れているんだろう」
可能性は0ではない。無理矢理連れ去っておいていい加減だが、奴らは自分たちにとって都合が悪ければ平気で殺すだろう。毒を使って弱らせて、戦いに臨ませるのはあくまで他の戦士たちの恐怖を極力煽らないための手段と言ったところか。
「何の用?」
「おい、スピカ。食事はいいのか?」
アルシュが食事を続けることに迷う最中、食事に触ろうともしなかったスピカの前にロメオが現れ、不敵な笑みを浮かべている。
「いらない。アンタが食べればいいじゃない」
「俺はいい。十分に腹は満たされた。もし、食べれないなら俺が食べさせてやろうか?大丈夫、毒の味なんてしやしないさ」
「味はな!へへへ!」
接近するロメオにスピカはゆっくりと立ち上がった。おそらくスピカの事だ。あの程度のゴロツキ相手であれば、容易に対処ができるできるだろう。
アルシュはそう思って、初めは傍観していたが、何か様子がおかしい。決闘や訓練の時とは違い、その態度は弱々しく、どこにでもいるような、戦いとは程遠い少女の姿そのものだった。
構えるが、その小枝のような両腕は震えている。顔は恐怖に引き攣っているようだ。
「どうしたんだスピカ?震えてるぞ?いつものお前らしくないじゃないか。武器がなければ戦う事もできないってか?」
「う、うるさい!....っ!」
ロメオの言葉で気付く。思えば、稽古や戦いの時に見かけるスピカは手に剣があった。体質なのか、スピカは木剣がなければ力を存分に振るう事ができないようだ。
それでも少女は自分の恐怖を振り払い、ロメオに殴りかかろうとした時、隣の席に座っていた男がその脇を掴む。
「は、離して...っ!」
「どうしたよスピカ。魔力量は俺たちより上なんだろ?だったらこの状況もなんとかしてみろよ」
「まさか、お前を痛ぶる方法がこんな簡単だとはな。笑っちまうぜ」
脇を掴む大柄な男は生意気な小娘が無意味に手足をジタバタさせているのを見て微笑む。
武器を持たないスピカは恐怖という感情によってその力を十分に引き出す事ができない。
ロメオは英雄という称号を持つスピカの弱点を知り、嗤いが止まらない。
「アンタ、こんな事してタダで済むと思ってるの?看守が来たらどうなるか分かるでしょ?」
「ほう、それは怖いな。いいぜ?叫んでみろよ」
騒ぎに気付けば衛兵が救助に来てくれる。そしてこの状況から救い出してくれるはずだ。
「助けて!!」
スピカは広間の空間を突き破るつもりで叫んだ。しかし、静寂が漂う。衛兵が現れるどころか、閉ざされた扉が開かれる気配すら感じない。
「ど...どうして?」
「すまないな。音を遮断する結界術を貼らせて貰った。昔は盗賊をやっててな。お前を殴るためにこんなに役に立つとは思わなかったよ」
ロメオは手から淡い紫の球状の光を纏い、その周囲を何やら文字の羅列が縦に並べられて、球体の表面を周回している。
アルシュは戦場にいながらも、結界というものを見た事がなかった。音を遮断する術など、一体どこで学んだのかは知れないが、少なくとも、この男が周囲の者から恐れられている理由は理解できた。
「まさか、こんな日が来るとは思わなかったぜ。今まで思いつきそうで思いつかなかった名案。おかげでこれからこの時間はお前を殴り放題、だっ!!」
「...っ!」
食事中になると、どういうわけか衛兵は広間の入り口の前で待機するため、中の状況が見えない。
そして奴隷たちが食事を行う一定の時間、衛兵はこの食堂には入ってこない。
ロメオは叫び、顔を喜びにひしゃげながらスピカの頬を強く平手で打ち、スピカはその反動で振られた方向に顔の向きが変わる。
自ずと目元は涙で潤い、それを隠すかのように、スピカは俯く。小さな頬の赤みが増す。口元から一滴の赤い雫が滴り落ちるのを見たロメオの表情はより一層歪み、狂気に満ちたかのように瞳孔が開き出す。
「ガハハ!痛えか!?痛えだろ!」
スピカはその頬の痛みを抑えようとしたが、その手はロメオの仲間によって封じられ、魔力を思い通りに操る事のできない少女では、到底振り解く事など困難だ。
「おっと、まだ意識を失うのは早いぜ?お前にはまだ返しきれてねえ借りがいっぱいあるんだ」
「フフフ...」
「どうしたんだ?何がおかしい?言ってみろよ...!」
「そんなものなの...?」
「なんだと...?」
ロメオは不意に聞こえた少女の薄ら笑いに目を大きく見開く。身動きの取れないスピカにとってこの状況は窮地という他ない。しかし、不思議とその少女の表情には微笑みが見えた。
「だから...アンタ、今私を本気で打ったわよね。そんなデカい図体のくせに放つ打撃がその程度かって聞いてんのよ!」
スピカは声を震わせながらロメオに向けて侮蔑の言葉を吐き捨てた。剣を握れない事で魔力は使い物にならず、対抗手段を持たない少女だったが、それでも闘技場で培って来たプライドまで捨てるつもりはなかった。
「よく言った小娘!褒美に2度と笑えなくしてやる!」
それがロメオの感情の楔を断ち切り、理性をかき消した。目には殺意を漂わせ、ロメオは躊躇いなく、その拳に眩い程の光を収束させ、少女の頭蓋骨を陥没させるために、腕を振った。
「ごがぁっ!!」
「!?」
しかし、その拳が振られる前にロメオの頬には小さな拳が叩きつけられる。衝撃でその体躯は宙を舞い、5回程回転してからその体をテーブルの上に叩きつけた。
「なんで?」
スピカはその光景に逡巡し、ふと疑問を口にする。
「ロ、ロメオ!大丈夫か!?返事しろ...!」
「テ、テメエは....!」
大柄な男が思わずスピカから手を離し、テーブルの上で仰向けになるロメオを揺さぶるが反応はない。
息はあるが白目をむいて、泡を吹いていた。
4人が立ち上がり、腕を構える。それからロメオを殴りつけた1人の少年を睨みつける。
「あーあ、やっちまったぜ」
広間内に殺伐とした空気が漂う中、アルシュの隣の席にいたグレンは驚きながらも余裕の笑みを見せる。
突然の騒動を、まるで演劇でも観賞するかのように見つめながら肉を突いていた。
「アルシュ!お前なんて事を...!あれほどやめておけと言ったのに!」
その時、アルシュの中で感情を繋ぐ糸が切れていたが、その事に気付かない。
殺してやる。その意思を遂行する事に忙しく、制止の言葉は届かなかった。
サイードは忠告をしたにも関わらず早速自身の身を滅ぼそうとするアルシュに冷や汗を流す。音響遮断の結界はまだ生きているようだが、もしこの騒動が衛兵に知られたらと思うと、アルシュに対する懸念は強まる一方だ。
「てめえら、やりたい放題やりやがって...!」
「くっ...!」
「て、てめえ!スピカを守るつもりか!?そいつはいつも調子に乗って俺たちを見下してるんだぞ!」
「うるせえ。お前らが何を思ってるのか知らないが、こんなやつだって歯を食いしばって生き抜いて来たんだろ?だったら一人でも味方がいないでどうするんだ」
スピカは自分の耳を疑った。こいつは何を言っているんだろう。味方?そんなものは要らない。今まで一人でもやって来れたんだ。
「何やってるのよ。あんた、バカじゃないの?私のためにロメオをそんな風にして、ただで済むと思ってるの?」
「お前も黙ってろ。お前の為なんかじゃない。アイツらを殴っておかないと、ムカムカしてしょうがないんだ」
益々意味が分からない。騒動を起こせばどうなるかなど、昨日に身を持って知ったはずだ。それなのに、自分の鬱憤を晴らすためだけにゴロツキ共を殴り伏せようと言うのだ。
少年が自分の左手の掌に拳を叩きつけて音を鳴らすと、大人たちは身震いしだす。
バルザンを倒しただけではなく、ロメオを一撃で落としたアルシュに敵う者はいない。
だが、ここで引けば、これからはあの少年に怯えながら過ごす事になる。
そうならないために、戦士たちは一歩も下がらず、拳を下ろす事はなかった
◆
「ひ、ひっ!」
ロメオの仲間と思われる男は立ち上がる事もままならずに、その少年の放つ殺意に思わず声を上げる。
その瞳に映ったアルシュの姿はもはや少年には見えない。手には殴った者たちの血で汚れている。獰猛な獣のような眼光をギラつかせ、眉間は怒りに歪み、軋む歯を剥き出しにして今にも対象の手足を噛みちぎろうとしているかのようだ。
「アルシュ!もうそれ以上やめるんだ!もう気が済んだだろう!?スピカも大事にならずに済んだ。これ以上相手を傷つけた所で無意味だ!」
サイードは切羽詰まった表情でアルシュの狂い暴れる感情を宥めようとする。
「おっさんは本当に甘いんだな。分かるだろ?こう言う奴らに脅しは効かないんだよ」
アルシュは残った理性でようやく届いたサイードの言葉に対してため息混じりで呟く。ここでこのゴロツキ共を放っておけば、苦しみながらも懸命に生き延びようとする者の邪魔になる。
「だから、今のうちにしっかり痛めつけておかないと、自分たちの過ちに気付けないだろっ!」
大火は治らず、意識のあったロメオの仲間の顔を蹴り付けて、失神させる。
意思を取り戻し感情の欠片が戻った途端、アルシュはロメオやその仲間たちに対して激しい怒りを覚えるようになっていた。
弱者を笑いながらいたぶり、貶めようとするのは、このプーティアや故郷の者たちと何も変わらず、アルシュが最も忌み嫌う行為だ。
困ったものに手を差し伸べる事が正しい行いだとこれまで信じ続けてきたし、その思想は父の形見でもあった。だから、真逆の行いに悪びれもせずに平然としている事に、アルシュは怒りを抑える事にこれ以上は耐えられなかった。
「く、くそっ!ここに武器でもあれば!!」
ロメオの仲間たちの残った3人は敵意を剥き出しにするアルシュにたじろぐ。
もはや彼らにとっての理想とは、アルシュを痛めつける事ではなく、息の根を止める事だった。
故に武器がない事を悔やみながらもどうすればあの少年を殺す事が出来るのかを、脳をフル回転させながら考える。
しかし、思いつく前に、アルシュは助走をつける体制に入った事で、脳裏が萎縮し、凍りついている。
「おい!これは何の騒ぎだ!」
ふと、看守は部屋の中から皿が割れ、何か強い衝撃が木製のテーブルに叩きつけられたような音を聞き取り、すかさず勢いよく扉を開いて大声を上げると、広間にいたロメオと疼くまる者たち以外の奴隷戦士たちが看守の姿をその目に映す。
「な、なんだこれは!?」
床には皿の破片が散らばり、テーブルの上にはロメオの大柄な体が仰向けになったまま動かない。
入り口から続く長テーブルの左側に複数の男が横たわり、もがき苦しんでいる。その中心にアルシュは立って俯き、唯一意識のあっ3人が尻をつき、或いはその場から一歩も動けずに向けられる殺意に対し、恐怖のあまり体が思うように動かせていない。
「あ...あの!」
「き、貴様か!今度こそは許さんぞ!」
少女が何かを呟こうとしたが、衛兵たちの怒号でかき消される。
看守は1人では叶わないと思い、仲間を呼ぶと、瞬く間に7人の増援が現れ、その場に立ちすくむアルシュに槍先を向けて包囲する。
武器を持たないアルシュは武装した看守たちに囲まれた事で全身に緊張が走った。
しかし、臆する事なく周囲を睨め付ける事で殺意を撒き散らした。
看守にとってはアルシュはまさに練兵場の風紀を取り乱す魔物か、何か害のある存在に他ならなかったが、そもそも少年がここまで激しく怒る理由はロメオやその仲間から少女を救う事であった。
にも関わらず、彼女は口を開かない。開く事ができない。
あれだけアルシュに大口を叩き、挑発を行った挙句に助けられ、ましてや今ここで口を開くことはスピカの意地が許さなかった。
しかし、このままではアルシュは処刑されてしまう。彼は何も悪い事などしていないのに。
「私を、助けてくれたのに」
今ここで意地など張っている場合ではない。このまま彼を死なせればそれこそ恥だと、スピカは決意を決めて口を開こうとする。
「やめとけ、そいつは俺にやらせろ」
しかし、その決意はある聞き慣れた男の声によって打ち砕かれる。
それから急に背筋の悪寒に震え、腕を交差させて両肩に触れる。
その忌まわしき声はタウフィクに飼われている戦士であれば誰でも聞いている。全員が扉の奥に顔を向け、動揺を見せると共にざわめく中、その声の持ち主を激しく睨みつける少年がいた。
「マシール...!」
そしてアルシュにとっての新たな壁であり、忌むべき存在のマシールは、扉の向こうから使い古された黒いボロのマントと共に姿を現す。
「マ、マシールさん...!?」
「い、今何と...」
「だから、俺がやると言ったんだ。お前らは下がってろ」
衛兵たちはマシールの指示に対し、疑いもせずに足早にその場から去って行った。
「マシール...!」
「アルシュ、荒れてるな。何かあったのか?」
「何かあったのか...だと...?...ああ、ちょうどお前をぶっ殺してやりたいと思ってたところだ」
「そうか、じゃあやってみろ」
マシールは親指で自分の首を突いて見せた。アルシュは青筋を浮かべ琥珀の眼光をその仮面のような無表情に向けて臨戦体制を取る。
武器はなかったが、マシールがこの現場を見れば殺しにかかると思った。武器がない事など関係はない。これから死闘が始まるのだ。
アルシュはいかにしてマシールの太刀を封じるかだけを考える。
「マシール!事情はワシが説明する!だからどうかそいつを離してやってくれんか!?アルシュは悪くないんだ!」
「サイード、お前が首を突っ込んで来るという事は、どうやらお前は随分このアルシュにご執心なようだな。よほど死んだ息子の事が忘れられないか?」
「....!?」
サイードは自身の過去を反芻し、大きく目を見開いたまま、それ以上口を開くことが無かった。
スピカは自分を救ってくれたアルシュを救いたかったが、マシールに対する嫌悪感が自分の口を開かせようとはしない。
「事情はどうであれ、こいつは決闘以外で他の戦士を、タウフィクの所有物を傷つけた。それがダメだって...あぁ、そういえばこいつには言ってなかったな。...まぁいい。身を持って教えてやる。とりあえずかかってこい。刀は使わずにおいてやるが、タダで済むと思うな」
その返答に愕然とした。相手が武器を持たないとはいえ、これは戦い、殺し合いなのだ。マシールはこの状況を舐め切っていた。アルシュは両腕を前に出して構えたが、相変わらずマシールは直立したまま黒いマントからは手も見せず、ただアルシュを見つめるだけだった。
「な、舐めんなぁっ!!」
アルシュは風を切り、入り口付近に立つマシールに拳を突きつけるが片手で勢いを殺され、足を軽く小突かれて地面に倒れた。
うつ伏せのアルシュは顔を上げると、クモレイア村の時と同じようにマシールが上から見下ろしている。
「どうした?早く立てよ」
「う、おおおおお!....っ!」
顔が青ざめる。あの時の恐怖が蘇り、それを振り払うかのようにアルシュは瞬時に飛び上がり、マシールの顎に拳を繰り出そうとしたが、腹部に黒いブーツが食い込み、耐え難い衝撃と激痛によって腹部全体に狂い走るのを感じながら石床を転がった。
「アルシュ...!?」
顔を歪め、痛みにもがき苦しむアルシュにサイードは焦燥するが、無論マシールに対抗する事など出来るはずもなく、見ている事しかできない。
「立て」
マシールはまたもや少年が動くのを待っていた。アルシュは痛みを堪えながらもなんとか立ち上がり、殺意を視線に宿して向けた瞬間、アルシュの頬に黒い衣から繰り出される拳が炸裂した。
2メートル先に突き飛ばされたアルシュは起き上がる事に梃子摺るが、マシールは眉一つ動かさず、狼狽する姿を見つめている。
「ぐ...があああ...!」
「立て」
看守たちは息を呑んだ。マシールは涼しげな顔で痛みにのたうち回るアルシュを何度も殴りつけている。その冷酷さに背筋をざわつかせてただその情景を見ていた。
奴隷戦士たちもただマシールの暴虐を見ている事しかできなかった。
あの男の恐ろしさは誰もが分かっていた。あまりの強さ故に彼に刃向かおうとする者はここにはいない。
「く...あ...!」
「どうした?威勢だけなのか?あの時みたいに、もう少し動いたらどうなんだ?」
「く...そっ」
それでもアルシュは攻撃をやめよとはしなかった。マシールはその顔を黒く濁った瞳で見つめていると、アルシュは魔力も何も纏われていない、素の拳を握りしめ、突き出そうとしていた。
即座に気づいたマシールはアルシュの顔を軽く殴りつけて、少年の体は石床に叩きつけられた。
「ガッハッ...!」
鼻や歯が折れ、口元からの血と鼻血が混ざり合い、顔が口周りが赤い塗料でも擦り付けられたかのように汚れていいる。
腹部の圧迫されるような痛みと、顔を殴られた事で、脳内がグチャグチャになったような感覚を覚え、四つん這いのまま嘔吐する。
マシールから放たれる打撃は洗練されており、重く速かった。手を抜いても尚、相当なダメージを負ったのだから、本気でも出されればと思うと背筋が凍るようだった。
「どうした?立てよ。俺を殺したいんだろ?」
しかし、ここで退くわけにはいかない。なぜならこれは危機ではなく、むしろチャンスだ。今ここでマシールを倒せば全てが終わる。
「ぶっ...殺して、やる...‼︎」
体をふらつかせながらもアルシュは立ち上がり構えるが、今度はマシールが瞬時にアルシュの懐に攻め込む。
「なんでそう熱くなるんだ?まだ分からねえのか?」
言いながら凍りつくアルシュに膝蹴りを入れて、体を前屈みにさせた後、下顎に掌底を叩き込む。
「お前じゃ俺に勝てねえんだよ」
それから宙を舞い、地面に叩きつけられたアルシュに痰を吐き捨てる代わりに、現実を突きつける。
もはや戦う事などできないはずなのに、ズタボロの少年は動くのを止めない。
アルシュは自分を追い込む事で、クモレイア村での戦いの時に起った一時的な強化を期待していたが、痛めつけられたその体はただ疲弊していくばかりだ。
アルシュはそれでもなんとか立ちあがろうとするが、足が言う事を聞かない。
以前に渡り合ったのが嘘のようだった。刀がなくともアルシュはマシールに触れる事すらできず、ただ一方的に嬲られていた。
その一撃一撃から来る痛みは昨日看守から受けたそれとは比較にならない。
「く...そ....!こん....なにも...!」
アルシュは手も足も出せず、ただ殴られ、蹴られ、叩きつけられた。
それは勝負というよりは一方的な暴虐。勝てるどころか、まるで勝負にすらならない。甘かった。マシールとの実力差の開きは大きく、いつか超えようと決めたその壁はあまりに高く、そして遠かった。
「お前を殺すのなんて簡単だ。ただこうやって殴り続けていれば、勝手に死ぬ」
「みろよ...!」
「あ...?」
「やってみろよ...!いつでも...殺せるんだろ?」
アルシュはフラつきながら立ち上がり、その瞳に秘められた意思は消えていない。
「はぁ〜、つくづく勘に触るな、お前。分かったよ。じゃあ試してみるか?」
マシールの殺意が強まり、体を切り裂くようだ。アルシュは身動ぎせず前方にいる仇敵への邀撃に備えようと、フラフラの体を起こそうと膝を立てた。
「マシール...違うの...!そいつは...」
しかし、身体中に括り付けられた糸が切れたかのように体に力が入らなくなる。
その時、今にも意識が無音と暗闇に沈もうとした間際、桃色の髪の少女がが前進し、マシールに何かを伝えようとしている所までは分かった。
しかし、それ以降が聞き取れない。突如、強烈な眠気が体を支配していく。
そしてスピカとマシールの会話を見届けられない事を惜しみながらも、アルシュは横たわるように崩れた。その時、アルシュが最後に見たのは、マシール履く黒いブーツと、スピカの奴隷服から出た素足だった。
体の感覚が石床に溶け込んでいくかのように失われて行き、意識が遠のく事に抗う事ができず、ゆっくりと重い瞼が閉じていく。
そして瞼が真っ暗になった時、アルシュの意識は消えた。