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74話 湧き上がる怒り

勝利を掴み、生の実感をアルシュは感じていた。終わるはずだったその身に火を灯し、前へ進む事ができた。強くなってヨルム王を倒す。その目的を思い出す事ができたのは、サイードがいたからこそだ。

感謝を伝えなければならない。

アルシュ待機室へ戻ると、視線がその体を突き刺した。


『何もんだよあの新入り』

『きっとタウフィクの新しい犬だぜ?ありゃ』


静寂の中に各々の小さなひそひそ話が重なり合い、不快な音が耳をつく。僅かに聞き取れた言葉の断片から、ここには少年の勝利を讃える者がいない事が分かる。


特にロメオは眉を顰め、歯噛みする様子が目立った。その顔は明らかにバルザンを打ち倒した少年を面白く思っていないようだ。

無理もない。ロメオが最も恐れていた男が倒された。それも、数日前にやって来た、小さな体のガキにだ。


昨日ロメオはアルシュを散々殴りつけて、自分が上であることを証明した。

しかし、仮にあの時アルシュがロメオに対して明確な殺意を持っていたらどうなっていたのだろうか。

そう考えると、ロメオの体には汗が滲み、背筋が震える。

バルザンを倒したとは言え、戦士であるロメオがたった1人のガキに対して無意識に向ける恐怖と言う感情は自ずと屈辱へと変換されて行く。



「アルシュ、よく無事でかえってきたな...!」


誰もがアルシュに嫌悪を向ける中、足元で少年の身を懸念する老人の声が聞こえた。見下ろすと小人族のサイードだった。

涙声の老人は別れを告げて帰って来た少年の元へ駆け寄り、無事を確認し、涙を流す。


「あ、当たり前だ。あんな奴に負けるかよ」


アルシュは顔を赤くして後頭部をボリボリと掻いた。いざ感謝を伝えようとすると、なんだか気乗りせず、なんだかむず痒い。


「嘘、ありえない...!あんなのがどうしてバルザンに...?」


獣の耳を生やした桃色の髪のスピカは薄緑の瞳にアルシュの姿を写しては、目を擦り何度も見返す。

あの少年が無事に戻って来れた事が信じられない。一見すると弱々しい身なりで魔力を見れば自分の10分の1にも満たない。

にも関わらず、数多の戦士に恐れられたバルザンはアルシュによってあっさりと倒されてしまった。


「これは何か裏があるんだわ。そうよ、だってあり得ないもん」


タウフィクが裏で何か細工をした。そうとしか考えられない。スピカはそう信じ込む事で自分を納得させる。

しかし、彼女の中で新たな謎が生まれる。。だとしたらなぜあのような弱者に対してそこまでしなければいけないのか。

大体あの少年は何者なのか。黄色い肌に琥珀色の瞳。見たところ竜族なのは分かるが、ガサツな態度や振る舞いからはとても上流階級の出身には見えない。

昨日の鍛錬の時から引き続き、スピカの中で疑問の膨らみは大きくなっていたが、その少年の人格に対する疑心が少女の言動を思いとどまらせる。

だからアルシュに声をかける事もできず、その疑問を晴らせない事に、彼女は深く息を漏らした。


「サイード...その...」

「なんだ?言ってみろ」

「さっきは、ありがとな」


アルシュは後頭部を片手で掻き、目を逸らしながら感謝の言葉を伝える。

サイードには礼の一つくらいはあっても良いだろうとは思ってはいたが、いざ言うとなるとなんだかこそばゆい。


「一体なんのことだ?ワシはお前に何もしていないが?」

「それは...」

「お前は自分の力でバルザンを倒したんだ。お前の手柄だ。誇りに思え!」

「そ、それは違う!あの時あんたの言葉がなかったら...!」


ここにはいなかった。そう答えようとした時、衛兵の声が待機部屋にうるさく鳴り響いた。


「おい、そこの老ぼれ。次は貴様の番だ」

「うっ...ついに呼ばれたか...」


戦いを終えたアルシュの耳に、兵士の呼ぶ声と、老人の狼狽える声が入り、逡巡した。


「おっさん...戦うのか?」

「ああ、呼ばれたようだ。だが、私も伊達に生き残って来たわけじゃない...」

「運良く勝ち取った実績があるからな」


アルシュの声かけに応じるサイードの自信のない声を遮るように、奴隷の声が割って入る。


「なんだよお前は...!」

「お前の名はアルシュだっけか?俺はグレンってんだが、バルザンに勝った褒美に教えてやる。そいつは、臆病者だ。戦う事を嫌って武器を交えるのも敬遠するような爺さんだ。よくもまぁ今まで生き残ってこれたもんだよな」

「なんだと...?」


アルシュが横を向くと、以前までアルシュが殴られるのを笑いながら見ていたグレンという青い短髪の青年が馴れ馴れしく、サイードを嘲る。


「じゃ、じゃあ行ってくるよ」


しかし、サイードは動揺を見せながらもグレンの言葉に耳を傾けず、バツが悪いように目を背けて待機部屋を去り、リングへと向かった。


「けっ、つまんねえな。悔しそうな顔をすればもう少し面白くなるんだがな...」


靄の晴れたアルシュに迷いはなかった。湧き上がらせた怒りのままに、恩人を侮辱するグレンの着るボロ切れの裾を片手で掴み、そのまま体を持ち上げた。


「てめえ...!」

「ぐっ...!な、なんだよお前、もしかして...あのジジイの肩を持つ気かよ...!」

「それ以上、あのオッサンを侮辱してみろ...!その時は、お前の体をバキバキにへし折ってやる...!」


この男にはこれから戦うサイードに対する憐憫や敬いの欠片もなかった。

その相手を嘲笑する態度にアルシュは憤りを感じながらも、サイードが無事である事を静かに祈った。

なぜあのような老人がここへ連れて来られたのかは分からないし、その事情も明らかになってはいないが、見ず知らずの少年に温かくできる者が悪人であるはずがない。

少なくとも、サイードを罵倒したこの男よりは心が清らかであるはずなのだ。


それに、あの老人には借りができた。この地獄ような場所でも唯一思いやりを持って接してくれて、生きる意味を思い出すきっかけをくれた。

それなのに、このグレンという男はそんなサイードをいとも簡単に侮辱した。

表出されずに溜め込まれていた怒りは爆発し、その勢いは強く、押し殺す事が難しい。

胸がざわつき、熱い。抑えろ、抑えろ、抑えろ。

抑えられなければ、きっと目の前の男を今ここで殺してしまいかねない。


「わ、悪かったよ...も、もう言わねえよ...!」


グレンの体は足元が浮き、天井に頭頂部がつきそうだった。首元を圧迫されて、呼吸が出来なくなっていく事に危機感を覚え、命惜しさに謝罪する。


アルシュはゆっくりと呼吸する事で冷静さを取り戻す。今ここでグレンを死なせれば状況はますます悪くなる一方だ。

首元に加わっていた尋常でない力は緩められる。支えを失ったグレンの体は地上に降ろされ、膝をついた。


「クソッ...だが、面白がってんのは俺だけじゃねえぜ?お前、もしあのジジイを笑う奴をとっちめたいって言うんならここにいる全員を相手しなきゃな」


アルシュはグレンが無駄口を叩いてから、その言葉を受け入れられないでいたが、試合が始まってから脳裏の疑問符は消え、胸糞悪さが心の奥底で蠢いた。




          ◆





試合は意外にも長く続き、結果はサイードの勝利だった。

サイードは得意の身軽さを利用し、逃げながら攻撃を躱すだけで反撃をしようとはしない。

また、武器を落とすなどと言ったドジな一面は観客達の黄色い笑いを呼ぶ。

そんなサイードに翻弄される事で敵はストレスを重複させていく。

やがて相手が取り乱し、疲弊する事で敵に大きな隙ができた所でサイードは剣を突きつけ、降参の声が銅鑼の傍に立つ審判の耳に届いた。


「ははは!よく逃げ切ったな爺さん!」

「ふざけんな!こんなの戦いじゃねえ!」

「まぁいいか。俺は稼げたし」


サイードの評判は二つに分かれる。金を求める者、血を求める者とで、彼に対する評価は大きく違った。


「うっ...」


しかし、誹謗する観客たちは程度というものを知らない。

帽子を被るサイードの頭に食べかけの果実が投げつけられ、顔半分が赤く染まった。


「ハハハハ!!なんだあれ、気色悪いな!」

「小人族ってみんなドジなのか?」


ロメオや、その取り巻きたちもサイードの醜態を見て声をあげて笑いを堪えきれない。

それは死地の中で訪れる束の間の笑いではあったが、アルシュにとっては気分の良いものではない。

サイードは自分なりに命を賭けて必死に戦い、ようやく勝利を掴んだ。

にも関わらず、あの老人に対する敬意は周囲のどこを見渡してもカケラさえ見つからなかった。


サイードはこれ以上、投擲物の的にならないように足早に待機部屋に戻ると、まずはサイードを爆笑が包み込む。


「サイード、一体どうしたんだ?気持ち悪いから戻ってくんなよ」

「そうだぜ、臆病が移ったら責任取れるのかよ」


ロメオとその取り巻きがサイードを囲み出し、声をあげてゲラゲラと耳障りな嗤いが鳴り響く。


「あ...あいつら...!」

「どうだ、見ただろ?これがここでのあの爺さんの扱いだよ。臆病と運に生かされる。そんなサイードは皆んなの格好の捌け口だ」


グレンは唖然とするアルシュに背後からサイードの立場を伝えるが、納得できるはずなどない。


「ど、どうしたんだ?みんな落ち着いてくれ」

「落ち着けるかよ。お前の試合を見てるとイライラしてきちまった」


ロメオはその小人族の顔の倍ほどの大きさの拳を握りしめて、振り翳した。


「流石に今回は無理よ」


スピカは見て見ぬふりをする。今回は助けられそうにない。なんせ今回は数が違う。1対1を得意とするスピカだが、多人数ともなれば話は別だった。


ロメオは容赦なく、サイードの顔に目掛けてその拳を振り下ろした。


「おい...」

「...!?」


スピカの目が白黒する。誰も彼を救うものはいないと思っていた所へ現れた少年1人が、ロメオの拳を受け止めている。


「アルシュ...!」

「てめえは...!?」


ロメオは突如介入して来たアルシュの姿に動揺の色を隠せず、額からは汗が滲み出す。

昨日感じた違和感は気のせいではなかった。昨日痛めつけたはずのガキは、バルザンを打ち負かし、体格差のあるロメオを見上げ、鋭い視線を向けている。


「やめろって言ってるんだ。それとも今ここで、昨日の稽古の続きでもやるか?」

「て、てめえ、昨日は俺に手も足も何も出なかったガキが俺を脅す気か?調子に乗るなよ?お、お前なんてその気になれば一瞬で捻り潰す事だってできるんだ」

「へぇ、それなら試してみるか?」

「....っ!」


サイードが周囲から蔑まれ続ける事を黙認できなかったアルシュはロメオの腕を強く掴みながら脅して見せた。

室内の空気が張り詰め、戦士たちが息をする事すら躊躇う中、ロメオは顔中を汗で濡らす。一度アルシュを睨め付けはしたが、その橙色の瞳の奥には何か怪物でも宿すかのよな得体の知れなさを感じ、すぐに逸らした。

それから数秒の沈黙の後、


「ちっ!調子に乗んなよガキ!覚えてろよ!?」

「ちょ、待ってくれよロメオ!」


ロメオはアルシュの腕を振り払い、取り巻きたちと共に背中を向けてその場を離れた。サイードはホッとひと息をついたが、その安堵は自らが暴力から免れた事よりも、火中に飛び込んだ少年に対するものだった。


「アルシュ、助けてくれた事には礼を言うが無茶をするな...!ここはタウフィクの監視下だ...万が一殴り合いが始まれば衛兵も動くぞ」

「知るかよ。だったら衛兵もぶっ飛ばせばいい。蹴られている時に分かった。あいつらは大した事ねえ...」

「確かに、お前はバルザンを倒した。警備兵を甘く見るのも分かる。だが、奴らの背後にはマシールと言う男がいるのも忘れるな...!」

「マシール...?」

「そうだ。ここに来る前からヤツの話を聞いている。『死神』という異名を持ち、世界各地で殺戮の限りを尽くした危険人物だ。なぜあの男がタウフィクなどに仕えているのかは分からんが、少なくともお前では勝てん...!」


サイードは冷や汗を拭いながら注意を促す。しかし、先程の戦いで自信を得たのか。人が変わったかのように傲慢さを見せつける少年に、驚きと困惑を抱く。


「死神、か」


その憎き者の異名を初めて聞いたアルシュは驚きはしなかった。

確かに、あの男にはピッタリな異名だ。突如として現れ、その黒い影を見た者を次々に斬り捨て、死へと導く。


それに、サイードによるとマシールが暴れたのはあの戦場だけではないようだ。世界を駆け抜け、ああやって大勢の者と戦い、命を奪って生き延びてきた。


「どうりで強いわけだ」

「そうだ、奴は強い!だから少しでも生き伸びる確率を上げるためにも無茶は...」

「それがどうした?」

「どうしただと...?お前、ワシが言った事を理解できているのか?」

「できているさ。それを踏まえて言ってるんだ」


アルシュの中の綻びは解けた。しかし、それが虐げられるサイードをただ見ている理由にはならない。


「いいや、あのマシールの恐ろしさが分かってないんだ。だからお前はそんな事が言え...!?」


アルシュのここに来るまでの経緯を知らないサイードは危険を顧みない少年の言動を咎めようとするが、そのギラついた獲物を狙う獰猛な眼光に動揺して言葉が途切れる。


「マシールの恐ろしさならよく知ってるさ。俺があいつにどれだけ大切なものを奪われたと思っている...!?」


マシールに奪われたのは自由だけではない。仲間を殺され、居場所から切り離された。ようやく死地の中で手に入れた幸せでもあった。しかし、アルシュには帰る場所などない。

思い起こすだけで、殺意が湧き上がり、顔を引き攣らせて口から歯を軋ませる。


「す、すまん。配慮が足りなかった。だが、やっぱり無茶はするな。それじゃあ命が幾つあっても足りん...!」


サイードは少年の過去など考えずに発言した事を後悔しながら謝罪するが、アルシュへの懸念を取り下げる事はない。


「無茶はするな、だと?そんな事のために、アンタが痛ぶられているのをただ黙って見てられるかよ」

「な...?」


サイードの中でアルシュへの認識が変わる。これまでは自分の力を試すためにただ無駄に命を削るだけに見えていた。


「マシール、確かに俺はまだあいつが怖い。でもアンタは俺に言った。『生きていればいい事がある』って。おかげで自分を取り戻す事ができた。俺はもう意志を手放さねえ、見失わねえ、逃げねえ。俺はいずれここから出る。そのために強くならなきゃいけない。だから困っているアンタを助ける。それが本当の強さだって信じているから...」


サイードは大きく目を見開き、自身に齟齬が生じていた事に気付く。アルシュがとった行動はただの傲慢によるものではなかった。

どれだけ状況が変わろうと、どれだけ絶望しようと、その胸の中にはかつて父から得た教えが刻み込まれていた事をアルシュは思い出す。


「全く、わざわざ危険な場面に首を突っ込んだ上にここから出ようなんて...お前ってやつはどこまで欲張りなんだ?」


暴れるだけ暴れてここから抜け出すなどと、どれだけ強欲で傲慢なんだと、サイードは呆れ果て、ため息混じりの笑みを溢してアルシュに問いかける。


「欲張りじゃねえよ、これが俺の生き方だ。欲しいものは全部貰う。分からないやつは分からせる。力ずくでもだ」


その自信に満ちた返答を疑う事はなかった。困ったものに手を差し伸べながら打開策を見出す。それがこの少年、アルシュなのだと知る。

それはこの生きる事すら難しい環境を過ごす事よりも、さらに厳しい道となるだろう。

しかし、不思議とアルシュにならいつかはそれが成し遂げられるとサイードは予感する。

なぜなら、この少年が優しく、強い事を知ったから。サイードはアルシュがここから出られる事を心から祈った。




『困った者に救いの手を差し伸べる』


アルシュの信じるその意思が導く先に、大きな試練が待っている事も知らずに。

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