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72話 奴隷の墓場 

闇が切り開かれるように琥珀色の瞳を望ませて、アルシュは目を覚ました。


「ここは...どこだ...?」


石造りの天井を見るだけでも、これまでに感じた事のないような異質な雰囲気が漂ってくる。

アルシュにはここがクモレイア村でない事をすぐに察した。

おそらくマシールによって連れて来られたのだろう。しかし、何のためなのか。その意図が掴めない。だが少なくともあの男の事だ。安寧などここにありはしないのだと、アルシュは思った。


とりあえず、何とかここを出るための手がかりを探すためにも、ベッドと言うには硬すぎる岩の台から体を起こそうとする。


「な、なんだ一体...!?クソッ...!」


しかし、手足が重く、ジャランと金具の音を鳴らしながら、何かが体を引いて起き上がるどころか身動きすら取れない。

唯一自由の効く頭部を起こすと、四肢に鎖が繋がれているのが見えてそれが原因だと知る。

首の可動域の許す限り、アルシュは辺りを見渡す。五人程が入れば足場がなくなりそうな密室。

壁天井は岩の材質でできており、岩をくり抜いて作ったかのような部屋の内部は石の台以外に、椅子やテーブルは置かれておらず、出口のドアだけは鉄製だった。

突然、そのドアがゆっくりと開く。錆びついた耳障りな音だったが鎖によって自由を奪われたアルシュは耳を抑えることすらできない。


「誰だ...?」


首を横に回すことで、視界に映る出入り口からは、一人の男が入って来たのを確認した。

兵士のように見えた。光沢のない銀のプレート、洋袴の下に鉄板付きの革のブーツ、頭には胸当て同様に古びた兜を装備し、手には先端が鋭く伸びた槍を携えて柄の先端を地に力強くつく。


「起きました!」

「そうか...」


兵士の背後、入り口の奥から聞こえて来た重苦しい声を聞いた瞬間、胸の内がざわめいた。それは二度と聞きたくなかった、耳を掻きむしりたくなるような忌まわしき音。

そして、その音の持ち主が部屋の中にゆっくりと入って来る。

闇を纏わせたかのような漆黒のマント。裾は破れ、その男の歪さを物語っているようだ。

その影の一端を目にした時、アルシュの激情が渦巻く。


「マシールゥッ!!」


恐怖と憎しみが蘇る。村を襲った黒マントの男に向けて、声にならない叫びが放たれる。

会いたくは無かったが、頭の中でこの男が死ぬ様を何度も想像した。

八つ裂きにし、捻り潰し、笑ってやった。その想像した事を再現するため、アルシュは自由を奪われた上半身を無理やり、鎖を引きちぎる勢いで起こそうとすると、金属の騒がしい音が部屋の中で響いた。


「こっちに来い!!殺してやるっ!!」


兵士の様な装いの男性は、身動きが取れないと分かっていても、石台の上で暴れ狂うアルシュの迫力に動揺し、槍の先端を向ける。


「槍を下げろ、大丈夫だ。今のこいつには何もできやしない」

「で、ですがこいつ、鎖を外せばすぐにでも襲って来ますよ!?」


武装した男性はマシールに穏やかに宥められる事で深く息をはき、槍の先端を天井に向けた。

それでも激しい殺意を向けて来るアルシュに体の強張りが治らない。


「そうだな。こうなる気はしていた...ここは下がってろ。話は俺がつける」

「分かりました...」


兵士のような男性は懸念を浮かべながらも言われるがままに部屋を出る。




その傍で、如何にして血眼に映るマシールを仕留めようかと思考する。距離が縮まれば、この腕はあの男の首元に届くだろうか。

が、近づこうとする様子はない。


「何だその目は...?まさか、全力で敵わなかったお前がそんな状態で俺を殺せるとでも思っているのか...?」


奴が自分に話しかけてくると言うだけで体が凍えるようだ。

アルシュは心に巻きつけられた鎖の冷たさで身震いし、かつて身を持って知ったマシールの得体の知れない恐怖を思い出す。

全身が強張り、鳴り響く鎖の音が止む事で、束の間を静寂が漂う。


「アイツらはどうなった...」

「どうやら、少しは大人しくなったみたいだな。じゃあ、話をしてやろう」


アルシュの中では生き残った仲間たちの安否が気がかりだった。最後の記憶はうっすらと残っている。アルシュの身と引き換えに虐殺を止める。その交渉にエリンは悩んでいた。

家族のように慕ってくれた。そんな彼女やマリカがマシールの提案など飲むはずがないのだ。だとすれば...。

考えたくも無かった。仲間が居場所が、思い出が、マシールによって簡単に打ち砕かれる様など脳裏に浮かべられるはずもない。


マシールはアルシュの理性が戻りかけた事を確認し、頬を緩める。それから入り口の横にあった小さな椅子に腰を下ろして、これまでの経緯に付いて話し始めた。


「最後の獣族を仕留めて以降、俺は奴らに手は出していない」

「....っ!」


その答えに、アルシュの心は軽くなったと同時に、キルガを失った事への悲しみが襲う。

友は死んだ。目の前でこの男に斬られたのだ。

拳が強く握られ、歯が軋み、琥珀色のギラついた目には涙を浮かべる。


「なにせ、俺がお前を引渡すように提案すると、アイツらは自分たちの身と引き換えにすんなりとお前を差し出したんだ」

「すん...なり?」

「ああ、躊躇いなくな。あの金髪の女曰く、これ以上死人を出すくらいならお前一人が犠牲になった方がマシだとよ」


疑問の綻びが消えると共に、思考だけ、時間が止まったかのように停止する。

分かっている。マシールは自分なりの解釈でアルシュにその時の情景を伝えているだけに過ぎない。

きっとエリンにとっては苦渋の決断だった筈だ。答えを出すのに苦しんでいた筈だ。

なぜなら彼女はアルシュを家族のように扱ってくれていたのだから。

それでも何か、疑問符が脳裏の余白を埋めて行く。


「エリンに...アイツらに...葛藤はなかったのか...?」

「ああ、全く無かったな。思案したのもほんの数秒。俺が村を出る頃、お前の姿を惜しむ者は一人もいなかった」

「そん...な....嘘だ...!」

「嘘だと思うのならそう思っていればいい。どの道、もうお前が奴らに会うことはない」


考えても見れば当然だ。エリンとて一個師団の長。アルシュ一人よりも大勢を救う方が理に叶うという考えはその小さな頭でも理解ができる。

だが、友だと、家族だと思っていた。深い絆があると思っていた。だからその判断を下すまでに躊躇って欲しかった。苦しんで欲しかった。

だが、マシールの口ぶりからすると、エリンは非情な英断を下した事に一切の負い目も無かったようだ。


「嘘だ」


アルシュはそう何度も自分に言い聞かせた。敵の術中に嵌ってたまるか。早くここを出てこの目で確認するまでは、


『もういいだろ、お前はここから出られない』


しかし、マシールのその言葉が心に突き刺さる。もうエリンやマリカらに会う事はできない。

それに戦争の最中だ。助けに来てくれる事もないだろう。


「そんな....!」


アルシュは悲壮に顔を歪めた。

故郷だけでなく、仲間にさえも見捨てられた。やっと出会えたと思ったのに。居場所を見つけたと思ったのに。もう、帰る事ができない。そう認識する事で気持ちは暗く沈み、喪失感によって強張る体からは力が抜けて行った。


「俺を...どうする気だ...」


失意に支配される中、アルシュは先程からは考えられないほどの酷く冷めた声で、疑問を口にする。


「お前には今からそれを見せる。お前の新しき居場所であり、墓場だ」


呼ばれて来た兵士は懐に持っていた鍵で、アルシュの体を引き止める鎖の錠を外していく。

心の砕けたアルシュには戦意が無く、空気の抜けた風船のように萎んでいた。


右腕が自由になった。しかし、マシールを引き裂こうともしない。

右足が自由になった。しかし、マシールを蹴り砕こうとはしない。


嘘だ、嘘だ、嘘だ、嘘だ、嘘だ、嘘だ、嘘だ。

マシールの言葉が偽りだったに決まっている。

だがもし本当だったとしたら、エリンから受けたあの温もりは、マリカとの友情はなんだったのか。アルシュには、かつての仲間たちに向ける感情に躊躇った。

水を失った魚のように口をパクパクさせるアルシュを見て、マシールは含んだ笑いを見せる。

そして、アルシュの腕を引き、兵士は彼を次なる地獄へと連れていく。

乗り越える気力のない脆弱と化した少年は、死期が迫る事すら考え無いまま、薄暗く、細い通路をただ強引に導かれるがままに進むのだった。





           ◆




「ここだ。入れ」


そして、扉は開かれると、眩いほどの光にアルシュは目を背けた。

通路の奥の部屋に足を踏み入れると、兵士はアルシュの背中を強く押し、よろめきながら入ったのを見ると、鉄のドアを強く閉めた。

広さは先程いた部屋の五倍はあった。岩をくり抜いたかのような乱雑な作りの空間。端には鉄格子が括り付けられ、数人ほどが、外の景色に釘付けのようだ。


少年の気配に気付き、振り返る。獣族、アスラ族、小人族など、多種多様な種族がいる事が分かった。皆服はボロボロの奴隷服を着せられていて、どいつもこいつも顔の人相が悪い。

煤や傷の入った顔やギラついた目つきがアルシュの印象に焼き付いた。


「新入りか?ケッ、こんなヒョロガキを連れてくるなんて、タウフィクも物好きだな」

「おい、こいつ何日でくたばると思う?俺は3日」

「そりゃ早すぎだろ、5日は保つんじゃねえか?」

「バカ、そんなに生きられるかよ。明日だろ」


男たちは暇つぶし感覚で新入りの運命を予測し出すが、怒りは湧かなかった。感情を爆発させる気力など、今のアルシュには残されていない。

マシールから得た情報を反芻する事に忙しかった。

あの時は仕方がなかったのだ。大勢の代わりに自分だけが助かろうと思うほど下劣な思考は持ち合わせていない。一刻の猶予もない中、下した選択に、後悔など無かったのだろう。


アルシュはなんとか自分に言い聞かせる。エリン、マリカの中でアルシュは死んだ。今頃彼女らは気持ちを次に進めて、笑っている。


「おい!決着がつくぞ!」


一人の中年が鉄格子の向こう光に目を離さないまま、声をあげる。

新入りの話題で盛り上がっていた連中は即座に鉄格子を掴み、外を凝視する。

アルシュも彼らの肉の壁の隙間から、外の様子を眺めた。


円状の舞台の中心を囲み、互いを睨む二人の青年の姿があった。片手に持った剣と盾を構えている。体からは夥しい程の血を流し、白の石のタイルを赤黒く染めている。それでも彼らは互いに向けた刃を振る。その様子を囲むように、建物の2階に位置する客席から眺める観客からは極才色の歓声が鳴り響き、中にはリング上へ身を乗り出す者も見える。


『殺せ!そいつを生きて帰すな!』

『頼んだぞ!お前には500ゴルを賭けたんだ!死んだら承知しねえぞ!』


その声は狂気を纏い、その広い空間全てを殺伐とさせる。殺し合う二人。熱い観客たちの冷酷な声援。アルシュは自分の置かれた状況を理解する。

マシールはアルシュを死ぬまでここで戦わせるためにここへ連れて来たのだ。


「決闘...」


「うおおおお!」

「....っ!」


アルシュが小さく後退りした時、リング上の一方の戦士の持つ剣がもう一方の胴を切り裂き、赤い雫が舞い、力なく崩れる。

観客たちからは声にならない程の悲鳴、怒号、歓声、喝采、絶叫が放たれ、けたたましく鳴り響く。


「俺って...ここから死ぬまで....」


戦わされるのか。そんな考察が浮かんだ時、アルシュは背筋を震わせて、見えていたはずの展望に光を見出せ無くなった。 


「やあ、見ない顔だな。お前新入りか?見たところ竜族みたいだから元々この国の住人じゃなさそうだが」


唇を噛み締めて座り込むんで顔を埋めるなか、白い髭を生やした老人が気さくに声をかける。小人族か、その手足の小さな体は腰を下ろすアルシュを頭一個分程超える程度だ。

所々が破れたチュニックの上にベストを着用し、黒く荒んだ洋袴に小さな足を通して、童のサイズに合わせたような小柄な革ブーツを履いている。


「話しかけるな。そっとしておいてくれ」

「まぁ、そう言うな。名前はなんて言うんだ?ワシはサイード。見ての通り小人族だ」

「....」

「ま、まぁ確かに話したくないのも分かる。さっきので分かったとは思うが、ここは闘技場。ましてやここはプーティアだ」


アルシュは柔和な顔に目を向けず、口も開こうとしない。サイードは困惑して見せるが、臆せずにアルシュに声をかける。


「プーティア...?」


アルシュは失せようとしない中年が目障りに感じていたが、ここで初めて聞いた。自分の今いる地名に些細な興味をむけた。


「ああ、そうだ。成金の天国で奴隷の墓場と言われてるような国だ」


聞いた事もないような国だったが、サイード曰く、プーティアはジルドラス王国より遥か南にあるマーラ砂漠のど真ん中に位置する国だそうだ。

そこで王は奴隷を利用する事で莫大な富を生み出し、国を運営している。

その大金を産む手段の一つが闘技場での決闘という訳だ。

決闘は三日に二度行われる。参加者は五人の貴族が主催者となって開催している。彼らは一日に最低一人の奴隷を駒として戦わせなければいけない。

観客はどちらの戦士が勝つかに賭ける。勝利した際の上乗せ額は勝率が低い程高額となる。

負ければ大損。観客たちが失ったその金額一部の税を除き、勝利した奴隷の主人に行く。


「つまり、王様の命令で俺はマシールに...?」

「いいや、それは違う。主催者の金持ち共が各々で用意した奴隷戦士をここへ連れてくる事になっている。ワシらの主人はタウフィクという男でな?いけ好かない顔の男だ。マシールはその用心棒と言ったところだな」


不意に、待機場で蹲る少女の姿が目に入った。歳は15より少し上と言ったところか。白を基調とした煤の入った上衣に動揺に白いブレーに素足を出している。桃色の髪の上には獣の耳が生えている事から獣族だと分かる。

あの少女もマシールに連れて来られたのだろうか。


「あいつの名はスピカ。タウフィクのお気に入りでな」


サイードはアルシュがスピカと呼ばれる少女に視線を向けていたため、それに合わせるように説明する。


「あいつは、一見するとただの女の子のように見えるが、決闘では無敗を誇る戦士の一人でな。英雄の一人って呼ばれてるんだ」

「英雄?称号?」

「ああ、強い戦士につけられる称号だ。それは観客たちが勝手に呼んでるだけの名前に過ぎないが、まぁそんな大それた称号が一人の少女につくなんて。全く、神は残酷だよ」


あの少女に力が無ければここに連れて来られる事も無かっただろうに。と、サイードはスピカを憐れむ。

特に驚きもしない。身の丈に合わない力を持った少女はクモレイア村にもいた。

アルシュは眉ひとつ動かさずにサイードの言葉を耳に入れるとドアが開いた。


「スピカ!指名だ!」


兵士は待機場のドアを強く開いて声を張り上げる事でスピカは立ち上がり、無言のままその場を去る。


「チッ!あのガキ、いつも調子に乗りやがって」

「あの、強いのが当たり前って顔が気に食わねえ」


彼女がいなくなると、途端に周囲の奴隷たちの騒めきがスピカへの嫉妬の色へと染まって行く。

どうやら彼女はここの奴隷たちには歓迎されていないようだ。


「ちなみにあいつらは名無しって言うんだ。名前がないわけじゃないが、期待値が低いから衛兵にも覚えてもらえない。まぁ、ワシもそうなんだが」


サイードは関心を見せないアルシュに苦く笑って自分の後頭部を撫でる。


「まぁ、兎に角だ。あまりスピカに関わらない方がいい。そうなればお前も名無し共の標的となりかねない」


「助けたいって、思わないのか?」


「それはもちろん、助けてやりたいさ。だから最初は声もかけてたんだが、あの子はそれを拒むんだ」


アルシュにはサイードが面倒事から避けるための口実を作っているように見えた


「それで、すぐに諦めたのか?」

「だって、仕方ないだろ?稽古の時に木剣脅されて、はっきりと言われたんだよ『余計なお世話だ。もし次に話しかけて来たら容赦しない』ってな」


サイードはアルシュに人格を疑われていると思い、焦ったように事情を話す。

それが本当ならスピカという少女は誰かと関わる事に慣れていないのだろうか。

それとも、本当にタウフィクのお気に入りとしての自覚があるから周囲を見下しているのか。



「それにあの子の孤立を先導しているのはあのロメオだ。殺人や窃盗を繰り返してきたあの悪漢には関わりたくない」


サイードは特に指で示す事はなかったが、ロメオという男が誰なのかが分かった。

待機場の奥の壁に腰掛け、胡座をかく身長はアルシュの倍近くありそうだ。筋肉の張ったゴツゴツした顔の中心に、斜めの傷跡が入っているのが印象的だ。


「ハッハッハッハッハ!ざまあねえぜ!スピカのやつ!あいつの味方なんて誰もいねえんだからよ!」

「全くだぜ、これで死んでくれたらもっと嬉しいんだが」


手入れの行き届いていない焦茶の逆立った髪は周囲を威嚇している。

隆々と岩のような膨れ上がった筋肉を見せ、破れかかった衣服を被せていた。ロメオの声は誰よりも高く、彼が笑い出すと、周囲の取り巻きもそれに合わせて笑っていた。


外からの歓声が大きくなる事で戦いが始まろうとしている事が分かった。

アルシュは鉄格子の向こうを覗くと、先程までそこに座っていた少女とは思えないような容姿をした戦士の姿がリング上にあった。


胸のプレートは胸が女性用のためか、胸元の部分が浮き出ている。手元は銅の籠手を装着し、マントを靡かせている。

腰当てをスカートのように見立てて、太ももを露出させ、足に銅のブーツを履いている。

素顔が赤いトサカのついた兜で見えなくなっている事もあるが、アルシュは目の前で剣を構える勇ましい姿の戦士が、本当に先程待機場で疼く待っていた少女なのかと見紛う。


相手はスピカを超える体躯を持っている。口に蓄えられた黒い髭が特徴的な男性だった。胸当てを装着し、鍛え上げられた腹直筋を剥き出しにしたその男の片手には、両手剣が握られていた。

しかし、威風堂々とした身なりであるに関わらず、その刃先はカタカタと震えている。

アルシュには、その男がまるで怯えているかのように見えた。

大の大人の戦士が一人の年端もいかない少女に怖気付く姿など滑稽に思えるはずだが、それを笑う者は誰一人いなかった。


「スピカ、今回も頼んだぞ!相手は強敵だがしっかりやれ!」

「シュート!絶対に勝て!お前に全てを注ぎ込んだんだ!負けたらぶっ殺してやる!」


互いの戦士に賭け金を投じた観客らは熱烈な声援と共に、焦燥を煽る。


「いつまでも、調子に乗っていられると思うなよ...!」

「だったら、本気でかかって来なさい」


スピカはそう言って、片手剣をシュートと呼ばれる戦士に突き出して構える事で、戦闘体制に入った。

シュートは息を呑んだ。すると、騒がしかった観客の声が弱まり始め、誰もが戦いの始まりを予感しているようだ。その張り詰める緊張感によってアルシュにも鳥肌がたった。

突如、闘技場の四階、アルシュから見て、東側に位置するバルコニーから聞き慣れない銅鑼の鈍い音が闘技場に鳴り響いた。


すると、武器を構えていた戦士二人が武器を振り翳し、地面を蹴って、互いの間合に迫る。

シュートの両手剣が赤熱を帯び、大気を焼き尽くそうとするような炎を纏う。そのゆらめく姿から、もはやそれは剣というよりは、何かの生き物のようにも見える。


「黒コゲのカスになりやがれ!」


シュートはスピカに向けて振り下ろす。それに対して、スピカは受け身を取るように見せかけて、横に体を逸らして回避すると、彼女を叩き割ろうとした剣は石タイルの一枚を砕き割った。

溜め込まれていた観客の声は爆発するかのように弾けて、闘技場を熱風で包み込んだ。

誰もが試合に目が釘付けで、マントを閃かせながら刃を受け流して行くスピカの姿に、俯いていたアルシュも気付けば自然と顔をあげて見ている。


「火属性?やるわね。威力だけは上等だわ」

「ちょこまか動きやがって...!」


シュートは余裕顔のスピカに対して手応えを感じられないため、焦りと苛立ちを抱いているようだが、スピカは炎に臆することも、息を荒げる素振りすら見せない。アルシュの目からも、その動きに余裕があるようにすら見えた。

スピカは剣を一度も振っておらず、敵の炎の振りを避けるばかりだった。


「この...!」


怒りに支配された戦士はその感情とは裏腹に、一旦攻撃を止めて間合いを取った。


「何やってるんだ!怖気付きやがって!」

「スピカ!チャンスだ!」


謎の行動に理解が及ばない観客達が憤りと焦りをリング上のシュートに向けて吐き出す。


「なんだよアイツ、ビビって引いたのか?」

「ちっ、つまんねえな」


アルシュの傍で笑っていたロメオたちにはシュートがただ恐れ慄いて下がっているようにも見えた。


「今回もスピカの勝ちか。まぁなんにせよ、生きて帰って来るなら御の字だな」


サイードもその言動を疑う事なく、スピカの勝利を確信しかけた。

しかし、アルシュは気付いていた。空気がピリつき、揺れている。


「違う...」

「あぁ?」


アルシュは無意識につぶやく事で、先程まで高笑いをしていたロメオがアルシュの方に視線を下し、睨め付けた。


「....っ!?」


その隙に、闘技台に強い光が放たれた事で、その血走った眼光を向き直す。


シュートが両手剣を肩に掲げて眩い程の光を込めている。今のアルシュになら、それが魔力による現象だとすぐに分かった。そしてその威力は身をもって知っている。

掠りでもすれば切り傷程度では済まされないだろう。一見すると、それを少女に対して使うのは、あまりにも無分別だ。

だが、シュートに迷いはなく、赤く輝く両手剣を掲げている。

それでもスピカは腰を抜かすどころか、その体に見合った小さな盾と片手剣を構えたまま、渾身の一撃に備えていた。


「これでも、避けられるかぁ!!」


シュートは獲物を振り翳し、力いっぱい地面を蹴りつける。

そして風を切りながらスピカとの間合いを詰めて、圧倒的な凶器を振った。

それはほんの一瞬の出来事だ。闘技場内に光と共に暴風が吹き荒れ、土煙がまう。観客たちは顔を手で覆い、吹き飛ばされないように姿勢を低くする。しかし、その頃には光も風も止んでいる。

スピカのいる背後の壁に縦傷が入り、その威力を物語る。


「し、死ぬかと思った....!」

「おい、危ねえだろ!!」


前席に座る観客達は震撼し、憤慨している。被害はなかったとはいえ、もしもあの一撃が体に直撃していたら一溜りもなかっただろう。


「なっ...!?」


しかし、今のシュートに観客達の怒声を気にしている暇はない。

その一撃によって勝敗を決めるはずだった。勝ったと思った。だがその顔は驚愕を浮かべている。


渾身の一撃は当たらなかった。スピカは剣を振られる直前に、背後に回り込んでいた。そのまま敵の後頭部に向け、脛当ての鉄板をぶつけるようにして、足蹴を喰らわせる。

シュートは悶絶しながら膝をついて頭を押さえながら後ろを振り向くと、彼女が刃先を敵に向けている。


「あんたの負けよ。死にたく無かったら降参しなさい」

「くっ...。こ、降参だ...!」


男は悔し気に敗北を認めると、再度銅鑼の音が鳴り、試合の終了を知らせる。


「スピカ!いい試合だったぞ!」

「よくやった!次も頼んだぞ!」


直後、スピカに対する賞賛が沸いた。闘技場には花束が投げつけられ、その勝利を祝っているかのようだった。


「シュートのやつ!せっかく金を賭けてやったというのに惨敗しやがって!」

「何やってんだ!そいつを殺せぇ!」

「トドメもさせねえで何が戦士だ!お前なんてさっさとくたばっちまえ!」


誰もが彼女に好意的な訳ではない。中には侮蔑と共に泥を投げつける者もいた。

一方シュートに大金を賭けたと叫ぶ客は怒りに嘆き、殺意を湧き立たせていた。

アルシュの中で、その光景に胸が騒つくのを感じたが、感情が欠如していたためか、何故なのかはわからない。


「スピカは幼いながらに実力者だが、殺生を嫌っている。連中には金か血を求めに来る者も多い。だから目の敵にされるんだ」


サイードは観客たちの悪びれない様子にため息を吐いて、アルシュの傍でスピカの不遇を哀れんだが、やはり自身の力の無さを理由に割り切っているようだった。



アルシュは「そうか...」と小さく答えると、胸のざわめきを手で押さえ、疑問を疑問のままに押し留める。そして、戻って来たスピカに関心を向けようともせず、鉄格子の向こうに見える観客たちの醜態から目を背けてしゃがみ込んだ。

その一戦や、スピカに思う事は何もなかった。

あの少女が不憫に感じたのも事実だが、何もせずに傍観しているサイードに対して湧き上がる感情などはない。

正直どうでも良かった。誰かの不幸とか、苦しみとか、アルシュにそれらを受け止めようとはしない。

疲れていた。誰かの事を考えるのに。誰かのために苦しむことに。




          ◆






その後も決闘は幾度も行われて、多くの戦士が血を流し、倒れる度に観客達は歓声で闘技場を埋め尽くした。


観客たちのあの狂ったようま表情はどこかで見たことがあるような気がした。しかし、思い出すことが出来ず、ただ戦士達の最後を看取りながら、不安を抱きながら自分の名前が呼ばれるのを待った。


が、その日、アルシュは闘技台上に上がる事なく、決闘は幕を閉じた。

夕陽が沈みかけ、空が橙色から群青色に差し掛かる時、命を拾ったアルシュはサイードやスピカ同様に手を縄で縛られて、一列に並ぶようにして細い通路を通ると、闘技場の出口から光が差し込んでいるのが見えた。

アルシュはここで初めてプーティアの光景を目にした。


闘技場の正面からは通りが見える。すぐ傍には、歴史ある石造の質素な建物が軒を連ね、向こうには黄金色のドーム状の屋根が屋台が立ち並び、人々を見下ろしていた。

おそらくこの場所は商売地区で向こうは上層地区と言ったところだろうか。

商売地区では多くの露天商が立ち並び、香辛料や野菜、肉などが売られているが、その中で人身売買を行っている店も見られる。


そんな異様な光景には自分たちと同じ身なりの奴隷の老人が首に鎖を繋がれ、横たわり、裕福そうな身なりの男に何度も蹴り付けられている姿も映っていた。


「よくも逃げようとしやがったな?またちゃんと思い知らせてやらないとな!」

「た...助けてください...!」


その言葉を聞くに、その男は主人だろうか。煌びやかな刺繍の入った羽織とターバンを被った男性は老人を痛めつけ、笑みを浮かべながら罵声を浴びせている。


「もうっ、汚らわしい。そんなの捨てて早く新しいの買いましょうよ」


一方、ドレスに身を包む付き添いの女性が奴隷の姿を見て鼻を人差し指と親指で摘んでいる。

奴隷が人として見られておらず、まるで道具のように扱われ、虐げられ、飼い主はそれを見て笑っている。


またしても、アルシュの胸の内が僅かに騒めく。そして、裕福そうな身なりの者たちの嗜虐的な表情を見て思い出す。

奴らの作る表情はジルドラス王国で見たことがある。種族は違えど、奴隷を見下し痛ぶる様は忌まわしき竜族たちにそっくりだった。


ジルドラスではないが、アルシュにとって、プーティアで見た光景はあの腐りきった故郷となんら変わりはない。サイードの言う通り、ここはまさに奴隷にとっての墓場だった。


しかし、鎖で繋がれたアルシュにはどうする事もできず、抵抗する気力すら湧かない。

虚脱するアルシュには今ある現状を飲み込めず、反芻する事のみで精一杯だった。



それから闘技場のすぐ隣にある瓦屋根の白い石造りの大きな平屋へ誘導される。

その内部はアルシュの想像通りの風景だった。

長い廊下は薄暗く、湿気が漂っていた。

個別に用意された牢が並んでいる。おそらく今から寝泊まりする場所なのだろう。アルシュは何度も牢に入れられる経験をしていた為、このような環境には慣れており、床に藁が敷かれているだけまだマシだと感じた。


奴隷たちは奥の部屋に連れて行かれるが、アルシュは牢の一室に押し入れられ、鍵を閉められた。

おそらく新人だから扱いが違うのかとも思ったが、アルシュは特に気にすることもなく、狭い牢の片隅で蹲る。


「食事を持って来てやったぞ。食え」


やがて、給仕を任された兵士がアルシュの牢屋に食事を運び、牢の下の隙間から硬いパンと、得体の知れない黒く濁ったスープの入った器を滑らせるようにしてアルシュの元へ送る。


「いらねえよ、こんな....!」


そう呟いた瞬間腹が鳴り出す事で、クモレイア村でマシールと遭遇して以降何も口にしていない事を胃袋から鳴り出す音で思い出した。


アルシュは迷う事なく、ただ黙々と硬いパンを噛み砕き、黒いスープと共に喉に流し込む。

口の中で血の生臭い味が粘り気と共に舌にこびりつくようでひどく不味かったが、あまりの空腹でそれどころではなかった。


食事を終えると、アルシュは大の字になって石でできた天井を見上げた。

腹は満たされたが、心までは満たされない。いつ、この暗闇に光を見出せるのだろうか。

以前見た夢が予知夢であれば、アルシュはまたマシールと戦う事になる。

それまでにこの体が保つだろうか。仮にここを出られたとして...。


「あれ...?」


不安と恐怖が混在する中、アルシュは心の異変に気付く。


「俺って....なんで生きようとしてるんだ?」


自由を奪われ、希望を失ったアルシュにはいつの間にか、生きる意味を見いだせなくなっていた。




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