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61話 魔物の残した傷跡

暗闇の中でアルシュは呼吸を荒げていた。眼前には黒装束に身を包んだ乱れた黒髪の男が無精髭で覆われた口角を持ち上げて、片手に持った丸い鍔の刀を自分に向ける。


「どうした?来いよ...強くなったんだろ?」


その男はどこかで見かけたような気がするが、思い出す事ができない。

気付けば、体中に浅い切り傷が現れ、血を吹き出している。

痛みは無かったが、吐き出す息吹が凍りつきそうなほどに寒い。エレハイネ砦で感じたような悪寒がその身を襲う。


逃げたかったが、背後にはクモレイア村の壁が見える。ここで退けば皆が命を落とす。

それに、怒りが鎖となってアルシュをこの場に留めている。

その感情に至った原因は分からないまま、アルシュは燃え盛るような感情を力に変えて、地面を蹴り砕く。


そして刀を振り落としたが、その前にアルシュの胴体が斜めに裂けて地面に崩れ落ちた。

痛みは無かったが、寒さが増して、体の感覚がなくなって行くのを感じる。

それでもなんとか顔を見上げると、黒装束の男にはどこか悲しそうな表情が見えて、そのままアルシュの意識は土に埋もれ、闇に沈んでいった。







「....っ‼︎」


アルシュはベッドから体を起こすと、日が照りつけ、腹のあたりを照らしていた。

仰向けで窓を眺めると空は青く澄んでおり、すでに正午を回っているようだった。


「マリカは、さすがにいないか」


首をキョロキョロと動かして辺りを見渡すが、マリカはどこにもいない。

彼女がいつも放っている香水のフローラルな香りだけが残されていた。


「また予知夢か...!それに今回のは、自分の命が関わっている....」


アルシュは夢での記憶、感覚に背中を凍り付かせた。夢で出てきた人物は何者だったのだろうか。これから戦う敵なのは分かるが、顔だけがなぜか思い出せない割に、どこか懐かしい感覚すらあった。


とりあえず、ベッドから足を落ろそうとしたが、ここでアルシュは左足の骨を折っていた事を思い出し、唖然とする。


「い、痛くない...?おかしい、確かに俺は左足の骨が折れた筈なのに」


包帯は巻かれていたが、足の感覚ははっきりとしており、痛みもなく、まるで最初から怪我などしていなかったようだった。

骨を折った場合、治療魔術を使ってもすぐには治らない。

思えば、アルシュはこれまでに幾度となく自分の体の異変を体験していた。


イシュアンや、ザッケスとの戦いにとどまらず、

今回は体を高所から地面に叩きつけられても大したダメージにはならず、ニルバの尾を掴み動きを封じる程の力を発揮していた。

いつからこれ程の力が備わったのか自覚はなかったが、マリカからの渾身の一撃を受けても「痛い」で済むのだから恐らく常人の域を超えている事は間違いないのだろう。


アルシュは完治した左足を床につけて立ち上がり、そこに意識を向けながら歩き、誰もいない寮を出た。


「すっかり変わってしまったな」


寮を出て坂を下り、大通りに続く小道を抜けると、魔物の襲撃は、深々と街に爪跡を残していた。

破壊された家屋、散らばった木片、団員たちの血痕。

アルシュの知る大通り風景は変わり果て、殺伐とした空気が辺りを包み込む。



「あいつら、もしかして、死んだ奴らを埋葬するために墓地にいる?だから誰もいないのか?」


仲間たちがいそうな場所に向かおうと、アルシュは村の外れにある墓地へと向かう。


墓地と呼ばれるその場所はかつて共に戦った団員や、村人達の眠る場所、と言うことになってはいるが、戦争で死んだ者たちの遺体は全て持ち帰れるわけではないため、ここに並ぶ墓石は二百と、これまで死んでいった兵士たちの数にしてはあまりに少ない。


しかし、今回はこの村が戦いの場となっているため残った遺体やその一部はこの墓地に埋葬されていた。


「なんで、なんで死んじまったんだ!今日、一緒に飲もうって言ってたじゃないか!」

「私、あなたがいなくなったらどうやって生きていけないいの...!」


アルシュが来た時には葬儀は終わったのか、数人程しかいなかったが、村人が墓石の前で膝をつき涙を流しているのが見えた。


「なんでだよ...!俺たち、勝ったんじゃねえのかよ...!」


昨日の勝鬨が幻想であったとさえ思えてくるような、現実を前に、アルシュは歯噛みする。

被害は最小限に納められたはずなのに、敗北感にも似た後味の悪さが心を曇らせる。

これ程悲しむ人々がいて、喜べるはずがない。これほど苦しむ人々がいて、笑えるはずがない。


「そりゃ、救われたなんて思えないよな...」


ふと、アルシュはアルバ村を訪れた時のニルバの言動を思い出だし、同じ立場である事に気付く。

村は救われた筈なのに、あの男から湧き出る負の感情は留まること知らなかった。


今なら理解できる。いくら勝利したところで傷つけられ、失ったものたちの心を埋めることはできない。

ここにいる誰しもが例外ではない。そうやって心に傷跡を残して生きていくのだ。


「おや、アルシュじゃないか。お前もここに来ていたのか」


不意にアルシュの耳を掠めたのは歩兵師団団長、ミカイルだった。彼は顔に憂いを浮かべている。


「そう言うアンタこそ、いったい何の用だ」

「俺にとっても彼らは共に戦った仲間だ。死を労わりたい気持ちくらいはある。それに彼らが死んだのは俺の責任だ。だから謝りに来た」


ミカイルはアルシュから目を背けて拳を握る。


「謝る必要なんてないよ。アンタは最後に戦う事を選んだ。だから俺たちは勝つことが出来たんだ」


ミカイルが必死に魔物を誘導してくれた事を知っている。もしあの時、彼が動いていなければビヨルンと共に間違いなく死んでいただろう。

アルシュは感謝の意味も含めてミカイルに励ましの言葉を送るとミカイルの頬が緩む。


「そう言ってもらえると嬉しい。あまり貢献できたとは言えないがな」

「少なくとも最後はできたんじゃないか?だから俺は助かった。それよりも、今気に食わないのはニルバを怪物に変えたやつだ」


アルシュは心に憎悪と戦慄を抱く。このような真似ができるのはエレハイネ砦で出会ったあの男に他ならない。

対象の人物を怪物に変えてかつての仲間を襲わせようと言う発想に虫唾が走る。

そして、それ程卑劣な男が、今もどこかでノウノウと機を伺い、ほくそ笑んでいると思うと悍ましくて仕方がなかった。


「ああ、絶対に許せない。ニルバをあのような姿に変えたその男が...!」

「探さないと...もしかしたら近くにいるかもしれない...!」

「本当なら探し出してすぐにでも奴の首を切り落としてやりたいところだが、無闇に捜索するのは無謀だ。それに次にあのような怪物がこの村を襲うとなると次も勝てると言う保証はない」


ミカイルは昨夜での話し合いの内容を話す。例の青年の呼称が「闇の魔道士」と命名された。

今後の被害を避けるために、クモレイア村とアルバ村を行き来する頻度を最小限に収める事になり、結果としてミカイルは当分の間、クモレイア村から出る事ができなくなった。

友とも言える腹心を失い、今現在、あの村に指導者はいない。


「だが、俺は諦めない。ニルバと約束したんだ。カヤールを勝利へ導くと。だから俺はもう屈しはしない。必ずその闇の魔導士を倒すためにも、今は刃を研ぐんだ..!」


ミカイルは目に力を宿して、強い口調からは決意が感じられる。

彼の意志に、アルシュはそっと頷いた。しかし、一点だけ納得できない箇所があった。

魔導士を倒すのは俺なのだと、内心でミカイルの意思を握り潰した。


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