5話 忘れ難い屈辱
「マシール、どこだぁ!」
アルシュはマシールが今日もナフィランドにいないか探す。森に迷った彼が見たものは戦いではなく一方的な惨殺。あの男の強さが相当なものである事は、戦いの経験がなくとも十分に理解できた。
1人への戦士への羨望は身体中に張り巡らせる戦慄をとうに追い抜いている。
あの男のように強くなりたい。
きっと彼はまだこの村にいる。また教えを乞えば受け入れてくれるかもしれない。父が畑仕事へ行っている間、アルシュは躊躇いなく家の扉を開けて外へ飛び出した。
ナフィランドは小さな村だがそれなりに人で賑わっていた。辺りを見渡し、昨日の男がいないか探す。しかし、以前出会った黒いマントの男は見当たらない。アルシュは後頭部を掻きながら息を漏らした。
「いると思ったんだけどなぁ」
ここにマシールの姿は見当たらない。しかし諦める事はできない。俺は自分を仲間外れにし、迫害する連中を見返すために強くならなければいけない。別にあの男でなくても気高く強い人物であるなら誰でも良かった。
それなら他の村を探してみようと考えたアルシュは村を出て南方にあるクスルゼインへと向かう。
田畑と小さな建物が並ぶナフィランドの周りには草原が延々と広がり、目を凝らすと、遥か向こうにクスルゼインのシンボルとなる細長いミナレットが目立つ。
あまりナフィランドを出ることがなかったため、クスルゼインに行くのは久しぶりだった。最後に行ったのは2年前だったか、その時はジャミルも一緒だった。
露店の並ぶ街並みを2人で歩き、キャンディを食べさせてくれた父との思い出は輝かしいものだった。
しかし、嫌な思い出もある。拭い去りたくとも、消えない過去。それは未だ、アルシュの心に残り続け、暗闇を宿していた。
その日もジャミルと共にクスルゼインへ向かい、魔道具を売る露店を訪れる。
父は灯りのつく魔力石を手に取り、銅貨を商人に渡した。
「これをくれ」
「あいよっ。おやおや?」
商人の目に商品を物珍し気に眺める客の息子の姿が映る。子どもの目を輝かせる姿に愛嬌を感じた彼は、優しく問いかける。
「坊主、一体どこから来たんだい?」
息を飲む。うまく納得する答えを出さねば。と、父が口を開こうとした直後、
「ナフィランドだよ!」
「コラ!アルシュ!」
ジャミルは慌ただしい様子でアルシュの口を押さえようとした。
ナフィランド、下流階級の者しか住む事のない小さな村。
父は何も知らない息子の発言を阻止したかったようだが既に遅かった。
商人の男の優しげな表情は怪訝なものに移り変わり、冷ややかな態度で親子2人を睨め付けた。
「なに、ナフィランドだと?つまりはお前ら親子は下流階級って事か....けっ!どうりで血生臭いと思ったんだ...!お前らに売るのもなんて何もない!俺の商品にお前らの血の匂いがうつっちまうだろ!とっとと消え失せろ!」
そう言って商人の男は父に手に持っていた器に入った水を投げかけた。
「なんてことを!」
その時、アルシュの中で気持ちの糸が切れた。それはまるで、心が風船のように一気に膨らみ、破裂したようだった。
「よくもやったな!」
「な、なんだ?俺を襲う気か!流石は同族狩りだな!ガキでもやる事は一緒だとはな!」
動揺しながらもこの男はアルシュを挑発していた。もし、少しでも彼が商人の男に手を出せば法の元に裁く事ができるからだ。
商人の顔に1発入れなければ気が済まない。彼は握り拳を作って商人との距離を詰めようとする。
そんな怒り狂う息子の左腕をジャミルが抑える。
「父さんに謝れ!それまで俺はここを動かないぞ!」
アルシュは必死になって商人の頭を下げさせようとしたが、父はそれを許さなかった。彼は俯き、前髪から水滴を滴らせ、そっと息子に囁いた。
「何も言うな、帰るぞ…」
「だって…!父、さん…?」
父の顔を見上げ、商人へ向ける怒りの灯火がかき消された。
いつも明るく振る舞っていた父の見せる暗く澱んだ表情に、アルシュは言葉を失った。
初めて見る父のその顔は、アルシュの熱を瞬時に冷まし、やがて凍えるような負の感情が少年を襲う。
深い悲しみが、地面を眺める父の沈んだ瞳から伝わってくる。アルシュはそれ以上何も言えず、ずぶ濡れのジャミルと同じく商人に背中を向ける。
「おい、あいつら下流階級らしいぞ?」
「まじかよ!領主は何をやってるんだ?クスルゼインはヴァイシャの民の街だぜ?あんな小汚い悪党共の来て良いところじゃないんだ」
「というか、この世からいなくればいいのにな」
後ろから、親子二人へ罵り、笑う声が聞こえる。アルシュは激情を押し殺し、打ち震える。そして密かに悔しさと憎しみを噛み締め、堪えた。
アルシュが他の子供から阻害されるのは、子供達が幼いからでも、自身に問題があるからでもない。身分や偏見による差別、それがこの国の、アルシュの苦しみ。
そんな現状が、ただ懸命に生きようとする1人の少年の環境を一層暗く、狭いものにしていた。
しかし、家に着いた頃、一言も話さなかったジャミルは負い目を感じる息子にそっと呟いた。
「友だち、できるといいな...」
「父さん....!ごめん...!!あんなに酷い奴だったなんて俺...知らなかったんだ...!」
「気にするな...お前は今日を経験した分、強くなればいい...」
息子は目に感情が溢れ出し、頬を幾度となく伝う。
ジャミルは1人の親として、アルシュを応援した。不平等な思いをしてほしくない。人並みの経験をさせてあげたい。それがジャミルの願いであることをアルシュは感じ取った。
あの時の屈辱は、今でも忘れない。シュードラという現状が願いを踏み躙る。川辺での出来事で確信した。いくら願った所で友達などできるはずはない。
だったら、せめて父やマシールのよう強くなりたい。彼らの勇姿に魅せられたアルシュにとって、強くなる事こそが自分たちを迫害してきた彼らを見返す唯一の手段だった。
だからアルシュは勇気を振り絞って目的地へ向かう。
父と同様にあの街に行く事に抵抗はあった。足取りも決して軽くはない。だが、迷っている暇はない。自分を強くしてくれるものがあの街にいるかもしれない。
「今に見てろよ?強くなってお前らを見下してやる!」
アルシュはひたすら歩き、村の輪郭を見つけると、すぐさま緑の大地を踏み締め、駆け抜けるのであった。