44話 願掛け
その後、アルシュはマリカと共にエリンのいる稽古場へ向かっていた。
そう言えば、目を覚ましてからエリンとは会っていない。
焦燥が宿り、額からは汗が滲む。鼓動がたかなり、アルシュの脳裏がエリンへの懸念で覆い尽くされる。
彼女はアルシュがイシュアンを倒した事を知っている。今のエリンがどのような心情であるかをマリカに問おうと思ったが、聞くのが怖かった。
失望されるかもしれない。自分を敵だと思うかもしれない。そう言った思いが黒い霞となってアルシュの言動を止まらせた。
丘の上の稽古場にクリーム色の髪を靡かせた女性が脇に挿した長剣の柄に手をかけながら澄んだ空を見上げて佇んでいた。
見たところ、彼女には目立つような怪我がなく、
アルシュは安堵の息をこぼすと共に、そっと呟いた。体の強張りが抜け、頬が緩む。
「エリン、無事で良かった...」
「何言ってるのよ。よりによってエリンがそう簡単にやられる訳がないわ。なんたって夜明けの団で一番強いのよ?」
マリカは誇らしげに鼻を鳴らすと共に、その歓喜に呆れ果てる。
エリンが強い事くらい分かっていた。だが、眠っていたマリカは知らない。砦の中での絶望と恐怖を。誰もがいななき、多くの者が明日を諦めたあの惨状を。
また、大切なものを失うと思った。失いたくないと思った。そして必死に足掻いたが力が及ばなかった。そう思うだけで自分の不甲斐なさにどうにかなりそうだった。
それでもエリンが生きていたのは彼女が強かったからだ。そして守ってくれた。
アルシュは大声で呼びかけようと思ったが、よく見ると、エリンはどこか寂しげで、声をかける事に戸惑った。
そこでエリンの視線にアルシュとマリカがいる事に気付くと潤む眼を擦り、目を細めて重そうな口角を持ち上げて見せた。
「ご、ごめんなさい。やっぱり一人の方がよかったかしら?」
気を遣うようにマリカはアルシュを引っ張って去ろうとしたが、エリンは「大丈夫」と言って空に笑みを浮かべた。
「大丈夫よ。ちょっと考え事してただけ。それより、アルシュが無事で本当に良かったわ」
「ほんとにアルシュったら、あなたが眠りこけてるうちに団長や仲間の葬儀とかエレハイネ砦の人員導入でエリンは大変だったのよ?」
「そうか、やっぱりザッケス団長って死んだのか...」
アルシュがザッケスの話題に触れようとした時、マリカの掌が口を塞いだ
「ふぁひふるんふぁ...!?」
「アルシュ、今ここでそれは言っちゃダメ...!エリンはザッケス団長の事をパパのように思ってたんだから...!」
アルシュはここで初めて、ザッケスがエリンにとってかけがえのない存在だったのだと知る。
叔父を竜族に殺され、家や村を焼かれ、全てを失った彼女に手を差し伸べたのがザッケスだった。
しかし、彼が団長に上り詰めるや否や、その地位に固執するように彼の性格は歪んでいき、イシュアンを失った事を皮切りに人格が変わってしまった。
「つまり、俺がトドメを刺したようなもんじゃねえか...!」
「アルシュ?」
「...」
マリカはアルシュの物言いに目を白黒させる。
思考が定まらない。全てを話した時の仲間の反応が怖くて仕方なかった。
しかし、何も言わずにただ他人事のように聞き捨てようとする自分の腐りかけた性根にこれ以上は堪えきれなかった。
アルシュは負い目に耐えきれずエリンに事を打ち明ける。優しい彼女は仲間を見捨てず、許してくれると一瞬でも思考した自分に唖然する。
「アルシュ...!」
驚愕したマリカの声が耳を打つ。
アルシュは事を打ち明けた後に、エリンとマリカの反応を見るのが怖くて俯く。拳に力が入り、震えている。
自分が情けなかった。かつて、家族を奪われ、その苦しみを知っていたにもかかわらず、気付けば他者からも結果的には奪っていた。
アルシュはこの現状を受け入れ、噛み締めた。今から刃が自身の身に振り下ろされても仕方がない。自身なら躊躇う事はないだろう。
しかし、エリンはアルシュの肩に手をそっと乗せる。その手は優しく、温かかった。
「アルシュ、顔をあげて」
その声に従うようにエリンにそっと目を合わせると、そこには憎悪や怒りとは程遠い。哀愁を漂わせた優しげな翡翠の瞳がその中にアルシュの姿を止め、優しく包み込んでいるようだった。
「君はイシュアンを殺してなんかいない」
耳に入って来たエリンの穏やかな囁きに、一瞬の思考が停止した。
そんなはずはない。確かにイシュアンはこの手で殺したはずだ。生きるために、未来に歩みを進めるために。
「何言ってんだ?俺が殺したって言ってんだよ!確かにあの時俺は今より弱かったけど...」
「どうやったかなんてどうでもいいのよ。あなたはイシュアンを殺してない」
それは納得の行く答えではなかった。シラを切って欲しくて告白したのではない。許して欲しくて打ち明けたのではない。
「なんでそう言い切れるんだよ!なんで怒らねえんだ!なんで俺を嫌いにならねえんだ!」
事実をただ受け入れて欲しかった。そうすれば苦しみから解放されると思った。
しかし、それが逆に彼女を苦しめる事になるとは思ってもいない。
エリンは哀愁に緩んだ表情を引き締めて、光を灯した翡翠の眼をアルシュに向けて続ける。
「イシュアンは世界が殺したのよ。ザッケス団長もそう。こんな世界じゃなければ、戦争がなければ彼らがいなくなる事はなかった。だから君のせいなんかじゃない。マリカもそう思うでしょ?」
「え、ええそうね。エリンがそう言うなら...仕方なくもないかも...」
マリカはエリンから向けられたウインクに心を動かされ、思わず頷いた。
アルシュは塞ぎかかった口元を強く締め付けた。それでも自分のせいだと言いたかった。
だが彼女の決意めいた表情を見て、決して受け入れはしないのだと悟った。
受け入れたくは無かったのだろう。思えば、自分の愛弟子が、信じていた者が他の仲間を殺した事など受け入れられるだろうか。
あと何回罪を重ねれば気が済むのか。そう考えると、自分の身勝手な言動と思考の足りなさに、憤りが込み上げてくる。
「情けねえ。どうやら俺は自分の都合で余計にあんたを悲しませようとしてたみたいだ。少しは成長できたと思ったのに、中身はちっとも変わらない」
「そんな事ないわ。ここに来てから随分と変わったもん。知らないでしょうけど、マリカってアルシュがいない時によく君の話を...」
「エリン...!やめてってば!」
マリカは慌てて揶揄うエリンの肩をポンと小突く。
「ははは...ごめんってば。でもマリカだけじゃないわ。みんな君のことを仲間だって認めてる。あーあ、ザッケス団長にもアルシュの事を分かって欲しかったなぁ。それだけは残念」
エリンは太陽のように明るく口角を上げて振る舞っては見せたが、その表情はそこはかとなく哀しそうだった。
アルシュはそれが無理やり感情を抑えているようにも感じ、その表情を見ることに耐えきれず視線を逸らした。
「隠そうとすんなよ。寂しいんなら寂しいって言えよ」
「ええ、確かにあの人は私にとって大切な人だったし、寂しくないって言ったら嘘になるわ。でも、最期にあの人笑ったのよ?だからそれで十分」
ザッケスは最期に優しさを取り戻した。それがエリンの唯一の救いだった。
アルシュは耳を疑った。あの筋肉で固められたような厳な表情も緩むことがあるものか。
「あいつが笑った?」
「ちょっとアルシュ、いくらなんでも失礼よ?あの団長だってたまには笑うことだってあったんだから!」
「まぁ、エリンだって素は顰めっ面だからな」
「それどう言う事よ!」
「うっ...!」
エリンはアルシュの頭に平手を打ちつけ、よろめかせる。それを見たエリンは含むように笑い、話を続ける。
「ふふふ、だから私は大丈夫、あの人だってきっと高いところから私たちを見守ってくれているはずよ」
「見守ってくれる...か」
そんな時にアルシュはふと父の事を思い出した。無念を抱きながら、息子に「生きろ」と言い残して死んで行った彼もまた、見守ってくれているのだろうか。
今の姿を見せたかった。大切な物に出会い、強く生き抜いている事を知ってほしかった。
しかし父はもういない。
だから信じたい。何処かでしっかりと見ていてくれている事を、喜んでくれている事を。アルシュは空を眺め、手をかざしながら願った。
「何よ、いきなり空に腕なんて伸ばして。後遺症で頭でもおかしくなっちゃったのかしら?」
それをマリカは痛ましそうに目を細め、口に手を当てながらアルシュに懸念の皮肉をかける。
「うるせえな。願掛けだよ」
マリカはその意味不明な言動に肩をすくめて、深く息を吐いた。
エリンはアルシュの決意を秘めた表情を見て穏やかに微笑む。
「父さん、見てるか?俺、戦場なんかに送られたけど、ちゃんと胸張って生きてるから。仲間だっていっぱいできたし、だから心配しないでくれ!
俺もっともっと強くなるからさ!」
アルシュから放たれた声が青の虚空に響き渡る。高く、広く。父へ届けと願いを込めながらアルシュは天を仰ぎ続る。
父に迷いなく伝えたは良いが、不安もあった。初めての初陣でアルシュは何度も死にかけたし、エレハイネ砦では夜明けの団が勝利を収めたが、三分の一の兵士を失った。
これからも失う恐怖に怯えて生きる事になるのだろう。時には自分を見失いかける事もあるだろう。
これは己との戦いでもある。敵は強いが決して負けられはしないのだ。勝たなければいけないのだ。
なぜならアルシュはようやく出会ったのだ。かけがえのない友人達に。
2章 -完-
次章 夜明けの団・後編




