43話 戦いの後の約束
目を覚ますとそこは寮の自分の部屋だった。
記憶が曖昧で、ザッケスと戦っていた事までは覚えているが、いつからこのベッドで眠っていたのか思い出せない。
叩き飛ばされたり、潰されかけたりで、体の至る所に裂傷や骨折が見られていたはずだが、嘘のように治っている事に気付き、あの死闘が夢だったのかとさえ思った。
左耳に何か生温かい風が掠る。顔を向けると、そこにはマリカが椅子に座ったまま半身をベッドに埋めて眠っていた。
アルシュがかつて望んだその寝顔からは普段の奸悪で不遜なようには見えず、翼を失った天使を彷彿とさせる。
そして天使はうっすらと青い瞳を覗かせ、アルシュの黄色い瞳と目があった。
二人は距離を取る。
アルシュはたじろぎ、座ったまま後ろに下がろうとしてベッドから落ちた。
アルシュは起き上がり、動揺するマリカに声をかけようとしたが、彼女は恥じらいながら後ろのドアから逃げるように去って行った。
その部屋にはアルシュと疑問だけが残った。まさか看病でもしてくれたのだろうか?いや、マリカに限ってそれはない。人の不幸で飯が食えるような彼女の事だ。
きっと彼を馬鹿にしに来たに違いない。
「全く、いくらなんでもやり過ぎだ。俺は怪我人だぞ」
言っても無駄とか、喧嘩になるとかそんな事を言ってる場合じゃない。今回という今回はガツンと言ってやる。
それからアルシュはマリカの部屋にノックもせずに開けるが誰もいない。
焦茶を基調とした木造の部屋の窓からは日差しが入り、薄暗い部屋を照らしている。
家具には小さな椅子とベッド、衣類や道具の収められている三段チェストが目に入る。
それはアルシュの使う部屋の景色となんら遜色のない質素な部屋だったが、アルシュは何か閃いたかのように3段チェストに視線を奪われ、好奇心を宿す。
「もしかしたら、この中にマリカが...!」
アルシュは息を呑みながらつぶやいた。いくらマリカが小柄だと言っても、服や小道具を入れるのに適したその箱の中に本人が隠れている事など考え難いのだが、万が一、中に彼女が隠れているかもしれない。もしそうで無くとも、何か重要な手掛かりが隠されているかもしれない。
アルシュは恐る恐る3段チェストに近づき、ゆっくりと二段目に手を伸ばして開ける。アルシュは大きく目を見開き、その中身に目が釘付けとなり、思わず口が開いた。
敷き詰められた赤、白、黒と言いった色とりどりのランジェリー。それはアルシュにとって宝物庫。期待通りだった。
「よ、よし。手掛かりなし...!」
背徳はあったが、どうやら今はマリカがいないようだ。こんなチャンスは二度来ないだろう。
一度手に取ってもバレないはずだ。アルシュは少しだけマリカの白いパンツを手に取ろうとした。
「何...やってるの?」
アルシュはその聞き慣れた小鳥のような声を聞き、血走った眼差しで三段チェストを勢い良く閉め、雷でも打たれたかのように背中を震わせる。
振り返るとそこには今一番顔を合わせたくない群青色の髪の少女がドアの前で額に青筋を浮かべている。
アルシュの脳裏にかつての失敗が過ぎり、自身の好奇心を恨みながらも、この窮地から逃れるために必死に言い訳を思考し、途切れ途切れに言葉を紡ぐ。
「あ...あの...この中にお前がいるって...」
「そんなわけないでしょ!このヘンタイ!」
「あひん!」
アルシュの頬に衝撃が走る。その拳は重く、先程の寝顔からは想像もつかない悪魔のような一撃。
アルシュは床に這いつくばる。
マリカを一度でも天使だと思った事が間違いだった。そして、三段チェストを開くか否かで悩んだ時に選択を誤ったのだと気付き、後悔した。
その後、気まずい雰囲気の中、アルシュはマリカに連れられていつもの稽古場に連れてこられた。
アルシュは下着を見られたら払いせにまた稽古と称して袋叩きにするつもりだろうと思ったが、心配はない。
アルシュにはこれまでの稽古や戦いで自分でも信じられないくらいの力を得たと実感している。
恐らくこれまでのようには行かないはずだ。
むしろ心配なのはマリカの方だ。途切れ途切れの記憶では、彼女は負傷していたし、まだあれからそんなに時間は経っていないはずだ。
「起きたんだな!アルシュ!」
「無事で良かったぜ!」
村人や戦士たちが快く声をかけて来る。その中には酒場で彼に軽蔑していた者もいる。
アルシュがエレハイネ砦で多大な功績を残した事はすでに周囲に広まっていた。
冷淡だと思っていた人々からの意外な好遇にアルシュは目を合わせることに躊躇い、地面を眺めようとした時、赤毛を逆立てたビヨルンが壁によしかかり、腕を組みながらこちらを見ている。
その表情は他の兵士とは違い、眉間を寄せて歯噛みしながら、喉に詰まらせた思いを吐き出すべきか否か悩んでいるようだった。
「すまないマリカ」
「ちょっと、アルシュ?待ってよ」
アルシュはマリカの制止を振り払い、ビヨルンにふと違和感を感じて詰め寄る。ビヨルンは視線を向ける対象がこちらに気付くや否や、急に接近してくる事にたじろぐ。
「な、なんだよ...?礼なら言わねえぞ?」
アルシュはビヨルンが一人で不穏な表情を作っている事に強い懸念を感じていた。
そしてキルガがいない事について聞こうとした時、後ろから自身を呼ぶ声がした。
「お〜い!アルシュ!」
張り上げずともはっきりと耳元に響き渡るその声を聞き、振り返るとキルガが杖をついて手を振りながらこちらへ向かって来るのが見えた。
「おい、大丈夫かよ!?まだあれからそんなに経ってないんだろ?」
「俺なら大丈夫だよ。あれから二週間、ようやく歩けるようになってな。治療班からは特訓はまだ早いって言われてるけどな」
「だからせめて散歩でもってこいつ聞かねえんだよ。だから付いてきてやってんだよ」
「悪いなビヨルン、でもただ部屋の中にいると気持ちが落ちつかないんだよ」
ビヨルンは深く息を吐いて怪我人の同行に付き合っていた。
アルシュはキルガの無事を知り、深く息をつくと共に肩の力を抜いたが、キルガの説明の中で咀嚼できない点があった。
「ちょ、ちょっと待て!あれから二週間も経ったのか!?」
「ああ、そうだ。大変だったんだぜ?お前が起きなくてマリカが毎日のようにかん...」
「ビヨルン!!」
マリカが顔から火を吹き出しそうになりながら、配慮の足りないビヨルンの言葉を遮った。
彼女はずっと眠っていた彼を看病してくれていたらしい。それも思わずその傍で眠ってしまうくらいにだ。
「だ、だってお前...一生懸命だったじゃねえか!」
「あ、あなた...それ以上言ったら承知しないわよ!?」
意外といえば意外だが、これで彼女がなぜ慌てて部屋を出て行ったのか筋が通った。
マリカは眉を落として火照る顔を俯かせてアルシュとの視線を背ける。
「まぁまぁ、そんなに怒るなよ。俺たちみんな無事に帰ってこれたんだから良かったじゃないか。これであの時の約束も果たせそうだよな、マリカ?」
キルガは彼女を追い討ちをかけるように顔をニヤつかせながら反芻を振り返り、マリカに言い聞かせる。
「そ、それくらい後でするわよ...!今は急いでるのよ!」
アルシュは二人の企みに気付けず首を傾げる。エレハイネ砦の時に何があったのだろうか。ここまで追い詰められるマリカも珍しい。
「ホラ、ぐずぐずするんじゃないわよ!」
マリカは目を合わせず、アルシュの手を掴んだ。その手は熱く、恥じらいが顔から体の隅々にまで行き届いているようだった。
「なるべく早く言えよ」
「分かってるわよ!」
キルガの助言に応じ、マリカはアルシュを荒々しく引っ張り、それに応じるようにアルシュは二人の元を後にした。
「そ、そろそろ手を離してくれないか?」
人々が行き交う大通りの中、少女に手を引かれるアルシュの体は強張り頬を仄かに染めた。
「もうちょっとよ」
マリカはアルシュの定案を払い除け、村の大通りの外れに差し掛かったところで立ち止まり、誰もいない事を確認してから「ね、ねえアルシュ?」と口を開く。
「あの時はその...悪かったわ」
「は?何がだよ。勝手にお前の部屋に入って引き出し開けたの俺なのに、謝るのおかしくないか?」
マリカの口から囁かれた囀りのような調べはアルシュの耳にそっと響いた。
しかし、なぜ彼女がパンツを触ろうとした男に謝っているのだろうか。おそらくこの件にキルガが一枚噛んでいると思われるが、その言動にアルシュの認知が及ぶはずもなかった。
「そ、そこじゃないわよ!もう、なんで今その話を持って来るのよ!判断が鈍るじゃない!」
「じゃあ、なんだよ!お前さっきから変だぞ?」
マリカは目線を斜め下に向けてアルシュに体を向けて、整理のできていない言葉の羅列を必死に組み立てる。
「あの時...召集の時...私があなたを助けようとしなくって...ごめんなさいって、言ってるのよ...」
彼女の謝罪はは辿々しく今にも途切れそうだった。
「まさかあんな事になるなんて思わなくって、それでザッケス団長が来たら私...怖くて何もできなかった。あなたは必死になって私を助けてくれたのに...」
マリカはアルシュに躊躇いながら、キルガの言う通りに負い目を全て打ち明けた。
それは己との戦いでもあった。今まで意地を張っていただけに傲慢さを捨てる事が大変だったし、その時に与えた彼女への印象次第ではアルシュはいまだに恨みを抱えている事もあるだろう。
「なんだよ、そんことか。いいんじゃねえか?そんな事気にしなくて」
「は?なんでよ?私、あなたが喧嘩してても、地下牢に連れて行かれそうなっても助けなかったのよ?」
アルシュは何食わぬ顔で謝罪をすんなりと受け入れたが、マリカはその呆気なさに納得が行かない。
「だってお前ってそう言うやつだろ?意地が悪くって、口も悪い。おまけに怒らせたら手が出ると来たもんだ」
「あ、あなた...調子に乗らせておけば言いたい放題...!」
彼女の体が強張る中、やたらと拳に力がはいり、震わせている。そして今にも振り上げようとした時、アルシュの続け様に放たれた物言いに、動かそうとした腕はピクリと止まり、その目が大きく見開かれた。
「でも、本当は優しいってこと、俺は知ってるから」
「優しいって...私あなたに何も...」
「だって、俺の稽古に必死に付き合ってくれてるし、俺がみんなから馬鹿にされてる時もお前は庇ってくれて、本気で怒ってくれただろ?そんでもってお前は必死についててくれて...」
「最後のはビヨルンの戯言よ!」
マリカは必死にアルシュの後半の言い分否定したが、それでも彼女への印象は変わらない。
恨むはずなどない。
時に意地悪に感じる事もあるが、その優しさを思えばそれも受け入れられるような気がする。
「そうかよ、それでも俺はお前に感謝してるんだぜ?だからたまに聞かされるお前からの嫌味も悪くないって思えてきたところだよ」
「つまり、アルシュは変な性癖に目覚めちゃったってわけね。気持ち悪いわ」
「そう言うんじゃねえよ。俺はお前がようやく好きになってきたって事だよ」
「なっ...!!」
アルシュから唐突に放たれた二文字にマリカの胸は射抜かれ、脳裏は白霧に包まれる。両手で焼ける顔を覆い隠す。
「いきなりなんのよ、もう!これじゃあ頭の中が整理できなくなっちゃうじゃない!」
「おいおい、少しリアクションがオーバーだろ」
おそらくそれはマリカの妄想する「好き」とは違う、仲間としての意味なのだろう。それでも脳裏でその言葉への解釈が別のものに置き換わろうとする事に、心を揺さぶられる。
しかしマリカは嬉しかった。エリン以外で誰かに好きと言われた事がなかった。
村を襲われ、目の前で家族を殺され、エリンに救われてから彼女の役に立ちたいと魔術と剣術の鍛錬を積み重ねて来た。
エリン以外に信頼を置かず、誰にも負けたくない一心で剣を振るって来た結果、性格が歪み、他者からも恐れられるようになった。
そんな彼女がアルシュから向けられた好意はその曇りきった心を明るく照らし出した。
顔を覆い隠す手が涙で濡れた。
これも随分と久しぶりだった。
「なんだよお前、急に泣き出して」
「な、泣いてないわよ!」
マリカは必死に目元を拭う。いつもなら誤魔化す時は目が引き攣るが、自然と頬が緩み、幸せそうな笑みが浮かんでいた。