18話 絶望からの咆哮
黒い雲に覆われた空の元、アルシュは護送用の馬車でカヤール戦線である国境へと向かう。
もう父は死んだのだろうか、痛かっただろうか。辛かっただろうか、生きたいと思っただろうか。
父の事ばかり考えている事もあったが、やがてどうでも良くなった。
久しぶりに雨が降る。濡れた草木がざわめき、久しく降り注いだ雨水を祝福しているようだ。
何ヶ月ぶりだろうか。シュードラの民を苦しめ、野党を嗾けたあの忌々しい太陽は、親子の命の終わりと共に厚い雲の中へ隠れて行った。
優しげにも皮肉を告げるようなその雨音は、兵士の笑い声にかき消される。彼らの纏う白銀の鎧からは薄暗い馬車の中で鈍い光沢を放つ。
「それでよ!!」
「ははははは!!」
静かにしてほしい耳障りな哄笑を聞きながら、馬車の中で小汚い少年が疼くまる。風が草木を騒がせ、彼の黒く短い髪を撫でる。そしてアルシュは小さく呟いた。
「うるさい、静かにしろ...」
「なんだと?」
兵士の一人が歩み寄り、眉を顰めて目に力を込めてアルシュに顔を近づける。
「なんか行ったか?小僧」
その兵士に対する恐怖はない。もうすぐ死ぬ。裏切られ、見放されたあの時から心はとうに折れており、修復の兆しはない。
その兵士はの質問をしていたが、アルシュは口を開かず、ただ光のない双眸でを床を見たまま動かない。
「無視しやがるとはいい度胸だな!」
少年の胸ぐらを掴み、兵士は少年の頬を思いっき殴る。床に鮮血が飛び散る。
アルシュは床に横になる。
「おいおい、そうかっかすんなよ!何かあれば罰を受けるのは俺たちなんだぞ?」
「そうだぜ?ガキの言うことに目くじら立ててんじゃねえよ!」
「うるせえっ!こいつはこれから俺たちと一緒に戦うんだ、それなら舐めた態度が出来ねえようにするのも俺らの仕事だろうが!」
アルシュは横になったまま動かず、視界には馬車の壁が見える。頬を伝って頭部にまでジンと伝わってくる痛み。今にも裂けそうだ。
だが涙は出ない。父を思っても、これからの運命を思っても、殴られても、もはや泣く事すらできない。涙なら報われないと知ったあの時から、散々流し、枯れ果てた。
あの頃の夢見た光は朽ち果てた。どれだけ足掻いて、どれだけ踠いても、終着点は絶望の渦。
決して報われることの無かった、到底逃れることのできなかった決められた結末。
「おい!聞いてんのか!お前の事だ!起きろクソガキ‼︎」
そして彼はボロ雑巾のように床に打ち捨てられたアルシュの胸ぐらを掴み、無理矢理引きずり起こす。
「情けねえ!お前みたいな雑魚を見てるとイライラしてくるぜ」
そして再び拳を握り締める。
「おいやめとけって」
「無理すると死んじまうぞ」
仲間がその兵士に、口では言うものの、止めようとはしない。
「大丈夫だって死なねえ程度に手加減するさ。それにこんなガキ、少し怪我させた所で大した罰は受けねえよ」
そう言って兵士は拳を再度振り上げた時、外から轟音が聞こえ、馬車は止まった。
「なんだ!?爆発か!?」
「敵襲だ!」
兵士達はアルシュの体を投げ捨てて、馬車の外へ飛び出して行く。そして何やら狂気に満ちたような奇声が彼の耳を突く。そして静まり返った。
アルシュは何があったのかと思い、ここが夢の中ではないかと疑い、息を呑んだ。
先程まで笑みを浮かべてアルシュを殴りつけていた男が半身を失い、表情に絶望を浮かべ、仰向けになったまま事切れている。
談笑していたと思われる兵士たちの肉片と思われるものが散乱し、炎に焼かれ焦げ付いている物もある。
もしも地獄が存在するならこのような景色なのだろうか。
アルシュは焼けた肉片の匂いで以前ルルアと共に食べた串焼きの味を思い出し、突然の吐気に見舞われて黄色の内容物を吐き捨てた。
「おゔぇえええ」
そして、吐瀉物を眺めたまま動かずに俯いている。
「ぎええっ!」
「はっはー!討ち取ったぞ!」
炎と視界が遮り遠方が見えないが、向こうから金属音と肉を割くような音と悲鳴が聞こえてくる。
「これが俺の死場所か...」
逃れようのない運命。どこから死が迎えに来ても不思議ではない戦場という名の最終地点。
アルシュが立ちあがろうとした時、地面がズンと音を立てて響く。
足音が、何かが近付いて来る。
そして顔を上げると、一本の大刀を肩に乗せ、鎧を纏う戦士がアルシュの前に姿を現す。
白っぽい肌に、顔立ちがジルドラスのモノとは違う。竜族ではない、別の種族。
青い眼光がアルシュを捉えたまま、離そうとはしない。そして一定の距離で立ち止まり、ようやく口を開いた。
「驚いた、まさか貴様のような小僧がこんな場所にいるなんてな。我が名はイシュアンだ。さあ、貴様も名前を言え小僧。そうすれば苦痛なく殺してやる...」
少年の体など最も容易く両断出来そうな獲物を抱えるイシュアンはどうやらアルシュに救済の手を差し伸べに来たのではなく、トドメを刺しに来たようだ。
「俺は、アルシュ...」
アルシュは震えた声で名乗った。立ち上がり、床に落ちていた身の丈に合わない剣の柄を握り、引きずるように拾い上げようとしたが、重くて半分しか持ち上がらない。
それを見たイシュアンはニヤッと目を細めて不気味な笑みを作る。
「ほう、この俺と戦おうというのか?よかろう、戦場であれば剣を持つものは皆平等だ」
そしてイシュアンも大剣を肩から下ろし、刃先を前に突き出すようにして構えた。
アルシュの手足は相変わらず、震えたままだ。それどころか体の強張り、動悸が激しくなり、汗が止まらない。しかしそこで疑問を浮かべる。
「なんで俺、剣を持って構えようとしてんだ?なんでこんなにも怖いんだ?」
命ならここに来る前から捨てたはず、それなのに、敵兵が怖くて仕方がない。
「どうしたアルシュ、気を確かに持て!ここは戦場だ、剣を握るのであればこの俺を殺しに来い!」
イシュアンの体に力が入り、大地に踏み込みを入れる。彼の体から放たれる青みを帯びた魔力が蒸気となってうっすらと空気に混ざって行く。
全力で殺す気だ。アルシュは何か言いたげだが、口元がうろつき、言葉が出ない。
「お、俺は...」
「ではアルシュ、来ないのであればこちらから行くぞ、せいぜい俺を楽しませろ!」
イシュアンが大地を抉るほどの強烈な踏み込みを入れ、アルシュに襲いかかろうとする。
極限にまで追い詰められたアルシュは死への危機感の中、頭の中でジャミルの言葉が聞こえる。
「強く生きろ!」
「....っ!」
頭が割れるような痛みと耳鳴りが脳内を巡り、片手を添える。そして頭を上げると、アルシュは逡巡する。
イシュアンだけではない。自分以外の物質、砕けた石の破片や砂埃までもが空中で緩やかに舞う。まるで時間の流れが遅くなったように。
「なんだ?これ....?」
それに体は軽くなり、視界がやけに開けて見え、遥か先に兵士が馬に乗って横切る姿、がよく見える。会話する声もよく聞こえる。
「流石にイシュアンさんには役不足だったかな」
「だよな。アスラ族でも優秀な戦士に、たかだか馬車を襲わせるなんて、いくら親友だからって、団長もどうかしてるぜ」
心からは先程覆っていた闇が消え、晴れ渡った空のように澄んでいた。
そしてアルシュは先程の恐怖の要因を理解する。
「俺は、死にたくなかったんだ...俺のために死んだ父さんのためにも、そして...俺たちをこんな目に遭わせたヨルムを殺すためにも...!!絶対に許さない....いつかこの戦場を生き抜いて、あいつを....殺してやる....!」
そしてアルシュは先程からは信じられない腕力で剣を引きずり、襲い掛かろうとしたままゆっくりと歩を進めるイシュアンに向けて突進。
そして跳躍し、躊躇いなく敵の胴体に刃を叩きつけた。
その衝撃で鎧は凹むと同時に割れ目を作り、刃がイシュアンの内臓を抉る。
そしてアルシュの感覚は通常時へと戻る。
「一体なんだったんだ?今のは....!」
「グファッ!」
気付くと、左肩から右腰にかけて叩き斬られたイシュアンは口から血反吐を吐いて跪き、腹部からはみ出た腸を抑えていた。
「クハハ...まさか...団長や副団長とも引けを取らぬ実力を持つ...この俺が.....貴様のような小僧にやられるとは...」
アルシュは黄色く、澄んだ瞳でイシュアンを睨みつけ、そっと呟いた。
「俺が、やったのか... 信じられねぇ...野党どころか、街のゴロツキにも喧嘩で勝てない俺があいつの体を鎧ごと切り裂いたって言うのか...」
「そうだ...その齢で実に見事な一撃であった。全く....世界とは広いものだ」
アルシュは苦悶し、拳を握りしめる。否定できまい現実に目を背けたくなったが、手の甲にはイシュアンの返り血が付着している。
「貴様であれば...さぞや名のある戦士となれるだろう。せいぜいその力を....自国の仕える王へと捧げるがいい」
イシュアンは満足げな笑みを浮かべながら地面にズンと音を立ててうつ伏せに倒れた。
下敷きとなった地面から伝う生温かい血液がアルシュの裸足に触れる。荒々しかった呼吸は動くのをやめ、彼がそれ以上動きを見せる事はなかった。
アルシュは自分が殺めた戦士の最後の残したいい加減な称賛と助言に怒りが込み上げる。
「王のため!?ふざけるな!俺から全てを奪ったあの男のために、なぜ戦わなきゃいけないんだ!何が忠誠だ!何が誇りだ!いい加減なことばかりほざいて逝きやがって...!!」
『ウオオオオオオオオオ!!』
生き延びた喜びと、もう元には戻れない悲痛な思いが混在し、咆哮にも似たアルシュの叫びが戦場に響き渡る。