プロローグ
久しぶりの雨音を聞きながら屋根付きの馬車の中で小汚い少年が両腕をロープで縛られ、疼くまる。
風が草木を騒がせ、彼の黒く短い髪を撫でる。
少年の暗い気持ちとは裏腹に、見張の兵士たちは目に光を灯して談笑し、高らかな声が響く。
俺はもうすぐ死ぬ。神様に見放されたあの時から心はとうに折れており、修復の兆しはない。
自身の現状に押し潰され、抜け殻のような顔を腕で隠す。
もはや泣く事すらできない。涙なら報われない運命と共に散々流し、枯れ果てていた。
あの頃の夢見た光は失われ、暗黒のみが残る。どれだけ足掻いて、どれだけ踠いても、終着点は絶望の渦。
決して報われることの無かった、到底逃れることのできなかった決められた結末。
「ちくしょう...俺が何したっていうんだ...!」
「嫌だ...!俺にはまだ...っ!」
が、やはり恐怖は少年を捕らえて離さない。解放されたいという思いが声となって漏れる。
か細くもはっきりとしたその声は一緒に乗る兵士4名の耳に届くが、誰もが彼の不幸を望んでいる。
見張の兵士が嘲笑しながら振り向き、耳を傾ける。哀れみすら感じさせない冷ややかな表情を少年に近付ける。
「あ?なんか言ったか?」
「言っておくが、逃げようなんて思うなよ?」
逃げられるなんて期待はない。
元の生活に戻れるなんて願いは打ち砕かれた。
幸せになりたいなんて望みはすでに諦めている。
心の底から笑える日が来る、そんな希望はとっくに消え失せた。
しかし、少しでも望みが叶うというのであれば、僅かでも希望が残っているのであれば、生きたい。懸命に生きなければならない。
それがたとえ、仲間を陥れることになろうとも、家族の誓いを破ることになろうとも、戦わなければならない。
そして、いつか思い知らせてやるのだ。傷つけられる事の悔しさを、奪われる事の悲しみを。
そんな微かな思いが胸の中で、小さな火となって燻り、煙を上げている。
これから生きる事を許されるのであれば、それこそが俺の生きる意味、そして希望だ。
「な、なんだ!?」
突如、何やら凄まじい爆音を立て、突風にも似た衝撃が馬車を直撃する。
「敵襲だ!!」
兵士たちが慌てふためきふためきながら馬車を降りていく。その光景を見た少年の黒く濁った双眸に光が宿る。
これはチャンスだ。その行動に迷いはない。その後に続くように、少年も今だとばかりに懸命に足を動かし馬車を降りた。そして再び悪夢を目の当たりにする。
少し前まで馬車の中で笑っていた兵士が苦悶の表情を浮かべたまま血を流し、痙攣している。
辺りには兵士だった物と思われる肉片が散乱しており、炎を纏い、パチパチと言う音を立てながら燃えている。
「あ....あ、あぁあぁあぁあぁあああ!!」
二度、人が殺されるのを見た事がある。しかし、どちらも自分を救うためだったから、まだ平静を保っていられた。
だが今回は違う。確実な死が、脅威が少年の腕を引き、連れて行こうとする。
少年は恐怖と焦燥感に駆られ、生に執着する思いに対する非情な現実から逃げようと、顔を歪めて死に物狂いで走り出す。
その刹那、後ろの馬車が大音量を発すると共に火柱を上げて弾け飛んだ。
木片や金具が凄まじい勢いで飛散し、幸い少年の体を傷つける事はなかったが、爆風に張り倒されたことで膝を擦り剥き、傷口からは鮮血が脛元を伝う。
負傷した足が軋むように痛んだが、それでも何とか立ち上がり顔を上げると、馬が炎を纏い、悲鳴を上げながら狂い走る。
辺りに木片がばら撒かれ、燃えることによって、一見しても肉片との区別がつかない。
辺りが土や炎の煙に包まれて、向こうからは、兵士の叫び、爆発音が聞こえる。
地獄、もし存在するのならこのような景色なのだろうと少年が思っていると、地響きが地面を伝って手元に伝わってくる。そしてそれは段々と大きくなっていくのを感じる。
「誰か、くる?」
それを足音だと気付くのに、そう時間はかからなかった。
顔を上げた少年の前に、鎧を纏った二メートル程の大の男が血糊がベッタリと着いた大斧をギラつかせ、不敵な笑みを浮かべている。
「驚いた、まさか貴様のような小僧がこんな場所にいるなんてな!さあ名前を言ってみろ!苦痛なく楽にしてやる!」
一体何が起こったのか、今の状況が理解できていない。しかし、分かっている事は2つある。
一つは目の前の男が俺を殺したがっているという事。そしてもう二つ目は、俺にとってここが最後の場所になるという事だ。