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苦手な方はご注意ください。

短編小説(異世界恋愛)

逆行した令嬢のやり直しの結婚生活 ~もう一度、「愛しています」が聞きたくて~

作者: 三羽高明

「ミレーヌ……さん……」


 喧噪けんそうの中、私の膝に頭を預けた男性が漏らす掠れ声は、いっそう頼りなく聞こえた。


 辺りに立ちこめるのは鉄さびの匂い。どんどん広がっていく血だまりは、彼の脇腹の傷から流れ出たものだった。


「早く医者を!」

「ああ、そんな! 旦那様っ!」


 聞こえてくる悲壮な声とは裏腹に、男性の表情は穏やかだった。ゆっくりと手を伸ばし、私の頬に触れる。


「ジュリアス様……」


 私は血で汚れるのも構わずに、ジュリアス様の手に自分の手のひらを重ねた。


 ジュリアス様の唇が笑みの形に歪んだように見えたのは、気のせいだったのだろうか。


「やはり……あなたはここに……いてくれた……」


 ジュリアス様の声が段々と小さくなっていく。けれど、次の衝撃的な言葉を私は聞き逃さなかった。


「愛しています」


 ジュリアス様の手から力が抜け、床に落ちる。それきり、彼は動かなくなった。



 ****



 私とジュリアス様が結婚したのは、つい数ヶ月前のこと。一般には、まだ新婚と呼べる時期かもしれない。


 けれど、私たちの夫婦仲はそこまでよくはなかった。……いや、だからって、悪くもないんだけど。ただ、ジュリアス様は私にどこかよそよそしい態度を取るというか、他人行儀に接するんだ。


 先に嫁いだ友だちからは「結婚なんて退屈よ!」って聞いてたけど、その通りだった。ちょっとガッカリだ。


 是非とも私と結婚したい、と熱心に話を持ちかけてきたのはジュリアス様だったから、もしかしたら好かれてるのかも、って少し舞い上がっていたのがバカらしい。


 けれど、その退屈な結婚生活は突然に終わってしまった。帰宅した夫を出迎えようと玄関へ向かったら、血まみれのジュリアス様を使用人が中へ運び込もうとしているところだったんだから。


「ジュリアス様……」


 私はまだ温かいジュリアス様の頬を撫でる。手の震えが止まらず、何が起こったのかを受け止めきれない。現実逃避のようにある疑問が沸いてきた。


――愛しています。


 どうしてジュリアス様はあんなことを言ったんだろう。今までそんな素振り、見せたこともなかったのに……。


「奥様」


 使用人が私に目配せしながらジュリアス様の傍らに跪く。退いてくれと言っているようだった。


 けれど、私はどうしてもジュリアス様の傍から離れる気にはなれなかった。


「くそっ! メートランドの野郎! 旦那様が馬車から出てくるところを待ち伏せしてやがったんだ!」


「お医者様は!? お医者様はまだなの!?」


「早く血を止めないと!」


 騒音が耳に入っては抜けていく。私は首から提げたペンダントを握りしめた。手のひらに水晶の小瓶のひんやりした感触が伝わってくる。


「お願い……助けて……」


 何もかも無意識だった。血の気を失ったジュリアス様の顔を見つめ、指の先から冷たくなっていくような感覚を味わいながら、私は必死に祈っていた。


「お願い、お願い……」


 固く目を瞑る。


「あなたは私が大変な時は助けてくれるって言ったわ! 今がその時よ! お願いだから助けて!」


 助けて、助けて、助けて!


 ジュリアス様を助けて!


 一際強く念じた時だった。体がぐらりと傾く。意識が遠退きそうになったけれど、私は最後の力を振り絞ってもう一度叫んだ。


「助けて!」



 ****



「ミレーヌさん!」


 肩を掴まれる感触に我に返った。


 周りの光景が一変している。先ほどまで玄関にいたはずなのに、いつの間にか寝室に移動していたんだ。カーテンが開け放たれた窓から差し込む月光が、ベッドの天蓋を淡く照らしていた。


「うなされていましたよ? 大丈夫ですか?」


 寝台に横たわる私の隣にはジュリアス様がいた。涼やかな目元を心配そうに細めながら、私の顔を覗き込んでいる。


「い、生きてる!?」


 私は飛び起きてジュリアス様の服を剥ぎ取った。お腹、背中と見て回り、手で触って確かめてもみる。けれど、そこには滑らかな肌が広がっているばかりで、どこにも傷跡なんて残っていなかった。


 まるで、刺されたことなんかこれまで一度もないみたいに。


「どうしたんですか」


 妻の突然の奇行にも大して動じたふうもなく、ジュリアス様が尋ねてくる。


「あなた、意外と積極的なんですね。あれで足りなかったのなら、もう少しお相手しても構いませんが……」


 何やら勘違いしたジュリアス様が覆い被さって来ようとする。私は慌てて彼を押しとどめ、「ち、違います!」と首を激しく横に振った。


 これは一体何なんだろう? 私は自分の着ている服を見ながら唸った。


 この寝間着は、初夜に花嫁が身につける特別なものだ。つまり、今は挙式が終わった後の夜ということになる。


 ということは……あれは夢? それだけではなく、私の結婚生活は皆幻だったのだろうか。


 けれど、それにしてはやけに生々しく細部まで覚えている。ジュリアス様との間にあった距離とか、あの事件の日に充満していた血の匂いとか、胸が潰れるような悲しみとか……。


 ふとあることが気になった私は、首から提げていた小瓶を取り出した。何気なく中を確認する。


 そして、あっと声を上げかけた。


 この中には小さなリボンでまとめられた髪が一房入っていたはずなのに、それがなくなっている。私は頭を押さえた。


――奇跡だって起こせるよ。


 髪をくれた人の言葉が蘇ってくる。「奇跡……」と私は呟いた。


「時間が……戻った……?」


 今までの体験が全部夢ではなかったとするならば、それしか考えられない。あの人の言っていた通り、『奇跡』が起きたんだ。


「ミレーヌさん?」


 私が呆けていると、ジュリアス様が困惑したように話しかけてくる。


「本当に大丈夫なんですか?」


 私はジュリアス様を見つめる。その生気のある顔に涙が出そうになりながら尋ねた。


「ジュリアス様……。私が未来から来たって言ったら……どうしますか?」

「未来? そうですね……」


 ジュリアス様はしばらく考えた後、答えを口にする。


「頭が変になったのかなと思います」

「そ、そうですか……」


 あまりにも率直な回答に、出そうになっていた涙が引っ込んでいった。


 でも、ジュリアス様の返事ももっともだ。こんな突拍子もない話、信じろっていう方が無理がある。


 結婚したばかりでまだ信頼関係もできていないし、変なことを言って気持ち悪がられたりしたら、それこそ余計に夫婦仲に亀裂が入ってしまう。


 この話はこれ以上しない方がいいかもしれないと私は判断した。


 そうと決めたら、私一人でどうにか頑張るしかない。


 何をってもちろん、ジュリアス様の死を回避することだ。それから……今度こそ彼ともっと仲良くなりたい。あんなよそよそしい結婚生活を二度も送りたくはなかった。


 後もう一つ。あの「愛しています」っていう発言の真相も確かめないと。


「ジュリアス様、私のこと、愛していますか?」


 となれば善は急げだ。私をどう思っているのかは、今すぐにでも聞けるんだから。


「何ですか、いきなり」

「いいから答えてください」


 強要され、ジュリアス様はちょっと眉をひそめる。そして「分かりません」と返事した。


 ……分からない? 分からないって何? 少なくとも今はそんなに愛してないってこと?


 困惑しつつも、私はジュリアス様に詰め寄った。


「じゃあ、愛せるようになりますか?」

「……どうでしょうね」


 ジュリアス様はこれ以上私と問答するのが嫌になったのか、横になって目を閉じてしまった。でも、私はそんな答えじゃ納得しない。


「それなら……」


 言いかけて口を閉ざす。ジュリアス様が寝息を立てているのに気付いたからだ。


 よく考えたらもう深夜だし、ジュリアス様も疲れていたんだろう。私は「ふう……」と息を吐き出してベッドに横になった。


「……それならどうして、私に熱心に求婚したのかしら」


 謎が一つ生まれてしまった。けれど、分かったこともある。


 そうとは勘付けなかっただけで、時間が巻き戻る前の私は、少なくともジュリアス様に愛されていたんだろう。だけど、今の私がそれと同じ結末を迎えられるかは分からない。


 でも、もう一度愛されるように努力するのは悪いことじゃないはずだ。やっぱり夫婦って、愛し合える関係が最高だと思うから。


 そんなことを考える内に、私もいつの間にか眠りに落ちていった。



 ****



 次の日の朝、起きると隣にジュリアス様はいなかった。着替えを済ませた私は一人で朝食を取る。使用人に尋ねると、ジュリアス様は執務室にこもっているらしい。


「これじゃあ前と同じだわ」


 スープをかき混ぜながら私は物思いにふける。


 逆行前のジュリアス様はずっとこんな感じだった。朝から晩までどこかへ行ってしまって、私と顔を合わせるのは寝る時だけ。ほとんど毎日、「こんばんは」がその日最初に交わす挨拶になってしまうんだ。


 私はそのことを寂しく思っていたけど、我慢していた。ジュリアス様はこの家の主なんだ。だから忙しいんだろう、って。


 でも、今となってはもっとジュリアス様と話しておかなかったことを後悔している。彼が何を考えているのか知ろうともしていなかった、って気が付いてしまったから。


 朝食を終えた私は席を立つ。執務室の前まで来た。


 だけど、ノックをしようとした途端にドアが開いた。扉に激突しかけた私は慌てて横に退く。


「失礼しました……」


 暗い声と共に中から出てきたのは、中年の男性だ。


 男性は肩を落としながら廊下をトボトボと歩いていく。その様子があんまりにも哀れだったから、気になった私は近くにいた使用人に「あの方は?」と尋ねた。


「商人さんですよ」


 使用人は顎に手を当てた。


「確か、旦那様にお金を借りにいらしたとか。お名前は……ええと……メートランドさん、でしたっけ」


「メートランド!?」


 私は飛び上がって驚いた。


――メートランドの野郎! 旦那様が馬車から出てくるところを待ち伏せしてやがったんだ!


 間違いない。未来でジュリアス様を刺殺した犯人だ。


 そんな危険人物を放置しておくわけにはいかない。私は大股で男性に歩み寄った。


「メートランドさん! お話が……」


 男性が振り向き、私は言葉が出て来なくなる。


 殺人犯なんだから、さぞや凶悪そうな顔立ちなんだろうって思っていたのに、正面から私と向き合った彼は、むしろ人がさそうなごく普通のおじさんだったからだ。


 でも、顔色が悪くて着ている服もボロボロだった。景気が悪いらしいと一目で分かる。


「あの……?」


 こっちを不思議そうに見ているメートランドさんの視線に気が付いて、私はハッとなった。


「ええと……私、ジュリアス様の妻のミレーヌです」

「これはこれは……奥様でしたか……」


 私の正体が分かると、メートランドさんは背筋を正した。


「して……何かご用で?」

「……とりあえず、私の部屋へ行きましょう」


 毒気を抜かれた気分で、私はメートランドさんを誘った。殺人犯と二人きりなんて危ない気がしたけど、この人は根っからの悪人じゃないっていう自分の直感を信じることにする。


「メートランドさんはお金を借りに来たんですよね? その……生活に困っていらっしゃる?」


 部屋につくと、私はそれとなく彼の事情を探ろうと水を向けてみた。メートランドさんは「はい……」と恥ずかしそうに頷く。


「私が商人をしているというのはご存知でしょうか。台所用品なんかを販売しております。ですが、最近は商売が上手くいっていなくて……」


 メートランドさんはまっ青になった。


「このままでは体の弱い妻に栄養のある食事もさせてやれず、借金取りの手によって息子は炭鉱送り、娘たちは娼館へ売り飛ばされてしまうかもしれません! そうなったら私は……私は……」


 メートランドさんの瞳に剣呑な光が宿ったけど、すぐに気を取り直したように「ですが、お先真っ暗というわけではないのです」と付け足した。


「実は、新商品のアイデアがありまして。きっとヒット間違いなしの品なのです。ですが、その開発費が……」


「……ジュリアス様はお金を出してくださらない?」


「……はい。『私は慈善事業家ではないのですよ』と言われてしまいました。もう方々を回って、この家が最後の頼みの綱だったのですが……」


「そう……ですか……」


 メートランドさんはジュリアス様を殺した憎い人。でも、彼の置かれている境遇に、私は同情を覚えていた。


 きっと未来の彼がジュリアス様を殺してしまったのは、復讐のためだったんだろう。お金を借りられなかったせいで、彼の一家は離散してしまったんだ。そして、メートランドさんは絶望のあまりまともな判断力を失ってしまったに違いない。


 どうやらジュリアス様を守るには、この人を助けることから始めないといけないらしいと私は結論付けた。


 でも……どうやって?


 この国では妻の財産も夫が管理するのが一般的だから、私個人の権限で動かせるお金なんてほぼなかった。かと言って、実家に工面してもらう口実も思い付かないし……。


 困ってしまった私は、自分の指にはまっているものに気が付いた。


「結婚……指輪……」


 大ぶりな珍しい宝石がいくつもついていて、ジュリアス様の家の紋章が刻印された指輪。売ればかなりの額になりそうだ。少なくとも、当面の資金くらいにはなるんじゃないかしら?


「メートランドさん、これを持っていってください!」


 私は指輪を外し、それをメートランドさんの手に押しつけた。メートランドさんは目を丸くする。


「し、しかし奥様……」

「いいんです。その代わり、新商品、必ず当ててくださいよ」


 そこにジュリアス様の命運がかかっているんだから。


 私だって、結婚指輪を人にあげてしまうなんて真似はしたくなかった。でも、背に腹は代えられない。これでジュリアス様の命が助かるのなら安いものだ。


 それからしばらく押し問答が続き、根負けしたメートランドさんは平に感謝しながら帰っていった。やれやれだ。


 でも、あの指輪だけじゃ長いことは持たないだろう。ちょっとした時間稼ぎくらいにはなるかもしれないけど、もっとまとまったお金を融通する方法を考えないといけない。


 うんうんと唸りながら、私は廊下に出た。


 すると、たまたま執務室から出てきたジュリアス様と鉢合わせる。ちょうど正午を告げる鐘が鳴る頃だ。きっとこれから昼食に行くんだろうと思った私は、反射的に声をかける。


「よかったらご一緒しても?」

「……お好きにどうぞ」


 ちょっとぶっきらぼうにも思える返事だったけど、私は笑顔で「はい!」と頷いた。ジュリアス様と昼食を取るなんて、これが初めてだ。


 けれど、次の一言に凍り付く。


「指輪、どうなさったんですか?」


 ジュリアス様の視線は私の左手に注がれていた。な、なんて観察眼なの……!


「ええと……、き、着替えの時に外して……置いてきてしまったのかもしれません」


「そうですか。よくあることですね」


 どうやら私の嘘は見破られなかったらしく、ジュリアス様は納得したような顔になっている。私は胸をなで下ろした。


「よくあるって、ジュリアス様もたまに付け忘れるんですか?」


「ええ。結婚指輪ではなく、装飾用の指輪ですが。この間なんて、ないないと探していたら、反対の手に持っていたんですよ。お陰で五分は無駄にしました」


「それは……ふふ、お気の毒に」


 笑いながら、私は不思議な気持ちになる。


 こんな何でもない会話をしてる? 私とジュリアス様が? しかも、意外と話、弾んでるわよね?


 私たちが顔を合わせるのは夜だけだったから、私はいつも『疲れてるかな』と気遣ってしまって、あんまり彼に話しかけたことがなかった。


 ジュリアス様だってたくさん喋る方じゃないし、私たちが一緒にいる時間は無言ではなくても、ある意味では静かだったんだ。


 何だか物足りないとは思いつつも、そういうものかなって諦めてたのに……。


「ジュリアス様、昼食の後はお忙しいですか?」


 私は思い切って、この後の予定を尋ねてみる。


「何もないようでしたら……お庭に行きません? 珍しい鳥が木の上に巣を作っているって庭師さんが教えてくれたんです」


「それなら動物図鑑でも持っていきますか」


 あっさりと承知してくれて、私の心が弾む。……なんだ。仲良くなるって、案外難しいことじゃないのかもしれないわ。


 自分でも驚いたことに、私たちはそれから日が暮れるまでずっと一緒にいた。お庭を散歩したり、盤面遊戯ボードゲームで遊んだり……。変わったことは何一つないけれど、とても楽しい一時だった。


 そのせいなのか、資金の入手方法について考えるのをいつの間にか忘れてしまっていた。私がそのことに気付いたのは夜になってからだ。


 でも、仕方がない。だって、こんなに長い時間をジュリアス様と過ごせたのは初めてなんだから。今日一日のことを振り返りながら、私はスキップで寝室へと向かう。


「指輪、まだ見つかりませんね」


 だけど、ベッドに入る直前に現実に引き戻された。ジュリアス様が燭台の明かりで私の手を照らす。


「昼間、部屋の掃除のついでに使用人に探させたのですが、どこにもなかったそうです。本当に着替えの時が指輪を見た最後でしたか?」


「ああ、そのぉ……」


 目が泳ぐ。まさかジュリアス様が私の知らないところで指輪探しをしてくれているなんて、思ってもいなかった。


「そういえば……起きた時からなかったような……。寝ている間に外しちゃったのかも……」


「だとしたらこの部屋ですか」


 ジュリアス様は燭台を片手に床に這いつくばった。予想外の行動に私はぎょっとなる。


「な、何してるんですか!」

「指輪を探しています」


 ジュリアス様は毛足の長い絨毯の上に手を滑らせ、どこかになくし物がないか確認していた。


 しまいには、ベッドの下にまで頭を突っ込む始末だ。そんなところに指輪があるはずがないと分かっている私はオタオタしてしまう。


「ジュリアス様、もう寝ましょう?」


 私はタンスの引き出しを一つ一つ開けていたジュリアス様の肩に手を置いた。


「寝室で外したんじゃなかったかもしれません。どこかの廊下とかに落ちてるのかも……。だから、ここを探しても無駄ですよ」


「……そうですか」


 私の説得を受け、ジュリアス様は渋々引き出しを閉める。


 そして、ベッドに潜り込んだ後に呟いた。


「では、明日も探さないといけませんね」


 予想以上の執念に冷や汗が出る。気まずい思いが後から後から湧き出てきた。



 ****



 ジュリアス様の宣言通り、次の日も指輪探しは続いた。


 使用人も動員し、屋敷中を引っかき回す勢いであちこちを見て回る。私はその後ろについていきながら、どうしようかと頭を悩ませていた。


 こうなってくると、もはやメートランドさんの活動資金の工面について考えるどころじゃない。


「どこへ行ってしまったのでしょう」


 朝から捜索を開始して、もうお昼過ぎだ。昼食を食べるジュリアス様は困り顔になっている。


「使用人室から納屋、果ては菜園の土まで掘り返しましたが、どこにもありませんでした。ですが、煙のように消えてしまうなんてことは……」


 パスタをフォークに巻き付けながら、ジュリアス様がブツブツと呟いている。その傍らで食事をしつつ、私は肩身の狭い思いをしていた。気まずくなり、話題を変える。


「あの……お仕事、お忙しくはないんですか?」


 時間が巻き戻る前のジュリアス様は、いつだって多忙そうだった。執務室に入り浸ったり、どこかへ出かけたり……。


 それなのに、たかが指輪探しくらいでこんなに時間を割いてしまって平気なのかと心配になったんだ。


 けれど、ジュリアス様は「問題ありません」と返す。


「私の下には優秀な働き手がたくさんついていますから。どうしても私がしなければならないことなんて、そう多くはありません」


「え……そうなんですか?」


 じゃあ、何で逆行前のジュリアス様はあんなに忙しくしていたの?


 まさか……忙しかったんじゃなくて、忙しいふりをしていた?


 どうしてそんなことを、と思ったけれど、理由は分からなかった。もしかしてだけど、私と顔を合わせたくないから、とかじゃないわよね? そこまで嫌われることをした覚えはないし……。


 何だか胸がざわついてくるけど、私は首を振って嫌な想像を打ち消した。たとえ嫌われていたとしても、それはこことは違う世界でのことだ。今もそうだとは限らない。


「もしやミレーヌさん、寝ぼけて飲み込んでしまった、とかではありませんよね? 今頃はあなたのお腹の中なら、見つからないのも当然ですが……」


「わ、私、そんなにドジじゃありません!」


「そうですか? あなた、よく食べるじゃないですか。それに昨夜、寝言で『むにゃむにゃ……。もっとお代わりください……』と言いながら、私の指に吸い付こうとしていましたよ?」


 ジュリアス様がおかしそうに笑う。私は恥ずかしくてたまらなくなったけど、ジュリアス様が楽しげだったから、少しだけ和んだ気持ちにもなってしまった。


 この屋敷のどこを漁ったって、結婚指輪は見つからない。でもそのことは誰も知らないから、ジュリアス様はここを探し続けるだろう。


 その分、私たちは一緒にいられるに違いない。つまり、彼と仲良くなれるチャンスが増えるんだ。


 嘘を吐くことには罪悪感を覚えてしまうけれど、その結果得られるものを考えたら、この状況って、もしかしてそう悪いものでもないのかしら……?


「まあ、なくし物なんて思いもかけないところから見つかるのが常ですからね」


 食事を終えたジュリアス様がナプキンで口元を拭く。二人で食堂を出た。


「それに、永遠に見つからないかもしれないものを探すよりはいいでしょう」

「永遠に見つからないもの? それって……?」


 何の話だろうと思い、私は首を傾げる。ジュリアス様の視線が窓の外の庭に移った。


「愛、でしょうか」


 意外な返答だ。そういえば、以前にジュリアス様に「私のこと、愛していますか?」と聞いた時に、彼は「分かりません」と答えていたっけ。


 あれってもしかして、私を愛しているか分からないんじゃなくて、ジュリアス様は愛という感情自体、どういうものか理解していなかったってことだったりするのかしら? だから、「永遠に見つからないかもしれない」って表現したの?


「……ジュリアス様は愛を見つけたいと思いますか?」

「そうですね。その方が安らかな気持ちになれそうですし」


 ジュリアス様が少し目を伏せる。その寂しそうな表情に、何故かひどく心を揺さぶられた。


「……それなら、私を愛せばいいのに」


 気が付けば、かなり大胆な発言をしていた。瞠目するジュリアス様の腕を引っ張り、彼の唇にキスをする。


「奥さんを愛するのって、変なことじゃないでしょう?」

「ミレーヌさん……」


 ジュリアス様が目を細める。そこに「愛しています」と言ってくれた時の面影を見たと思った瞬間には、私は夫からの口付けを受けていた。


「確かに変ではないでしょうね」


 愛しています、とは言ってくれなかった。けれど、ジュリアス様の表情は優しい。


 私はほんのりと熱を持つ体をジュリアス様の腕に預ける。首から提げた小瓶が、服のボタンに当たって楽しげにチャリンと音を立てていた。



 ****



 けれど、私の幸福な時間は、すぐさま終わりを迎えることとなる。


「指輪が見つかりました」


 私の部屋を訪ねてきたジュリアス様は、氷のような表情をしていた。


「あなたがメートランドさんに差し上げたんですってね。彼、奥様にはお世話になりました、とお礼を言いに来ましたよ」


 ジュリアス様は淡々と話す。私は体中の血を抜かれたような気がしていた。


「二度とこんなことはしないでください」


 どうやって取り戻したのか、ジュリアス様が失われたはずの結婚指輪を私の手に押しつける。その小さなアクセサリーは、鉛の塊のように重く感じられた。


「ジュ、ジュリアス様……」


 夫の名前を呟いてはみたけれど、それ以上何を言っていいのか分からない。ジュリアス様が酷薄な目付きになった。


「あなたの気持ちはよく分かりました。ありもしないものを探す私は、さぞや滑稽に見えたでしょう」


 ジュリアス様が去っていく。私は彼を呼び止めることができなかった。「違います」とも、「そんなことありません」とも言えなかった。ただ、その場に呆然と立ち竦んでいるしかなかったんだ。


 その日から、私とジュリアス様の仲は冷え込んでしまった。昼間のジュリアス様は執務室にこもりきりになり、夜さえも寝室へ来なくなる。


 最悪だ。私たちの仲は、時間が巻き戻る前よりも何倍も拗れてしまっていた。


 でも、それは全部私のせいだ。私が結婚指輪を人にあげてしまったからこうなった。ジュリアス様が怒るのも当然だ。


 少し前まで、『このまま指輪が見つからなかったら、ずっとジュリアス様といられる』なんて考えていたのが恥ずかしい。


 私はなんてバカだったんだろう。『ジュリアス様を救いたかったから』は、言い訳にならない。私は夫婦の証を踏みにじってしまったんだ。お金を工面する方法なんて、じっくり考えたら他にいくらでも思い付いたはずなのに……。


「ジュリアス様……」


 胸の痛みを覚えながら、左手に帰ってきた指輪に口付ける。無意識の内にペンダントを握りしめてしまうけれど、あんな奇跡はもう起きないことくらいよく分かっていた。


 そんな折のことだった。バルコニーに出てぼんやりとしている時に、眼下の庭でとんでもない光景を見てしまったのは。


 ジュリアス様がメートランドさんと二人きりで話している。しかも、メートランドさんの手には抜き身のナイフがあった。


 かつての記憶が脳裏を駆け巡る。血だらけのジュリアス様と、「愛しています」という最期の言葉。私は反射的に部屋を飛び出した。


「ジュリアス様! 危ない!」


 庭に急行した私は、メートランドさんに体当たりを食らわせて叫んだ。


「このままだと殺されちゃう! 早くここから離れて……!」


 私は地面に倒れたメートランドさんを渾身の力で押さえ込んだ。


 けれど、必死な私とは対照的に、ジュリアス様もメートランドさんもポカンとした顔になっている。


 二人があんまりにものんびりとした反応をするものだから、殺気立っていた私も段々と何かがおかしいと気付き始めた。私の体の下にいるメートランドさんが、「……奥様?」と遠慮がちに話しかけてくる。


「その……何故私は奥様に拘束されているのでしょう……?」

「何故って……」


 私は当惑しながら彼が握っているナイフを見つめた。


「メートランドさんがジュリアス様を刺し殺そうとしていたから……」

「刺し殺す!?」


 メートランドさんが素っ頓狂な声を上げた。ジュリアス様も怪訝な顔だ。


「……ミレーヌさん、それは誤解ですよ」


 ジュリアス様がかぶりを振った。


「彼は近況報告へ来ただけです。そのナイフは新しい商品の試作品だそうですよ」

「えっ、こ、これが!?」


 私は目を丸くした。


 そういえばメートランドさん、新商品を作りたいって言ってたっけ。でも、まさかそれがナイフだったなんて……。


「この果物ナイフ、刃にくぼみを入れることで、切ったものがくっつかずに済むようになっているんですよ」


「へ、へえ……」


 もしかして私、すごく恥ずかしい勘違いをしてた?


 私は大慌てでメートランドさんの上から退く。そして彼に「……すみませんでした」と謝った。


「いえいえ、奥様は旦那様思いなのですね」


 メートランドさんのことを第一印象で「お人好しそう」って思ったけど、それは間違ってなかったみたいだ。体中が土まみれになってしまっても、メートランドさんは穏やかに笑っていた。


「実は私、奥様にお礼を言わねば、と思っていたのですよ」

「お礼?」

「ええ、奥様からお預かりした指輪、とても役に立ちましたので」


 気まずい話題を持ち出され、私は思わず横目でジュリアス様を盗み見た。けれど、彼は眉一つ動かしていない。


「奥様は『換金してください』と仰っていましたが、流石に結婚指輪を売り払ってしまうのは気が咎めまして……。そこで私は一計を案じることにしました。あの指輪を持って、他の貴族家に融資の打診をしに行ったのです」


 メートランドさんは得意げに笑う。


「すると皆さん、指輪の家紋を見て、『あの家も出資しているのか! それならうちも』と仰り始めたではありませんか。お陰でまとまった資金を手にできました。だとするならば、いつまでも指輪を手元に置いておく道理はございません。ですので、先日お返しに参上したという次第です」


 メートランドさんは商人だけあって、私なんかよりずっと知恵が回るらしい。売る以外にも、指輪にそんな利用方法があるなんて考えてもみなかった。


 丁重にお礼を言ってメートランドさんは帰っていく。


「あなた、随分と早とちりなんですね」


 二人だけになると、ジュリアス様が困ったような顔で私を見た。


「彼が人を刺し殺すような悪人に見えたんですか?」

「だ、だって……」


 私の知っている世界ではそうなるから。


 でも、その未来は回避できたと考えていいだろう。メートランドさんは無事に商品開発の費用を手にした。だったら、ジュリアス様を刺殺する動機はもう残っていないはずだ。


 最悪の結末を避けられたと判断して、私は体の力が抜けそうになる。潤んだ目でジュリアス様を見つめた。


「ジュリアス様……生きててくれてよかったです……」

「……私はあなたのことがますます分からなくなりましたよ」


 ジュリアス様は不可解そうな表情だ。


「ミレーヌさんは、メートランドさんが私を殺そうとしていると勘違いしたのでしょう? よくそんな凶暴な殺人犯に挑もうと思えましたね。自分が刺されていたかもしれないのに……」


「それは……」


 そんなことは考えてもみなかった。ただジュリアス様を守ろうと必死だったから。


 もしかして、指輪を手放してしまった罪滅ぼしがしたかったのかしら?


 ……ううん、多分そうじゃない。


「私、嫌だと思ったんです。ジュリアス様が愛を見つけられないまま死んでいくのが」


 私は指先でペンダントに触れる。『愛を見つけたい』と言ったジュリアス様の悲しげな顔を思い出していた。


 あのままメートランドさんに刺し殺されていたら、ジュリアス様は永遠に愛を手にできないまま生涯を終えてしまうんじゃないか。そう思ったら、居ても立ってもいられなくなってしまったんだ。


「ミレーヌさん……私を気遣ってくださったのは嬉しいのですが……」


 ジュリアス様が私の手を取る。そのまま庭の奥の方へと導かれた。


「残念なことに、私の愛は最期の瞬間まで見つからないんですよ」


 ジュリアス様が立ち止まる。そこは墓地になっていた。


「私の一族が眠るお墓です」


 ジュリアス様が灰色の墓石を見つめながら言った。


「私は幼い頃、母を亡くしました。母を深く愛していた父は、それ以来ずっとここに通い詰めていたんです。雨の日も風の日も。そうして何時間もお墓の前から動こうとしませんでした」


 ある冬の日のことです、とジュリアス様は続ける。


「朝方、父が墓石に寄りかかったまま死んでいるのを墓守が見つけました。父は母を亡くして以来衰弱が激しかったので、夜の寒さに耐えられなかったのでしょう」


「ここで……ですか」


 私は辺りを見回す。庭の中とは言っても、周囲は殺風景で墓石以外は何もないところだった。


「それを知った時、私はこうはなりたくないと思いました。死ぬ時は誰かに一緒にいて欲しい、一人ぼっちで寂しくあの世へ旅立ってしまうのは嫌だ、と。私を看取ってくれる人がいたら……私はその人を何よりも愛するようになるだろう、とも」


「最期まで分からないって、そういうことですか……」


 不意に、私の頭の中にある顔が浮かんできた。


「……ジュリアス様みたいな考え方をする人、私も一人知ってますよ」


 私はゆっくり目を閉じた。


「私の親友だった人が……最期に言っていたんです。『ずっと一緒にいてくれてありがとう、ミレーヌ』って……」


「国王陛下の末姫様のことですか?」


「えっ……どうして分かったんですか?」


 私は目を見開いたけど、ジュリアス様は「分かりますよ」と当然のように言った。


「何故私があなたに求婚したと思っているのですか? あなたが幼馴染みの末姫様の死に立ち会ったと聞いたからです。あなたは大切な人の最期の時に傍にいた。そんな人だったら……私のことも看取ってくれるかと思ったんです」


「そ、そうだったんですか……」


 意外すぎる求婚理由に驚きを隠せない。ふと、ジュリアス様は顔を曇らせて罪の告白をするような声を出した。


「ですが、あなたには気の毒なことをしました。想い人がいると知っていたら、結婚話を持ちかけはしなかったのに」


「……想い人?」


 何の話だろうと私は首を傾げた。だってそんなの、全然心当たりがなかったから。


 けれどジュリアス様は「誤魔化さなくていいですよ」と首を振る。


「私は特別に勘が鋭いわけではありませんが、それくらいきちんと分かっています。ですから、好きでもない男と結婚してしまったあなたをこれ以上傷つけないようにと、せめて距離を詰めすぎないようにするつもりだったのですが……」


「ちょ、ちょっと待ってください」


 私は混乱する頭を必死で静めた。


 時間遡行前のジュリアス様は私によそよそしい態度で接していた。それに、昼間はずっとどこかへ行ってしまっていた。


 それってもしかして、ジュリアス様の配慮だったの?


 そんなに気を使われていたなんて思ってもいなかった。ジュリアス様は私を丁重に扱ってくれていたんだ。


 嫌われていたんじゃなかったんだと知って、私は心底安心した。反面、一つ疑問が残る。


「私に想い人なんかいませんよ?」


 確かに綺麗な顔の人を見たらいいなと思ったりはするけれど、それだけでは恋とは呼べないだろう。少なくとも、その程度で夫であるジュリアス様が遠慮する必要なんてない気がする。


 けれどジュリアス様は「そんなことはないでしょう」と、私の首から提げている小瓶を指差した。


「ミレーヌさん、初夜に私が何を尋ねたか覚えていますか?」


「ええと……『まだ足りないのなら、お相手してもいいですよ?』とかでしたっけ?」


「違います。それじゃありません」


 ジュリアス様が生真面目に訂正を入れる。


「昼間だけではなく、寝間着になってもミレーヌさんはそのペンダントを付けていたでしょう。ですから私は気になって、『それは外さないんですか?』と聞きました」


 ああ、そういえばそんな会話をしたような……。もう何ヶ月も前の話だからうろ覚えだ。


「その質問にミレーヌさんはこう答えました。『これには大切な人の髪が入っているんです。だから、肌身離さず身につけることにしているんですよ』と」


「ええ、その通りです」


 といっても、奇跡を起こした代償に、今はその髪はなくなってしまったけれど。


「それがどうかしたんですか?」


「どうかって……。どうもこうもありませんよ。恋人からの贈り物を、初夜になっても花嫁が手放さないんですよ? 私がどれほど気まずい思いをしたことか……」


「恋人からの贈り物!?」


 何でそんな話になるの!? と私は混乱したけど、ジュリアス様の思い違いに気付いて「ああっ!」と叫んだ。


「ジュリアス様、恋人じゃありません! 瓶の中に入っていたのは友人の髪……さっきジュリアス様が言っていた亡くなった末姫の髪です!」


「……はい?」


「私、彼女が亡くなる前に髪を分けてもらったんですよ!」


 私の親友だった姫は昔から病弱で、ちょっとしたことで熱を出しては寝込んでいた。その度に私はいつもお見舞いに行って、彼女を励ましていたんだ。


 その姫が一年前、たちの悪い風邪にかかってしまった。日増しに弱っていく彼女は自分の死期を悟ったのだろう。様子を見に行った私に、あるものをプレゼントしてくれたんだ。


――その中にはね、私の髪を入れておいたの。


 水晶の小瓶を差し出してきた姫は、蒼白い顔で笑っていた。


――ミレーヌはいつも私のことを元気づけてくれたから、そのお返し。お守りにしてね。ミレーヌが大変な時は、今度は私が助けるから。……え? 死んじゃったらそんなの無理? ……そんなことないよ! 私、ミレーヌが大好きなんだもん。だからさ、奇跡だって起こせるよ。


「そんなことが……」


 ジュリアス様は呆然とした後、苦笑いした。


「どうやら早とちりなのは私も同じだったようですね。……夫婦って似るんでしょうか?」


「どうでしょう。……あの、ジュリアス様」


 誤解は解けたけど、まだやっておかないといけないことがあったと思い出して、私はジュリアス様に向き直った。


「本当にごめんなさい。大切な指輪を人にあげてしまったりして……」

「……そのことならもういいですよ」


 ジュリアス様はあっさりと言い切った。すんなりと許しが出て、私は驚いてしまう。


「先ほど必死になって私を助けようとしたあなたを見ていて思いました。きっと何か訳があったのでしょう? 私が嫌いだから指輪を手放したわけではないんですよね?」


「そ、それはもちろん!」


 私は激しく頷いた。ジュリアス様が私の左手にはまった指輪を見て「よかった」と呟く。


「これで……ようやくまともな夫婦らしくなれますね」

「はい」


 ジュリアス様の言葉に、私は首を縦に振る。


 墓地へ来た時と同じように私はジュリアス様に手を引かれ、今度は屋敷へ続く道を歩いていった。その間、夫から聞いた話を一つ一つ思い返す。


「……ジュリアス様の考え、正しかったですよ」


 逆行前の光景を私は思い出していた。


「私は最期までジュリアス様と一緒にいました。ジュリアス様は死ぬ前に愛を手に入れられたんですよ」


 ジュリアス様が殺されてしまったことは私にとっては悲劇でしかなかったけれど、あの瞬間、きっと彼は幸福だったのかもしれない。


 だから最期に笑っていたんだろう。そして、「愛しています」と言ってくれたんだ。


「あなたは時々、変なことを言いますね」


 ジュリアス様が首を傾げた。そして、小さく笑う。


「もしそうなら言うことなしですよ。ですが……」


 ジュリアス様が私の方を見る。


「こうして生きている内にあなたと過ごす時間も、案外いいものですね」


 ふわりと体が浮くような感覚がした。


 それはジュリアス様が見つけた新しい愛なんじゃないですか?


 そんなセリフが出そうになったけど、私はあえて口を閉ざす。


 私たちの結婚生活はまだまだ続くんだ。だったら、彼がいつそのことに気付くのか、気長に待ってみるのも悪くはないのかもしれなかった。


「……ありがとうございます」


 これから迎える未来で、もう一度「愛しています」が聞けるだろうという幸福な予感を覚えながら、私はジュリアス様の手を強く握り返した。

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― 新着の感想 ―
[良い点]  構成が素晴らしくて、とても惹き付けられました。  寒々とした夫婦が暖かな寄り添いに流れて行く様がとても心に染み入りました。 [一言]  私にはこちらの作品の方が肌に合うようです。  とて…
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