97話 契約成立
「それで、俺はどうすればいいんだ?」
俺は、目の前の食べ物の山には手もつけずに、そう男の方を見た。
「そうだね。あ、そういえばまだ名乗ってもいなかったね。僕は諸星司と言うよ。まあ、社長でもなんとでも呼んでもらって構わない」
諸星と名乗った男がそう言うと、横でモグモグと口に食べ物を詰め込んでいた女の子が勢いよく手を上げた。
「私、松前美咲! これからもご飯よろしく!」
女の子はそう言うと、再び食事に戻る。果たして俺は犬の飼い主にでもなったのだろうか。俺は真剣に悩みながらも気を取り直して諸星に向き直った。
「まず、君にはここで、すぐにメールを打ってもらうよ」
諸星はそう言うと、ニッコリと笑って俺を見た。
「目の前で打てってことですか?」
「メール打ってるのを見られるのが恥ずかしいって玉じゃないだろ? 君は」
俺はその言葉には返さずに、無言で携帯を取り出した。
「それで、なんて打てばいいんですか?」
「メタガラスを脱退する旨を君なりの言葉でしたためて、送ってもらおうかな」
俺は自分の心の中の抗う気持ちや、メタガラスの仲間たちの反応を努めて無視するようにして頷くと、簡単な、一行で済んでしまうようなメールの文面を打った。
「本当にこんな言葉でいいのかい?」
「ああ」
男はその文面を見て、目を細めると、俺の携帯を取り上げて送信ボタンを押した。
「これで、契約成立だ」
*
俺は今まで殆ど使わず貯めていた貯金を使って、高校を挟んで家とちょうど反対側ほどに位置するところにアパートを借りた。
メタガラスをほとんどなんの説明もなしに抜けたので、とても梓や早苗さんに大塚ちゃん、そして彩とも顔なんて合わせられなかった。
……そして。
「なんで、俺のお金でお前までアパート借りてんだよ……」
俺の借りたちょっとボロい外見のアパートの隣の部屋。俺が借りている部屋と違って角部屋で家賃が1000円高いその部屋の前にはある女の子がいた。
「お世話になりまーす! これも社長命令ですからね! うんうん」
そう言っている女の子は自分でそう頷くと俺をビシッと指さした。
「積極的に私とコラボして、投げ銭諸々、よく稼ぐようにというのが社長の命令です! せっかく移籍の段取りも着実に進んだんですから、ここからが勝負っすよ!」
女の子の言うように俺のメタガラスからの脱退は泉からの「分かった」というメッセージ一通で済んでしまった。3Dアバターの使用制限をかけられることもなくロイヤリティを求められるでもなく、俺の持っている株式を返せとも言われることなく、俺からのそれらの質問にも一貫して「不要」という単語だけのメッセージが帰って来ていた。
「もう、嫌われたかな。まあ、当たり前だよな……」
泉以外からはそもそもなんのメッセージも来てなく、罵られたり、理由を聞かれると構えていた俺はなんとも言えない気持ちでこの一週間を過ごしていた。
「いやいや、何が当たり前なんすか。傑さんを嫌ってたらこんなご飯をたかったり、隣に住んだりなんてするわけ無いっすよね!」
「あ、そういやお前いたな」
俺は目の前の状況を置いて考え込んでいた頭を再び現世に向けると、目の前でぶすっとした表情をしている美咲ことVTuberワビちゃんの中の人を見た。
「なんですか? こんなに可愛い女の子が目の前にいて、存在を忘れることができるなんてあなたは本当に男ですか!? え?」
その様子に俺は思わず、VTuberを始める前に勉強のつもりで見ていたワビちゃんの配信スタイルを思い出した。途中から得意としていた事務所内コラボが無くなって殆ど見なくなってしまっていたが、はじめの頃は俺自身も確実に彼女のファンであったことを思い出した。
「俺、こんなにVTuberとしての外見と中身が同じ人見たのは初めてだよ」
俺がそう脈絡もないことを言うと、美咲はぶすっとしていた表情をなんとも言えない表情へと変えると言った。
「当たり前じゃないですか、これが私なんですから」
そのなんとも返しに困る言葉に俺は気持ちを切り替えるようにして言った。
「そういや、お前は今日引っ越して来たんだろ。荷物運ぶの手伝おうか?」
俺がそう言って、階段下に積まれたダンボールを指差すと、美咲はニヤニヤした表情を浮かべると、言う。
「お、そうやって女の子の部屋に入る口実を手に入れるわけっすね」
「もう手伝わないからな」
俺がそう言うと、美咲はちょっと慌てると言った。
「いやいや、階段前までの契約の格安プランにしてるんですから! こんな細腕の女の子にこの荷物全部持たせる気ですか? 正気ですか?」
俺はさっき、美咲がゴリゴリのマッチョな引っ越し業者のお兄さんが特別に1万円で2階まで荷物を運んでくれると言っていたのを私は力があるから大丈夫ですとか言って断っていたのを思い出して、思いっきり笑ってやった。
「お前、力あるから大丈夫だろ。だって自分で言ってたもんな」
俺がそう言うと、美咲は真剣な顔つきになると言う。
「お願いします」
俺はとため息をつくと、仕方なく荷物を運び始めた。




