112話 壁
「僕は、Vセカイが欲しいよ。あの会社はメタバースの世界で覇権を取るのに必ず役に立つ」
泉さんがそう言うと、早苗さんは不思議そうに首を傾げると、聞いた。
「でも……Vセカイって潰れかけのVTuber事務所っすよね? そもそもそんな価値があれば潰れそうになることもなかったんじゃないかなーって思うすけど」
早苗さんの言葉は尤もだった。Vセカイが資金繰りに困って傑を利用したのはこの部屋にいる人にとっては周知の事実だ。
「早苗さんの話と探偵の調べ、そして彩さんとワビちゃんのルートから養育費すら払えない諸星の現状は確かに、周知のとおりになっているね。ただ、現実は表に出ているものだけではないということは往々にしてあるものだよ」
泉さんはそう言うと、エイヴェリーさんに促した。
「私がVセカイの価値について説明しましょうか」
エイヴェリーさんはそう言うと、Vセカイが公開している2D・3Dモデルのモーションソフトの起動した画面をこちらへと向けてきた。
「これはVセカイが公開しているモーションソフトっすよね。でもこれ身内びいきって訳じゃないっすけど、メタガラスのソフトと比べれば……」
早苗さんのいう通り私も配信者の端くれとして興味があって使ってみたこともあった。だけど、泉さんと、そして途中からエイヴェリーさんが加わってさらに改良の重ねられたメタガラス3Dと比べるとその性能差はもう子供と大人といったようだったのをよく覚えている。
「このモーションソフトの価値はモーション機能にはないよ」
「え?」
そのソフトの定義からしておかしな言葉に私は思わずそう言葉を返していた。
「早苗さん、前に自分の声と姿のギャップにコンプレックスを感じていたのもVTuberを始めた理由だと話していたね」
泉さんの言葉に早苗さんはどこか恥ずかしそうに答える。
「それも理由の一つではあるっすよ。まあ一番は大塚ちゃんの歌手になりたいって夢を叶える道筋を作ってあげたいってことだったっすけどね」
「僕は、このソフトにそんな声にコンプレックスを感じている人の希望の光りたり得るものを見つけたよ」
「早苗さん、このマイクに声を吹き込んでもらえるかい?」
いつの間にか、エイヴェリーさんが説明するはずが、泉さんの説明へと切り替わっていた。エイヴェリーさんもそんな風になるんじゃないかと予想していたようで何も言わずに泉さんの方を見ている。
「なんて話せばいいんすか?」
早苗さんがちょっと困惑したようにそう言うと、泉さんは少し考えたあと、言う。
「そうだね。軽く自己紹介でもしてみたらどうかな?」
「私は、松井早苗です。職業は映像制作者です」
そのいつもの早苗さんのちょっと大人な低めの声を満足そうに聞くと、泉さんはソフトのメニューバーの編集から、いくつか階層を隔ててシンプルにボイスチェンジャーと名付けられているものを起動した。
そして、若いから年寄りまで細かく刻まれた年齢パラメーターを若いへ寄せて、低いから高いへと刻まれている声音というパラメーターを高いへとスライドさせた。そして、男性・女性のラジオボタンのうち女性の方にチェックを入れた。
「こんな単純なパラメータしかないものだから、僕とエイヴェリーさんでこのソフトを調べていてもすぐには気づけなかったよ」
泉さんはそう言うと、適用と書かれたボタンを押して、ソフトの再生ボタンを押す。
小さく、早苗さんの息を飲む声が聞こえた。
「ふふ、こんな見た目だから僕もすぐにはその真価に気づかなかったよ。これはカラオケの機械についているような安っぽいエフェクトとも、編集ソフトについている本格的に見えて、その実、機械っぽさを消せてないそれとも違う。人間の自然さを持ち、そして、ある種の出来の良いソフトにありがちな不自然に完璧すぎるという欠点がない。これは僕が目指す、国籍も年齢も、体の性別から心の性別まですべての壁を取り払う、僕の望むインターネット世界に必要な一つのピース足り得るものだよ」
私には泉さんから漏れる微かな高揚を感じられた。そうなのだ。泉さんの夢はずっとそうだった。私達でインターネットを変える。世界を変える。伝説を作る。VTuberとしての仕事を好きでもその実、ネット文化にそこまで入れ込んでない私ですら夢だと思えてしまう。泉さんの野望。
確かに、この自然なボイスチェンジャーにはそんな未来が見えた気がした。
「ちなみに、これは私が以前録音した自分の声を変換したものですよ!」
エイヴェリーさんはそう言うと、やけにカッコいい男性の声を再生した。
「性別まで超越するこの出来には私も驚きましたよ」
「拙者もこれでバーチャル美少女受肉というものを……」
私たちは田所くんの言葉を無視すると、続く泉さんの言葉に耳を傾けた。
「さて、会合をセッティングするのは早苗さんと彼に任せるとして、彩くん、君にもワビちゃんと協力してもらうことがあるよ」
ついに来たかと、私は自分が呼び出された訳を泉さんから聞かされ始めた。