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「木下! 今朝の話だけど!」
「うるせーな。何でもないって言ってるだろ」
カタカタをカルテを打つ木下は、私に顔を向けることもなく前の画面をじっと見ている。
やっぱりその返事は芳しくない。
「だって、蓼原先生とタンデムしてたのは、間違えようのない事実じゃない?」
ジロリ、と木下が私を睨みつける。
「本気で、恨むぞ」
「何が? えーっと、蓼原先生とはタンデムしたくなかったのに、ってこと?」
私は話が読めなくて首をかしげた。
「昨日帰るとき、外科の斎藤先生につかまったんだよ! どう考えたって、葉山のせいだろ!」
忌々しそうに言い放つと、木下はまたカルテに向かう。
なるほど、斎藤先生か。
斎藤先生は、本当に恋愛対象が男性だって噂がある先生だ。
「あー。斎藤先生、勝ち目のない戦いを挑んだんだね」
だって、木下ノーマルだもんね。私だって、流石に理解はしている。
だけど、木下は不服そうに、また私をじろりと睨んだ。
「だから! 蓼原先生と俺を結び付けるなって言ってるだろ!」
「でも、蓼原先生に助けてもらったってことでしょ?」
でないと、朝から木下が蓼原先生とタンデムしてくるわけないよね?
「……それは、そうだけど……」
「どんなふうに助けてもらったの?」
ここで興奮しだすと木下の機嫌を損ねかねないと思って、私は何の気ない様子で尋ねた。
「……斎藤先生の車で、蓼原先生の家に向かってもらって……先に蓼原先生にLINEしておいて、助けてもらったんだよ」
「なるほどねー。良かったね、蓼原先生が家にいてくれて」
うんうん、と私は静かに同意してみた。
「……確かに、そうだな。居なかったら、逃げられたかどうかわかんないよな」
神妙な顔で頷く木下に、私はにっこりと笑う。
「ありがとう! いいネタになりそう!」
は? と声を裏返した木下が、また怒った顔になる。
「葉山に話すんじゃなかった!」
「まー、まー、まー、まー。どうせそのうち、暴く予定だったから、一緒だって!」
「一緒じゃねーよ! 暴くってなんだよ! あー。葉山に聞かれても無視するって決めてたのに!」
「そうか。蓼原先生がヒーローのように現れた話、誰にもしたくなかったよね。ごめんね」
「ちげーよ! ……もう、葉山と話しねー」
木下は、ぷい、と顔をディスプレイに戻した。
ダン、ダン、と木下のキーボードを打つ音が激しくなるのを聞きながら、私は笑いがこらえられなくなる。
*
ざわざわと騒がしい店内は、放射線科の面々が納涼会で騒いでいるだけでもなかった。他の場所でも同じように納涼会をする人々の声があふれている。
テーブルの真ん中に座る蓼原先生の両隣に、木下と私は座っていた。
「何で葉山、バイクに乗り始めたんだ?」
さっきまで仕事の話をしていたのに、唐突に蓼原先生が質問してきた。
蓼原先生の奥の木下が、うげ、と言いたそうな顔になる。
……ああ、そう言えば、本当の理由、木下には言ったことないかも。
隠してるわけでもなかったんだけどな。
「私、二十歳の時に好きな人がいて」
蓼原先生が戸惑っている。失礼な! 私だって、好きな人の一人や二人、いや一人だけど、居るんです!
木下も目を見開いている。
「マジで?」
木下の口から信じられない、って感情が駄々洩れなんですけど?
「失礼ね。マジよ。私が二十歳の時に、彼は二十三だったかな。で、その人、レーサー目指してて」
へえ、と蓼原先生の声が漏れる。
蓼原先生の表情が、真面目なものに変わったのがわかる。
「でも」
私は目を伏せる。
「プロとしてのデビューのその日に、練習中に事故があって」
いつ思い出しても、その時のシーンを思い出すと、私の胸は切なくて張り裂けそうになる。
声だって、自然に沈む。
「もしかして」
続きを口にできない私に、木下が問いかける。
私は滲んだ目で、木下を見ると頷いた。
「……本当にあっという間。どうして、彼だったんだろ。どうして、彼が死ななきゃいけなかったんだろ」
木下が狼狽えている。
一緒に働いてきて、こんな姿を木下に見せたことはなかったせいかもしれない。
「葉山、お前……」
蓼原先生が声を絞り出す。
きっと私の気持ち、わかってくれたんだろう。
私は涙を拭いて口角を挙げた。
湿っぽい話をするつもりはなかったから。
ただ、私の気持ちを知ってほしかっただけ、だから。
「彼が乗ってたのがトリコロールのマシンで。前は、思い出すのも辛かったんですけど、最近になって思ったんです。トリコロールのマシンで代わりに走ってあげることが、彼の供養になるんじゃないかって。……四年もかかっちゃったけど」
蓼原先生が目を見張る。
そして、真面目な顔で頷いた。
「葉山お前……」
木下はそこまで言って、唇を噛んでいる。
木下にも、私の気持ちが伝わったんだ、ってわかる。
2人がわかってくれた。
そのことに、途端に、哀しい気持ちが更に溢れだす。
「何で、何で、私の推しは死ななきゃならなかったんだろ。そのあとの物語の盛り上がりのためだったとしても、それだけが未だに腑に落ちないんですよ!」
えぐえぐとかわいいとは言えない泣き声になっても、私は涙を止めることができない。
「推し?」
困惑したような木下の言葉に、私は頷いた。
「私の推しが死んじゃって、主人公は失意のどん底に落ちるんですけど」
ドンと私はテーブルを拳で叩いた。
「新しい相手役が出てきて、その相手とハッピーエンドなんて信じられます?!」
信じられるわけがないでしょ!
わかるよね? 2人ならわかってくれるよね?
「……物語上仕方ないんじゃないか」
蓼原先生?!
何ですって!?
「物語上?! 蓼原先生は推しが殺されても平気なんですか?!」
そんなの、嘘でしょ!
「俺には推しとかいないしな」
蓼原先生はすげなく言い切ると、コップを持って立ち上がろうとする。
私はとっさに、蓼原先生の手をつかんだ。
私の気持ちが理解できるまでは、逃がすつもりなどなかったから!
そしてなぜか、蓼原先生のもう片方の手を、木下がつかんでいた。うん、木下いい仕事してる! 私の気持ち、わかってくれるんだよね?
私たちに引っ張られて、蓼原先生が渋々席につく。
その表情は、明らかに不満が溢れている。
……おかしいでしょ!
私は真面目にこの話をしてるのに!
「事故のシーンを描いた一巻目のラストを読むと、いまだに涙は止まらないんです。どうして私の推しとハッピーエンドにしてくれなかったんだって、抗議の手紙を書いたのは、きっと私だけじゃないはずなんです! あの漫画が二巻で終わったのは、きっとそれのせいなんです!」
切々と訴えても、蓼原先生には伝わっているような感じを受けなかった。
何で?! さっきは、理解してくれてたよね?
「葉山、BL漫画の登場人物をあたかも実在するように言うなよ!」
木下が抗議してくる。
何ですって?
「え? BL漫画の登場人物をあたかも実在するように言うなですって?! ……木下、いい度胸してるわね! 自分は蓼原先生とリア充だからって、なんなのよ!」
木下がため息をついて首を横に振った。
そんな態度で、許すわけないでしょ!
「いや、イチャイチャはしてくれてていいから! うん。腐女子的には、それが一番おいしいから!」
木下の顔がゆがむ。
いえいえ、子犬×美形カプも、当然おいしいんだけど!
でも、私の推しへの愛は、まだまだ、こんなものじゃないから!