懐疑と信仰 ーーヴァレリーとウィトゲンシュタインーー
ヴァレリーに「人と貝殻」という散文がある。ヴァレリーがある日、海岸に出て貝殻を拾い、その機能や外観の美しさに驚嘆する所から話は始まる。それからヴァレリーらしい分析が続いた後、最後にまたその驚きへと帰っていく。そんな文章だ。
私は久しぶりに読み返して、明らかにヴァレリーが事物の奥に何かを見ているというのがはっきりと感じられた。私自身の立ち位置が変化したからかもしれない。
ヴァレリーが感じているのは、ゲーテが感じていたような「神」の観念である。西欧における「神」と言っていい。東洋とも関わりはあると思うが、それについては置いておこう。
ゲーテと言えば、汎神論的な世界観を持っていた。ゲーテは、植物論や動物論など、自然研究をずっとしていた。現在の自然研究は、科学的に分解、分析して数量化するものになっているが、ゲーテにおいては詩人としての目がいつもそこにあり、自然の奥底に絶えず生きた事象が感じられていた。自然は生きている、という事はゲーテにおいては、その背後にいる神の息吹が感じられていたと言っていいだろう。人が心から「この世界は素晴らしい」と言えるのは、その世界の奥に何らかの存在を感じているからだ。この世界が素晴らしいと言う時、その奥行きが感じられていなければ平板な喜びにしかならない。奥行きとは時間(歴史)であり、更に言えば、時間の外側にあるものである。時間とは、ただの我々の観念、概念であるから、理性がさらなる奥行きを、もっと先を求めるのであれば、時間を越えたものを指向する事になる。
ヴァレリーは海岸で貝殻を拾う。彼は貝殻を見つめ、驚く。その形の美しさ、その機能の在り方に驚く。彼は自然に対して驚いたのだ。では自然とは何か。自然とは人間の向こう側にあるものである、と本質的に詩人であるヴァレリーには感じられた。
途中、こんな言葉が出てくる。引用してみよう。
「結局のところ、哲学は、みなが知っていることを知らないふりをしたり、みなが知らないことを知っているふりをすることにあるのではないだろうか。哲学は存在を疑う。それでいて、哲学はまじめに《宇宙》のことを語るのだ……。」
こうした文章を『哲学嫌い』の人が読むと、我が意を得たりと思うのだろう。そんな誤読を散々目にしてきた。しかし、ヴァレリーは哲学を否定したくてこうした事を言っているわけではない。あえて言うなら、詩人としての観点と哲学者としての観点がぶつかっているからこうした言葉が現れてくるのだ。
最初に戻るなら、ヴァレリーは貝殻を拾う事から始めたのである。そうしてそれに驚いた事から始めた。という事は、存在と、その触知から始めたという事だ。存在は在る、確かにある。それに驚く。ここまでは自動的である。観念や思考が始まる機会はない。思考が始まるのはその後、驚いた「後」だ。先に、何物かが感じられている。先に存在がある。驚きがある。
ヴァレリーが否定したかったのは、哲学者が存在を「最初から」考えようとする、という事だろう。ヴァレリーからすれば、最初に存在がある。要するに、貝殻があるのである。貝殻がなければ、貝殻に対する思考も始まらない。ヴァレリーは事物の奥に何かを感じているし、思考の先にも何かを感じている。
それを神と言う事は許されよう…。小林秀雄が「人と貝殻」を評して、「ヴァレリーの信仰告白」と言ったのはそういう意味だろう。しかし、近代人であるヴァレリーには神の名は語れなかった。神は空白の不在として、貝殻の向こうに感じられているが、語り得ないものになっていた。そこで分析は…神の残滓としての自然を巡る考察になる。彼にとっては科学や数学は、そうした自然への線形的理解、流動的な知性の運動に他ならなかった。
「人と貝殻」の最後で、ヴァレリーはこう書いている。
「なかが空ろで螺旋を描くこの小さな石灰質の物体は、その周囲に多くの思考を呼び寄せる。だがそのいずれとして結論にいたるものではない……。」
ヴァレリーは結論が出ない事に満足している。何故かと言えば、それは最初から出ていたからである。理性や思考は、貝殻を起点に様々な想念を生む事ができよう。しかしそのいずれも結論には至らない。それは、思考でしかないからである。ヴァレリーが言いたいのは、まず存在するのは貝殻であり、それを見た時の喜び・驚きという事だ。そこから知性はいくらでも展開していくが、そこに終わりはない。終わりは再び始まりに接続される。つまり、貝殻を見た時の喜びという感情に。
知性はいくらでも分析できるだろう。だが、まず世界が先に存在しなければならない。
こうして書いていて思い出したのは、ウィトゲンシュタインの晩年の「確実性の問題」だ。例えばこんなフレーズがある。
「疑うためには根拠が必要ではないか。」
「子供は大人を信用することによって学ぶ。疑うことは信じることのあとに来る。」
…ヴァレリーが「人と貝殻」を書いたのは晩年だったし、ウィトゲンシュタインが「確実性の問題」を書いたのも晩年だった。人は晩年になれば信仰へと回帰するものである。信仰への回帰が、理性的な探索の結論であるとは、長い思索の歩みを進めたもののみに得られる位相だろう。そうした魂の道程を例えば「ヴァレリー」とか「ウィトゲンシュタイン」と名付ける事ができよう。
ヴァレリーもウィトゲンシュタインも晩年には、近い位置に落ち着いたと言える。それは海岸に出て貝殻を拾い、形の美しさに見惚れるといった、単純な、原始的な行為がある場所だ。子供の精神がある場所とも言える。知性や理性は一周し、再びそれが現れてきた原初へと帰る。そういう意味で二人は近い人生過程を辿ったのだろう。しかし、今を生きる我々は、そうした彼らの姿を見て、再び自らの思索を始める事ができる。その先にあるものが何であるかは、誰にもわからないが、その先を予測する事ができるだろう。それは詩人が貝殻を見つめるような、ある単純な位相だろう。しかし、我々にとっての貝殻とは何なのか。この不幸な時代にあっては、それを見つける事から始めなければならない。懐疑を作る為にはまず信仰が必要だからだ。