西への準備
「草津の又八が死んだ」
出浦盛清が真田昌幸に告げた。碁盤を挟んでいる。
「ふむ」
昌幸の顔は能面のようだ。
「必死の仕事ゆえ、死ぬのは一人で良い、相方はいらぬと流れ者を拾っていったのが仇となった」
「信長や光秀はおろか、穴山にすら傷も負わせられずとは、無念だったろうな」
「最悪よ」
しばらく考えた昌幸が、じゃら、と石をつかんだ。
「佐助を呼ばねばならんか」
昌幸の言葉に出浦は驚きの表情を見せた。
「まて、今、信濃から佐助を外せば、上田の城も危ういぞ」
滝川一益の仕置きが粛々と進んでいるとはいえ、一旦タガが外れた甲斐・信濃、特に国人領主たちが元気なままの信濃は、少しでも「新しい主君」に自分の支配地を広く認めてもらうため、小競り合いが起きている。
大規模な合戦を起こしてしまうと織田家の懲罰の対象となり、逆に家の取り潰しに繋がってしまうので、必然として、昔ながらの謀略が息を吹き返した。
真田の草の者の中でも名を知られた、猿ヶ京の佐助は、その攻防戦の総指揮をとる重鎮だ。
「ここ数日のことだ。そればかりのことで、取られる城ならそれまでのこと」
「それはそうだが」
「それと、弁丸も一緒にな」
弁丸は、真田昌幸の次男で当年16。のちの真田幸村である。
安土。
「生け捕った透破は、ゼニで雇われた、流れの透破でありました」
源吾が言う。
「いずれの手のものかはわからぬということか」
光秀が首を捻る。
そこへ斎藤利三がやって来た。
「殿。昨日は難儀なことでありましたそうな」
「饗応役のことか」
「町の童まで噂しておりますぞ。面目を失った殿が、腹立ち紛れに腐れ魚を掘りに投げ捨てておった、と」
「まあ、見られておったのが、それだけで良かった。腐れ魚のおかげで、危うくわしの首が落ちるところであった。成敗してくれたわ」
斎藤利三は岐阜以来の股肱之臣である。そんな軽口で誤魔化されはしない。
「表沙汰にできぬのは承知の上。何がござった」
光秀は少し困ったような笑顔で利三を見つめた。
「聞くなと。しかし、いかに面目を失おうと、惑乱する殿ではござるまい」
「おぬしらが、それを知っておいてくれれば良い。人の口など七十五日じゃ」
それより、と話を振った。
「いよいよ、中国出陣よな。陣立ては整っておるか」
「万端でござる」
斎藤利三の差し出した陣割りを見て、光秀は少し難しい顔になった。
「これでは長陣はできぬな」
「羽柴様からの伝令は確かに、鉄壁の城ゆえ、どうしても上様の後陣がなければ落ちぬ、ということでありましたが、吾が手のものの調べでは、もはや熟柿のような状態と。着陣早々にも落ちますでしょう」
「高松城だけを見ればな」
光秀は、長い戦いになることを懸念していた。
「毛利輝元が出てくる」
確かに羽柴からは、「毛利の本隊の援軍近し」とあった。
「しかしそれは形だけのことでありましょう。清水宗治は毛利の外様。命がけで救う義理はございません」
「本当に、救援するつもりで来たとしたらどうなる。毛利輝元が、外様だからと言って見捨てぬ男であったら、どうなる。毛利が攻めかかってくるこちらの陣には上様がおるのだぞ」
「もしそうなれば、、、上様と、毛利との直接の戦」
「そうなれば大いくさだ。数年は帰ってこれなくなるかもしれぬ」
「備えまする」
「そうしてくれ」