饗応の席
駿河路を、織田軍の一行は歩いていた。
「徳川殿」
信長が馬を並べる家康に語りかけた。
「日の本一の富士の山というもの、これまでも目にする機会はあったはずだが」
すっと、天を仰いだ。
「初めて、脳裏に焼き付いたわ。あっぱれな山よ」
武田という重石が取れたことは、信長の精神にどれほどの安楽を与えたのかわからない。
武田討伐に向かう時、富士の美しさを愛でるどころではなかったのだ。
甲斐・信濃の仕置きを滝川一益に任せると、織田軍主力は、安土へと引き返していた。
一行の中には、新たな武田家の当主となった穴山梅雪がいた。
武田勝頼の義兄にあたり、武田の一門衆でも筆頭と言われていた穴山梅雪が、本領安堵と武田家の相続を条件に、密かに同盟を申し入れてきた時、流石の徳川家康も耳を疑った。
本多正信からの話では、徳川からの調略に対して、穴山側の返答は、箸にも棒にもかからぬという具合であったからだ。
家康は、逆に武田の謀略を疑いすらしたが、信長に伝えると「信ずるに足る」というやけに自信のある返答が返ってきた。
そして、実際、梅雪の領地を、なんの障害もなく徳川軍が通り抜けたことで、駿河路からの甲斐への道は、がら空き状態となったのだった。
信長が自分の知らぬ間に暗躍し、鉄壁だったはずの穴山を籠絡したことに、今更ながら恐懼した家康であった。
穴山梅雪はこのまま、安土城へ、本領安堵の御礼言上に向かうという。
当然建前で、織田軍が手薄になったところを見計らって穴山が再度離反し、甲斐を奪う動きに出るのを避けるための隔離である。
家康には、信長から、安土で歓待の席を一緒に設けると伝えられていた。あくまでも穴山の寝返りは徳川の功績である、という表明であるとともに、万が一、穴山が叛逆でもしようものなら、その責は徳川が負うのだ、という圧力でもある。
徳川・穴山の饗応役は、明智光秀に命じられた。
五月十五日。
旅塵を払った徳川・穴山の一行は、安土城へと登城した。
天を衝く黒光りする威容に、穴山梅雪は絶句していた。
宴席には夏前で乏しいはずの花々がしつらえられ、これが女中か、という艶やかな女どもが隙なく働く。
「これが、天下様というものですか」
穴山梅雪は完全に落ちた。
だがそのころ。
厨に血相を変えた明智光秀が飛び込んできていた。
「源吾!どれだ」
斎藤源吾。光秀率いる調略部隊、明星衆の棟梁である。
「これですな」
まっすぐに指摘したのは、鮒のなれ鮨であった。
「なれ鮨では臭いもわからぬ。ぬかった」
光秀はそのまま宴席へ向かった。
「各々方!」
はあ、と息をつく。
「面目次第もござらん、御前の魚が腐ってござる。もはやこの場での宴は不可能と相成り申した!堀秀政が屋敷にて、代わりの宴席を設けてごさるゆえ、そちらへ場を変わられたし!明智光秀一生の不覚でござる!」
宴席よりがキョトンとした声が上がった。
「腐っておる?なれ鮨であろう。このどこが」
「腐っておるのじゃ!」
制したのは、他ならぬ信長であった。
「徳川殿、穴山殿に腐った魚を食させるとは、織田家の顔に泥を塗るか!」
「申し訳ございません」
「今すぐ立ち去れ!首を落とせと言わぬのがわしの慈悲と思え!」
客らは信長の烈火の怒りに押され、まるで敗軍の戦場のようにわれがちにと宴席から離れていった。
残ったのは信長だ。
「光秀」
「は」
「毒か」
「我が手のものが城中にて透破を捕らえまいた。彼奴等の用いる猛毒を持ち込んだよし」
「たわけ!そこまで頭が回らず、臭いの強き魚を饗するとは。明智も耄碌したか」
「ははっ」
その時突如、控えていた斎藤源吾が畳返した。
その畳にクナイが突き刺さった。
「透破は一人にては動き申さぬ」
「もう一人いるか!」
どん、と天井板を蹴破って男が落ちてきた。
「うぬ!」
城中である。得物を持っているのは、信長ただ一人。
丸腰の光秀は箸を掴むや、透破に向けてチョウと放った。
箸はその太ももを貫通した。
どうと倒れる透破。斎藤源吾の手刀がその頭上に振り降ろされる。
間一髪で逃れると、膳を掴んで信長めがけて放つ。
斬りはらう信長。
再び膳が飛び道具となって襲う。
外れた膳がそのまま外の堀へと飛び出してゆき、ぼちゃんぼちゃんと音を立てた。
透破の一瞬の隙をつき、斎藤源吾が背後に回った。
その首に両の手が巻きつく。
「殺すな!」
光秀が叫んだが、
「無理です」
ごっ!と骨を砕く音がして、透破は断末魔の痙攣をした。
「申し訳ございませぬ。私が生け捕りにするには、手練れすぎました」
「源吾がそこまで難儀するほどのものか」
明智光秀は、呆然と死体を見下ろした。